15.Guilty Conscience(良心の呵責)
私の朝は早い。
出勤するのは仕事が始まる前ギリギリなのだが、決して寝坊しているわけではない。私はいつも朝の5時には目覚め、動きやすい服装に着替えてから、リビングで柔軟体操をし、それが終わったら村内を軽くランニングする。帰ってきたらシャワーを浴びて洗顔をし、朝食をとって身だしなみを整えて出勤する。
この日もその流れで行くつもりだった。しかし私が朝食を片付けていたとき、玄関のインターフォンが押された。私はまだ薄着のままでそれに応対した。
「はい?」
「あ、菘さん、おはようございます、宮崎雅治です。」
「…雅治?」
こんな時間になんだろう。普段着という服装も気になる。診療所から急患の連絡でも入ったのだろうか?でも私のところにはそんな連絡は来ていない。
予定が狂う違和感を覚えつつ、私は玄関のドアを開けた。そこには柔らかな表情を浮かべた雅治がいた。
「…あ、ごめん、寝てた?」
私の服装を見て言ったのだろうか。多少ドギマギしている様子だったので、私から釈明した。
「いや、いつも診療所に行くのは遅いけど、それなりの早起きしてるのよ。…雅治こそ、どうしたの、こんな朝早くに。」
私もまた、雅治が朝の7時に私の家まで来ていることが気になってならなかった。
すると雅治は、背中側に隠すようにしていた両手を差し出した。その手には…熨斗紙で包まれた箱が抱えられていた。
「では、改めて…この度、近くに引っ越してきました、宮崎雅治です。これから何かとお世話になるかと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。」
「……え?」
「タオルしか浮かばなかったんだけど、いらなかったらリサイクルショップにでも持っていって換金していいから。」
「いや、そうじゃなくて、雅治…何を言っているのか」
「ほら、あそこの新築。ついさっき引っ越しが終わったからさ。」
「…………」
指さされた先にあったのは、ついこの間まで「現地説明会」とかいう幟がいくつも並んでいた一角。雅治はあそこに…引っ越してきた?
「言ってたでしょ?いつかこの村で暮らすって。」
「…ええ、そんなことも言ってたような…」
「真っ先に春子のところに行ったらさぁ、『この村で暮らすなら村民らしく振る舞え』なんて言われたもんだから、困っちゃうよぉ。」
「…………」
本当に、引っ越してきたんだ。
雅治の行動力と言い決断力と言い、本当に尊敬するものがある。とはいえ、まだここで働き始めて半年もない。そんな短期間でここに住み込み?一体何を意図しているのだろうか…
「…ああ、立ち話もあれだし、暑いでしょ、上がって。」
「いいの?じゃあ少しだけ。」
やや気恥ずかしそうに、雅治は靴を脱いで、家に上がった。
リビングのちゃぶ台まで雅治を案内して、私はお茶を入れに台所に立った。冷蔵庫に入っているペットボトルのお茶をコップに注ぎ、雅治の待っているちゃぶ台へ向かう。
「これくらいしかないけど…」
「いや、お構いなく…」
それから無言で、お互いにコップに注がれたお茶を一口啜った。
「…本当に隣に引っ越してきたの?」
まだ納得のできなかった私は、すかさずその質問をぶつけた。すると雅治は得意げに答える。
「うん。本当に、目と鼻の先、新築の家にね。どうせなら見に来る?出勤ついでに。」
私は面食らって、何の返事もできなかった。ただ、思ったことを素直に言うことしかできなかった。
「なんか雅治、来たときから、変わってるなぁって思ってたけど、案外間違いじゃなかったわね。」
雅治は目を丸くする。私からそんなことを言われるなんて、思ってもみなかったのだろう。
「まあね。よくよく考えたら、これだけ忙しいのも、僕が変わったことをしてきた報いなのかなぁ。」
「…報い?」
そのワードに、何か不穏な響きが含まれていた。
「ここに来た初日。その日からずっと思ってたのは、菘さんとかに、何かと色々、見透かされてるような違和感みたいなのがあってさ。」
「違和感…」
そりゃはるばる東京からこんな片田舎まで来て、違和感を覚えない方がおかしいような気もする。でも、見透かされて、って何をだ?
