追憶~オール4.5の男
少年はもう随分と前から思っていたのだった。
学年トップを走る直哉と結衣と、自分は同じ高校には行けない。
だからもう、その道を諦めていたし、だからこそ、最後にあいつらと一緒にいられるこの中学で、あいつらの足を引っ張るようなことはしない。
そう思っていたのに。
ここに来て、二人の志望校だった神高の推薦を認めさせて、直哉と結衣がそれを自分にあっさり譲るとか……
「――しかしお前数字で見れる中学3年間だけで言えば、なかなか小気味いいじゃないか。中盤グループからスタートして最後の1年で一気にごぼう抜きなんて。生徒会の副会長と剣道部の主将を兼任して、剣道部では団体戦で2回戦突破、個人戦では全国ベスト8――友達はいないがまさに絵に描いたような理想的な中学校生活だぞ。計算してやったのか?」
「え?」
「先生がお前達くらいの歳の頃に読んだ漫画にそういうラスボスがいたぞ。普段は平穏な暮らしを心がけ、優秀だが、わざと1位を取ったりしない……」
「――そんなサラリーマン殺人鬼じゃあるまいし。単純に才能がないから、時間がかかっただけですよ」
少年は自嘲した。
「――ふ、オール4.5だな」
「え?」
「俺が今考えた、お前の評価だ。オール5と言うほど圧倒的な感じはしないが、オール4にするには非凡なものがある。特別大きな弱点もなく、そつがない――だから、オール4.5だ」
「……」
「これからのお前は、きっとその現時点でオール4.5の力をどのあたりに持っていきたいか――それが大きな意味を成すだろうな」
白崎はメモ用紙を取り出して少年の前に出した。
「お前はもう行く高校自体は神高で調整できるんだ。だから今日はお前と高校に行ってからの話をしたいと思ってな……」
白崎はメモ用紙に『オール5』『オール4.5』『オール4』と横一列にそれぞれ書いて、その上に丸をそれぞれ書いた。
「オール5を取れる奴ってのは、本当の意味の天才――化け物。オール4.5の奴との決定的な違いってのは『圧倒的』であるかそうでないかだ。対してオール4の奴ってのは、目立ちはしないが人に怒られも舐められもしない――そんな平凡を一番謳歌できるポジションだな」
「……」
「オール5の奴ってのは分かりやすい例を挙げれば小笠原だな。あいつはいい加減で飄々としているが呑み込みの早さとセンスが抜群だ。いつもニコニコしていて人当たりもいいし、天性の素質に恵まれている――ああいうのを圧倒的っていうんだろうな。日下部も才媛だが、あっちは努力型でお前に近い……オール5って意味では小笠原の才能が一歩上かな」
「……」
「有名人で言えば、サクライ・ケースケ」
「サクライ・ケースケ? あの元サッカー選手の?」
「ああ、もう一線を引いた今でも稀代の天才と言われる人だな。あの人の全盛時代を俺もリアルタイムで見たが――あれはまさに圧倒的な才能だったぞ。オール4.5の人間がいくら努力をしても追いつけないというのをこれでもかと見せつけてくる――オール5の体現者という感じだった」
「……」
「――まあいくら努力しても追いつけないなんて、そんな考えも虚しいがな。いずれにしてもお前はこれからそういう化け物と張り合うことに全力を出すか、中学3年間の延長として現状維持をするか、少しランクを落としてもう少し気楽に生きるか、その3択の選択を神高で迫られるだろうな」
「……」
「神高は大変だぞ。本当の化け物は私立の有名校に行くだろうが、小笠原クラスの連中も何人か入るだろうし、現状維持だって容易じゃない。その選択を間違えないことだな。その選択が、お前がこれからどういう気持ちで生きられるかに深く関わってくる」
「――はい」
「で? お前は現時点では、どこにいたい?」
白崎はペンでメモ用紙を指差した。
「お前はこの先どのあたりの集団にいたい?」
「……」
少年は逡巡した。
