このあたりで、一番安い部屋を。
無人駅の駅舎は六畳間ほどの小さなスペースの中心に、もう体温のない古びた薪をくべるストーブがあり、四方の壁に座席を取り付けているだけの場所。
その駅舎を出た駅前広場には一時間に一本来るバスのためのロータリーがあり、お情けのような街路樹が電柱に寄りかかるように植えられている。歩道を少し外れるとちらほら雑草の生えたあぜ道になっている。近所にも殆ど建物はない。
「……」
駅の隣にある自転車置き場がタイヤのロックどころか金網で囲われてすらいない――ただナイロン製の紐がついているだけ――と言うか、自転車を無料で置けるのか。
少年にとってはそれは見たこともないものであった。
少年は大きなスポーツバッグを一つ抱え辺りを見回すと、携帯を取り出し地図のアプリを開こうとしたが。
「……」
GPSがなかなか今の自分の場所を特定してくれず、やがて諦めて携帯をジャケットのポケットにしまった。
梅の花も咲く3月の寒空の下、大きなバッグを一つ肩にかけて、少年はこの町――神庭町へと降りてきた。
駅舎の近くに交番があったので、そこで場所を訊いて最初に立ち寄った場所は、不動産屋であった。
少年が店に入ると不動産屋は一様に怪訝な表情を見せた。見た目にはまだ15歳程度の少年――これは客なのか、という反応である。
「このあたりの部屋を借りたいんですが」
少年はもうそれは最初から分かっているので、明らかな意思表示を見せた。
「あ、ああ――はい。それではこちらへ」
どうやら店で一番の新人らしい若い男が少年を席へ促した。不動産屋の中には5~6人のスタッフがいるが、どうやら上客ではなさそうという理由で、一番の新人が相手にあてがわれたらしい。
「あの、どういったお部屋をお探しでしょうか」
「――このあたりで、一番安い部屋を」
少年は静かな声で俯き加減にそれだけ言った。
「あ、あの、その条件だけですとお客様の生活にご不便が生じると思いますので、できればお風呂とトイレが別ですとか、そのようなご希望があればと思うのですが……」
「それ以外の希望はありません」
面倒に思った少年は、若干不機嫌そうに言った。
「安ければ何でもいい――それ以外、部屋には何も求めていません」
「むむむ……それではこんな物件はどうでしょう」
若手社員はキーボードをタイピングすると、自分の目の前のパソコンの液晶画面を少年の方へ向けた。
『駅30分、築45年ですが、リフォームしたばかりです』という触れ込みが載っている。家賃は3万円。
「こういうまともな物件じゃないですよ」
少年はバッサリ切り捨てた。
「もっとボロボロとか、部屋で住人が首を吊ったとか殺人事件があったとか――そういういわくがついてとても貸せるような部屋じゃないような部屋を法外に安くしてほしいんです」
「しょ、少々お待ちください」
そう言って若い男は一旦席を立ち、案件の是非を上司に問いに一度店の奥へ下がっていった。
「……」
この少年は歳の割には世間の分別もある方だと自負していた。だから今、あの若手社員を自分が困らせていることも自覚していた。
だが、そんな気遣いをするような思考を今は止めてしまっている。
しばらく裏に回っていた若手社員はやがて少年の倍くらい年上の、おそらく店長だろう人物を伴ってきた。
「お待たせいたしました。とにかく安い物件をお探しということですが……それも法外に安い物件ということで」
「ええ。このお店にはありませんか?」
「失礼ですが、もし仮にその物件を私共がご紹介したとして、その部屋に住むのは?」
「僕一人です」
「その――おそらく未成年だと思いますが、お部屋を借りるには保証人というものが必要なのですが、そちらは大丈夫でしょうか?」
「……」
少年はその問いに目を細めた。
保証人――その言葉を聞くだけで、ここ一週間で起きた出来事を順繰りに思い出させられ、酷く気持ちが陰になった。
「――ええ、大丈夫ですよ。身内の承諾はありますから」
力ない声で呟いた。
そう言って少年は持っていた大きめのバッグから、自作での両親の捺印入りの身元保証人同意書を、ご丁寧に印鑑証明を添えて突き出すのだった。
