鳴き声+火の玉
遠くで聞こえた鳴き声が誰のものであるのか、僕はわかっていた。
甲高い、しかし鈍く広がるあの声は、薄暗闇の森から聞こえてくる。
祖母から聞いた話では、この森には邪がいると言う。
その邪は虎のような姿をしていたり、蛇のような姿をしていたり、あるいは人のような姿をしていたり様々であるが、一つ共通して言えることは、邪は存在しているもの全てを食べてしまうということだ。
邪が現れた時、天地は綯交ぜとなった一つの空間だったらしい。
邪は天地の境界を食い天と地に分かれた。
それから植物、いわゆる生命が現れ始めたがそれも食い尽くそうとした。
しかし、天と地は協力し合い天は恵みの雨を、地は生命を作った。
邪の周りには草が生い茂り、今も森の奥の神秘のツルに巻かれ、永久に動けないという。
その怒りや悲しみの呻き声が、この森から聞こえてくるらしいのだ。
遠い昔の話である。
彼は嫌われたが、生命を生み出したものでもある。
一年に一度、邪の呻き声が一番大きく聞こえるとされる6月の夜に、彼を慈しむ祭りが行われる。
森の入り口には出店などが出て、皆で踊り明かす。
そして一番最後に、皆の中で一人、邪に食われる為に森へと入っていくのだ。
当然、帰ってきたものはいない。
祭りが終わると皆、そんなことなどなかったかのようにまた一年を過ごすのだ。
そして、僕は今、邪の生贄として森へ入ろうとしている。
背筋が強張る感覚がずっと取れなかった。
森は思いの外森閑としている。
進むたび、闇が色を増し、目を閉じているようになにも見えない。
もう祭囃子も聞こえなくなってしまった。
しかし、真っ直ぐ続く道は見えずとも進める。
誰かが呼んでいるようだった。
すると、闇の中で湿った草たちが揺れた。
風など吹いてはいない。
生命の声は聞こえず、地鳴りのような鈍い響がずっと頭の中を反響する。
僕は頭の痛みを感じた。
更に進むと、遠くで揺れる明かりが見えた。
ぼんやりとしているが確かに光っている。
そこだけがやけに浮き出たように、僕には見えた。
それは火の玉であった。
空中に漂う火の玉である。
優しく光るそれは僕の恐怖を紛らわす光ではなかった。
僕が近づくとそれは森の奥へと行く。
そして少し止まってはまた空中で揺れる。
僕が更に近づいていくとそれは逃げるように森の奥へと行くのだ。
まるで僕を誘うように。
それからしばらく進んだ。
これ程までと思えるほど森は続いた。
進んでも進んでも同じような道、同じような木々。
それは更に続くように思えた。
朝も消えてしまった。
いつまで経っても夜のままである。
もう後ろの方からゆっくりと日が昇り始めてもよい頃なのに、辺り一面が暗かった。
目の前で揺れる火の玉が、唯一の光であるが、それが照らし出すものは、冷たい地面と、黙り込んだ草木と、絶望だけであった。
森は未だ続いた。
歩いても歩いても。
進んでも進んでも。
何も変わりはしなかった。
邪は全てを食べてしまうらしい。
存在あるもの全て。
もしかすると、森の果ても、眩しい朝も、そして僕の終わりも、彼は食べてしまったのかもしれない。