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8.Trick of the senses(気の迷い)

 午前7時前。出雲市街から社不知村へ伸びる海岸沿いの一本道。

 折角の気持ちの良い朝なのに、朝日は東に聳える山々に遮られ、道に暗い影を落とす。こんな陰気な通勤風景も慣れたものだ。摩天楼に朝日が反射して眩しい東京を懐かしむ。

 公民館の駐車場に車を止め、高徳院にある喫茶店に向かって歩き始める。

 ・・・いつもならばこの時間に晴子と会い、お互いにイチャモンを付け合いながら、一緒に喫茶店で朝食をとる。

「・・・いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ!」

 そんな日常は、あの雨の夜の出来事だけで崩れ落ちた。一人でここまで歩いてくるのが寂しく感じる。

「雅治、おはよー!」

「こっちこっち!」

 その代わり?とでも言えるのだろうか。心の支えになってくれる存在が、二人もできた。魎と海斗だ。

 暫し、食事をしながら、楽しい会話に花を咲かせる。世間話、仕事の愚痴。数日前から慣習となり、今ではすっかり日常となっている時間。

 最初のうちは魎が「あの後晴子さんとはどうなったの?」とか聞いて、海斗に「そういうことは聞くなよ」と窘められ、僕の心境が複雑になる日もあったが、今ではそんな会話はほとんどなくなった。時たま引き合いに出されても、僕は何の苦も感じずに、ありのままを話す。