「そのあと、早速満がいなくなるわ、春子に啖呵切るわ。」
そんなこともあったな。確かその時に、将来的にはこの村に嫌でも住み込むとか言っていたような気がする。
「帰り道に交通事故を起こして、ここの診療所に担ぎ込まれて、さらに伴夜や悠馬が来るし…ん。」
…なぜか雅治が言葉を詰まらせた。そして、険しい顔つきで、淡々と、不思議なことを語り始めた。
「あれから僕も、変わったことを経験してるんだよな…帰り道に事故ったとき、僕はマボロシを見た。ひっくり返った車に近づいてくる…あれは何だったんだろう。その前に満は素っ裸で山道にいたし…その後もだ。診療所の地下で…あっ。」
…なんで、そこでまた言葉に詰まるのだろうか。
実は、雅治から直接は聞いていないのだが、私たちの身の回りでも、診療所の地下についての『噂』のようなものが聞かれる。小さい子供たちは、あそこはお化け屋敷とか、死んだ患者の墓地とか言ってふざけているが、案外その辺の線も当たっているのかもしれない。事の真相を確かめたくて、私はちょっと揺さぶりをかけた。
「雅治は…診療所の地下に、入ったことがあるのよね?」
「え?…うん、夜の見回りの時とかに。」
「じゃあ、噂については、どう思う?」
「…………」
「…………」
「…いや、特に何とも思ってないけど。」
「本当に?」
「ほら、開かずの扉の先~、みたいなものって、くだらない噂が付きまとうものだと、僕は思ってるし、そんなこと気に留めてたら、仕事にならないよ。」
「くだらない…?」
吐き捨てるようなその形容詞。それもまたちょっと前から気になっていた。
「雅治って、噂に結構敏感じゃない?古傷を突くようで悪いけど、なんでそんなに毛嫌いするのか、差支えなければ、教えてほしい。」
「…………」
「…………」
場が凍り付く。私はそれこそ禁忌に触れてしまったようで、後悔しかけた。
「…いやあ、また見透かされたみたいだなぁ。」
しかし、雅治の口から、するすると、言葉が溢れてきた。
「ここに来る前は、大学病院の研修医でさ。研修医といっても、もう実地経験を積む最終段階くらいまでは来ていたんだけどね。」
逆にその段階から地方の診療所の所長を任されるというくらいなら、もっとプラスなことがあったのだろうと想像できるが、雅治の口調は暗い。
「ある日、雨の日だったかな。僕が夜の当直を任されてた時、急患が来たんだ。10歳にもならない女の子。漏れたガスに引火して爆発したのに巻き込まれたらしくて、体中、火傷や、飛んできたガラスやら金属片やらで血だらけになってて。付き添いで救急車から降りてきた男の子、多分その子のお兄ちゃんなのかな、そっちも血だらけだったんだけど、女の子の方と違って、意識もしっかりしていたし、何より…運ばれていく女の子にしがみつくようにしながら、泣き叫んでいた。」
「…………」
「僕の目の前に来た女の子は、見るだけで痛々しいものだったよ。深い裂傷からは、絶えず鮮血が溢れてきてたし、胴体だけじゃない、顔、手足にも、破片やら火傷やらがあった。僕は正直、どこから手を付けようか、迷ったよ。」
「…………」
「考えている暇はなかったね。とにかく出血がひどい傷から一つ一つ縫い合わせていこうってことにして、ガーゼとか縫合用の糸をたくさん用意したけど、輸血は用意がなかったんだよね。だからとにかく、一秒でも早く、裂傷を縫い合わせる必要があった。」
「…………」
「でも、僕はそのあと起こったことに凍り付いたよ。ガーゼで血を吸い取っても、なかなか血が止まらない。無理やり縫い合わせても、傷は塞がらないし、糸は血で真っ赤になるし。原因が分からないから、にじみ出てきた血液を採取して、血液検査に回して、結果が出るまでは、ひたすら傷口から出てくる血を、ガーゼで吸い取ってたよ。…この時既に、全然意味がないって分かっていたのかもしれないけどね。」
「…………」
「結果が出るまであとどれくらいかかるか、焦り始めたときだった。急に傷口からにじみ出てくる血の量が増えたんだ。それだけじゃない。せっかく塞がってきた他の傷口からも、それこそ噴出すくらいの勢いで、真っ赤な血が溢れてきた。あれには僕も震え上がったね。過呼吸気味になりながら、点滴するよう他のスタッフに指示したけど、僕は溢れてくる血を抑えるくらいしかできなかった。」
