期待しろなんて言えないけど
音々、紅葉、雪菜の3人が雷牙の背に乗って初春の家に飛んでいくのを見上げながら、神庭町の市街地と農道の境目辺りの静かな道に、初春と夏帆だけが残された。
「大丈夫かな……」
初春は空を見上げながら頭を掻いた。
「あの3人はしばらくハルくんのいないところでコミュニケーションとってもらった方がいいのよ。色々と学ぶことがお互いあると思うの」
「俺はあいつらだから不安なんですが……」
初春は思った。
トロくてドジな音々に、バイト先では愛嬌で誤魔化しているがポンコツウエイトレスの紅葉、そして常識人だがコミュニケーションに難のある雪菜。
3人とも色々と不安要素がある組み合わせだった。
「特に音々と秋葉のコンビは――柳が困るのが目に浮かぶ」
「でもよかった。ちゃんとあの3人は心配してるんだ」
夏帆はにこりと笑った。
「さっきももっと怒るかと思ったけど、そうしなかったしね」
「だって――あいつらが悲しむでしょ」
「ん?」
「あの通り音々は優しい奴ですし――秋葉と柳は、もう俺のことで怖い思いをさせたくなかったから記憶を消してもらったのに――なんか俺がドジ踏んでまた記憶を戻しちまって――だったら今の俺にできるのって、少しでもあいつ等に嫌な思いをさせないようにすることしかないし」
「ふぅん……」
夏帆はにこりと笑った。
何だ、ちゃんと抑止力になってたんだ。
どうも初春は表情が表に出ないので、紅葉達をどう思っているのかよく分からなかったけれど。
3人が見ているから無茶をしないのであれば、紫龍や比翼に言われたことの最低限は達成していることになる。
「つーか――葉月先生にも色々申し訳ないですね」
初春は道路脇の日陰に入り、汗を拭いながら言った。白のワイシャツが汗で貼りつきそうなほど熱気が酷かった。
「俺達に付き合わせて――しかも先生の依頼の絵のモデルを随分すっぽかしてる」
「そうだ、そうだったね」
夏帆が手を叩いた。
「実はハルくんの体を描いた絵、一枚小さなコンクールに応募してみたのよ。結果が出るのはまだ先だけど」
「そうですか。それはよかった」
「うん、それでなんだけどね――確かに一枚応募しちゃったから、ハルくんの絵のモデルの依頼って、終了――しちゃうんだよね」
「まあ――そうなりますかね」
「それでなんだけどさ、報酬の話をしたいと思って」
「……」
初春はそれを訊いた時、ちょっとほっとした。
「――なんだ。払ってもらえるんですか。俺はてっきり飯を作らされた代わりに俺の飯代も出してもらったんで、あれが報酬になることも覚悟してたんですけど」
「ぬ、可愛くないなぁ……」
その頃家に戻っていた紅葉達は、夏の暑さに汗だくになった体を音々の出してくれたお茶で冷やしながら、軽くクーラーの効いた居間で『ねんねこ神社』のホームページを見ていた。
「これ、神子柴くんが作ったホームページなんだ」
「はい――使い方はハル様に教えてもらって、私が『めえる』を送っているんです」
音々の操作で、パソコンは『ねんねこ神社』に届いた依頼メールに飛ぶ。
「これが今届いている依頼です」
ソートしたメールはまだ10通近くある。
「これ、順番とかはないの?」
「はい――こちらでできそうな仕事を選んでいく形です」
元々報酬が客側で決められる上に後払いを認めている代わりに、仕事の優先度はこちらで決めるのが『ねんねこ神社』のルールである。仕事を早期指定する場合は基本報酬の高い方を優先というのはホームページに書いてある。
「蔵の掃除に、短期の売り子手伝い――彼氏の素行調査……」
「うむむ――好きな人の個人情報を買いたいとか――ヘビーな依頼あるなぁ……」
紅葉達はこのメールの送り主のほとんどが、初春の噂を聞いた自分の学校の生徒の誰かだと思うと少し寒気がした。
「色々あるけど――どれをやるのがいいのかなぁ」
紅葉は目移りしていた。
「音々ちゃんは、やりたい仕事はある?」
「わ、私はお二人のご都合次第です――私、この通り人間には見えないので、人の見ている前で物を持ったりすると驚かれちゃうので、依頼によっては何もお役に立てないものもありますから……」
「……」
その横で雪菜はパソコンの画面をしげしげと見つめていた。
「柳さんはどれかいいなと思った仕事ってある?」
「わ、私ですか……」
紅葉に訊かれ、雪菜は右親指を唇に当てる。
「……」
紅葉はそんな雪菜の顔を見る。
