それが分かっているなら、そうしないと思うの
一旦夏帆と別れた初春は、一人夏帆のマンションから家路に向かう道を歩いていた。
この町は舗装されてない道も多い。東京のアスファルトの逃れようのない照り返しによる不快さを知っている初春にとって、今年の夏は以前よりも不快さを感じる機会が少ないように思えていた。
夏帆から貰った封筒を持って歩きながら、初春の思考はどこに行くでもないような曖昧さで、自分の未来予想図を彷徨っていた。
俺が神庭高校に通う、か……
現状を考えたら、いくら提案されても無理な話だ。実費で通えても生活が破綻する。
だが――そんなことが分かっていても俺は夏帆に多少の期待をしてしまったのは何故だろう。
そして、秋葉と柳も――
金も出ないってのに、『ねんねこ神社』に力を貸してくれて。
それは恐らく俺があまり触れたことのない、人間の善意による行動なのだろう。
だが俺にとってそれは、ありがたいが、重い……
俺はそんな思いに応えられるのだろうか。
そんなものを背負わされたような気分だ。
俺はそんな期待を背負わされたことがなかったから、どうしていいか分からない。
「……」
俺はそんな他人の期待を背負えるほど強くも賢くもない。
善人でもなければ、悪党になるにも半端者だという立ち位置を見せ付けられた。
最近の出来事を経て、初春は自分がまだ詰めの甘い子供だと思い知らされてばかりだ。
そんな自分の小ささ、弱さを突きつけられたことが、初春の心を酷く掻き毟る。
俺はこの先、直哉が結衣が困っているのなら何とか力になれるような男になりたいと思って東京で力を磨いてきたが、自分がまだまだ、そんな強い男になれていないこと。
それに……
普段の俺は人間嫌いなのだ。人間から期待されようとそれを無視すればいい。
思想を捨て、己に徹する――俺の今までやって来た処世術。
それが秋葉や柳、葉月先生の事を見ていると、それが出来なくなる。
勝手にやっている、自分には関係のないことだと、人間のやることを通り過ぎることができなくなる。
そうすればいい、と思うことが上手くできていないことに、胸の詰まるような不全感を感じていた。
――って、俺はようやく『ねんねこ神社』を通じて人間を見定める、という本来の目的に取り組み始めているのか。
それがしっかり前進になっていて、答えに続いているのかも今は分からないが……
今はそこを考えなくちゃならなくなったみたいだ。
時間は正午過ぎ――初春は空を見上げると、青空に次第に灰色の雲がかかり、空気に湿気が増え、風が涼しくなっていった。
「こりゃ、夕立が来るな……」
今日その場で決めた仕事なので依頼人とのアポイントも取っていないが、幸いメールには探している猫の写真と詳細な特徴がついていた。
見た目は非常に可愛い三毛猫で、メールに添付してあった写真には猫用の服まで着せられていた。
依頼主はこれも神庭高校の生徒で、一家で大事にしている2歳の猫が3日前から家を出て、そのまま行方が分からなくなっているらしい。家族中で可愛がっている猫で、一刻も早く見つけてほしいという。
家族写真の中にも中心に猫がいて、まさに猫可愛がりといった感じ。
メールの内容を紅葉と雪菜は自分のメールに転送してから初春の家を出発した。途中で紅葉に電話をした夏帆を雷牙で迎えに行き、夏帆を拾うと4人は山に向かった。
もう正午を過ぎ、火が傾き始める時間の空は少しずつ曇天が広がりだしていた。
「かーわいいなぁ」
――空を飛ぶ雷牙の背の上で携帯に移した猫の写真を見ながら、猫好きの紅葉はとろけそうな笑顔を見せた。
そしていつも初春達が鍛錬に使う裏山の開けた草原地帯に着陸した。
「雷牙様は木の生えた森の中に入るには大きすぎますね――そうでなくても動物は彼岸の気配に敏感ですし、近付いたら猫も逃げてしまうかもしれません。ここからは各自で歩くようですね……」
「山と言っても、他に手がかりはあるの?」
夏帆は雪菜から依頼の詳細と、山に向かう経緯を訊いていた。