「DIC…」
「そう、あの子は何かで血液凝固障害があった上に、処置中に播種性血管内凝固症候群(DIC)を発症、もはやどうにもならない状況だった。ただ、心電図から聞こえてくる、ピーっていう音と、泣き叫ぶ男の子の声だけが、まだ耳に残ってるよ。」
「……そんなことが。」
「でも、僕にとっての地獄はここからだった。救急車で病院に到着したとき、その子はまだ意識があったとかいう人がいて、病院での処置に問題があったのではないかとかいう人まで現れた。」
「…どうして?」
「爆発で死んだのはあの子だけらしいんだ。それだけじゃない。あの日付き添いで来た男の子。怪我の度合いはほとんど同じなのに、あの子は生き残った。さらに、僕の大学病院で研究途中だった薬品の臨床実験に、その子が使われたとかいう、ありもしない話をでっち上げられたりもした。…おそらく、僕のことを快く思わない、病院内の人間が言いふらしたんだろうけど。」
「…ひどいわね。」
「しかもその薬品は僕の先輩が論文にまとめて発表寸前だったらしくて、とばっちりを受けた先輩は、あえなく論文の題材を変えないといけなくなったんだけど、今度はそれが『改ざん』に当たると見られたりしたし、僕らの病院の面子は、どんどん潰されていった。僕はそれっきり、病院に行かなくなった。」
「…………」
「でも僕が先の件で無実であることは、病院が説明してくれた。死んだ子が血液凝固障害を持っていて、処置中に出血性ショック死したということも。わざわざ警察が検死した結果を出してまで。処置には問題がないということも言ってくれた。そこには僕は病院に感謝しなければならない。」
「…今時、滅多にないわよ。そういう病院。だいたいはミスを犯した医者は切り捨てるものよ。」
「…僕もある意味切り捨てられたさ。」
「え?」
「その後だよ。僕は病院からしてみれば、厄介者扱いされたよ。疫病神とかいうヤツまでいた。この診療所への異動も、半ば病院から放り出されたようなもの。すごく、むず痒い話だと思ったよ。病院は果たして、僕を庇ってくれたのか、見放したのか。」
「…………」
「今年は墓参り、行ってやれないかもしれないなぁ。」
「…………」
「…ごめんね、朝っぱらから、引っ越しの挨拶に、こんな汚い身の上話しちゃって。…菘さん、泣いてる?」
「…ぁ、いや、私こそごめん、情けない…」
気付けば涙が頬を伝っていた。慌ててそれを袖で拭う。
「でも、今の雅治を見てると、震えていたその頃の姿が見えてこないわ。怖がって、逃げてばかりの姿、今の雅治からは感じられないわ。」
「そうかな?多分、僕はもう飛行機には乗れないと思うけどね。」
「でもね、人間って、そういう体験をして成長していくものだと、私は思うわ。嫌だと思うことから逃げていたって、いつかはまたそういうことに直面するだろうし、逃げてばかりではいられないし、それだと全然成長しない。」
「うん…」
「私は今の雅治を誇りに思う。過去の件は残念に思うけど、それで雅治が強い人間だって、分かったから。」
「…ありがとう。」
「……さ、今日も仕事よ、行きましょう!」
「はい!」
お茶を飲み干し、二人で家を出る。私たちを出迎えた朝日は、ちょっと暑すぎるくらいだったが、透き通る暑さだった。
地上を覆ったどす黒い霧が朝日を反射して雲海のような美しさが際立つ。霧の上に顔を出した山の中腹にポツンと建てられた城からの景色はそんな風に見えた。
「…いつまで見てるの?」
不意に声をかけられる。背後にロキが立っていた。
「いや…改めてみると、不思議な景色…って思ってね。」
「へぇー、それで悦に入ってたのか。」
ロキはゆっくりと歩みを進めて、私の隣に立って窓の外を眺め始める。
「ねぇ、ロキ。あなたには分かるかしら?私にはね、この霧がこの上なく美しく見えるの。」
「うーん、分からないな。真っ黒だし、朝霧にしては不気味だし。」
「そ、そうよね…」
ほぼ即答。揺さぶりをかけるのが早かったか?
