5.Definition of happiness(幸せの定義)
・・・宿直室に差し込む、暖かい春の朝日。詩的に表現すればそうなるのだが、ゆっくり寝たかった僕にとっては安眠妨害以外の何物でもない。
時計を見ると朝の6時になっていた。診察が始まるまでもう少し時間がある。
僕はベッドから身を起こすと、正面入り口に向かう。ドアにかけられていた鍵を開け、公民館の表玄関から外に出た。
日本海側の春先の朝って、本当に寒いんだなぁ。こういうときは、大人しく診療所で新聞でも読んでいようと、踵を返して戻ろうとしたときだった。
「・・・宮崎雅治さん。」
その声質に一瞬たじろぐ。振り返ると、カジュアルな格好をした晴子さんがいた。
「おはようございます、神村村長。」
ちょっとした茶化しを混ぜて、あえてそう言った。
「余所余所しいわよ、名前で呼んで。」
「・・・おはよう、晴子。何してたの?」
「それはこっちが聞きたいわね。毎朝村を一周散歩するのが日課の私でも、こんな朝っぱらからあなたに会うとは思ってもみなかったわ。」
「・・・帰ろうにも帰れないから、ここに泊まってた。ついでに宿直。」
「出雲へ抜ける一本道、復旧のメドは立ってないみたいね。まるであなたの車みたい。」
確かに、この村には修理できそうな場所はないし、道が通れないと車も直せない。くそ、嫌味ったらしいことばっかり言いやがって。
「茶々のつもりなら僕は戻るよ。ここで無駄話をしてたって寒いだけだし。」
「あら、そう。朝食でも一緒にいかがかと、誘おうと思ったのに。」
絶対にそうは思っていない。朝食はどうしようかと迷っていたのは事実だが、それを見抜いたわけではない、きっと出任せだろう。
「奢ってくれる?」
「もちろん。」
一瞬躊躇したが、この村にいる限り、敵は作らないほうがいいだろう、ましてや相手はこの村の村長なんだから、と判断し、晴子の誘いに乗った。
僕は晴子と一緒に、村の中を歩き始めた。
「毎朝、同じ風景を見て、つまらなくない?」
「そんなことないわよ。毎日毎日、微妙に違うところがあるの。あなたの東京での通勤風景が思いやられるわ。」
ムカつく奴・・・
「そういえば、まだ聞いてないことがあったわね。」
「は?」
「どうかしら?東京からこの村に来た感想は。」
「どうかしらって言われても・・・暮らす分には苦労しないよ。入ったきり出られないでいるけど。」
「だいぶアバウトね。」
「当たり前だろ。まだ3日しかいないんだ。」
「このままずっと居座る気?」
「嫌か?」
「・・・・・・そうは言ってない。」
「職場がここだからな、出雲からじゃ遠いし燃料費とかかかるし。将来的には、晴子が嫌でもここの住民になるつもりだよ。」
「・・・素敵なチャレンジ精神ね。」
「お蔭様で。」
その後も冷やかし混じりの会話が続き、いつしか高徳院の喫茶店にたどり着いていた。ドアを開けるとカウベルが鳴り、「いらっしゃいませ」と女性店員が声をかけてくる。2人掛けのテーブルに案内され、女性店員がお冷とメニューを持ってくる。
「おはようございます。こちらがモーニングメニューになります。」
「ありがとう。」
僕は洋風の定食を選んだ。女性店員にそれを注文する。晴子は何を頼んだのかというと、ただ短く「いつものをお願い」といったのだ。
「常連なの?」
「一応、ここに来たときから贔屓にさせてもらってるわ。真っ当な喫茶店って言ったら、村内じゃあここくらいしかないからね。」
「ふーん・・・」
「・・・何よ?」
「思った以上に便利な村だな、って。」
「・・・・・・」
それ以降、料理を平らげるまで、一言も交わさなかった。
いつもの、というのも、僕と似たようなモーニングセットだった。
しばらく気まずい時間が経つ。突如としてポケットに入っている携帯電話が鳴り出す。
「着信中 雨宮水穂」
水穂ちゃんからだ。まだ朝の7時だってのに、朝から仕事熱心だな。
「もしもし?」
「・・・あ、雅治君、生きてた!失踪したかと思った!」
「生きてます。失踪もしてません!」
「よかった。あ、朝ごはんはどうしたの?」
「・・・喫茶店で食べてる。」
「あ、そうなんだ!じゃあ、終わったら戻ってきてね。」
