鯨+最終電車
アルフが改札を抜けると、誰もいないホームはただ森閑として、等間隔に吊るされている裸電球の灯りだけがその場で唯一の温度を持っていた。風は吹いていない。しかし、裸電球が時折気が向いたように揺れ、彼の影を別の生き物のようにさせた。駅員さえもいなかった。向こうのホームも同じように、ただ薄明かりだけが浮かび上がらせる幻のように心許ない。その奥では夜の闇の中で金色のような月が笑っているように見えた。良夜である。満月の縁が闇に冒されるような淡い余韻を残し、溶け出してしまいそうな金色はその真ん丸の形を保っている。アルフにはその方法はわからない。何故、闇に触れられているのに、月は丸いままなのか。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。
アルフは電光掲示板を見上げた。
三本もあるラインの下二本はもう真っ黒で、最終電車を示す一番上の文字だけが時の流れよりももっと早く流れていく。アルフは少しばかりの肌寒さを感じた。夜はまだ始まったばかりである。朝になればきっと、自分はもうこの街にはやって来ないだろう。アルフはそう思った。
アルフには一人の妹がいた。しかし、アルフがまだ二歳の時、母は離別しアルフは父と二人で暮らすこととなった。その時に、どうやら母は身籠っていたらしい。その見たこともない妹と、彼は今日会って来た。いや、実際には、彼女を見た。それだけである。
会いに来たのだ。
しかし、彼は彼女の姿を見ただけで、もうやめてしまった。小さな子を抱いて、彼女は男と歩いていた。おそらく、結婚をしているのだろう。彼女にとって自分は、他人でしかない。彼女が手に入れた幸せに、自分のような人間は必要ないのだ。
それに、怖かった。
あの笑顔が、自分が現れることによって消え失せてしまうことが。
最終電車のアナウンスが流れ始めた。どちらから来るのかはわからない。しかし、ホームから左右を見渡してみても、そこはただ闇の中である。ものも言わない闇。確かに静かではあったが、叫び声を上げる前のぶるぶると震えた拳のようであった。
彼は星が一つもないことに気付いた。
真っ暗闇であったのだ。光源は月と、使い古された裸電球しかなかった。
星はみんな死んだというのは本当だったらしい。地球が最後に生き残った星だという。彼は泣きたいような気持ちになった。しかし、なっただけである。
本当に泣くことはもうあまりなくなってしまった。アルフは自分の心が老いたように感じた。この誰もいなくなってしまった駅のように、自分も錆びて行く。父はもう三年も前に死んだ。脳梗塞であった。それは突然で、老いが父の魂を奪っていった。
電車はまだ来ない。
裸電球が一つ、いきなり消えてしまった。寿命が来たのかもしれない。アルフは命の短くも長い時間を思った。
すると真っ暗な夜空の中に、巨大な鯨が泳いでいた。彼はその様に見惚れた。鱗は一つもない、巨大な鯨。しかし、その体は星のようにキラキラと、その輪郭は光っていた。
鯨はゆらゆらと夜の中を泳いでいる。それは深海の中を泳いでいるようにも見えた。
鯨は巨大な口を開けると、ぼんやりと輝く月を食べた。
夜は本当に真っ暗になった。それは、裸電球の寿命が尽きるように呆気なく、一瞬のことであった。
鯨はゆっくりとこちらに向かって泳いでくる。地球へたどり着くのは数年後か、数万年後になるのかはわからない。しかし、全ての星がこの鯨に食べられてしまった今、アルフが思うことはもう、妹の幸せな時間が尽きるまで、どうか来てくれるなと願うばかりである。