「どちらかって言うとね。」
「え?」
不意に私の右手が熱くなる。…ロキに握られていたからだ。
「君の方が美しい。」
「え…」
ロキにはもう照れたような表情はないが、私は相変わらず顔を赤らめて視線を逸らす。
「…さてと、朝飯の時間だ。」
そういうとロキはそそくさと食堂へ向かっていった。それが照れ隠しなのかどうかは私には分からないが。
「オーディン、いるかー?」
「ああ、お前も早く来い。トールがもうじき食材を持ってくる。」
「あいよ。」
食堂にはすでにもう一人いて、さらに誰か来るようだ。オーディンとトールと言っていたな…オーディン?あの最高神のことだろうか?
私はどことなく入りづらさを感じて、食堂の入り口の扉の陰に隠れていた。しばらくすると、食堂の別の扉が開いた。
「今朝は大漁だぜ、どれもうまそうだ!」
甲高くて大きな声。トールの声だろう。口調がちょっと粗暴に聞こえる。
「うわ、すごい量だな、これ!全部食いきれるのかよ?」
「お前ら二人なら平らげるだろ、これくらい。」
「余裕余裕!残ってダメになるくらいなら全部食べちまうぜ。」
どのくらいの量か想像がつかないが、ここに集っているのは大食漢の神々?何だ、そりゃ。
「あ、ちょっと待った!お客さんの分は残しておいてやらないとな。」
「おいおい、俺らだけで全部流し込むんじゃないのかよ?」
「お客?誰か来ているのか?」
「ああ、来てるよ。…あれ、どこに行ったのかな。」
お客?私のことだろうか?ますます入りづらさを感じたどころか、一歩も動けずにいる。
「あ、こんなところにいた。お前も食えよ。」
「えっ…」
私がその場でたじろいでいると、ロキが私の手を取った。
「腹減ってなくても、せめて紹介させて。」
「…うん。」
私は何とか頷いて、ロキに導かれるまま、食堂に入った。
「…おい、何だよその女は。」
「…おい、何でお前先に食ってるんだよ。」
「ロキ、トールが抜け駆けすることぐらい頭になかったのか?」
「えーっと…」
正直…引く。荘厳というレベルを通り越して、ちょっと怖い、この神々。とりあえず、笑顔笑顔。
「道中で拾った蛇女だ、名前は…」
「エキドナです。あの…居候させてもらっています。よろしくお願いします。」
「あ、そうそう、エキドナね。」
ロキって、まだ私の名前を覚えてないのかしら?
「…オーディンだ、以後よろしく。」
「俺はトールな、よろしく頼むぜ!」
「はい、よろしくお願いします。」
お互いの自己紹介が終わったところで、少しは緊張が解けた。ロキに進められ、私も出された食事を口にする。私は黙々と食事を続けたが、他の3人は会話に花を咲かせた。割と私に関する話が多かった。
「ロキ、エキドナのことだが、さっき道中で拾ったと言っていたな。」
「ああ、オーディンも知ってるだろ?山の麓のどす黒い霧。逃げ惑ってたから拾ってきたのさ。」
「…ほう、お前らしくないな。」
「良心の呵責ってヤツだ、ほっとけ。」
「にしても仲が良いな、二人とも。部屋でイチャイチャしたりするつもりじゃねーだろーな?!」
「トールこそ、夜な夜な大暴れしたりするなよ?酒が入るといつも雷が落ちるだろ?」
「うるせぇ!俺は雷を司る神なんだぞ、落雷ぐらいでビビってんじゃねぇ!」
「ははは…」
時折私も苦笑いをして会話の輪に加わっているように振る舞う。彼らの会話には、ティアマトのところで交わしたような会話にはない、ユーモラスな何かがあるように思えた。それが新鮮にも思えて、その会話に加わりたかった。
「しかし、あの黒い霧とやら、どこから湧いてきたのだろうか…」
タイミングを探していると、すぐに別の話題になってしまった。…私の話しづらい話題に。
「エキドナが逃げ回っていたんだろ?やっぱりまずいものなんじゃねーの?」
「確かに、あの下には他に動き回っているヤツはいなかったし、まずい類のものなのかもな。」
「…………」
「そういえばここ最近、ゼウスとも連絡が取れない。彼の身に何か?いや、そんなはずは…」
「何、ゼウスが死んだらこうなっちゃったとか?」
「ゼウスって死ぬのか?トールよりも強力な雷撃で世界を平定したゼウスが?」
「…………」
違う方向に話題も推理も進んでいることに唖然としたが、それ以上に、ゼウスの安否も気になった。ここにいるオーディン同様、全知全能の最高神のはずだ。その身に何か、あるとは思えないが、あったのだとしたら、何か良からぬ影響があるのだろうか。図らずも、この霧がさらに強くなっているとか?より早く広がっているとか?