「あいよ~。」
電話を切ると、晴子が凝視していて驚いた。
「・・・何だよ、まずいことでも言った?」
「いや、素直じゃないのね、って思っただけ。」
「・・・・・・」
「私と一緒に朝ごはんを食べてることが、そんなに後ろめたい?」
「そんなことないよ。こっちは来てばっかりで心細いんだから。」
「・・・何のしがらみもないってこと?」
「何でそうなるかなぁ・・・照れ隠し?」
「何言ってるのよ・・・急がないと置いてくわよ?」
「はいはい。借りができたから、次は奢るよ。」
そそくさと立ち去ろうとする晴子を追いかけ、揃って喫茶店を出た。外は先ほどと比べたら人通りも多くなってきた。今日も一日が始まる。
さっきまで目の前にあったはずの温もりが、嘘のように消え失せていた。洞穴の入り口から吹き込んでくる冷たい風に身震いし、目を覚ます。
ライカンスロープの姿はなかった。どこかに出かけているのだろうか。まあ、また何かあったら、ここの穴に戻ってくる話になってるから、とりあえず俺もここから出よう。
外は霧が出ていたが、雨は止んでいる。今のうちにと思い、背中から生えた翼をはためかせ、宙に舞い、樹木の上に顔を出す。
「きゃっ!?」
「うわ?!」
横から飛んできた物体とぶつかった。
「いてててて・・・」
「ご、ごめんなさい!怪我してないですか!?」
痛みを堪えて目を開くと、そこにいたのは・・・人面鳥、とでもいうのだろうか。胴体と顔は人間なのだが、毛深い翼が生えていて、足も鳥のような鉤爪状だ。
「ああ、俺は大丈夫だけど・・・お前は?」
「私は全然!本当にごめんなさい!」
「いやいや、俺も全然大丈夫だから!」
そんな感じのやり取りの後、お互いに向かい合って、笑った。
「あなた、悪魔?」
「・・・正確には淫魔だけど。」
「結構、優しいんだね。」
「よく言われるけどね。」
「そう。さっきはごめんなさいね。じゃ、私はこれで。ごきげんよう!」
「あ、ちょっと待って!・・・えーと。」
そのまま言ってしまいそうだったので、本能的に呼び止めてしまった。どうしても言っておきたいことがあったのだ。
「ハーピー、って呼んで。」
「ハーピー、俺はインキュバスだ。霧が濃いから、気をつけろよ。」
「あなたもね!」
満面の笑みを見せて、深い霧の中に消えていった。
不思議とすっきりした気分だった。勢いよく樹林から飛び出したのは俺のほうなのに、執拗といっていいくらい謝ってきた。それにあの子、ハーピーは結構可愛かったし、その上名前まで教えてくれるなんて!
帰ったらサキュバスに嫉妬されるかもしれないが、ここに来ただけで知り合いが2人もできた。自然とその足取り・・・いや、翼取り?は軽くなっていた。
しばらくは山などの特徴的な物を目印に飛んでいたが、途中から霧がさらに濃くなって、遠くの物が見えなくなっていた。闇雲に飛んでいても迷うが、ここがどこなのかも分からない。とりあえず、目ぼしい物があるところまで飛んでみよう。
・・・どのくらい飛んだだろうか。眼下に広がる森林。前後左右は真っ白の霧で何も見えない。そんな中でどこかから雄叫びのような叫び声が聞こえてきたら、自然と警戒心と研ぎ澄ませてしまう。何がどこにいるのか分からない中、聴覚に頼るのは普通だろう。
その折、真下からどす黒い飛行物体が、目の前を横切った。目の前は本当に目の前、目と鼻の先だった。
「うぉぁっ!?」
ぶつかりそうになったので慌てて仰け反る。体勢を崩してしまい、墜落しそうになった。
「おい、気をつけ」
「あら、失礼。大丈夫?」
さっきとは違う、おぞましさを含んだ声。やがて視界の隅から、黒い物体の頭がぬうっと覗いてくる。そいつは・・・ドラゴンだった。
「え、ええ、大丈夫ですっ。」
俺は完全に気圧されている。意図的に凄んでいるわけではないのだろうが、外見と威圧感だけで萎縮してしまう。
「あの、あなたは、大丈夫なんですか?」
「・・・さっきから誰に話しかけてるの?私はこっちよ。」
「えっ。」
ドラゴンの上に、女の人がいた。それでもあまり、いい気はしなかった。
「お構いなく。私もこいつも無事よ。そんなひ弱じゃ、女神は務まらないから。」
「め、女神!?」