「そういえば最近、晴子さんのこと見ないな。定時巡回中に最低1回は会うのに。」

 今日もそんな出だしだった。

「病んじゃって引きこもってるんじゃないの?雅治のこと殴って、しかもそれがバレたんだから。」

 珍しく海斗が嫌味なことを言う。冗談にしては、的をいている気がしなくもなくて、僕も言葉選びに迷う。

「・・・まあ、元気に過ごしていてくれれば、僕はそれで良いと思うけどね。」

「本当にそれでいいのかぁ?気になってるなら素直に言えよ。」

 そして魎がこれ見よがしに突っかかってくる。

「いや、そりゃあ気になってるよ。本当に僕のせいで気に病んでいるって言うのなら。」

「それは逆に素直すぎる気がするぞ、雅治・・・」

「だって、放っておけないだろ?どうなってるのか、心の中のどこかで引っかかるんだよ。」

「何かそれ、分かる気がするぜ。」

 すると海斗が同情してきた。僕としては意外だった。

「え、海斗もそう思う?」

「ああ。心残りってヤツ?胸の中でつっかえた物がモヤモヤしてて、自分でもよく分からないっていうか。魎にはそういうことってないのか?」

 魎は腕を組んで俯き、少し唸ってから言った。

「俺は・・・そういうことは考えたこともないけど、多分ないな。自分の中では、駐在員としてできるベストは尽くしているつもりだから、後悔したことなんかないし。」

「うお、まさかのカンペキ主義!?」

「そういうわけじゃなくて、カンペキじゃなくてもいいから、悔いのないようにしてるってだけさ。」

「なるほどね・・・タメになるよ。」

「気になるようなら、あいつの家に行ってみたらどうよ?立派な豪邸だぜ?」

「やめとくよ、仕事もあるし、迂闊に近づいたらつまみ出されるのがオチだと思う。」

「休みの時期になったら行けばいいじゃないか。場所が分からなければ教えてやるよ。」

「ありがとう、予定が空いたらそうするよ。さ、そろそろ仕事始めと行こうか。」

 診療所で働いている限り、早々予定は空かない。次の休みは夏のお盆休み。これから梅雨入りだっていうから、まだまだ先の話になりそうだ。

 レジにいる汀ちゃんに伝票を渡し、会計をしている間、魎と海斗に聞こえないような小さい声で話しかけた。

「晴子って最近来てる?」

「晴子さんですか?一応ご来店いただいていますけど、今日はまだお見えでないです。」

「いつも何時くらいに来てるの?」

「ごめんなさい、そこまでは覚えてないです。」

「そう、ありがとう、ご馳走様。お昼にまた来るね。」

「はい、ありがとうございました!」

 店を後にし、神社の境内で魎、海斗の二人と別れる。やはり山々に囲まれて暗いが、それでも朱色の社殿は存在感を存分に発揮している。

「おはようございます、雅治さん。」

「うぉっ!?び、びっくりした・・・おはよう、風香ちゃん。」

 またしても背後からいきなり声をかけられた。朝から怖いなぁ・・・

「私って、そんなに影薄いですか?」

「いや、気配を消すのがうまいんじゃない?」

 全然慰めになっていない。

「朝からバイト・・・じゃなくて、助勤?大変じゃない?」

「どちらかと言ったらゴールデンウィークの大混雑の方が大変です。」

「そうなの・・・?」

「早寝早起きして、その後境内の掃除する流れには慣れました。」

「凄いね。僕はまだ寝坊癖が・・・ははっ、残っちゃってて。」

「早く直しておきましょうね。」

「これは神様にお願いしたところでどうにもならないなぁ。」

「あはは!努力もちゃんと報われますよ!」

「ありがとう、今日も一日がんばれそうな気がするよ!じゃあね!」

「がんばってくださいね!」

 あれだけハキハキと活発な風香ちゃんの存在に気付けないって、僕が鈍感なだけなのかなって思えるようになってきた。

 素盞鳴尊(スサノオノミコト)の社殿の前に再び、ふらっと立ち寄ってしまった。あれ以来、見えない誰かとここで繋がれるようになってから、僕はここに来てしまう。得体の知れない不気味な何者かが、僕に向かって囁いてくる。何かしらのヒントや、助けを求める声が聞こえないか、神経を研ぎ澄ませる必要があり、結構疲れる。この間なんかお祈りだけに力んでしまい、目を開けた瞬間に途轍もない立ち眩みに襲われてしまった。結局、向こうから一方的に囁き続けるだけで、こちらからのメッセージは何も伝わらなかったのだが。

 僕はお賽銭をしようと、ポケットに入っている財布に手を伸ばす。しかし、そこに財布がないことに気付き、慌てふためく。

「あれ・・・風香ちゃん、僕の長財布見てない?」

「え、見てませんけど?」

「ヤバい、落としたか!?」

 僕は神社の境内から喫茶店までの道を走って戻る。道中、財布は落ちていなかった。誰かに拾われたかなぁ。そのときは観念しよう。中にクレジットカードとかは入ってないし、盗られて困るようなものはない。最後の望みを駆けて、喫茶店に駆け込んだ。

「いらっしゃ・・・あれ、雅治さん、どうしたんですか?そんなに息切れして・・・」

「あ、ああ、忘れ物しちゃったんだけど、届いてない?」

「忘れ物、何をですか?」

「財布なんだけど・・・」

「ちょっと待ってくださいね。」

 無駄に走りまくったせいで、無駄に息が切れてしまった。カウンターにもたれかかりながら店内を見渡す。仕事前の朝食をとっている人が、ちらほらいるくらいだった。

 その中に、存在を消そうとしているけど消しきれていない人影がいた。その人影はコーヒーカップに口をつけ、俯き加減にしているが、それがかえって目立っていた。僕はそれが誰かを素早く脳内ではじき出すと同時に、その人が座っているテーブルに向かって早足で歩み寄る。