前髪で目を隠して伏目がちにしているけれど、こうして見ると柳さんって目が大きいな――白い肌が夏の暑さから帰ってきたばかりで少しピンク色に染まっていて、普段より血色がよくなったように見える。
ちっちゃくて、髪もカラーを入れていないからさらさらの猫毛でつやつやしている。
この娘が男子から声をかけられないのが、よく見ると不思議なくらいだった。
「――や、やっぱりやるからには、人がいるから出来ることをやるべきだと思います――人間の人手が神子柴くんだけじゃ大変な仕事をやるのが一番仕事としていいのかな、と……」
「――そっか。確かにそうだね。折角人がいるんだもの。そうじゃなきゃ役に立てないか」
「で、できればそれで、音々さんの力も生かせる仕事ができれば――私達も、音々さんのこと、知ることも出来ますから……」
雪菜は自分の意見を他人に主張するのは苦手だが、正鵠を射た意見を言う。
「じゃあ――やっぱりこれがいいんじゃない?」
紅葉はマウスをひとつのメールに動かす。
カーソルの先にあるのは『迷子の猫探し』――
「スマホと違ってネコちゃんは動くからね――居場所が分かっても神子柴くんひとりで捕まえるのは大変だよね」
「うん、いいと思います」
音々もにこやかに笑った。
「でも私――動物はどんなに大事にされていても、ものみたいにアヤカシは集まってきにくいので、正確な位置を直接特定はできないんですが……」
「いいって。とにかくやってみればいいのよ。それで感じがつかめてくるわ。私は柳さんみたいに頭がいいわけじゃないから、体を動かすことは任せて。私体を動かすことはちょっと自信あるから」
紅葉はにこりと笑った。
「うぐ――暑い……」
夏帆の部屋に入った瞬間に、部屋の中にこもった夏の熱気が襲い掛かった。
「でも――随分風通しがいいですね。そんなに蒸し暑い感じじゃない」
剣道部にいた初春は室内の蒸し暑さの耐性には自信があった。
「一応絵を保管しているから、湿気がこもらないように対策はしているからね――とりあえず上がって」
そう言われ、久々に夏帆の部屋に入る。部屋の中には除湿機がかかっていて、カーテンが閉めきられている。部屋の中にある絵は表に出ているものもあるが、どうやら保管用の箱に避難させているようで、以前来た時よりも作業室は随分すっきりと片付けられていた。
クーラーを点けて汗を拭う夏帆。
「とりあえず座ってよ。飲み物は――ハルくんは何がいい?」
「冷たければ何でもいいです」
どうせ夏帆は紅茶の在処も分からないのだ。もてなしに過度の期待はしていなかった。
「……」
この家の狭さや、壁から天井まで描かれた絵の妙な存在感は、初春が今どちらを向いているのか分からなくなるような錯覚に陥らせることもある。
そして――
この部屋に来ると、妙に夏帆のことを意識する。
別にこの人は家の外でも特に装いが変わるというわけではない。元々子供っぽくて隙が多くて、美術以外のことはからきしである。
だが、その見え方がここで二人きりになると、変わる……
その夏帆の無防備さが、変に自分をひきつけるのが分かる。
そんな夏帆が冷たいお茶を出すと、初春はそんな妙な気分を一度飲み込むように、お茶を一気に煽った。
「ごめんね、折角休みになったのに時間とらせちゃって」
「いえ、報酬の話は大事ですから」
そう言いながら、初春は我ながら金の価値が身に染みるようになって来たなと思う。
結局俺は金が入れば仕事は何でもいいのかもしれない。
金は人間よりも信用できる――何かの本で見たこんな言葉の意味が、初春には何となく分かりかけていた。
初春はこの半年足らずで完全に学生の価値観が抜けたと言える。
「うーん、それで報酬なんだけどね。色々考えたんだけど。ハルくんに必要なのって、これなのかな、と思って」
そう言って夏帆は自分の鞄の中からA4サイズの封筒を取り出した。
「何ですかこれ」
札を入れるには大き過ぎる封筒に、首を傾げた。
「ハルくん、神庭高校に入学しない? 夏休み明けを目指して」
「……」
「これ、うちの学校の1年生の期末テストの問題なの。試しにこれ、解いてみない? 学力を証明してくれたら、私、ハルくんが借りられる奨学金を探してみるよ」
「……」
「他に何か高校進学に必要なものがあるなら言ってよ。私、力を貸すから」
「……」
初春は口元に手をやって思案する。