「そ、そうですか……」
その店長のがっかりしたような一瞬の表情の陰りを見て、これで追い出せれば楽だったのに、と思われていたんだな、と察した。
「とにかく法外に安い物件を。そういう在庫処分的な物件があるんじゃないですか?」
「むむむ」
その少年の大真面目ぶりに、店長でさえも先程の若手と同じ反応を示した。
「店長」
そう言って、店長の背中に隠れていた先程の若手社員が、手に一枚の物件資料を持って、店長に差し出した。
「――い、いや、これはさすがに……」
店長は難色を示す。
「何ですか?」
ようやく話が前に進むと思ったのか、少年は即座に質問した。
「い、いえ。さすがにこの物件を紹介は……」
「どんな物件なんですか?」
「……」
「値段が安ければ文句を言う気はありませんから、教えてください」
「……」
店長はしばらく天井を仰いで話すのを渋っていたが、少年の物腰が温和であるのを見て大丈夫かと思ったのか、やがて口を開いた。
「その――ここから歩いて20分ほど行くと、標高500メートルほどの山があるのですが、その山の麓の山林地帯に、2階建て2DKの一軒家がありまして」
「2DK?」
少年は首を傾げた。
「そんな大きな物件じゃ、いくら駅から遠くても、安くなんか……」
「いえ、賃料は月1万円です」
「は?」
少年は初めてはっきりと表情に動揺を見せた。
「もう築80年は経っている、九龍城みたいな家とか?」
「いえ、特別新しくはないですが築15年ほど……お風呂とトイレも勿論別……トイレもちゃんと洋式です」
「……」
――信じられない。
あまりに美味しすぎる条件に、少年は喜ぶ以上に狼狽えた。
この時の少年は、人の言葉で一喜一憂することを自分の中で必死に律そうとしていた。
「――そんな物件が何でそんなに安いんですか?」
「うーん……」
店長は少し言葉に悩む素振りを見せながら、言った。
「その、この家は建ててから数年、奇妙なことが起こっておりまして」
「奇妙なこと?」
「ええ、住人にめがけて家具が倒れてくるとか、夜中に物音や誰かの話声がするとか、出かけて戻ると部屋中がゴミだらけになっているとか……しかし泥棒が入った形跡もなく。オーナー様も入居者様のクレーム対応のために防犯カメラを設置したのですが、何も侵入した跡がないのに部屋が荒らされていたということもあったのです」
「……」
「私達も管理部門の人間がこの物件のメンテナンスに行ったのですが……足を滑らせて軽い怪我を負って帰ってきたのです。その者が言うには、何かに足を引っ張られた、と……」
「……」
少年はオカルトを信じない主義だが、それが田舎町とはいえ2DKの一軒家を家賃1万円にしているのだから、この不動産屋がふざけているわけではないのだろう。複雑な思いだが真剣に聞いていた。
「ここ5年で5組の入居者がいたのですが、どの入所者も3か月持たずに部屋を解約しました――皆様口を揃えて、こんな家に住めない、と言って」
「……」
「オーナー様からは一応紹介には載せてはおきますが、入居者様が現れた際には入居後に家で起きたすべてのトラブルの責任をオーナーに請求しない、という誓約書にサインをしてもらう、というのが入居の条件となります。その際は、当店も責任を負いかねますので、当店の責任請求も行わない旨の誓約書も同時に作成させていただくことになります」
「そうですか。わかりました」
少年は頷いて椅子から立ち上がる。
「今からその物件を見せていただきたいのですが」
「え?」「え?」
店長と脇にいた新人は、まるで卒倒しそうな表情を見せた。
「あ、あの」
店長はあまりに狼狽して、声が震えていた。
「ついてこなくていいですよ。物件までの地図と鍵をくれれば、ひとりで行きますから」
自分が上客でないことを理解しているので、少年はあからさまに行きたがらない不動産屋に気を遣ってそう言った。
この少年はそんな気遣いに慣れているのだ。
不動産屋は自分の年齢の半分も行かない少年に、そんないわくつきの物件を勧めたことに多少罪悪感を感じているようだった。
不動産屋からもらった地図を見ながら少年は一人歩いて、その『いわくつき物件』に向かっていた。