「・・・存じないの?私はティアマト、すべての物の母と呼ばれし者よ。」
「すべての・・・母?」
「あら、その様子は本当に初耳のようね。まあいいわ。世界っていうのがいかに広いか分かるし。」
「・・・・・・」
「驚かせてすまなかったわね。じゃ、急いでいるので失礼するわね。」
女神ティアマトの乗ったドラゴンは、踵を返して飛び去っていった。
何だったんだろう、今の。
道中、色々と駄弁ってから、晴子と別れ、診療所に戻った。既に水穂ちゃんが来ていたが、菘さんの姿がない。
「あ、雅治さん、お帰りなさい!」
「おはよう、水穂ちゃん。菘さんは?」
「まだ来ませんよ?8時前には来ると思いますけど。」
「あっ、そう。じゃあ、診療開始前だし、回診行ってくるわ。」
「分かりました!」
白衣に素早く着替え、ポケットにあるものをねじ込んで、2階へ上がる。ネームプレートがある病室は1つだけ。そこに「本山 満」、「飯田 伴夜」と書いてある。
ドアを開けると、外から暖かい日差しが差し込んでいて、鳥のさえずりが聞こえるほど静かだった。何をしているんだろう、と思い、満のベッドのカーテンを開ける。
「みつ・・・る?」
予想外の光景が広がっていた。1つのベッドの上で、満と伴夜が寄り添うように寝ていたのだ。
「・・・・・・フッ。」
容姿は全然違うから兄弟には見えないし、あっち系の関係だとは思いたくない。僕の中では「大親友」ということにしておこう。とにかく、これでは回診もヘッタクレもないので、カーテンを一気に開けて、太陽光を直に浴びせる。
「おい、起きろー!」
やがて二人とももぞもぞと起きる。しかし、別に照れた様子はなく、3人で「おはよー」と挨拶する。そして、胸に聴診器を当てたり問診をしたりして、回診は終わった。
「よし、じゃあ二人とも、仲良く退院できるぞー!」
「やったー!」
「よっしゃあ!」
二人は肩を抱き合って喜んだ。僕はそれを見ただけで、つられて笑ってしまう。本当に仲がいいんだな。
「雅治さん、ありがとうございました!」
「困ったときは、また来ますね。」
「うん・・・あ、満、ちょっと待って!」
「何ですか?」
「これ、忘れ物。」
僕はポケットに突っ込んでいたネックレスを差し出した。
「あの夜、忘れてっただろ?」
「ああ、探してたんすよ~、よかった~!」
「喜んでもらえて何より。じゃあ二人とも、お大事に!」
公民館の玄関先まで見送った。ここに運ばれてきたのが嘘のように、二人とも元気に走っていった。僕はそれを見てちょっと感傷的になる。・・・危ねぇ、泣きそうだ・・・
「さっ、仕事仕事。」
診療所に戻ると、水穂ちゃんが誰かと電話をしていた。
「・・・はい、その通りです。はい・・・いいえ、とんでもないです~!はい、よろしくお願いいたします!失礼しまーす!・・・あ、雅治さん、帰ってたんですか。」
「うん、実に泣けるシーンだったよ。まあ、それは置いといて、誰と電話してたの?」
「二人の通ってる高校です。退院したって報告だけ。」
「ああ、そういえば、今日は月曜日だったね。」
「そうですよ。」
「ちょっと思ったんだけどさ。」
「何でしょう?」
「ここって定休日はないの?」
「基本的にないですよ!」
「ええ~っ!?」
「強いて言えば、年末年始、年度の終わりと始まり、お盆休みの期間くらいは休みです。」
「・・・とほほ。労基法によく引っかからないな。」
「あっははは!当直勤務なんて残業みたいなものだからね!」
「ま、この村にいるからには、それくらい愚痴らずにやらないとな。」
「頑張ってね!」
「君もね。」
そんなやり取りをしながら、朝の準備を進めた。その最中、入り口のドアがノックされ、誰かが入ってきた。
「おはようございまーす!」
「魅鳥ちゃん、おはよー!」
「雅治さん、いますかー?お手紙でーす!」
「あ、僕なら、ここにいるよ。」
「おはようございます、雅治さん!今日もいい朝ですね!はい、雅治さん宛ての郵便です。」
「ありがとう。ここに来て早々お手紙とは、嬉しいね。」
「雅治さんが村に馴染んできた証拠ですよ!もはや不可欠な存在ですから!」
「あはは!そう言ってもらえて嬉しいよ!」
「はい、じゃ、私は失礼しますね!」