ここにいる3人は、そのことについて何か考えがあるのだろうか?分かることがあるのだろうか?だとしたら私はこの世界に広がっているこの霧の正体、出所を告げなくてはならない。それを彼らはどう思うのだろうか。彼らも天照大神のように切り捨ててくるのだろうか。
迷いが迷いを生み、私の心はどんどん頑なになっていく。楽し気に食事を進める私の苦笑いは、内心の黒いものを覆い隠すのには不十分だと、私自身でも分かっていたのかもしれない。
梅雨の晴れ間。澄んだ空気が湿っていて心地いい。これが昼間には蒸し暑くて不快に感じるのだから不思議だ。
いつも菘さんが到着するような時間になって、僕らは診療所に着いた。まだ外来患者の受付は始まっていない。受付では水穂ちゃんと郵便を渡しに来た魅鳥ちゃんとが立ち話をしていた。
「おはよう、二人とも。」
「あ、雅治さん、やっと来た!ほら、魅鳥ちゃん、困ってるよ?」
「え…僕、何かしたかな…」
朝の挨拶も有耶無耶にして開口一番このセリフだ。一体なんだというのだ?
「いいえ、雅治さんにお届けするものがたくさん来ていたものですから。診察室の机にボンッと置いちゃうのもいけないような気がしたのです。」
「…あー、そういうことね。じゃあ今受け取っちゃうよ、ありがとう。」
「では、私はこれで失礼します!」
「うん、気を付けてね。」
魅鳥ちゃんが去ると、いつもの外来受付開始前に戻った。僕は診察室に入ってスタンバイ。患者がいない間は資料を読み漁りネットなどでも検索する。さっき魅鳥ちゃんから大量の郵便物をいただいたので、それにも目を通さねば。
ボンッという豪快な音とともに、診察室の机に資料が置かれる。まずは脇に置いてある今朝の朝刊から目を通すことにした。
「プロペラ機墜落 空中衝突の可能性」
「墜落直前 飛行物体視認と報告」
「進まぬ回収 広範囲に散らばる残骸が物語る衝撃」
「生存者3人 突然の惨劇」
そのニュースは今日も一面トップを飾っていた。島根県沖の日本海にプロペラ機が墜落した事故。ワイバーンによる攻撃で墜とされたプロペラ機の“事故”。
新聞記事の至るところには、僕の言葉や情報も含まれていた。僕はあの後、大森知事が殺された後、地下への階段を施錠した上で、落ち着いてから記者会見を行った。僕は乗客としてあの便に搭乗したこと、飛行中に突然機体が爆発したこと、溺れていた子供2人を外れたドアの上に引き上げたこと、救助に来たヘリコプターで診療所まで搬送したこと、その他事故の経過、生存者の容態などが綴られていた。
ワイバーンに襲われた、ということは言わなかった。真実を隠すことになってしまうのだが、公にして自爆するよりははるかにマシであると、トラウマがある僕が本能的に導き出した結論だった。
結局あの事故で助かったのは、僕ら3人だけ。女の子の方が事故のショックから心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症、死んだような目つきのまま、失声症も併発し会話ができない。時折フラッシュバックで、耳を劈く悲鳴なら上げることができるようだが。男の子の方は海水を飲み込んで窒息状態が割と長かったのか、低酸素脳症と見られる状態で、あれっきり意識が戻っていない。クラゲに刺された僕の手の傷はとっくに癒えているのに、子供2人が未だに苦しめられている現実が複雑に突き刺さる。
吹っ切るように新聞をとじ、資料の山の一番上にあったものを手に取る。小さな封筒に手紙が入っていた。差出人は「日本医師学会」。シンポジウムは議題の中心になるべきゲストが欠席したためオジャン。それでも事故に巻き込まれた僕を気遣ったような文面だった。…にしても相変わらず文面が堅苦しい。僕が敬語とかを知らなかったら読めないぞ、こんなの。