「晴子?!お前、大丈夫なのかよ!?」

「ま、雅治?!今何時だと思ってるの!?7時半よ、7時半!」

「何、どういうこと!?」

「私、けじめをつけたくて、いつもより1時間ずらしてここに来てるっていうのに・・・」

「どういうことだかさっぱり分からない!つけるべきけじめなんてあるのか?」

「なかったらこんなことしてないわよ!」

 僕らの会話がヒートアップしているのを見かねたのか、控えめに見ていた汀ちゃんが仲裁に入った。

「ああ、雅治さん、財布ありましたよ、これですか?」

「お、そうそう。ありがとうね。」

 汀ちゃんは僕の分のお冷も持ってきてくれた。僕も晴子の向かいにどっかりと腰を下ろす。まるで説教をする先生の気分だ。

「僕としては、避けられてるようで、すっごい気分が悪いんだけど。それに何?つけるべきけじめって。」

「あんたが一番よく知っているはずじゃない。」

「知らないよ。一方的に関係を断ち切りたいのなら、はっきりそう言えばいいだろ?」

「・・・・・・・・・・・・あんたは、どう思ってるわけ?」

「さっきからお前が言ってることがアバウトすぎて、何が何だか分からないよ。」

「そっちこそ、何で理解できないのよ?」

「僕はお前と感覚がリンクしてるわけじゃないだろ!?」

 再び激昂しているのを自覚し、二人ともため息をつく。

「・・・話しても無駄ね、仕事に戻ればいいじゃない。」

「ここで会ったが百年目だ、全部聞き出してやる。」

「好きにすればいいわ。」

「じゃあまずは状況を整理しよう。晴子はなぜ、6時半じゃなくて7時半に来るようになったんだ?」

「さっきも言ったでしょ?けじめだって。」

「何に対する?」

「どうしても私の口から言わせたい?あんた同様、思い出したくもないのに。」

「・・・嫌なら言わなくてもいい。僕だって同じこと考えてるから。」

「ご配慮いただきどうも。」

「じゃあ、僕を襲ったのは、なぜ?」

「・・・あんたを助けるため、って言って信じてくれるかしら?」

「・・・・・・はぁ?」

 予想外の発言に驚くとともに、疑いを通り越して怒りに達しようとしていた。冗談にも程がある。

「あんたがいた診療所の地下。あそこには行かない方がいいわよ。」

「何でそれを晴子に言われなきゃならないのさ?僕はあそこの所長だぞ?」

「得体の知れない化け物が眠っているのよ。特にあんたが覗いてた病室には、飛び切りおっかないのが。」

 それが見え透いた嘘であることはすぐに分かった。僕はあそこに立ち入り、すべてを見ている。隔離病棟のような空間には、牢獄のような部屋があり、僕が覗いた部屋以外からは物音はしなかった。しかも、物音がした部屋を覗くと、誰かが寝そべっているのが見え、機械につながれていた。おぞましい化け物がそんなところにいるはずがない。

「嘘つけ。得体の知れない化け物が、診療所の地下で、医療用の機械に繋がれて、コソコソしていられるわけがないだろ?」

「もちろん、生半可な仕掛けじゃああいつら(・・・・)を押さえ込むなんて不可能よ。だから特殊な仕掛けになっているのよ。見たでしょ?あの二重のロック。」

「ああ、なぜか内側だけ開いていたけどな。」

「あれは私の初歩的なミスだったの。でもあいつら(・・・・)はそんな初歩的なミスを、小さな隙を、あの暗がりの中から狙っているのよ。」

 聞いていて飽き飽きしてくる。言葉巧みな晴子だが、僕はそんな話には騙されない。もっとも、こんな大々的な嘘をよくも堂々とつけるなと、心底感心している。

「きっとあいつら(・・・・)は、今まさにこの瞬間にも、外に出ようと暗中模索しているに違いないわ。きっとひっそりしているのも気付かれないためによ。だから、命が惜しかったらあそこに入らないほうがいいわ。ひょっとしたら鍵を開けた瞬間にやられるかもしれない。」

