程々にした方がいい
「94点……」
初春の解党した数学Ⅰ、数学Aの解答用紙の採点を終えた夏帆は目を丸くした。
「あぁ、最後で計算ミスしてたんですね」
「両方とも90点オーバーなんて――準備期間もなかったっていうのに」
「準備期間はありましたよ。俺推薦枠に選ばれた時点で高校過程の予習をやっていたんで」
初春は昨日の依頼で猫を依頼主に返したその足で夏帆のアパートに向かい、そこで2科目だけ、神庭高校の一年生の一学期の期末テストを受けたのだった。
「でもすごいよ!」
机から体を乗り出して夏帆は喜びの笑顔を見せる。
「う」
完全に夏の部屋着の夏帆は、体を乗り出しかがむと胸元が開いて白い肌が見えそうで……
「この数学を両方90点超えた生徒は、神庭高校では二人しかいなかったらしいわよ。本当にこれなら、返済不要の奨学金の審査は文句なしに取れるよ!」
「そ、そうですか……」
初春は喜びもしない顔で、ワイシャツを着た。折角この部屋に来ているのだから、絵のモデルをしようと思って初春は一応上着を脱いでテストを受けていた。
「全然喜ばないね……」
「いや、葉月先生の厚意はありがたいと思っていますが……俺が高校に行けるとしても、その意味がまだ見えないって言うか……」
「どういうこと?」
「俺――そこまでして高校に行って、何をするかがまだ見えてこなくて」
「……」
「すいません――俺、もう次のバイトなんで」
12時にはファミレスのバイトが控えている初春は、もう席を立った。
「また残りの科目を受けに来ます。受ける科目はその日葉月先生が決めてくれていいんで、用意しておいてもらえると助かります」
「そ、そう……」
そう言って、挨拶もそこそこに初春は出ていく。
「……」
夏帆は自分の無力を嘆くように、一人残された部屋で首を振る。
外に出ただけでじっとりと汗が噴き出るような炎天下を、初春は自転車に乗ってファミレスに向かう。
「……」
大失敗の依頼に、紅葉達の『ねんねこ神社』の協力の申し出。
そして夏帆からの神庭高校の入学の勧め……
初春の周りが急に騒がしくなってから、初春は自分のことを考える機会が増えた。
俺は神庭高校に不満があるのだろうか……
神代高校なら――俺は喜んだだろうか。
神代高校なら――あいつらとの約束を果たせたかもしれないが。
ここにはそれがない。
今の俺は、何を望んでいるのだろう……
「ふぅう……」
ランチタイムのキッチンの業務を終えた初春は休憩室に入って汗だくの顔を冷たいおしぼりで拭いて、人心地をつけた。
相変わらずキッチンはオーブンやガスコンロが絶えず動いており、酷く暑い。初春はもうここのところずっとキッチンの業務につきっきりになっていた。
午後3時になるとアイドルタイムに突入する。初春はここで休憩を取り、賄いで遅い昼食を取る。今日は定番のチーズハンバーグとライスだ。
もう賄いでキッチンメニューは全品制覇しているが、元々東京では満足な食事を摂っていなかった初春はファミレスの食事は特に飽きることもなく食が進んだ。
初春がハンバーグでライスをかきこんでいる時に、控室のドアがノックされる。
「神子柴くん、お疲れさま」
紅葉もランチのホールで休憩を貰い、上がってきたところだった。
「はい、コーヒー」
「サンキュ。秋葉の賄いもできてるぞ」
テーブルには紅葉が注文し初春が自分の賄いと一緒に作ったフルーツパフェが乗っている。初春は紅葉の持っていたアイスコーヒーのコップを受け取った。
「あぁ! アイスが溶けてる!」
作ってからまだ2分も経っていないというのに、アイスがどろりと溶けかけているパフェを見て紅葉は心底がっかりしたような顔をした。
「この時期にデザート頼むなよ。これだけアイスを出し入れしてたら、冷凍庫の中でも溶けてるくらいだってのに」
初春はハンバーグと鉄板の熱にダラダラ汗を流しながら言った。
「冷たいものがいいなら冷やし中華がおすすめだぞ。安定してる」
「もう食べ飽きちゃったよ」
そんな軽口を叩いていた紅葉だけれど。
本当はこうしてまた初春の作った賄いを食べながら初春と二人で話ができることが嬉しくて。