次に目に留まったのが、島根県警と出雲市内にある大学病院の名前が入った封筒。親展だの重要だの色々書いてあってかなり目立つ。僕はゆっくりと封を開けた。
中には薄っぺらいA4サイズのプリントが束になって入っていた。この間診療所の地下で見つけた謎の人骨の鑑定結果が書いてある資料と形式は似ている。その中にゆっくりと手を突っ込んだつもりだが、覚束ない指先で紙を取り出すのに苦労した。
プリントを引っ張り出して、最初の数枚を読み飛ばす。長々と意義とか手法とか書かれても、解剖学を深く学ばなかった僕にはチンプンカンプンの内容だからだ。そして結果と思わしきページに行き当たる。
「氏名 大森 能久」
難しい用語や細かい項目で少々見づらかったが、要約すれば、鳩尾に3か所の創傷、いずれも鋭利なものによる刺し傷、残存血液量などから失血死とみられるとのこと。図や写真もあって分かりやすくなっていた。
そこまでは大学病院が書いたのだろう。残りは警察と思われる。なぜなら後半は現場の状況や死体の状況から事件性まで書いてくれちゃってるのだから。
スプリガンに襲われ死亡した大森知事。僕はその場で心肺蘇生に当たったが甲斐はなかった。落ち着いたとはいえ、死体をどうしようかは最後まで迷った。鳩尾にできた3か所の穴のような傷、診療所の地下、僕が処置に当たった形跡。
地下への階段を施錠し、記者会見をやり過ごした僕は、再び開錠して地下へ向かい、魎と協力して死体を一旦処置室に運んだ。そこへ、プロペラ機の事故から生還した子供たちの面倒を見ていた菘さんと水穂ちゃんが戻ってきた。二人とも目を丸くしていたっけ。僕は必死に処置をしている“振り”をした。もちろん心臓マッサージは汗だくになるまでやっていたが、出血多量で既に死んでいる人間には無意味なのだ。それなのに菘さんは傷の縫合、水穂ちゃんは輸血の確保と、色々奔走させてしまったっけ。
他にもいろいろと嘘をついた。どうしてこうなったのかと聞かれると、魎と二人で「知らない」と通した。よくよく考えれば、どこかで怪我をしてこうなったのなら、海斗が関与するはずなのに、診療所には来ていない。魎もそれを察したのか、咄嗟に「どこかで襲われて、最後の力を振り絞ってここに来たのだろう」と白を切ったが、それでもしっくりこない。救急車を呼ばなかったのは大森知事の変なプライドから、なんてものが理解できるかも分からない。海斗じゃなくて魎がいたのは定時巡回だったから怪しまれないとして、大森知事がこの村にひょっこりお出まししているのも怪しい。
せめてもの救いは、そんなことを話したり気にしたりする余裕は、当時の処置室にはなかった。既に心臓は止まり、ただそこに横たえてあるだけの巨体を生き返らせようと、全員必死だった。僕が死亡を宣言すると、全員うな垂れた。死体は2階の奥にある霊安室に安置されることになり、僕と菘さんが運んだ。水穂ちゃんは魎と会話をしながら、処置室の片づけと受付の仕事を続けていたと、魎は言っていた。魎は僕と菘さんが戻ってくると、診療所を後にした。
どうやら菘さんも水穂ちゃんも、地下空間の存在を知らないのか、あそこに入ったり、あそこの存在を仄めかしたりはしていない。…いや。僕が初めて地下空間で襲われたとき、僕と菘さんとで話が食い違ったことがあった。確か僕がいた場所が違うんだった。僕は地下にいて襲われ、そのまま意識を失ったことを堂々と話していたが、菘さんは気にも留めないように、僕が処置室で倒れていたと言った。菘さんは地下の存在は知ってはいるが、僕や周囲の人々の身に危険が及ぶなど、特別重要視していたわけではないようだ。隔離病棟の区画とでも思っているのだろう。僕があそこに入ったことも大して気に留めていないかの様子だった。だから僕が地下にいたと堂々と言っても、サラリと受け流したのだろう。ただ、そうなると水穂ちゃんもその話を知っていたし、地下の存在についても知っているのかもしれない。危険だと思っているかは不明だが。