「あ、魅鳥ちゃん、ちょっと待って!」
「はい、何でしょう?」
「この間は、ありがとうね。」
「え?」
「ほら、僕が事故った時。」
「・・・ああ、いや、ご無事でよかったです。」
「今度、何かお礼でもさせてよ。」
「いえ、とんでもないです!私は当然のことをしただけですよ!」
「いやぁ、感謝してもしきれないよ。じゃあせめて、連絡先だけ教えて。」
「あ、はい、分かりました!」
この間郵便局に行ったときにもらった名刺には、郵便局の電話番号しか書いていなかった。だから僕は魅鳥ちゃんの携帯電話の番号とメールアドレスを教えてもらった。これでここの村に来て3人目だ。
「日中と深夜以外なら基本的にいつでも繋がりますので。」
「ありがとう。また連絡するよ。」
「分かりました。失礼します!」
最後まで満面の笑みを絶やすことなく、魅鳥ちゃんは診療所を後にした。
「・・・へぇ~、惚れられたんじゃないですかぁ?」
水穂ちゃんに一部始終を見られたが、不思議とスカッとした気分だった。
「いや~、学生時代にもメルアド交換したけど、こんなにドキドキしたのって、初めてだなぁ。」
「・・・単に女友達が少なかっただけなんじゃないですか?」
「そういうことは言わないの。とにかく、交友関係は広げるに越したことはないし、頑張らないと。」
「雅治さん、ファイトーっ!」
「一っぱああぁぁつッ!・・・じゃなくて。」
「あっははは!雅治さん、面白~い!」
「おはよう。朝から賑やかじゃない?」
「菘さん、おはよう。」
「おはようございます、菘さん!いや、ちょっと雅治さんが朝からハイテンションすぎるもので。」
「僕のせい?」
「まあ、明るく振舞うことは悪いことじゃないと思うわ。」
「・・・そ、そうですよね!」
とりあえず冷静に言われてしまったので、笑ってごまかす。菘さんは更衣室へ消えていった。
「・・・あっ、ヤベ、余裕ぶっこいてる場合じゃない。早く手紙を開けちゃわないと!」
時計を見ると、あと10分で受付開始の時間だった。外来患者はまだ一人も来ていないが、準備だけは万全にしておかないと。とりあえず、魅鳥ちゃんが届けてくれた手紙を持って、診察室に入る。
手紙は2通届いていた。1通は絵葉書で、差出人は「神村 晴子」。もう1通は、封筒に入った手紙で、差出人は「本山 満月」だった。
絵葉書は、都賀野にある灯台と、バックに移る日本海、それを鏡に映したような真っ青な空には、「ようこそ 社不知村へ」と書いてある。なるほど、越してきた新たな村民に渡すための絵葉書なのか。・・・ん?印刷の余白に何か書きなぐってある。どれどれ・・・
「啖呵切ったからには、いつかはこの村に来なさいよ」
何だ、これ。まだ、あのこと根に持ってるのかな。怖いなぁ・・・
封筒の表には「宮崎 雅治様」、裏には「本山 満月」と、彼女の住所が書いてあった。封筒のシールをはがして、中の手紙を引っ張り出す。罫線の引かれた、ノーマルな便箋に、大人びた文字がびっしりと書かれていた。
内容を要約すると、こんな感じ。
まずは、先日満が入院したことに関する感謝。そして満や本山家に関する弁明。それだけで20行はあった。結びは、再びお礼と、今後よろしくと、短くまとめられた。
本山家を取り巻く問題は複雑かつ大きい。本山夫妻は、20年前ほどに結婚し、16年前に息子の満が生まれる。しかし満が小学校に入る前から、夫婦喧嘩が絶えなかったそう。細かい理由には抵触しないことにする。その後、今から10年前ほどに夫妻は離婚。実は、その頃から、満の夜間外出が相次いでいたとのこと。要は夜間のプチ家出だ。おそらく夫婦喧嘩が夜に頻繁に起こったからなのだろう。物心もついていた年頃だろうし、現実逃避したくなる理由が分からなくもない。しかし、プチ家出は離婚後も相次いだそう。トラウマになってしまっているのではないか。それなら、この診療所に夜な夜な勉強しに来る理由として筋が通る。
となると、満がこの診療所に来る本当の理由が、勉強ではなく、その背後にチラチラと見え隠れする。夜中の徘徊癖も気になるし、それにあの銀製の十字架のついたネックレスは何なのだろう?謎解きのキーとなるアイテムであるのだろうか?