「・・・・・・ふはははっ!」

 おかしすぎて、思わず笑ってしまった。片腹が痛い。

「な、何がおかしいのよ?」

「いや、馬鹿馬鹿しい話だなって。」

「・・・命が惜しくないの?」

「惜しいさ。惜しいけどさ、そんな在り来りな話があるか?」

「何を言ってるの?狂った?」

「狂ってるのはお前の方だろ?そんなにあそこに行ってほしくないのか?」

「だから言ってるでしょ?化け物がいるって。」

「仮に信じたとして、僕はその化け物がいる診療所で働かなければいけないの?」

「嫌なら辞めればいい話じゃない。」

「なら話は決まったな。僕はあそこの所長だ。当然あそこに入る権利がある。」

「本当に身の程知らずね。どうなっても知らないわよ?」

「自分でどうにかするよ。」

 ピークまでヒートアップした会話はここで一気にクールダウンした。晴子は運ばれてきた朝食を食べ、僕もチビチビとお冷をいただく。

「・・・で、最近どう?あの後、私がいなくて清々していただろうに。」

 数分の間を置いて晴子が口を開く。やはり嫌味っぽいことだった。

「いや。ずっとモヤモヤしてたよ。実際、晴子は僕を殴ったわけだし、僕だって晴子に切りかかった。ずっと・・・そのことばっかり。」

「・・・嘘ばっかり。」

「嘘じゃないよ。知らないかもしれないけど、僕って借りはちゃんと返すタイプの人間だよ?この間奢ってもらったお返しも済んでないから、何ともいえないけど。」

「ダメじゃない。」

「でも、いつかはちゃんと返す。今回のことも・・・」

「そ、それを言ったら私だって」

「晴子はいいよ。忘れてくれるなら。」

 絶対にそう言うと思っていたから、用意していた台詞ですぐに遮った。

「それを言ったら、雅治もいいよ。仮にもほら、命の恩人じゃない。」

「うん、『仮』じゃないけどね。」

「・・・まあ、そうなんだけど。」

「分かった。じゃあこうしよう。僕は晴子を助けて、晴子はこのことを忘れるだけ。お互い様だろ?」

「・・・え、全然お互い様じゃないじゃない。」

「そう?」

「医者やってるから言えるんだろうけど、命を助けることと過去の出来事を忘れることを天秤にかけたところで、結果は見え見えでしょ?当然のことながら前者が」

「逆に医者だから言わせてもらうけど、過去の出来事を忘れることだって、人の命を救うこと並みに大事だと思う。過去のしがらみに囚われてたら、前には進めないし、救える命も救えない。」

「・・・雅治?」

「医療ミスとか、論文の捏造なんて言葉がニュースでジャンジャン出回る世の中になったよな~。昔じゃ考えられないよ。晒される人間の身にもならずに、適当なことをほざいて世の中を惑わすだけで金稼ぎが出来るんだもんね、いい商売だよ、マスコミって。」

「・・・・・・さぞかし辛かったでしょうね。」

「当時はね。今は忘れられたから、幾分楽。」

「・・・全然忘れてないじゃない。」

「確かに、ほとんどありのままを話しちゃったけど。慣れればそんなもん。」

「・・・尊敬するわ、それ。」

「そう?ありがとう。」

 実際、過去の過ちや黒い疑惑について語るのも、昔に比べたらそれほど苦ではなかった。むしろありのままを打ち明けられたことで、ぶっちゃけ清々している。

「もう行かないと。仕事に遅れる。」

「そうね、診療所の所長が不在だなんて、言語道断よ。」

「はいはい・・・あ、そうだ。晴子、お前、その・・・腕は治ったのか?」

 聞いておいて聞かなければ良かったと後悔する。晴子は食事をする手を止め、黙って袖を捲り、右腕を見せる。包帯は取れていたが、生々しい細い切り傷が残っていた。

「・・・悪気はなかったんだ、ごめんね。」

「いいのよ。忘れる約束でしょ?」

「それは晴子の方だろ?」

「いいえ、雅治もよ。」

「・・・そう、分かった。じゃあね。」

「がんばって。」

 何だろう。こんなにスッキリした朝って、人生で初めてだ。朝だけで2回も汀ちゃんに「ありがとうございました!」と爽やかな笑顔を見せられたこともあるが、それとは関係ない、形容しがたい「何か」が、僕の背中を押してくれる。足取りも自然と軽くなり、診療所まで小走りで向かった。急がないと、清々しい一日に乗り遅れてしまいそうで、自然とその足は速くなっていった。


 雨降る森の奥深く。ぬかるんだ土を蹴る蹄の音さえも、雨音と雷鳴にかき消される。

 こんな日は狩猟どころじゃないし、捗るはずもない。家路を急ぎつつ、雨宿りが出来ないかと、泥濘に足を取られそうになりながら、森の中を駆け抜ける。

 その最中、遠くの茂みの向こうに、白く輝く巨体が蠢いているのが見えた。雨宿り場所を探すのも大事だが、こんな土砂降りの中にいるのも気になるので、素早くそこまで駆けていく。