とりあえず、僕が見た限り、菘さんと水穂ちゃんが地下の存在を案じたり、そこに入ろうとしているところは見ていない。例の如く、当直の役目を買って出ると、誰もいなくなった診療所で一人、大森知事とスプリガンの流した血液を拭き取り始めた。またあの紫色の霧がベニヤ板を突き破ってこないか不安だったが、そんなことはなかった。肉眼では目立たないくらいに血液を拭き取ると、地下への扉は再び施錠。何事もなかったかのように元に戻った。
これで僕の偽造工作、及び魎も共謀となる。とはいえ、僕は本当に大森知事を殺したわけじゃないし、かといってどうしてこうなったのか、明確に言えるわけもない。プロペラ機の事故と同じく、保身のためにあれやこれやと嘘を重ねていったのだ。
それゆえ、警察の書いた報告にも事実と異なる点がある。それはそれは滑稽なものだった。島根県知事で普段は松江市内で職務に当たっている大森知事がなぜ社不知村にいたのか?どこかで襲われたにしたら、なぜ診療所付近でどこにも血痕が見当たらないのか?そんな推理まで勝手にされていた。
もちろん、そんなことで疑いの目は僕にも向いているが、僕はきちんと記者会見を行っていて、それはマスコミだって知っていることだし、大森知事の死亡推定時刻も記者会見の時間とほぼ合致する。アリバイがあるし、嘘をついて自分の首を絞めることはない。ただ、この事件が迷宮入りしそうな気はするが。
僕は検死結果の報告書を閉じ、封筒に戻した。他には…と資料の山に手を伸ばすも、マスコミからの取材の要請だったり事故を案じる人からの手紙だったりと、僕にとっては気にも留めないものばかり届いているようだった。
僕は他人に事実を隠しているクセして、他方面で事実を知りたがる卑劣な人間になっていた。それはやはり過去のトラウマが絡んでいるに違いないが、ここまで本能的に事実を隠せるのも驚きだ。
僕が隠し通している事実。地上ではワイバーンに飛行機を墜とされ、診療所の地下でスプリガンに大森知事が殺され…ワイバーンにしろスプリガンにしろ、現実世界に存在するはずがないのに、人類を脅かしている?それこそ僕が晴子や大森知事から聞いた迷信めいた話になってしまう。百聞は一見に如かず、僕がその話をバカ正直に話したところで、興味を示すのはオカルト愛好家くらいで、世論は僕を白い目で見るだろう。笑われ者になるのは確実だ。
でも、僕はそれが事実だということを知っている。その前には魎さえもミノタウロスに襲われ負傷している。この診療所の地下にあるサッカーボール大の穴、そこから紫色の霧が出てくると、次第にそれは化け物へと変貌していく。では飛行機を襲ったワイバーンは何だ?翼だってあれを見ているが、あいつがいたのは島根県沖の日本海上空。診療所から何十キロも離れている上に、僕は出かける前にあそこが施錠されているのを確認している。どうやってあそこから出てきたのか、と考える前に、そもそもあそこと関連性があるのか気になった。
そのカギを握ると思われるのが、健治がいた部屋から見つかった人骨だ。あれの鑑定結果に僕はゾッとしたのを覚えている。だが目を背けてもいられない。僕は資料の山から人骨の鑑定結果を探す。
「…あれ。」
資料の山の中にはなかった。大概は数日以内に届いた郵便物だからかもしれない。僕は続いて鞄の中を探った。ここにもしかしたら入れっぱなしかもしれない、と考えて。
「…ん、無い?」
僕は焦った。資料の山の中にも、鞄の中にも、人骨の鑑定結果が入った封筒が見つからない。ひょっとしたらどこかで落としたか?いや、鞄から零れ落ちるなんてことはないし、家に置き忘れたのかもな…それともこの机の引き出しの中か?僕は手あたり次第に引き出しを開けたが、どこにも見当たらない。