冷静に考えれば、この大きすぎる問題を解決するには、鍵が少なすぎる。時間をかければ鍵が見つかるかもしれないが、時間切れになることを恐れていたりもする。医者という職業柄、時間には特に気を使うからだ。
読み終えた手紙を自分のバッグの中にしまう。受付から、水穂ちゃんの「受付開始しますが、大丈夫ですかー?」との問いに「いいよ!」と答える。今日も忙しそうで暇な一日が始まるのか・・・
「おかしいなぁ・・・この辺なんだけど。」
俺がさっきから探し回っているのは、この間狼男のライカンスロープと出会った洞穴だ。分かりやすいように、鹿の頭を目印にしたのだが、それっぽいものは見つからないし、他にも洞穴がたくさんあって、埒が明かない。たまたまライカンスロープがいないだけと考えもしたが、いつまで経っても気配すらないので、そろそろ嫌になってきた。
「・・・うっ!」
突然身を切るような冷たい風が、森の中を吹き抜ける。あまりの寒さに一瞬目を瞑る。やがて風が止み、目を開けると、さっきまでそこにいなかった、翼の生えた女が、目と鼻の先で浮かんでいた。俺はそいつに見覚えがある。
「お困りですか、インキュバスさん?私でよければお手伝いしましょう。」
「・・・シルフィードか。いや、この辺に鹿の頭がなかったか?」
「さあ。私は拝見しておりませんわ。」
「まさかお前、風で吹き飛ばしたりしてないよな?」
「滅相もございません。そんなものを飛ばしたところでどうにもなりませんわ。」
「・・・そうだよな。」
「ひょっとしたらゴブリンの仕業じゃないでしょうか?この辺りでよく見かけますし、悪知恵が働くらしいですから。」
「それって言い逃れじゃないよな?」
「滅相もない。」
「・・・あっ、そう。」
「何か分かったら、また来ますね。それじゃ。」
「おう。」
再び回りにつむじ風を起こして、瞬く間にシルフィードは姿を消した。
ある意味で煙に巻かれた気もするが、疑心暗鬼になってもしょうがない。また出直すか。
「やっと終わったー!」
時計の針が、外来受付の終了時間を告げる。終了間際に誰か来るんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、無駄な心配だった。
「お疲れー!コーヒー飲む?」
「うん、お願い。」
水穂ちゃんが店じまいをし、淹れたてのコーヒーを出してくれる。別段疲れているわけではないが、仕事上がりのコーヒーというのはおいしいものだ。
「こんちは~。」
「おっ、満、元気してた?」
「おかげさまで。」
「今日もお勉強?面接室なら空いてるよ。菘さんがいるかもしれないけど。」
「ああ、大丈夫。むしろいろいろ教えてもらってるから、助かるよ!」
満はそういうと、奥の面接室に消えていった。僕はコーヒーを飲み干すと、「建物の見回り」と豪語して、誰もいない2階に上る。照明を消すとお化けくらいは出てきそうな不気味さが漂う。
結局、病棟には不審者もいないし、壁にもヒビとかは入っていない。改修とかって、思いの外最近行われたようだ。だから待合室も綺麗だし、病棟も照明さえあれば明るく暖かく感じるのか。
階段を下りると、すぐ近くの面接室からは、菘さんと満の楽しげな会話が聞こえ、裏口の急患受付からは水穂ちゃんの鼻歌が聞こえてくる。事務作業も鼻歌で気分を上げればいくらでもこなせるのだろうか。
誰にも見られていないということに気付き、不思議な高揚感に包まれた。今なら鍵のかかった階下のドアを開けることができるかもしれない。もちろんピッキングの道具もないし、力ずくで開けたら気付かれる。鍵をかけるくらいだから、おそらく僕には、というか普通一般の人間には知られたくないのだろう。せめて、ここの所長なんだから、僕にこの先に行かせてほしいものだ。
胸ポケットにシャープペンが入っている。芯を支える金属の部分だけ出して、鍵穴に突っ込む。もちろん長さが足りないし、闇雲にねじくり回しても開くはずがない。
でも鍵穴の形は読める。所々の凹凸にシャープペンの金属部分が引っかかる。作りは近代的だし、合鍵くらいなら簡単に作れるだろう。
カチャカチャという音を聞かれないか不安になりながら作業を続けていると、横にある急患受付から電話の呼び出し音が鳴りだし、心臓が飛び上がった。僕ってそんな疚しいことをしてたのか!?
「はい、社不知診療所です。・・・CPA?悠馬君が!?」
CPAという単語に素早く反応した。即ち心肺停止を意味するが、悠馬に一体何があったんだろうか?
「・・・分かった、こっちはいつでもOKだから!何かあったらまた連絡して!」
「悠馬に何かあったの?」
位置的に反対側の面接室から満が出てくる。
「えっ、知り合い?」
「同級生だけど・・・」
世の中って狭いんだなって、改めて実感。
「CPAなのは本当?」
「うん、海斗がそう言ってた。」
「どうしたんだろう。」
右往左往していたって仕方がない。悠馬のカルテを引っ張り出して、既往歴や問診などのデータを見る。でも、前にこのカルテを見たときに、懐疑的な点は見当たらなかったはずだけど・・・
菘さんも面接室から出てきて、「私も手伝う」と言った。3人寄れば文殊の知恵・・・って前にも考えたことあったっけ?
