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ハツカネズミ+スーツケース

大仰なスーツケースをユサユサと持ち、シノノは現れた。

「やあどうも久しく」

夏場と言うのに真っ黒なダブルのスーツに、テカテカとした革靴、可愛らしいボーラーハットを被りその顔は汗ひとつかいていない。

「またそんな大袈裟な物を持ってなんだ」

ムルーは場違いな彼の様子に眉を寄せたが、視線はその馬鹿でかいスーツケースに向けられている。三尺×二尺×一尺ほどの大きさで、なんとも重そうである。

「これかい?」

シノノは戯けたように言った。

彼が見せたいものがあると言うからこうして今日は駅前の喫茶店で落ち合ったのである。

「君のそのスカした表情を見に来たわけではないんだ」

「ムルー君、また君はそんなことを言う」

シノノは不謹慎な程の笑顔を見せた。

店員の女の子がひょこひょこと歩いて来たが、シノノはアメリカンとだけ言ってその馬鹿でかいスーツケースをテーブルの上へ置いた。これでは彼のアメリカンコーヒーを置く場所はない。

「何が入っていると思う?」

シノノは出し抜けに言った。

「随分でかいな。人間が入りそうだ」

ムルーがそう言うとシノノは意外だというような顔をした。

「そうだ。正解」

ムルーは少々驚いた。いつも荒唐無稽で常識知らずなシノノの言葉に、もうそろそろ慣れたと思っていたが全くである。

スーツケースに人間を入れた?

ムルーはあまりにも突然の事に面食らってしまった。

そんなムルーの表情をシノノは楽しそうに見ている。

「まあ人間と言っても別に人間が入っているわけじゃない」

「すると何が入っている」

ムルーはせっかちに聞いた。

「人間の夢だよ、ムルー君」

「人間の夢?」

シノノのアメリカンコーヒーがやって来たが店員の女の子はどこに置いたものか難儀な顔をした。シノノはありがとうと言ってそれを直接受け取る。

彼は熱いと言いながらそれに一口付けた。シノノはそれをなんの躊躇も無くスーツケースの上に置く。

「おいおい、それでは開けられないじゃないか」

「いやこのスーツケースは開けんのだよ」

シノノはニタニタと笑っている。

「何故開けない?」

「いいかい。この中に入っているのは人間の夢だよ。実体はない」

「実体がない物が入るわけはないだろう」

「そんな事はない。人間の夢はこのスーツケースの中に入っているから存在できるのだ。君は魂をその身体の中に持っているが魂にも実体はあるまい」

妙な言い分だとも思ったが、シノノのその顔を見ていると何故か胡散臭さを感じざるを得ない。彼は先程から、いや初めて会った時から今までひたすらニタニタし続けている。

「だからこれは開けられない。しかし、覗く事は出来るよ」

「ほう」

ムルーはそのアメリカンコーヒーが置かれているスーツケースを見た。

「ほれここに覗き穴が付いている。ここから覗くと人間の夢が見れるのだ」

そう言うとシノノはスーツケースに付いている小窓を開けた。ガラス張りになったその小窓の中は真っ暗で何も見えない。

「覗くかい?」

「その為に呼んだのだろう」

ムルーはその小窓を覗き込もうとした。するとシノノはちょっとと言ってムルーを制する。

「なんだ」

「この中にあるのは決して美しいものじゃないぞ。発狂せんでくれよ」

シノノはそう言っていつも通りの笑顔を見せた。右の手のひらでどうぞと言うようにその小窓を示した。

ムルーはそれを覗き込んだ。

真っ暗な中に、ぽつねんと一匹のハツカネズミがいた。そこにだけスポットライトが当たったように、明るく照らされた場所で茶色い毛並みのハツカネズミが鼻先をぴくぴくと動かしていた。

ムルーは更に小窓へと顔を近づけた。

ハツカネズミは小さな両手をちょこちょこと動かし、顔を撫でるように触っている。体ほどもある長い尾が髭とともに揺れていた。

するとどこからか人間の腕が現れて、ハツカネズミの小さな身体をギュッと握った。

ムルーは思わずわっと声を上げた。

その腕は大きな手でハツカネズミを握り込んでしまうと、ゆっくりと拳に力を入れて行く。手から飛び出した長い尾がぴくぴくと暴れていたが、バリバリと骨を砕くような音が聞こえ始めるとやがてそれも動かなくなった。手は血まみれになり、赤い鮮血が指の間からポタポタと溢れ、静かに床を濡らして行く。

すると、血溜まりの中からは小さな男が現れた。彼は赤く濡れた身体を手で払いながらキョロキョロと辺りを見回している。

ムルーは嫌な予感がした。

男の後ろからは巨大なハツカネズミが現れ、彼のキョロキョロと動く頭を食い千切った。首からは噴水のように血が溢れ出し、男の体は成すすべもなくばたりと血溜まりの中に倒れる。男はピクリとも動かなくなり、溜まった血を全てその身体に吸い込むと、皮膚は溺死体のようにブヨブヨになった。その身体を食い破って小さなハツカネズミが生まれた。彼はまだ目も空いておらず、毛も生えていない桃色の肌を心許ない手で撫でていた。やがてその身体にもびっしりと毛が生え始めると、ハツカネズミは鼻先をぴくぴくとさせ、辺りの匂いを嗅いでいるようだった。

ムルーは小窓から顔を離した。

「なんだこれは」

シノノはやはりニヤニヤとするばかりである。

「人間の夢だよ」

「こんなものが人間の夢なものか!」

「いやいや」

シノノはアメリカンコーヒーを一口啜った。

「人間の夢はね、やはり実体を持ってはいない。実は、このスーツケースは見るものの心の中だ」

ムルーは青ざめた。

「あれが私の心の中だって?」

「君の癖は知らないが、そういう事だね」

シノノはアメリカンコーヒーを飲んだ。香りを楽しんでいるようにも見える。

「あんなものが私の心のはずが無い」

ムルーは狼狽えた。

「しかし、人間結局のところ衝動だよ。理性は本能よりも尊くて淡いのだ。そしてまた本能は人間的な衝動に他ならない」

シノノはムルーとは対照的に気立ての良い笑顔を見せている。

「ジョン・スタインベックだって、己が見ている夢の中で永久に生きることを望んでいたのかもしれない」

シノノはアメリカンコーヒーを飲み干すと、それを床へと置いた。彼は徐にスーツケースの留め具を外して行く。

「人間はやはり、その夢の中で生きて行くほうが良い」

シノノがスーツケースを開けると、ムルーはその中へと吸い込まれて行った。

シノノはスーツケースを閉め、伝票を取り上げた。二人分の勘定を済ますと、重たいスーツケースを持ち上げ、またユサユサと店を出た。

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