歩きながら、これから自分の住むこの神庭町の街並みを観察していたが。
「――すげー地味な街……」
歩けば歩くほど、その感想しか浮かんでこない。
神庭町はそれほど何の特徴のない町であった。駅前はまだ多少コンビニやファミレスなどが見られるが、駅から10分も離れれば四方はほとんど田園地帯と化し、目の前にはうっそうとした森の広がる小高い山が広い空を隠すように立ちはだかっていた。もう歩いている道はアスファルトで舗装もされていない砂利道で、さっきから田植えを迎える畑に向かうトラクターと何台かすれ違った。あぜ道には枯れた雑草の残骸が、もうすぐ来る春の日差しに溶かされるようにしなび、新しい緑の雑草が生え始めていた。
右手から潮騒の音が聞こえる。どうやら浜辺が近いようだ。少年は右を向くと、確かに300メートルほど先に防波堤がずっと連なっているのが見えた。かなり高い防波堤で先の海は全く見えない。
「……」
肩にかける鞄の重さと大きめの砂利を踏む度に感じる足裏の痛みが、少年を非常に憂鬱な気分にさせていた。
少年は不動産屋に自分の要求を伝えた際も、多少の恐怖を感じていたのである。
本当に家賃さえ安ければ屋根裏部屋だろうが廃病院だろうが住む覚悟を固めてはいたが、本当は部屋の内容とそれ以上に自分のこの先の生活が不安だった。
まさか築浅の2DKに住むなんてことを想定していなかったので、この時点では多少はほっとしてはいたが。
歩きながら少年は、この街に流れ着くまでの数週間の出来事を順繰りに思い出していた。
「あぁ……」
少年は呻くようなため息を吐きながら、天を仰いだ。
築浅のダイニングキッチンは、中年の男の飲み干した安酒の酒瓶と食い散らかした肴の残骸で見るも無残な状態になっている。
今日も仲間と鯨飲したその男は袈裟を捲り上げて尻をぼりぼりと掻き、いぎたない鼾をファンファーレの如く高らかに響かせていた。
「もぉ、お師匠様は……」
見た目には孫娘と言ってもいい程の少女は、もうこの部屋が酷いことになっていることを想定して初めからゴミ袋を持ってきたが、あまりの無残さにがっくり肩を落とした。
少女は毎朝この光景を見慣れてはいる。もう数年間この男が毎日食い散らかすものだから、いくら片付けてもきりがないので、掃除をするのを諦めたこともあるのだが、生来少女は糞真面目な性格であったので、見て見ぬ振りが出来ずに、こうして見るに見かねた時は家の掃除をしているのであった。
自分でも損をしているなぁ、と少女は思う。少女は男の仲間達を通していた、キッチン以上に派手に散らかされた客間にある縁側の窓を開けて、酒臭い家の空気を入れ替えるとともに、冬空の高い空を見上げ、その空に自分の手をかざした。
「はぁ……」
まるでかぐや姫の如く空を見上げ物思いにふける自分――こんな時に私がかぐや姫のように特別なものであれば、あの空まで、誰か連れて行ってくれるのだろうか――なんてことを考えていた。
そんな自分の痛々しさに自嘲しながら視線を落とし、掃除を始めようとすると。
少女はぎょっとした。次の瞬間、脱兎の如く駆け、キッチンで相変わらず眠っている男にしがみついた。
「うわっ!」
あまりに急いでいたせいか、少女は着物の裾を踏んづけて、前のめりにべちゃりと転んだ。
「痛ったたた……お、お師匠様! お師匠様ってば!」
「う、うーん……なんじゃ騒々しい……」
「この家に、誰か向かってくるんです!」
「何――この家に最後に人が立ち入ったのは、二年前のはずだったが、まだ懲りてなかったのか」
男はまだ酒で足がふらついていたが、脇にあった一升瓶を持って、のろのろと立ち上がった。
「何でお酒まで持ってるんですか!」
少女は既に声を殺して話した。
「大丈夫だ、我々の姿はまだ見えんだろうから」
男は一升瓶をラッパ飲みしながら、客間の座布団の上にどかりと腰を下ろした。
折節、家の玄関の鍵が開く音がした。
肩にかけていた鞄をとりあえず玄関に置いて、少年は玄関から家の中を俯瞰した。
「ん……」
まず少年は、この部屋に漂う酒臭い空気に、警戒心を強めた。
少年は怪訝な顔をして、玄関でしゃがみ込み廊下のフローリングをじっと観察した。