やがて救急車のサイレンとパトライトの明かりが近づいてきた。これらを見聞きするのは、この村に来て早くも2回目だ。しかし今回は、前回とは違って、甲高い女の人の声が聞こえてくる。何かを必死に泣き叫んでいるようだ。
「悠馬君、しっかりして!」
声の主は宝ちゃんだった。仲良しこよしとはいえ、病変のときも傍にいたとは。
「こっちに運んで。CPAから何分経った?」
「分からない、最低4分!一応心拍だけは再開してる!」
処置室に運ばれてきた悠馬の変わり果てた姿は、この間リハビリに来たときのそれとは全く違った。青白くなった肌。口から管を入れられている。
上半身を裸にして胸の音を聞こうとした。おお、こいつもすごい筋肉・・・じゃなくて、管を通して空気を送り込んでも、片方の肺から音が全く聞こえてこない。
「悠馬!?大丈夫なのかよ!?」
「満、宝ちゃんを連れて、外で待ってて。・・・エコーってどこ?」
「そっちの棚の上!」
菘さんに指差された場所を弄ると・・・あった。僕がセッティングを終える頃には、菘さんは心臓マッサージを始め、水穂ちゃんは点滴を、海斗は必要な道具の用意を手伝っていた。
菘さんの脇にしゃがみ、悠馬の胸にエコーのサーチャーを当てる。左手にモニターを持ち、右手でエコーのサーチャーを持って右胸の辺りを探る。すると、ある一点で、不可思議なものを見つけた。
「ここにある塊はなんだ?」
「塊?どれ?」
海斗が覗き込む。エコーのサーチャーが当たっているのは、胸のほぼ真ん中。モニターには、そこには普通は存在しない塊が映っていた。
「何だろーな、これ。」
「水穂ちゃん、心電図はどう?」
「えーっと、至って普通・・・あれ?何かおかしいな?」
「海斗、ちょっとこれ、このまま持ってて。水穂ちゃん、どこがおかしいの?」
僕は立ち上がって心電図モニターを見に行った。
「ほら、ここ。」
確かに、指差したところの波形が乱れていた。こんな特徴的な心電図の乱れがある疾患って・・・
「雅治、これって、血栓に見えねーか?」
海斗も気付いたようだ。僕は、ここでやっと疾患を特定した。
「悠馬って、骨折してから長い間寝たきりだったろ?ひょっとしたら、足を動かさなかったから、血が固まって血栓ができて、体を動かした拍子にそれが飛んで、肺で塞栓を起こしてるんじゃないかな?」
「でも、この間普通に病院まで来てたでしょ?雅治さんだって、彼のリハビリに付き合ってたじゃない!?」
「あれから大分時間も経ってるし、また寝たきりだったら、血栓ができてもおかしくはないんじゃないの?」
「とにかく、血栓を何とかしないと!」
処置方法については一応勉強したが、この診療所に必要な設備があるのかどうかは甚だ疑問だ。
「この診療所って、ウロキナーゼとかはある?」
「血栓溶解剤?うちにはないよ!」
「じゃあカテーテルは?」
「それもない。」
「カテも駄目か・・・」
「どうするの?」
「となると・・・開胸して直接抜き取るしかないな。呼吸不全が続くのなら、薬剤投与よりも手術で取っちゃうほうが早いと思うし。」
「じゃあ善は急げね。私、麻酔の用意、してくる!」
「菘さん、人工心肺はある?」
「あるにはあるけど・・・」
「血栓が詰まってる限り、呼吸再開までCPRしてても埒が明かないし、疲れるだけだよ。念のため、それを用意しておこう。」
「分かったわ。」
汗だくになっていた菘さんの代わりに、海斗が手術道具を用意しておいてくれた。僕は海斗に礼を言い、後は任せて消防署に戻るように言った。
ここに来て初めて手術用の作業服に着替える。大学病院で何度も袖を通したが、新天地での手術はやはり緊張する。それでもここまでのセッティングに1分もかからなかった。心肺停止になってからは時間との戦いだ。
「雅治さん、こっちは準備できました。」
「よし、じゃあ・・・緊急オペ、開始します。メスください。」
「はい。」
水穂ちゃんが器具渡しと各種モニターの監視、菘さんが助手を勤める。
僕は水穂ちゃんからメスを受け取ると、手馴れた手つきでズブズブと胸を切開していく。続いて、筋膜、肋骨、胸膜を手際よく切開していく。最後に心臓を覆っている心膜を切開し、心臓が露になった。その動きは弱々しい。
「すごい、ここまで3分足らずなんて・・・!」
「・・・じゃあ、人工心肺につなげようか。」