 近くまで寄ると、ペガサスが横たわってもがいていた。俺は躊躇うことなく、その許に歩み寄る。

「どうした?動けないのか?」

 特に興奮した様子は見せないペガサス。しかし、散々暴れたのかその体には生々しいかすり傷が多い。ざっと全体を見回してみたが、トラップのようなものにかかっている様子ではない。じゃあどこがおかしいのだろうか?注意してみると、片方の翼と後ろ足が歪に折れ曲がっていることに気付いた。これではいくらなんでも空を飛ぶことはおろか、立っていることも難しいだろう。

「ちょっと待ってろ。」

 その場を離れ、太く長い木の棒と蔓を寄せ集め、倒れているペガサスの許に戻る。そして、翼と足の折れた箇所に添え木をし、蔓できつく縛る。

「よし。これで大丈夫だ。しばらくじっとしてろ。」

「・・・うっ、あぁ・・・ありがとう。助かるよ。」

「お前・・・言葉が分かるのか?」

「うん、少しはね。」

「まあ、礼には及ばない。先ほども言ったが、しばらく横になっていろ。」

「・・・あなた、お名前は?」

「・・・ケンタウロスと呼んでくれ。」

「覚えておくよ、僕はペガサス。」

 自己紹介の後、ペガサスがもぞもぞと起き上がろうとした。

「聞いてなかったのか?横になってろと言ったはずだ。それとも急ぎの用でもあるのか?」

「ああ・・・主が、待っているから。」

「ダメだ。まずは自分の身が優先だろ。」

「僕の体なんて・・・どうでもいいんです。主のためなら。」

「自分の身を省みるんだな。言うべきことは言った。あとはお前の自由だ。」

「・・・こんなはしたない僕のために、いろいろとありがとう。じゃあ、もう少し横になってからにするよ。」

「では、機会があったらその時に。失敬する。」

 踵を返して雨の中を走り始める。

 ぶっちゃけあのボロボロの体で無茶をされては、骨折の処置も水の泡なのだが、とりあえず言うべきことは言ったつもりだし、あとは彼自身に任せるしかないと思った。


 昼前。神社や灯台目当ての、数少ない観光客に紛れて、その人影はあった。途中から住宅街へ伸びる道に入り、「本山」の表札のある家の門を開け、鍵を開けて家の中に入る。

 満月はこの日、深夜勤明けだった。食材の入った買い物袋を台所に置き、愛用のトートバッグをテーブルに放る。

 食材とは言っても冷凍食品やパックに入った惣菜など簡単なもの。料理をする気力が出ないほど、疲弊しきっていたのだ。

 ダイニングテーブルに着き、頬杖をついただけで眠くなる。電子レンジのピーッという音ではっと目を覚まし、そそくさと簡単な朝食を流し込む。この後、洗濯や掃除などをしなければいけないので、寝ている場合じゃないと思いつつ、コーヒーを片手に朝のテレビ番組を見る。この時間帯は、朝のニュース番組が終わり、昼間のバラエティー番組へと移ってしまっている時間だ。俳優やお笑い芸人たちの馴れ合いを見るもの、眠気覚ましにはちょうどよかった。

 まだ遅めの朝食の余韻に浸っていたときだった。インターホンの音が鳴ったので、外の様子を映し出すモニターを見に行く。しかし、そこに映っていた、宅配便の人でも、訪問販売の人でもなかった。

「はい?」

「・・・ぁ、あのぅ、トイレ、お借りしてもいいですか?」

 真っ赤な長い髪を纏った若い女性。前かがみになっていかにも緊急事態という感じだ。観光客だろうか?この辺には観光名所と思しきものはほとんどないが、トイレもないし、急な腹痛で我慢が出来ない気分は分からなくもない。

「ああ、分かりました。門は開いてるので、入ってきてください。」

 モニターの映像を消し、入ってくるときにかけた玄関の鍵を開け、ドアを開ける。すると、さっき門の外に立っていた女性は、お腹を押さえながらその場にうずくまっていた。

「大丈夫ですか!?」

 満月は女性の許に駆け寄り、肩を貸して家の中に入れる。

「うぅっ・・・」

 突然女性は、お腹を押さえている手の片方で口元を塞いだ。トイレのドアを開けてあげると、女性は便器の前でひざまずき、便器の中に顔を突っ込んで激しく嘔吐した。

「き、救急車、呼びます?」

 女性は苦しそうに唸ってばかりで、お腹を押さえてうずくまったと思えば、便器の中に吐いての繰り返しだった。私は返事を聞かずにその場を離れ、玄関にある子機を掴んで119をダイヤルした。