会話が途切れると、不意ににやけてしまうことに気付かれそうなのが恥ずかしくて、妙に上ずっていた。
「ねえ神子柴くん、ネコちゃんの依頼主さん、どうだった?」
「ああ、今回はすごく喜んでいたよ。家族の中でも足の悪いお婆ちゃんがいて、そのお婆ちゃんの遊び相手だったらしいから」
「そっか! じゃあ依頼料も受け取れたの?」
「お陰様でな。お前達のおかげだ」
とは言っても、3人を一気に雇い入れるほど『ねんねこ神社』の仕事量は高額に設定はしていない。初春が昨日振舞った夕食代を出せば手元にはほとんど残らないのだけれど。
「そっかぁ――じゃあまた次の依頼をこなすんだね」
紅葉はキラキラした目で初春を見る。
「――ご機嫌だな」
「だって、自分の仕事が認められれば嬉しいし、楽しいよ。そういうのを身近に感じられる仕事って、素敵だと思うな。また次の依頼があったら手伝いたいな」
「……」
しばし初春が黙り込んだ時、控室のドアがまた開いた。
「あら二人とも、お疲れさま」
見るとランチタイムからいたパートの女性二人が上がり時間のため、控室に引き上げてきていた。
「笑い声が外まで聞こえてきたわよ。仲がいいわね」
「……」
初春は小さく会釈をして、自分の食べ終えた賄いの食器をまとめた。
「あら、もう行くの?」
「休憩は30分なんで。まだ仕込みも終わってないし」
「あらそう。じゃあたっぷり仕込みやっといてね」
「――ええ」
初春はそう言って食器を持って控室を出て行った。
「まったく、愛想のない――可愛げのない子だね」
「まあいいじゃない。この仕事にしがみついているからせっせと働いて楽させてくれるし」
パート達は持ってきた灰皿を置いて、煙草に火を点けながら仕事上がりの一服を楽しみ始めた。
「秋葉さんも随分神子柴くんと仲いいみたいだけど――あの子に変な期待をさせたら可哀想よ?」
「え?」
「秋葉さん可愛いんだから、そんな娘が優しくしたら男の子はすぐに自分のことを好きなんじゃないかって勘違いしちゃうわよ? ああいう高校にも行けないような暇な子は、性欲のはけ口がないから女の子の優しさを勘違いして、エスカレートしちゃうのよ。無職の男なんて女のことしか考えてないんだから」
「そうそう、まさか本気――なわけないよね。神子柴くんはちょっと将来性ないからねぇ。中卒フリーターと付き合っているなんて、親御さんだって心配するわ。神子柴くんと関わるのは程々にした方がいいと思うわよ」
「……」
その一つ一つの嘲笑交じりの言葉に、紅葉の胸が張り裂けそうに傷んだ。
「何で――何でそんな酷いことを言うんですか?」
紅葉は歯を食いしばって涙をこらえながら、きっと前を向く。
「あの人は仕事もしっかりやっている――仕事も掛け持ちして疲れているのに文句も言わずにやることをやっているんです。なのに何でそんなあの人をよく知りもせずに馬鹿にするんですか? 何でその仕事をしてもらっているおかげで楽をしているのに、ありがとうって言えないんですか?」
「……」
紅葉の激しい舌鋒にパート達はぽかんとする。
「な、何よ、心配してあげているのに……」
「……」
不意に涙が出そうになる。
何で――何でよ。何でみんな神子柴くんを馬鹿にするのよ。
神子柴くんのこと、もっとみんな、ちゃんと見てよ……
紅葉が控室でパート達に怒っている頃、初春は誰もいないキッチンでひとり、サラダ用のレタスのカットを黙々と行っていた。
芯をくりぬいて無造作に一口大にカットしていく包丁さばきも手慣れたものだった。
オーブンが設置されたキッチンは冷房を最強にかけても気温が35度よりも下がることはない。初春は休憩から戻って早くも汗をかいていた。切っているレタスも暑さで傷んで赤い部分が増えているので目を光らせながら、初春は考えていた。
最近俺がキッチンにばかり入ってホールに入れられないのは、この暑いキッチンを誰もやりたくないから俺に押し付けているということはもうとっくに分かっている。
店長は今日もホールだ。ホールの方が涼しくて楽だから俺をキッチンに入れて体力を温存――自分のやりたくないことを押し付けている。