照れ隠しからか、手元が急に覚束なくなってきた。何とか循環機能を人工心肺に移行し、落ち着いて作業ができるようになった。
「じゃあ、さっさと取って終わらせちゃいましょう。菘さん、術野広げてもらっていい?」
「分かったわ。」
視界が広がり、右の肺が見えてきた。そこにえげつないものがあった。
「・・・ここだ。」
「何、これ・・・」
肺動脈の肺側の付け根に、大きな瘤が見えた。症状が違ったら動脈瘤と勘違いしていただろう。とりあえず、ここが問題の箇所か。こんなに詰まっていたら、あともう少し放置していたら危険だっただろう。
循環機能は既に人工心肺に移しているが、このまま肺動脈を切開したら大量出血して止血に手間取る、とはいっても、流れを遮断したら呼吸不全は改善しないし、肺が壊死する危険性も伴う。ここは安全に、一時的に血流をバイパスさせよう。
「人工血管ってある?」
「あったと思うけど・・・」
「すぐに用意できなければ、点滴のチューブでもいいよ。」
「はい。」
点滴用のチューブを手元で素早く改良し、血栓が詰まっている場所の前後に繋げ、血流を改善させた。
ここからが本題。いよいよ障害となっている血栓を取り除くのだが、緻密な作業が必要とされるし、術野は限られている。とはいえ、素早く正確な手技なら、大学病院でも嫌というほどこなしたので、お手の物。
「電メスと摂子ください。」
電気メスで瘤の表面を焼ききる。続いて摂子というピンセットに持ち替え、血栓を引っこ抜く。
「よし、取れた。」
トレイに乗せると、音がした。結構大きいサイズだった。再び電気メスに持ち替え、傷口を焼き、言わば溶接した。そして点滴用チューブで応用させた人工血管を外し、人工心肺から復帰させる。すると心電図から、リズミカルな電子音が聞こえてきた。
「蘇生成功しました。」
「よっしゃあ、あとは閉じちゃうだけだね!ヘガール頂戴。」
「はい。」
最後に閉胸し、切開したところを縫合して、手術終了となった。
「緊急オペ、終了!」
「雅治さん、お疲れ様!何かその格好、外来受付終わったときもしてたよね?」
「ははは、ついついね・・・二人もお疲れ!」
「初舞台にしては、いきなりハードルが高かったんじゃないかしら?」
「ま、まあね。」
後片付けに追われていると、外が騒がしくなってきた。ゴオゴオと強い風が吹き付けてくる。何だろう、と思いながら外に出てみると、公民館の駐車場にあったのは・・・ヘリコプター?
「俺が何も言わずに帰ると思ったか?それは大間違いだぜ!」
「海斗?お前、これ、どうしたんだよ!?」
「どうしたもこうしたもねーよ。ドクターヘリだよ、ドクターヘリ。」
「どくたーへり?」
「何か急を要した感じだったろ?出雲の街に抜ける一本道はまだ通れねーし、ヘリの方が早いんじゃね?って思ったんだけど、時既に遅しだったか?」
「一応オペは無事終わったし、病棟も空いてるんだけど、呼んじゃったんならなぁ・・・」
「お、ノリがいいじゃん、雅治!」
「いていてて!ヘッドロックかますな!」
「あらあら、お似合いの構図ね。」
ヘリから降りてつかつかと歩み寄ってきたのは、晴子だった。
「あれ、晴子、なん」
「だろ?マサハル、マイ フレンド、なんちゃって!」
「痛いって!ヘッドロックは勘弁・・・っていうか、何で晴子がいるのさ!?」
「このヘリの所有者は私よ?急用だっていうから貸してあげるけど。」
「まさに神出鬼没だな。で、本当にOKなの?」
「オーナーの私がゴーサイン出してるのよ?それともあなたは、ここでバントするようなアホなバッターなの?」
「上等だ、スタンドまでかっ飛ばしたる。」
「・・・パイロットの翼君に頼めば、どこにだって行ってくれるわよ。じゃ、後はお任せするわね。」
「あっそう、お休み。」
「・・・お休みなさい。」
神妙な雰囲気を醸し出しつつ、夜の闇へ消えていった。
「ほー、仲いいな、お前ら。」
「お蔭様でね。」
「じゃ、俺もここらで失礼するか。達者でな!」
「じゃあねー!」
あー、あいつのヘッドロック、まだ痛い・・・
とりあえず、ヘリを置きっぱなしにされても困るし、折角だから搬送に使わせてもらおう。止まっているヘリに向かい、「患者を運んでくるから待ってて」とパイロットに伝える。パイロットは、親指を立てて返事の代わりにした。
診療所に入ると、大体の道具や設備は片付けられていて、残ったのは、担架の上に寝かせられた悠馬だけ。