 静かな月夜。

 ベッドに横になっていると、突然開けっ放しの窓の外から騒々しい物音と叫び声が聞こえてきた。窓の外のバルコニーに立つと、城門の辺りに衛兵が固まっていた。そのほとんどが武器や盾を構え、物々しい雰囲気だった。

 バタバタと背後にある入り口ドアの向こう側も騒がしくなる。ドアを開けると、衛兵が何人か走り抜けていく。

「何があったのですか!?」

「ぁ、セレネー様、お休み中申し訳ございません。城門付近にキマイラが迫ってきているという情報がありましたので、警備を強化している次第です。」

「またですか・・・この間も獅子が来たばかりですよね?」

「はい、はっきりとした原因はまだ不明ですが・・・とにかく、我々は城門を固めに行きます。セレネー様はご安心してお休みになってください。」

「分かりました。くれぐれもお怪我のないように。お休みなさい。」

「御意。」

 部屋に戻り、再びベッドに潜り込むが、眠気はない。外が物騒だと言うのもあるが、それとは違う理由があるような気がする。

 息子のライカンスロープは相変わらずどこに行ったか分からないし、子供が一人もいなくなったと言っても過言ではない。

 私には何が残っているのだろうか?月を司る力を有しながら、他に何を求めているのだろうか?・・・自問したらキリがない。

 そういえば、先日訪ねてきたスサノオとウンディーネは元気にしているだろうか?あれ以来ここには来ていないから、無事に目的地にたどり着けたのだろう。

 私は・・・ひょっとしたらこの孤独に苛まれているのかもしれない。まあ、元はと言えば私が一人、この居城に篭ってしまったのがそもそも悪いのだが。一応伝手はあるので、文通してみるのも手かもしれない。

 まるで私の心が落ち着かないかのように、まだ城門の方から叫び声が聞こえてくる。私の心が休まるのは、一体いつのことなのだろうか・・・


 診療所に到着し、開院の準備を進めていると、水穂ちゃんから急患が来ると言われ、裏手に回った。

「海斗は何だって?」

「腹部の痛みと、嘔吐症状だって。」

「うーん、ありふれた病状だな、アッペかな?」

 アッペというのは、虫垂炎の略称。腹痛と吐き気という、ごくありふれた症状がある場合、僕らは虫垂炎を真っ先に疑う。精密検査で他の消化器疾患だったりすることもあるが、大抵は虫垂炎だ。既往歴が分からないが、患者の情報を聞く限り、若い女性なので、悪阻ではあるまいし、その辺が怪しいだろう。子宮外妊娠や卵巣炎だったらちょっと厄介だが。まともに産婦人科について学んだこともないし。