「この山に入っていることは分かっているんです――町にいるアヤカシ達は三毛猫が山に入ったのを見たって声が聞こえます――でも猫自体が気配を出すわけじゃないので、ここからは場所を辿りながら、隠れている場所を肉眼で見つけるしかないです……」
「なるほど、となると目が多い方がいいってわけね」
確かにこれなら初春抜きでやる意義のある仕事になるわけだと納得する。
「でも――この山の中を無闇に探し回るのはさすがに骨ね……何かヒントがあるといいんだけど……」
不意にそう紅葉が口にすると、皆の視線が雪菜に向く。
「――え?」
「柳さん――この前の暗号といい、物知りだから何かヒントになりそうなものとかないかな? 猫の好きなものとか」
この中では成績優秀の雪菜が既に、智謀担当として最も頼りにされる空気ができていた。
「え……えっと……ね、猫は基本涼しくて狭い場所か、た、高い場所に登りたがる習性があるはずです――それに外敵がいるのだとしたら、開けた場所にはいないんじゃないかと……」
「なるほど、つまり山林地帯の方が隠れる場所もあるし、いる可能性が高いってことか」
「あ、あくまで一般論です――本で読んだことがあるヤマネコの生態とかなんで、人間に飼い慣らされた猫がどんな行動を取るかは分かりません……」
「十分だって。ノーヒントで探すよりも見るポイントがあった方がいいわ」
「山林に入るなら気をつけろ。昼間はこの森にいる動物は森に住む神々が慣らしているので大人しいが、夜になると狩りもはじまる。それにこれから雨になるだろうし、地滑りの起きる場所には行くな。日が落ちるか、雨で視界が奪われる前に森を出た方がいい」
雷牙のアドバイスを背に、4人は山林地帯に向かった。
音々が耳を澄ませながら、3人は四方を分けて木のうろや枝、視覚になりがちなところに視線を向ける。勿論足音をあまり立てないよう、ゆっくり、静かに……
「どう、何か聞こえた?」
紅葉が訊く。
「――やっぱり三毛猫がここを通ったって、木々が言ってます――え?」
音々は耳を澄ませながらびっくりした声を出して立ち止まる。
「どうしたの?」
「や、やっぱりこの森で野犬に襲われた猫がいたみたいです――咄嗟に木に登って助かったけど、って……」
「そうか、犬は木登りが苦手だもんね。下よりも木の上か」
「その猫の登った木――分かる?」
「ちょっと待ってください――あ、あっちです!」
手がかりを聞きつけて音々達は森の木が囁き導く木の前に向かった。
指し示す先にあったのは、かなりの樹齢を重ねたブナの木で、山林の中でも見事な一本であった。
「あ、あそこ!」
そのブナの木のかなり上の方の枝に、泥だらけになった三毛猫がまさに借り猫のように小さくなって心細そうにしがみついていた。
「見た目の特徴が一致しています」
雪菜は携帯に移した依頼主からの三毛猫の写真と見比べた。
「下に降りたらまた襲われると思って、怖くて降りられなくなっちゃったんですね。かわいそう……」
「し、しかしまだ困った問題があるわね……」
夏帆は立派なブナの木を見上げる。
「あんなに高い枝にいるあの子を、どうやって保護しようか……」
ブナの木はかなり高く、猫の木の枝は紅葉達が手を伸ばしても肩車をしても届かないほど上にある。
そうして木の上の猫を見上げた折。
4人の鼻先に、水滴が落ちてきた。
「こんな時に降ってきちゃった……」
まだ小雨だったが、空を斑に覆う広葉樹の葉をしとしとと降る雨が叩く音が、誰も物言わぬ山林の中で残響を残していく。
「この雨じゃ、枝が滑ってあの子が落ちちゃうかも……すぐに助けよう。私が行くわ」
紅葉はそう言って、靴と靴下を脱いで木に手をかける。
「あ、秋葉さん……」
「柳さんと夏帆ちゃんは、ネコちゃんのいる枝の下にいて。落ちたら受け止めてね」
「で、でも……」
元々猫は10メートル上から飛び降りても骨折などをしない。それを雪菜は知っていたが。
紅葉は服を雨に濡れた木の表面の土くずで汚しながら、雨で滑りを強めているブナの木をゆっくり登っていく。