「外、何かあったんですか?」
「ああ、水穂ちゃん。どうやら早とちりした海斗がヘリを呼んだみたいで・・・」
「ヘリ?搬送するの?」
「今更帰ってもらうわけには行かないでしょ~。」
「・・・雅治さんって大学時代、上の先生の踏み台にされてたでしょ?」
「ええっ!?」
「なぁんだ、その顔は図星か~。」
「うーん、あながち間違いじゃないけどね。・・・で、搬送先、どうしようか?」
「掛け合ってくるからちょっと待っててね。」
「お願いね。」
水穂ちゃんのことだから、理由を聞かれても馬鹿正直に答えたりはしないだろうけど・・・ちょっぴり不安もある。
「・・・雅治さん、出雲市中央病院、受け入れOKだって!」
「分かった、じゃあそこに運ぼう!」
数分の後、早くも搬送先の病院が見つかり、担架をヘリに乗せる。僕も横に座った。
「え、雅治さん、どこ行くの?」
「搬送先まで付き添うんだよ、当たり前だろ?乗せてほったらかしにするわけないじゃないか。」
「まあ、そうだけど・・・」
「大丈夫、街まで行ってとんぼ返りするだけだから。その間だけ、診療所、任せてもいい?」
「・・・はい!任せて!」
「じゃ、行ってくるよ。」
ドアを閉め、パイロットに目的地を伝える。
「出雲市中央病院まで頼む。」
「了解です。・・・出雲レディオコントロール、こちらJA617、患者を収容、出雲市中央病院へ向かいます。」
管制塔に許可をもらい、僕らを乗せたヘリは、ゆっくりと駐車場から飛び立った。
延々と山の上を飛び続ける。夜だからほとんど何も見えないが、まどろみに飲まれて眠ってしまうわけにはいかない。
「・・・あなたが、新参者と噂されてる方ですか?」
何の前触れもなく、黙っていたパイロットに話しかけられる。
「新参者って?」
「晴子さんがよく言ってるんですよ。一癖も二癖もある新参者が来たって。」
「そうなんですか?一癖二癖って・・・何なんだろ。」
「俺、福本 翼です。このヘリのパイロット任されてます。」
「僕は先日社不知診療所所長になりました、宮崎雅治です。以後よろしくお願いします。」
「呼んでくれたら、いつでもどこでもお連れしますよ!」
「ありがとう。次からはそうさせてもらうよ。」
やがて出雲の街が見えてきた。夜景って、空から見るとこんなに綺麗なのか。感傷に浸ると同時に、今夜も長い夜になりそうだと、改めて自覚した。
生い茂った木々の中を駆け抜ける小さな影。当てもなく森林を走り回っていたが、やがてその足が止まる。
「はぁ・・・はぁ・・・」
肩で息をしながら、切り株に腰を下ろす。そして、さっきから両手で持っているものをマジマジと見つめる。それは・・・鹿の頭だ。
こんなものを持っていって何がいいんだろうか?主の趣味が分からない。
休んでいると、茂みの遠く向こうから、何かが落ちたような、ドサッという音がした。疲れ果てて棒になった足を無理やり動かし、茂みを掻き分けていく。すると、鬱蒼としたところに、大きな白い生物が横たわっているのが見えた。見た目は馬だが、背中に羽が生えている。
「ペガサス?こんなところでどうしたんだろ?」
鹿の頭を木の根元に立てかけ、ペガサスの許に向かう。よく見ると、その体は傷だらけで、痛みに悶えているようだった。
「何だよ、これ。どうしたら・・・」
「そこにいるのはゴブリンか?」
突然声をかけられ、辺りが暗くなる。空を見上げると、そこには我が主・・・ティアマト様がいた。
「ああ、ティアマト様、奇遇ですね。いやなに、この辺りをうろついていたものですから。」
「例の物は手に入ったのか?」
「ええ、私には容易いことでございます。」
「どれどれ、見せたまえ。」
木の根元に立てかけた鹿の頭を持って、ティアマト様の乗るドラゴンに近づく。
「・・・ほう。なかなかいいじゃないか。いい仕事をしたな。」
「喜んでいただけて何よりです。」
降りてきたドラゴンに乗り、その場を去る。しばらくは二人とも黙っていたが、先に口を開いたのはゴブリンだった。
「あの、ティアマト様、つかぬ事をお伺いするようですが。」
「何だ?」
「この鹿の頭、何のためにお使いになるのかと思ったもので。」
「・・・飾りだ。殺風景な部屋に飾りが必要だったのだよ。」
「なるほど。」
それ以上深追いはしなかった。それが彼ら二人の関係だったからである。