 やがて裏口の駐車場に救急車が入ってきて、海斗が運転席から素早く車の後ろに回り、ドアを開けて担架に乗せられた女性を運び出す。

「病院着きましたよ!」

 処置室に向かう最中、海斗にバイタル各種数値を報告してもらった。心拍数や血圧は至って普通。

「お腹見せてくださーい。ちょっと触りますよー。」

 虫垂炎の症状として、腹部を押したときの特徴的な鋭い痛みがある。腹膜炎を併発していればその症状も顕著に現れる。

「うぅっ!」

 やはり下腹部を押したときと離すときの特徴的な起伏のある痛みを感じるようだ。確定的になったが、適当な診察は出来ないし、もっと細かい検査が必要だ。

「ちょっと冷たいですが失礼しますねー。」

 エコーを使って腹腔内を探る。右下腹部にサーチャーを当てると、案の定、歪な形をした虫垂が見えた。

「あー、やっぱりアッペ、虫垂炎ですね。」

 エコーを片付け、搬送直後のドタバタが落ち着いたときに、処置台に寝かされた女性の横に座る。

「じゃあ、診断結果の報告からさせていただきたいのですが・・・その前に、お名前、もう一度おっしゃってもらえますか?」

「・・・平塚(ひらつか) 阿八女(あやめ)です。」

 ああ、これでアヤメって読むんだ。水穂ちゃんが保険証から名前を丸写ししたのだが、ルビが振ってなくて、僕としたことが、名前が読めなかった。

「えーっと、エコーで見た結果、お腹の右下、大腸の端っこの虫垂というところが炎症を起こしています。お腹が痛いのはこのせいです。ただ、治療法としては内視鏡から投薬、いろいろあるのですが、腹痛の症状が顕著に出てきているのであれば、腹膜炎も併発している可能性がありますので、手術で切っちゃう方法が手っ取り早くセーフティーなので、僕としては手術する方をお勧めしますが、阿八女さんとしては、何かご意見はありますか?ああ、アレルギーとか、今かかっている病気とかは?」

「・・・あの・・・私、妊娠してるんですけど、安全ですか・・・?」

「えっ!?」

 予想外の既往歴に大目玉を食らう。聞き捨てならない「妊娠」という言葉だけで、揺ぎ無いはずの診断方針が覆されようとしている。

「え、何かまずいことでも?」

「ああ、いや、そうなると話が変わってきちゃうんですよ。妊娠してどれくらいです?」

「悪阻があって検査したのが・・・先月なので。」

「一月か・・・だから外見じゃわからなかったのか。」

「・・・え、何か?」

「いえ、それならほとんど問題ないです。ただ、胎児の状態を考えると、やはり負担は大きくなりますが、薬剤による副作用や、再発・併発のリスクが少ない、手術での治療しか、お勧めできません。」

「え・・・」

 阿八女さんの表情が曇る。そりゃそうだ。僕だって緊急避難的な処置方法なら学んだが、こんな稀なケースで、先行きも思わしくない。

「胎児に対する危険性が必ずしも皆無というわけではありません。だとしたら、少しでも早く、リスクの低い方法で処置した方がいいと、僕は思います。」

「そう・・・ですか・・・・・・」

「同意さえいただければ、すぐにでも処置に移させていただこうと思います。虫垂炎の処置自体はそれほど困難なものではないですから。」

「・・・分かりました、お願いします。」

 言葉の端々に躊躇いが見られたが、何とか同意は得られたので、手術室へ運び、水穂ちゃんと菘さんを呼ぶ。

「緊急オペだって?」

「最近多いですよねー。ま、刺激的だから私は嫌いじゃないけど。」

「まあまあ。とりあえずカンファレンスやるよ。えーっと、阿八女さんの所見は、下腹部の鈍痛と吐き気。超音波エコーでアッペ、虫垂炎だと診断されたんだけど、既往歴を聞いたら妊娠していたらしいんだ。」

「「えっ!?」」

 二人とも目を丸くする。そのオーバーリアクションには、僕にも驚かされるものがあった。

「それで緊急手術っていう判断に至ったわけ?」

「大丈夫なの?」

「もちろんノーリスクハイリターンが通用するような症例じゃないってことは理解している。限りある選択肢の中から、僕なりにベストのメソッドを選んだつもりだし、僕自身ベストを尽くすつもりだよ。」

「「・・・・・・・・・・・・」」

「・・・僕一人じゃどうにもならないことがあるかもしれないから、そのときはフォローよろしくね。じゃ、始めようか。」

「そうね。」

「行きましょう!」

 僕と菘さんが着替えや消毒を済ませる間、水穂ちゃんは阿八女さんに麻酔をかけたり、道具を用意したりしてくれたので、セッティングはスムーズに終わった。

「準備できたね?では、急性虫垂炎に対する虫垂切除術を始めます、メス。」

「はい。」

 手渡されたメスで下腹部を切開する。傷跡が気になるだろうから、切開するのは5センチくらいに限定する。その下にある腹筋を電気メスで切開し、さらにその下の腹膜も切開すると、腹腔が露呈した。

「・・・ありゃりゃ、結構な膿だなぁ。」

 よほど虫垂炎が進行していたようだ。化膿して腹膜炎も併発していた。もう少し処置が遅れていたら、もっと手間取る手術になるところだっただろう。化膿している範囲も局所的だし、ドレーンで吸い取って視界をクリアにする。