そうして誰もやりたがらない仕事をやっている俺を、ここの秋葉以外の連中がみんな体のいい労働力だと思って家畜同然に格付けし、笑って陰口を叩いていることも知っている。
俺の人生はもう終わっているからだ。
帰る場所も両親も身元を保証してくれる人も金も何もない。
現時点の俺がその立場から這い上がる術がないことをみんな知っている。
高校に行っていないことが特に、俺の人間としての地位を下げている、
そんな俺が夏帆の言うように神庭高校に通い、最低限の『人間』としての居場所を確保したら――ここの連中はどうなるだろうか。
きっと『よかったわねぇ』なんて言って愛想笑いを浮かべて……
俺を今奴隷や下僕のように扱っていたことなど、まるでなかったことのように振舞われるのだろう。俺が東京で同級生や教師からずっとやられてきたことだ。
「……」
そうなったら俺は――そんな人間達のことを水に流して笑うのか。
今まで自分の事を塵芥のように見、扱い、蔑んでいた連中に何もせずに……
報復をすれば、高校に通うための段取りを整える為に腐心した葉月先生にも迷惑をかける……
それは、東京で受け続けたいじめも、家族が俺を犬猫のように捨てたことも……
俺は人間からの仕打ちを『なかったこと』として扱い、水に流してようやく手に入れたささやかな居場所にしがみつくために笑えってか……
――それが俺には、ちっとも素晴らしいことに思えない。
俺が高校に行って得られるのは、現状その程度のものなのだ。
だから夏帆の厚意はありがたいと思う反面、その意味に戸惑っていることも事実だ。
勿論俺が少しでも市民権のような、人間として見られる権利が得られることで虫けら同然の今の自分よりはましだと思えるのならいいのだが。
両親と暮らしていた時よりもましなものが食えている今の虫けら同然の生活を、それほど悪いものと感じられていないのが厄介だ。
俺は生まれながらに卑屈な小市民で、劣悪な環境に慣れすぎてしまったようだ。
こういう時に、自分の望みが何なのか分からない……
俺は、自分の生き方についての思想すらない。
ただ――胸の奥にある果たせなかった約束以外のものは。
6時にバイトを終えた初春は、そのまま自転車を飛ばして家路ではなく図書館に向かう。
ファミレスの仕事を終えた後は、不意に静かな時間を作って気持ちの整理を付けたいと思うことが、初春は往々にしてある。
あの鳴沢達との一悶着頃から忙しくなり、あまり図書館には行けなくなっていたので、今日は久し振りに図書館に向かった。
「あら」
図書館の受付で『ヒノさん』が初春を見つけ、にこやかに微笑んだ。
「久し振りじゃない。雪菜ちゃんもいるわよ」
「どうも……」
この図書館も利用者はほとんど高齢者で同世代の利用者はほとんどいない。同世代の内輪ノリが人間の中でも特に嫌いな初春は、そんな連中と絡まないでいいこの図書館はかなり好きな場所だった。
数週間振りに来た図書館の読書室には、いつもの場所に雪菜がいた。
初春の姿を見て、久々に来たことにびっくりした表情を一瞬見せたがすぐに会釈を返す。
しかし珍しく雪菜がこの読書室で本を開いていないことに気がつき、違和感を覚えた初春は雪菜の席の前に来る。
「よお」
二人以外にも数人高齢者の読書室利用者がいるのを見て、初春は口だけで雪菜に挨拶する。
それを見て雪菜は、横にあるメモ帳に何かをさらさらと書き、初春に見せる。
『お疲れ様です。レストランの帰りですか?』と書いてあった。
初春は向かいの席に座り、ペンを取って『そう、仕事帰り。柳は何をやっているんだ?』とメモに書いて雪菜に渡した。
『夏休みの宿題の読書感想文です。宿題は7月で終わらせたいと思って』
「……」
メモの後に机の上を見ると、確かに原稿用紙が置かれている。
宿題か……何だか自分とは遠い世界の出来事のようだと初春は思った。
『偉いな。でも秋葉に宿題が終わったことを言わない方がいいぞ。あいつは夏休みの最後に泣くタイプだと思うし』
初春のそう書いたメモを見ると、雪菜はふふっと声を殺して笑った。