「――正直、分からないんです」
「ん?」
「――俺、将来の夢とかどうなりたいかとか――そんなことをお前が考える資格がないって――子供の頃から教えられてきたから。高校に行くとか、そこで何をしたいとか、何もなくて……」
「教えられた?」
「……」
少年は小さな頃から同じ団地の生まれということで、直哉や結衣と比較されてきた。
何でもすぐにできるようになる2人に対して少年はいつも後れを取っていて。才能だけでなく容姿でも二人に見劣りしていた。
将来を嘱望される二人に対し、少年は物心がついた頃には周りの大人達から侮蔑の対象になっていた。
褒められることなどなく、何かあればすぐに怒られていた。自転車に乗れた時も、逆上がりができた時も、直哉と結衣はとっくにできるようになっている――少年の成長に興味を示す人間は誰もいなかったし、今頃できるようになったのと、少年の鈍才を鼻で笑う大人達ばかりであった。
言い訳をすれば大人達は迷惑そうな顔をし、おやつを与える時さえ少年は二人の余りものを選ぶようにと言われる始末だった。
『あの二人の邪魔をするな』
少年が物心ついた時から周りの大人達に刷り込まれた教えがそれであった。
少年には才能がない――少年の鈍才が二人の足を止めることは許さない。
あの二人の前で自分の主観を押し付けるな。才能のないお前の主観など邪魔でしかない。
それを徹底的に刷り込まれた少年は、幼い頃は周囲の顔色を窺っては怯えたように、申し訳ないようにそこに存在するような気弱な少年であった。
生きることに思想を持つことを許されなかった。ただ周りの邪魔をしないように生きるだけが少年の全てで、少しでも他人の気に障れば徹底的に詰められる――
それが少年の幼年期であった。
大人の侮蔑は子供にも伝染する――気弱そうに佇む少年は小学校低学年にはもういじめの対象であった。
直哉や結衣がいつも自分をかばってくれてはいたが、二人のいない陰で級友にも大人にも徹底的に苛め抜かれた。少年はその時も「自分が悪い」と刷り込まれた教えに従い、反論も反撃もせずに、ただそれを受けて、痛みに涙をするばかりであった。
「――そうか」
その話を聞いた白崎は、目を閉じた。
「だがお前、中学に上がる時の資料を見たが、何でも小5の時に当時の担任教師を殴ったそうじゃないか」
「……」
「実は俺が聞きたかったのはそれなんだ。小笠原と日下部に資料を見る前にその時のことを聞いていてな。それがお前を変えてしまった、お前が人間嫌いになるきっかけだった、とな」
「……」
そんな悲惨な幼年期を過ごした少年だったが。
小学校高学年になり年齢が二ケタになった頃あたりになると、単純に少年を面白がっていじめるいじめから、人気者の直哉達に目をかけられている少年への嫉妬を含んだものに変化していった。
単純な暴力からクラスでものを隠されたりクラスで事件が起これば真っ先に犯人扱い。相手の持ち物を盗んだとあらかじめ少年の鞄に級友の持ち物を入れられ、現行犯の犯人として扱われ、言い訳をすれば嘘つき扱い――とにかく少年の株を落とすことに主眼を置いたいじめが並行して行われるようになった。
少年が中学で今でも『嘘つき』だと言われているのはその名残をいまだに級友が引っ張っているからだ。
そうなると当然、直哉と結衣から離れろ、と少年に告げる人間が増えてくる。
それは級友だけでなく教師も同じだった。
当時の担任教師はよく調べもせずにでっち上げられた不祥事を起こす少年を、生徒と共に『嘘つき』『性根の悪い奴』と見なしていた。
少年には『ある事情』があり、いじめの標的にするには最適の理由があったのである。
そんな当時の担任教師がある日、いじめに困惑する少年にこう言った。
「才能がないことを僻んであいつらの株を落とすことばかりして。あの二人に申し訳ないと思わないのか。お前には人に嫌われる才能があるよ。よくもまあそうして卑屈なまでに人に嫌がられるポイントを外さずに当てられるものだな」