「う、昔みたいに登れなくなってるなぁ」
昔は紅葉も心のような活発な少女で、男の子に混ざって木登りや鬼ごっこをしていたものだったが。
そんな子供の頃のことを思い出す。
いつからだったかなぁ――あの頃の様に目の前のことに手を差し伸べる――そんな簡単なことが出来なくなったのは。
猫のいる枝との距離が近くなり、猫は近付く生き物に警戒を示して小さく丸まった。
「大丈夫――怖くないよ――すぐに助けてあげるから……」
紅葉は子供をあやすような笑顔を猫に向け、安心させようとする。
「……」
そんな紅葉の笑顔を、雪菜は木の下から見上げていた。
秋葉さんはいつも、ああやって優しかった。
学校で華やかなグループにいて、可愛くてスタイルもよくて。
でもあの人はいつもああして優しく微笑んで、私達みたいな地味な存在を馬鹿にしたり、誰かを仲間はずれにしたりしなかった。
それだけじゃなく、誰かのために自分もああして一生懸命になれる人なんだ。
自分の気持ちに素直で、正直で……
こんな時に動けない自分とは違って、眩しい……
猫のいる枝にようやく手がかかる。もう木の枝も雨に濡れて、少し動くだけでも慎重に動かないとすぐに滑ってしまう。
もう地面から数メートル上で、高所恐怖症なら目も眩みそうな高さになっている。
「さ、さあ。掴まって……」
猫に向かって手を伸ばす紅葉。
「大丈夫――怖くないからね……」
猫もそんな邪気のない紅葉の声に、ほっとしたのか、ゆっくりと枝の根元の方へと恐る恐る近付き出す。
だが。
その矢先に猫の足元が雨でつるっと滑り、猫はそのまま枝から落下してしまった。
「わっ……」
猫は雪菜の近くに落ちてくる。
だが雪菜は猫を受け止められず、棒立ちの雪菜を尻目に猫は上手に柔らかい腐葉土の上に着地する。
そして着地した猫は下にいた雪菜と夏帆に怯えたのか、そのまま脱兎の如く走り、別の木の陰に隠れてしまった。
「あ……」
木の上で紅葉はしくじったと舌を噛んだ。諦めてするすると木を降りていく。
「す、すみません――私……」
実は雪菜は、生き物が怖くてまともに触れない。
生来の弱気とインドア派が災いして、写真などを見れば可愛いと思うのだが、噛み付いたり引っかかれたりしそうで怯えてしまうのであった。
「ううん、仕方ないよ。咄嗟のことだもの」
紅葉が濡れた髪を手櫛で直した。
「――でも、雨も降ってきちゃったし、この分厚い雲じゃもうすぐ暗くなっちゃうし――教師としては生徒の安全を考えて、一時中断を提案ね」
雷牙の言っていた忠告で従えば、さすがに女だけの山林は危険だ。捜索は中断すべきだろう。夏帆もそうすべきと考えた。
「今日のところは、無事は確認できたってだけでもいいんじゃない?」
「ダメ。夏帆ちゃん、もう30分だけ――もうちょっとだけやらせて」
紅葉は薄いメイクが雨で落ちかけた顔を上げた。
「秋葉さん……」
「あのネコちゃんをこんな雨が降って――雷が落ちるかもしれない森に置いていく――神子柴くんはそれが分かっているなら、そうしないと思うの」
「……」
「それに――今はほんのわずかなつながりで、私は神子柴くんに見てもらえているけど――頑張らないと、その今のわずかなつながりも消えてしまいそうで……私、今は神子柴くんとつながれる何かが欲しいから。仕事をやることで、神子柴くんとのことも分かりそうな気がするの。だから――もう少し……」
「……」
雪菜はその紅葉の言葉に、涙が出そうになるのを必死にこらえた。
そう――私も欲しい。
神子柴くんともっと一緒にいられる、そんな権利のようなもの。
私は音々さんにも嫉妬している。
神子柴くんと主従の関係で――あんな刻印で結ばれた二人の絆。
あんなもの――私にくれると言うのなら、私はどんな条件がついても頑張りたい。
このまま何もできないなんて……
「は、葉月先生。私ももう少し、探したいです……」
「柳さんまで……」
夏帆は苦笑いを浮かべた。