『なら邪魔をしないように静かにしているよ。お疲れさん』
そう書いたメモを渡して、初春は雪菜から見て横向きに座って、本棚から持ってきた本を読み始めた。
「……」
それからしばらくお互い黙って本と読書感想文に向き合っていた。
初春のページをめくる音と、雪菜のシャープペンの音が交互に響いている……
不意に雪菜がすっと、初春の目の前の机に筆談メモを差し出した。
その気配に気付いて雪菜の方を向くと、雪菜は初春に気付かない振りをして読書感想文に向かって一心不乱にペンを動かしていた。
初春はメモを手に取る。
『宿題が終わったら、何かお手伝いできること、ありませんか』
「……」
初春はまた雪菜の方を見る。
その視線をまともに見られない雪菜は、初春の側にいる口実を求める精一杯の勇気を振り絞った直後の心臓の鼓動を必死に収めようとしていた。
目を合わせてくれない雪菜に初春は首を傾げるが……
しばらくすると俯く雪菜の視線に、メモ用紙が1枚すっと入ってきた。
『ありがとう』
初春の字で、そう書かれていた。
「……」
ずっと下を向いていたので、初春がそんなことを言うとは思わず……
不意に雪菜は立ち上がり、すごい勢いで読書室を出て行ってしまった。
階段を下り、『ヒノさん』の怪訝そうな顔を通り過ぎ、雪菜は一度図書館の外に出て、建物の影で一人しゃがみこんだ。
「……」
自分で自分の痛いくらいに鳴る心臓の音にびっくりしながら。
雪菜はまるで何かに締め付けられるような感覚に捉われる。
「な、何、これ……」
無意識に起こる体の反応に戸惑いながら。
雪菜は生まれて初めて起こるこの気持ちが恋なのだと実感するのだった。
つい持ってきてしまった初春の書いた筆談メモ。
雪菜はそれを一通り読み返して、大事に折り畳んだ。
「なんか柳とこうして帰るのも久し振りだな……」
「そ、そうですね……」
初春は自転車を押しながら、図書館の閉館時間後に二人で帰り道を歩く。
「……」
雪菜は伏し目がちに、久し振りに隣を歩く初春の横顔を窺う。
――そして、思い出す。
こうして神子柴くんに「一緒に帰るか?」って言ってもらえて。
最後に「またな」と言われるまでの10分にもならないような時間がすごく嬉しくて。
いつの間にかそんなこの人との時間に心が特別の反応を示すようになっていたっけ。
まるで自分の視野が広がっていくみたいに……
この人は私の世界を変えてしまった。
宿題のテキストを入れていた鞄の中に移した初春の筆談メモを大事にとっとこうとする私って、ちょっと危ないかななんて思いながら。
そんな些細なことで揺れ動く心が、戸惑いながらも嬉しさを加速させていく。
「み、神子柴くんは、次はどんなお仕事をなさるんですか?」
雪菜はそんな浮ついた気持ちも後押しして、何とか初春に質問する。
「ん? 色々あるんだが、当面俺のやる仕事は野球かな……」
「野球――あぁ、あの町内対抗の。秋葉さんのおじいちゃんに言われた」
「勝たせろ、って言ったって、人数がいないからな……どうしたもんか、と思ってる……」
「……」
野球――というフレーズに雪菜はがっくりうなだれる。
見ての通り超インドア文系少女の雪菜は運動に関してはからきしだ。
そういえば秋葉さんって中学時代、女子バスケ部のエースだったっけ……
本当にいいなぁ、そういう時の行動力がある人は……
「――すみません。私も秋葉さんみたいに動けたらいいのに……」
思わず初春に謝っていた。
「やめてくれよ。音々も秋葉もアホの子だし、葉月先生だって美術バカで危なっかしいってのに、柳までアホの子になられたら俺はぞっとするぜ。せめて柳だけでも常識人でいてくれ」
初春は本当に悪夢を見るようなどんよりした表情になった。
「知恵を貸してくれるだけだって十分助かってるから。でもやばくなったらいうからその時は頼むよ」
「……」
雪菜は歩きながら、また腰から崩れてしゃがみ込みそうになる衝動を抑えた。
自分のことを邪魔とも思わず、その存在を否定せず、肯定的な言葉をかけてもらえる経験が、初春同様雪菜も乏しかったから。