――遂に自分の存在があの二人の株を落とすことになりえるということを、その時少年は知った。
そあの二人を僻んであの二人の足を引っ張っているという風評は、少年が今まで受けた悪評の中でももっとも堪えるものであった。
自分をかばってくれる2人が自分のために何かを言われることは、少年は何よりも耐え難かった。
少年はその日から目の色を変えて勉学に取り組んだ。
そしてそう言われた一か月後に、それまでテストで70点台しかとったことのない少年が、国語算数理科社会で全て満点を取って見せた。
それを見て少年に教師は一言だけ言った。
「やればできるじゃないか」
「……」
その言葉を聞いた瞬間に、少年は教師に対して殴りかかっていた。
今までまるで人をゴミのように見下し、あまつさえ少年の一番大事なものまで踏みにじった教師。
いわれのない罪で少年を断罪し、少年は必死になってその悪評を無実として証明しようとした。
テストで満点を取り、自分が直哉や結衣に嫉妬して嫌がらせをしているわけではないことを自らの手で証明したが、教師も生徒も、今までのことを少年に謝罪する奴は誰もいなかった。
人を散々踏みにじっておいて、謝りもしない――その時幼かった少年は、今まで散々やられ続けていた人間に対しての憎悪が爆発した。
何様のつもりなんだこいつらは――人間とはなんて醜い生き物なんだ。
そして直哉や結衣に対しての風評まで撤回しなかったということ。少年にとってはそれが一番許せなかった。
自分は別に誰かから褒められなくてもいい――だが、いわれのない罪まで背負わされる気はないし、直哉達に迷惑をかけたくもない。
それだけのことを周りの人間どもが踏みにじったこと――生まれて初めてそれに対して大人しかった少年がキレたのだった。
結局その時は少年はすぐに大人の教師に取り押さえられて、職員室に連行されてしまった。
「貴様教師に向かって、無礼な奴め!」
普段から気弱で大人しい少年に対し、教師達は少年をビビらせる目的で恫喝した。自分より弱いと思っていた少年に殴られた傷の痛みが、教師の怒りを収まらなくさせていたのだった、
「散々人を無能だって馬鹿にしたり、それを覆したってのに謝らないのは無礼って言わないんだな。勉強になったよ」
少年は初めて教師に反論した。
少年はこの時教師以上に腹の虫がおさまっていなかった。
その時の怒りをぶつけるように、少年はそれ以来目の色を変えて自分を磨いた。勉学もそうだが体も鍛え、必死になって自分の鈍才を補う努力をし続けてきた。
「――成程な。お前の中学での急成長はそういうわけか」
白崎は頷いた。
「お前にとってあの二人ってのはそれだけ大切な仲間だったんだな」
「仲間なんかじゃないですよ」
「何?」
「『団地三兄弟』なんて通称もついこの間できたものです。それまでは『直哉と結衣、他』でしかなかった――それは今もそうでしょう。人気者の連中に対して、俺には誰も期待なんてしてない――今回のテストとか剣道の結果であいつらと肩を並べられたなんて思ってないですから」
「……」
「ただ――こんな半端者の俺なんかのためにあんなお人好し達が疑われたり、悪く言われるなんてことは――そんなの嫌なんで」
「お前――それだけのためにここまで頑張ったのか? 自分のためでなくあいつらのために、神高に入れるまでになったっていうのか?」
「……」
「自分の将来とかそんなものを考えることもなく――それだけのために、3年間?」
「――実際は小5からなんで、5年ですね……」
「……」
「あんだけやって、あいつらに肩を並べるまで5年もかかりました――まったくとんでもない奴等だって改めて思い知らされました」
「――ぷっ、わははははははは!」
白崎は大爆笑した。