「全く、恋する乙女の力は怖いね――30分だけだよ。日没になったら問答無用で撤収だからね」
「うん、音々ちゃんはまたネコちゃんの居場所を聞いて。今度はゆっくり近付こう」
「は、はい!」
外の雨の音で、初春は目を覚ます。
あれから家に帰って、そのまま部屋のベッドに倒れ眠っていたのだ。
能力の発現以降、既に過労死ラインで働いていた初春の体に疲労の影響は確実に現れるようになっていた。紅葉達の申し出で初春に休む時間が与えられたのはかなり大きいかった。
あまりに日当たりがよすぎて、紫外線による物件の劣化を防ぐため大家が元々つけていた部屋のカーテンを開けると、もう暗くなりかけた灰色の空は、雨が本降りになっていた。部屋の目覚まし時計を見ると、もう午後5時を過ぎていた。7月ならこの時間はまだ十分明るいはずだが、分厚い入道雲に空が覆われてもう随分と辺りは暗く見えていた。
初春は部屋着のまま下に降り、居間に向かった。
「おお、神子柴殿」
そこにはもう中級神達が勝手に上がりこみ、雨宿りを終えて一息ついているところであった。
「――おっさんも音々も、秋葉達も戻っていないのか」
初春は部屋を見回すと、自分の左胸の刻印に意識を向ける。
「あいつら――山にいるのか。こんな天気で」
音々の声の精度ほどではないが、ある程度大まかな気配はお互いに探知できるのであった。
「お前達、山に住んでいるんだろ? 山であいつらを見たか?」
「あぁ、音々殿達なら猫を追っておったぞ。迷子の猫探しが依頼にあったそうでな……」
「あぁ、そんな依頼もあったな……」
初春は縁側に出て空を見上げる。
「迎えにいってやったらどうだね。神子柴殿が行けば女子共も喜ぶだろう」
「喜ぶかはさておき、そうした方がよさそうだな……」
初春は外に出る支度を始める。
思ったとおり、音々と秋葉は無茶をする傾向があるからな――柳がそれを止められるとも思えないし、危うい気はしたんだ。
初春は玄関で傘を持ち、玄関の引き戸を開けた。
すると。
空から雷牙が水溜りになった玄関前に着地体制に入っていた。
雷牙が着地すると、その大きな体躯から滑り降りるように音々達4人が玄関前に降り立った。
「お前等……」
音々も他の3人も雨でずぶ濡れの上、泥だらけであった。
最後に下りてきた紅葉が、弱った三毛猫を抱きかかえていた。
「その猫……」
「多分ストレスと衰弱ね――木の上から降りられなくて水も飲んでなかったのかも」
あれから木から落ちた猫を追ったが、猫自体が衰弱しておりあっさり捕まえられた。
はじめは紅葉達にも怯えていたが、衰弱と紅葉の敵意のない意思表示を見て、ようやくこちらに来てくれたのだった。木の上にいた時点で弱っていたが、身の危険に怯えて無理に動いていたのだろう。
「何じゃ何じゃ」
体の小さな妖怪や中級神が挙ってやってくる。
「この猫を安静にしよう。とりあえず居間に」
初春は中級神達に伝える。
「比翼に連絡を取れないか? あいつなら治癒術で何とかできるかも知れん」
「は、ハル様」
もう音々も長時間の外出と、アヤカシの声を広範囲で聞いていたため、体の透明化がはじまりかけていた。4人の中では一人だけ自己で浄化をできるため、服はあまり汚れていなかったが、神力の尽きかけている今では浄化以上に雨に濡れるスピードの方が速い。
「大丈夫だ。安心しろ。それより……」
初春は4人に目をやる。
「お前達もそのままじゃ風邪をひいちまうな……」
初春は数秒思案する。
「うちのでよければ風呂を貸そう。洗濯機もあるからその泥だらけの服も何とかしたらどうだ?」
「ええっ!?」
紅葉はびっくりして声を上げた。
「お、お風呂って!」
「さすがにお前達もその格好のままにもいかんだろ――風呂なら2分で沸くし、音々が毎日家の掃除をしてくれるから綺麗だぞ」
「で、でも……」
「私は借りちゃおうかなぁ」
夏帆はニコニコしながら言った。
「とりあえずこの格好じゃそうするしかないわ。二人も借りたら?」
「……」