こういう些細なこと――他人に否定的な言葉を使わない初春の隣は居心地がよかった。
何だか――暖かいものに抱きしめられているような……
「……」
そう思った時、雪菜は不意に初春のTシャツの袖口の筋張った腕や、長い首、少し日焼けした肌に目が行ってしまい。
――もしこの人に抱きしめられたら――私にどんな気持ちが起こるのだろう。
そんなことを一瞬考えたのが恥ずかしくて、雪菜はすぐ赤面してかぶりを振った。
雪菜と別れた後、初春は一人、帰り道の途中の防波堤を上り、神庭町の海岸に来ていた。
春先は誰もいなかったが、今は夏だからか妙にチャラい若者が花火なんかしているのが遠くに見えたが。
初春は砂浜までは下らず、防波堤の上に登って腰を下ろし、星空を見上げた。
「……」
何だかな……また秋葉と柳と、記憶を消す前のような関係に戻り、葉月先生は俺を高校に行くように勧めてきて。
最近の俺は妙に人間との関わりが増えてきている。
嫌いな人間と関わることが増えて、自分の中の問題提起がどんどん増えている。
そんな生活はまだ始まったばかりだったが。
その短い間でも思い出したことがある。
俺は秋葉のことはアホの子だと思っていて、柳のことも弱気過ぎて貧乏くじを引きそうで見ていられないと思うこともあるが。
俺は記憶を消す前、そんな二人に癒されていた。
あの秋葉の底抜けの明るさと人懐っこさ、柳の一生懸命な優しさを心地よいと感じていた。
俺は記憶を消す術をかけられたわけでもないのに、そんなことも忘れていたなんて。
そして葉月先生も。
あの人は生活感がまるでなくて年上に見えないこともあるけど。
あの人と一緒にいる時間は、嫌いではない。
――て言うか――あの人といると、妙に男と女を意識する。
だからかな――今日は妙にあの3人とそれぞれ一緒にいて、その仕草が目に入った。
俺のことをとりあえず否定しない人間――あいつら以外にそんな人間と接したことがないから、戸惑う……
「……」
だが、状況は何も変わっていないのも確かだ。
大多数の人間にとって、俺はこの世界の最下層の人間で。
馬鹿にされ、蔑まれ、嘲笑されるような持たざるものであることは変わらない。
それは高校に行こうと、行くまいとだ。
俺が人間として、奴等にできることは今のところない……
「はぁ……」
溜め息も付きたくなる。
あれも嫌だ、これも嫌だと言える立場でもないのは承知しているのだが……
初春はあの大失敗の依頼以来、自分の中に足りていないものを思い知ってばかりだ。
自分の生き方すら見えない視野の狭さ――その小市民振り。
生まれながらに負け癖が付いている生き方しかできない自分が嫌になっていた。
奇しくも雪菜が初春に見ている自分の世界が広がる感覚を、今初春は必死に探していたが。
初春はまだそれが見つからずにいた。
「何で見えないのだろう……」
井の中の蛙大海を知らず――燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや――
俺の思想のなさ、低いところしか見渡せない視野の狭さを、最近思い知らされてばかりだ。
半年前の俺にとっての生きる理由は、友との研鑽と未来を見たい好奇心だったが。
今思えば、俺は東京にいた時にそれ以外に執着できるものがなかった。
――いや、見えなかったんだ。
俺は落ちこぼれ――生き方を選択する権利のない弱者だと教え込まれていたから。
幼い頃から俺にそんな思想しか刷り込んでくれなかった人間を恨む気持ちがないわけではないし、水に流そうとも思えないが……
そんなことよりも今の俺は、何を見て、何を見据えて生きていけばいいのか……
まるでこの神庭町の無数の星空から一つの星を選んで掴むようなものが見えずに。
初春は苦しんでいた。
翌日――
真昼の神庭駅――夏休みになり学生の利用者がいなくなったことで、駅の利用者が一日平均200人を切るような閑散とした駅に一人。
カート式のトラベルケースを一つ持った見目麗しい少女が一人、改札を出て閑散とした駅前を見渡した。
「ここが神庭町――この町にハルがいる……」