「――どうしたんですか?」
「――いや、あの二人がお前に神高の推薦を譲った意味が分かったんだよ。お前は小さい頃の、みんなに馬鹿にされてた自分のままで、自分の成長とかあんまり考えずに3年間来ちまったんだな。勉強よりもお前にはそういうことを考えてほしくて、その時間を与えるためにお前に推薦を譲った……」
「……」
「いい友達を持ったな」
「――はい」
「それに応えるためにも、お前は二人のくれた時間、ちゃんと自分の将来を考えろ」
「――んなこと言われても」
「はは、そうだな。そんなことを急に決めろなんて言ってもできないよなぁ」
「……」
沈黙。
「なあ神子柴。中学と高校の違いってのは何かわかるか?」
白崎は優しい声で少年に質問した。
「――中学は義務教育で、高校はそうじゃない?」
「それもある。だが今の日本の進学率を見たらそんなのあまり実感わかないだろう? みんなが行くから何となく行く――そんな奴も多いんだから」
白崎は笑った。
「……」
大人がよく言うこと――高校は義務教育じゃないんだから、自分の責任がどうとか。そんなことを言われても確かに実感なんて持てない。その理屈をすぐに否定した大人がいることが、少年には少し意外だった。
「いいか、中学ってのは住んでいる地域ごとにその歳の子供を一つに集める場所だ。その中には何の選定基準もない。勿論馬鹿もいれば頭のいい奴もいる。足の速いの、遅いの、絵の上手いの、下手なの……色んな奴がいる」
「はぁ」
「だが、高校は違う。高校は受験で能力の近しい生徒を選別する。だから高校にはスペックや才能のかなり似通った奴が集まりやすい――美術学校には絵のうまい奴が集まるし、進学校には頭のいい奴が集まる。それが大学に行き社会に出る頃には、自分の周りにいる人間のスペックってのはもっと均質化してくる。これが社会って場所だな。歳をとるにつれて周りの人間がどんどん自分と似通ってくる――だから中学っていうこの場所は、恐らくお前の人生の中で人間の多様性がマックスになっている場所だ。これからお前の人生に、ここ以上に多様性のあるコミュニティで一日の半分近くを過ごすって経験をする機会は恐らくないと思うぞ。もっと周りの人間のタイプは均質化してくる」
「……」
「中学ってのは、そんな秀才も馬鹿もいるような多様な人間の中でもある程度うまくやっていけるような人間関係を学ぶ場所――そして高校は、自分と近しい人間が沢山いる中でどのあたりのポジションにいるのが一番心地いいかを見極める場所だ」
「……」
「自分が高校で何をしたいかわからないなら、とりあえずそれを見極めるってところから始めてみろ。今はオール4.5のお前がどのあたりにいたいか――3年間をそれに費やしたっていいんだ。そこさえ見つかれば具体的な答えはすぐに見つかるし、社会に出てもある程度何とかなる。具体的に何かやりたいことを決めるより、自分の居心地がいい場所とポジションを漠然と知っている奴の方が、幸せの意味を知ってる分ぶれないもんだ」
「……」
――そうか、自分のやりたいこととか、将来の夢とか。
そんなことを何も言えない自分に、少し焦りや不安を茫漠と感じることもあったけれど。
自分の居心地のいい場所を見つける……
それを考えるだけでも、それに近づけるんだ。
「進路指導はここまでだ。他の生徒より時間がある分、じっくり悩め」
白崎はそう言って、自分の机の前に広げた資料をまとめ始めた。
「神子柴」
荷物を片付け終えると、白崎は少年の目をしっかり覗き込んだ。
「――3年間、よく頑張ったな」
そう言って、くしゃっと破顔した顔を少年に見せた。
「――うっす」
普段感謝の言葉など述べない少年も深々と頭を下げた。
作者の前作を読んでない人にはわからないネタを仕込んですみません。
遊びとしてそういう小ネタを挟むかもしれないので、ご了承下さい。