「お、あったあった。」

 縮れた糸のようになっている虫垂を発見した。炎症が進んで大腸にへばり付く前に発見できてよかった。

 ここから虫垂に繋がる血管を糸で縛って血流を止め、さらに虫垂を根元から縛って切り取る。必要な所作はこれだけ。

 昔から手先は不器用だが、それゆえ縫合の練習だけはがんばってきたので、慣れた手つきで虫垂を縛っていく。そして先の尖ったメスを受け取り、虫垂を根元から切除する。

「よし、こんなもんかな。」

 開腹したところを縫い合わせて、手術は無事終了した。

「虫垂切除術、終了しました。」

 向かいにいる菘さんがほっと一息つく。水穂ちゃんは拍手を送ってくれた。

「お疲れ様!あとはやっておくから、二人とも休んできたら?」

「じゃあ、お言葉に甘えて。」

「お願いね。」

 僕と菘さんは先に手術室を後にし、白衣に着替えなおして、誰もいない処置室で一休みする。

「こんなレアケースに出くわすとはね。ちょっと面食らったな。」

「妊娠中って言ってたわよね?虫垂が化膿して腹膜炎を起こしていたけど、赤ちゃんは大丈夫かしら?」

「さあ・・・術野狭かったけど、穿孔してなかったし、再発さえしなければ問題ないと思うけど?」

「そうだけど・・・」

「万が一何かあったら、ということも視野には入れてるよ。今は様子を見よう。」

「・・・・・・そうね。」

「・・・あ!午前中の外来の時間、もう始まってるし!急いで準備しないと!」

「あ、本当ね。じゃあ、私受付やるから、早くスタンバイして。」

 手術時間は1時間弱だったが、午前の外来受付の時間を過ぎている。今日も朝から慌しくなりそうだ。


 ズバシュッ!

 血しぶきを撒き散らしながら、体をくねらせて大蛇が倒れこむ。

「・・・セレネー様、到着が遅くなり申し訳ございません!お怪我は!?」

「大丈夫です。伊達に剣術を学んでいたわけではありませんわ。」

「そうですか。ご無事で何よりです。」

 これで何回目だろう。気付けば連夜の如く、獅子や犬のような化け物が城の近くをうろつくようになってきた。

 こんなことは今までなかった。だから、化け物がいないうちに、城内の書斎にある様々な文献を探ってみた。このような魔獣が出てくる在り処、またその所以を調べるためだ。

 気が遠くなるのを実感した。ただでさえ数の多い図書の中から、一握りの資料を見つけ出すことで苦労するのに、最初のうちはほとんど当て外れなことが多いのだ。

 その努力が実を結んだのも、ついさっきだ。この大蛇、ヒュドラが来る前、やっとのことである事典を見つけた。魔獣について書かれて図鑑のようなものなのだが、その中に、やっとのことで、先日の獅子の詳細なデータが載っていたのだ。

 そして調べるうちに、その前に現れた怪物などの詳細なデータも見つかった。驚いたのが、それらがある共通項を持っていることだった。

「・・・さてと、誰か馬車を回してくれませんか?行きたいところがあります。」

「承知しました。すぐ参ります。」

 衛兵たちは素早く馬車を用意してくれた。

「南のペロポネソスまでお願いします。」

 馬車に乗り込むと、勢いよく城を発った。森の中を駆け抜け、途中から海岸沿いの道に出て、細長い海の上の道を跨ぐと、ペロポネソスの地に着く。半島状になったペロポネソスの中央部に聳え立つ山アルカディア、その中腹にちっぽけな小屋が建っていて、馬車をその前で止めた。

「・・・ここで待っていてください。いるといいのですが。」

 小屋のほうにゆっくりと歩み寄る。番犬と思われる双頭の犬がいて気味が悪いが、何とかやり過ごして玄関ドアまでたどり着き、ドアをノックする。

「はい、どちらさまでしょうか?」

「月の女神のセレネーと申します。」

「少々お待ちください。」

 鍵が開き、ドアがゆっくりと音を立てて開く。現れたのは赤い髪をした美女。しかし下半身は蛇だった。

「・・・初めまして、セレネー。」

「初めまして・・・エキドナ。」

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