「ハルくん――気を悪くした? やっぱりお金の方がよかったかな」
「いや――予想外だったんで」
初春はかぶりを振った。
「むしろありがたい話だと思いますよ――でも、何で」
「ハルくんはやっぱり高校に通うのがいいのかな、と思って。秋葉さん達もきっとハルくんが神庭高校に来てくれたら喜ぶと思うし。ハルくんも高校に行きたいって前言ってたし」
「……」
「それに――ハルくんの人間嫌いを直す『心』を見せるには、これが一番いいかなと思って」
「え?」
「前の依頼に取り組むハルくんを見て思ったの。綺麗事や正論だけじゃハルくんの向き合っている現実を何も救えないから――だから行動しなきゃって。ハルくんに、人間も捨てたものじゃないな、って思わせるには、まず行動で見せなきゃって思って」
夏帆は先の依頼で、教師や年上と言った立場なのに、正論を唱えるだけで初春達に対して何もできなかった自分を嘆いた。
そして、確かに触れた気がした。
「ハルくんは――自分が学んだり、将来のことを考えたり――そんなことが出来なくなったから――それができるのにそれを無駄にしている人が許せないんだよね。そんな人よりも見下されるのが、悔しいんだよね……」
「……」
「だから、ハルくんに今必要なのって、学んだり、遊んだり、研鑽したり――そういうのが許される環境なのかな、と思って。だから、今回の私からのバイト代は、『高校進学のススメ』にしてみたんだけど」
「……」
沈黙。
「――お気に召さなかったかな」
「いえ――俺が高校に通えるってのは――確かに魅力的な話かなって思いましたよ」
初春は笑った。
「でも――現状は無理だと思います。葉月先生が頼りないとかそういうのじゃなくてね」
「どうして?」
「やっぱり両親がいない、保証人がいないんじゃ、やっぱり借りられる奨学金なんてないと思います。中学にいた時も俺、結構調べたんで。学校にも調べてもらったし」
初春も当然保証人は考えた。中学の担任だった白崎も初春に言わないところで色々調べたが、両親がいない、親族とも絶縁したことがそのハードルを上げていることも調べているうちに分かってきた。
大人も保証人がいなければローンが借りられない。まして15歳で何の後ろ盾もない人間にお金を貸してくれる場所など、あるわけがないのだ。
「それに万一借りられたとしても、学校に行きながら時給700円程度のアルバイトで生活するお金がないですし」
そう、いくら高校に通えたとしても、初春の経済状況では生活と両立ができないのだ。
「俺、3年後に東京の大学に行く選択肢を一応残したいんで。高卒資格だけなら高卒認定で取れますから。定時制とか通信制とか行くなら高卒認定の勉強一人でやっている方が大学受験の勉強を兼ねられそうなんで」
元々初春は誰にも期待されていなかったから、初春に『勉強しろ』と尻を叩く者もいなかった。だから初春は人から言われなくても継続して勉強が出来る人間なのである。
「3年後の大学?」
「はい」
初春は口に出しながら思う。
まあ、それは俺の自己満足か――あいつらともう一度同じ場所を歩けるなんて思ってはいないが――せめてあいつらが幸せになった様を見届けてやるか、東京に戻ったら俺にも何か一肌脱げることがあるかもしれないなんて。
「……」
よくかかってきていた電話も最近は結衣がたまにかけてくる程度で、もうほとんどなくなった。
俺自身も、あいつらのことを思い出すことが随分と減ってきた。
ただ、それを忘れてしまうことが悲しくて、忘れないように言い聞かせようとする。
俺達の関係は、3年後も風化せずに残っているのだろうか……
「なるほど、そうか……」
初春の言葉を訊いて、夏帆は頷いている。
「よし、ハルくんの高校に行けない障害が分かった。保証人と――在学中の生活費用と、大学進学の3つね」
「え?」
「期待できないかもしれないけど、無理だって感じるまでは足搔いてみたいんだ。ハルくんには詭弁は通用しないから、この前無責任なことを言っちゃったお詫びってことで……」
「……」
あっさり引き下がると思っていたから、食い下がられたことが意外で初春は困ったような顔をする。
「――すいません。あの保健室で俺が言ったこと――気にしてらっしゃるんですね」
初春は困った顔をしたまま言った。初春は以前、夏帆の言った『君は一人じゃない』という言葉に反発した。勿論それはこれから惨劇になる鳴沢達とのいざこざに夏帆達を巻き込みたくなかったからなのだが。