「……」
埃をかぶったフローリングは、何か素足でここを歩いたような足跡が残っている。
そして、廊下の先に見える開け放しのダイニングキッチンの、祭りの翌日の如き散らかり方。その割には、残っている食材に、腐敗した様子もない……
「……」
少年は怪訝な顔で状況を整理しようとした。どうやら本当にこの家で何者かが出入りしているのは確実だということは分かったのだが……
「なんじゃ、まだ餓鬼ではないか」
目の前できょろきょろする少年を見ながら、客間の座布団に座る男は、酒臭い溜息を、既に酒臭い部屋の空気にブレンドした。
「……」
少女はそんな男の横で息をひそめている。
少年は階段を上って、二階にある部屋を見る。六畳ほどの洋室に広いクローゼットがついている。壁は南と東に二つ窓があって、遮る建物もないために日当たりも最高にいい。南側の窓の先には小さなバルコニーがついていて、小高い山の麓にあるその2階の窓からは左手には棚田状に広がる神庭町の広い田園、右手には白い砂浜と打ち寄せる波の美しい海岸が一望できる場所にあった。
「……」
少年は窓を開けてバルコニーに出て、今は稲も刈り取られて裸になっている田園の景色を見て、大きく深呼吸をしてみる。
そんな姿を後ろからついてきていた男と少女はじっと見つめていた。
「懲りないものじゃな、人間というのは」
そう言うと男は、片手に持っていた扇子をぴしゃりと閉じた。
「少し脅かしてやるか……」
男はそう呟くと、閉じた扇子をバルコニーの鉄柵に手を置いて外を見つめた少年の後頭部に向けて投げつけた。
ガツッ、という音がして、少年の短めに髪を整えた少年の後頭部に当たって、扇子は少年の足元に落ちた。
少年は頭を押さえ、あたりを見回しながら扇子を拾い上げた。
さっきまでなかった扇子を眺めて特に何の仕掛けもないことも確認して、少年は窓枠に腰を預けながら状況を整理しようとした。
「……」
少年は扇子の当たった後頭部に手を当てながら、30秒ほど考えを反芻していたが。
携帯電話をポケットから取り出して、通話ボタンを押した。
「もしもし――はい、先程伺った者ですけど。はい、この部屋と契約したいと思います」
『え?』「何?」「え?」
受話器越しの不動産屋と、男、少女は同時に声を上げた。
『だ、大丈夫でしたか? 何かおかしなことはなかったですか?』
「いや――おかしなことだらけですけど。鍵がかかっているのに、明らかに何かが出入りした痕跡があるし。誰もいないのにものが飛んでくるし」
少年は電話をしながら後頭部をさすった。
「でも、だからって他に選択肢があるわけじゃないんで――まあ、ここにするしかないかな、って」
「……」
少女は先程からそんな少年の動きに、耳をそばだてる。
「ええ――帰ってすぐ申込します。できればもう今日のうちに、初期費用を入金するんで、軒先を貸してもらえると助かりますけど――はい、とりあえずお店に戻ります」
少年は通話終了ボタンを押しポケットに携帯をしまうと、そのまま鞄を担ぎ直して玄関先で靴を履き替えて家を出て行った。
玄関前まで少年の姿を追いかけてきた老人と少女は怪訝な表情をしながら、少年の後姿を見送っていた。
少年は家の玄関から歩いていたが、家から10メートルほど離れたところで一度立ち止まって踵を返し、一軒家を見上げるようにして姿を確認すると、最後に玄関口を軽く一瞥してまた振り返って歩き出した。
「くそっ、脅かしが足りなかったのか」
男は苦々しい顔をした。
「……」
しかし、その隣で少女は少年の後姿を見ながら首を傾げていた。
「なんじゃ、不思議そうな顔をしおって」
男は、少女の先程からの無口振りに疑念をぶつけた。
「――あの人から、沢山の『声』が聞こえたんです」
「また『声』か……」
男はその言葉を聞いて、酒でふらつく頭を軽く横に振って居間の特等席まで戻ろうとした。
「まあ、お前はそれしかできないからな」
「……」
玄関に腰を下ろした少女は、履いていた草履を無造作に脱ぎ捨てて足袋を履いた足を動かしながら、さっきの少年のことを考えていた。
「もしかして、あの人って……」