「いいわよ謝らなくて。その通りだったもの。でもハルくんも元々15で生活をしながら一人で働いて勉強もして、音々ちゃんのことも背負うなんて限界よ。どうしてもキャパオーバーってあるのよ。そういう時に助けてくれる周りの作ってくれた流れに乗るっていうのも、人間が生きる上で必要よ」
「……」
「私も社会人1年目だから色々想像できるけど、私なんて今もそうだもの。奨学金返すために教職に就いたのだって、色々周りの話に流された上で決めて、今の居場所があるんだもの――私も教職についてなかったら、奨学金返済で首が回らなくなってたところよ。だから本来、ハルくんや他の生徒に偉そうなことを言える立場じゃないんだけどね。だからこそ、私も困っている人がいたら、そんな流れを作ってあげられたらなって、ハルくんを見て改めて思ったの」
「――それ、俺じゃなくて自分の生徒にやってやるべきなんじゃ……」
そう言いかけた初春の口元に、夏帆は自分の人差し指を伸ばして当てる。
「な……」
「言ったでしょ? これから女の本気をたっぷり堪能させるって。きっと秋葉さんたちもそうよ、ハルくんのために、これから本気になるだろうからそれを黙って受けていればいいわ。これは命令、強制です」
「……」
また困った顔をする初春。
「本当に触れられることに慣れてないんだなぁ」
初春が唇に他人の指が触れて狼狽したことを、夏帆はすぐ見抜いた。
「あの時秋葉さん達にくっつかれるのを嫌がった時もそうだけど――なんか、お風呂を嫌がる子犬みたい――とても隈武くんみたいな人と喧嘩ができるような人には見えないわ」
実は夏帆が初春の記憶を消されることを拒んだのは、初春のこういう点を見たからだ。
夏帆は元々被写体をじっと見て作品を作ることに打ち込んだ人間だ。だから物事の真贋を見極める目を持っている。
そんな目から見た初春は、本当に真っ白なキャンバス――だけど張り付けの甘い、でこぼこに歪んだ真っ白なキャンバスみたいだった。
元々人と争うことに向いていない、のんびりした性格だったのだろう。それが人をあそこまで残酷に叩きのめせるほどに歪んでしまっている。しかもその行動に思想がない。感情という色を落としてそれを行えてしまう。
まるで絵の具をつけず、白いキャンバスに水だけの絵筆で塗りたくっている感じだった。何も描かれていないけれど、繰り返すうちに紙が擦れて、いつかは擦り切れてしまい、傷口から血が噴き出す――
初春というキャンバスは、そうして見えない傷がどんどんついて、破れる寸前であるかのように見えた。
そんな生き方も歪むようなことを、どれだけこの子は強制されてきたのだろう――あまりに真っ白の美しさと、その歪んだ不自然さのコントラストに、心を動かされてしまったのだ。
「――すみません。折角のお話なんで、一度持ち帰って考えてもいいですか?」
そんな夏帆の思いをおぼろげに感じた初春は、他人の善意に警戒しながらも、恐る恐る手を出していた。
「とりあえず、この試験問題貰ってもいいですか。俺も模試も受けてないんで、どのくらいの学力なのか見たいんで」
「うん、期待しろなんて言えないけど――取り敢えず行動してみよう。ね。ハルくんの生活の邪魔にならない程度でいいから」
夏帆はそう言って初春に微笑みかけた。
「よぅし、じゃあハルくんの負担を減らすために、私も秋葉さん達と合流してお仕事を手伝おうかな。音々ちゃんとも話したいしね」
「……」
その笑顔を見て、初春はまたこの部屋に来ると感じる夏帆の気配に酔う。
この人は、きれいだ。
子供っぽくて隙が多くて、正直かなり年下の俺から見ても危なっかしくて、頼りない。
でも――きれいだ。
そう感じてしまう。
どうも俺は、秋葉や柳よりも、俺を子供のように扱うこの人に弱い……
この人を見ていると、妙に『女の人』を意識しかける。
俺を子供として軽くあしらってしまうような、そのおおらかさに心地よさを感じる。
だがその理由も分かっていた。
この人は結衣に似ているからだ。
俺にこうして説教じみたことを優しく諭す――結衣以外でこんなことをする人間が自分にいたことがなかったので、それを重ね合わせている。
子供のようにあしらわれるのは悔しくて、情けなくて、いつも逃げ出したくなるが。
今は少し思う。
女っていう存在が、自分みたいな人間嫌いも奮い立たせるような魅力があることを。