トントンという音がした。見ると、水穂ちゃんが受付から顔を覗いて、診察室の壁をノックしていた。
「あぁ、もうそんな時間?」
そんなセリフが出た。それもそのはず。水穂ちゃんの顔が浮かない。水穂ちゃんの真意が、分からない。
「…患者さんが来ていないうちに、ちょっと相談が。」
「え、何…!?」
僕は目を疑った。僕がたった今必死で探していた、地下で見つけた人骨の鑑定結果が入った封筒、水穂ちゃんが胸の前で見せびらかしているのは、正しくその封筒だった。
「これ、何ですか?」
「ぇ、水穂ちゃん、何でそれを」
ガチャリという音とともに、背後のドアが開いた。振り返る頃にはガサッという音とともに、資料の山から封筒が抜き取られた。抜き取られたのは大森知事の検死結果に関する資料が入った封筒で、抜き取ったのはあろうことか菘さんだった。
「…氏名 大森 能久…死因 心窩部創傷による失血死、か。」
「…………」
言葉の通り、僕は固まった。頭の中が真っ白になり、フラフラと処置用のベッドに腰かけた。
知られて困ることかと言われれば僕でも分からない。でも、僕にとっては隠していた事実が知られたというように判断され、パニックになる。
「雅治さん、あなた私たちに、隠していること、あるよね?」
わざとらしく水穂ちゃんがそう尋ねてくる。…僕は言葉に詰まる。何かを隠していること自体、バレている…?
「…なんで黙ってるのかしら?私たちにも教えて。」
菘さんもそれに乗っかって迫ってくる。様々なことがフラッシュバックのように脳裏をよぎる。大学病院時代のこと、ここに来てすぐのこと、地下のこと、プロペラ機事故のこと。…何が何なのか分からない。
バシン!
左の頬を走り抜けていく痛み。うつむいて黙ったままの僕に、菘さんが耐えかねなかった。
「ねぇ、どうして何も教えてくれないのよ?!」
いつも冷静なはずの菘さんが、感情を露わにしている。僕はそれが、なぜか怖く感じた。
「あなたはここ、社不知診療所の所長で、私たちはここで働くたった二人の部下。それでも私たちは、決して従属関係には縛られない、それ以上の関係だと思ってた。それなのに…なんでこんな大事なことを隠すのよ!!」
言い分は分かる。人骨を見つけたのは診療所の地下一階だ。そこを隔離病棟か何かだと思い、大して危険性も抱かずに、同じ建物の中で仕事をしていた。なのに実際には人骨が出てきている。それだけではない。彼女たちはまだ知らないが、健治だってあそこから見つかったし、何度か化け物とも遭遇している。大森知事もあそこで殺害された。それを僕は…仕事仲間であるはずの彼女たちに…隠していた。
「…ごめん、二人とも。」
僕は観念した。信じてもらえるかは分からなかったが、きっと僕の中で、保身のために何かを隠し続けようとしていた考えの土台部分を、菘さんが取り払ってくれたのだろう。
僕は彼女たちに…事の真相を包み隠さず話した。
「…あそこは危険な場所なんだ。隔離病棟なんかじゃない。晴子や大森知事から言われた通り、化け物が出てくる場所なんだ。僕もあそこで何度か化け物に会ってる。魎はあそこで襲われて怪我をして、大森知事はあそこで襲われて殺された。人骨もあったし、健治もあそこに眠らされていた。」
「「…………」」
顔を上げると、彼女たちは、僕が晴子や大森知事から似たような話を聞かされたときに浮かべた表情とは違い、信じがたいとしながらも嘘とは思えず、深刻そうな顔をしていた。
「前所長と大森知事、晴子も、必死に守ってきた地下の禁を破ったのは…他でもない僕なんだ。」
「…じゃあ、この人骨の鑑定書は?!」
やっとのことで水穂ちゃんが口を開いた。手にした封筒の中から引っ張り出した冊子の鑑定結果が書かれたページを開いて、僕に見せてきた。結果の部分に書かれている名前は、人骨の正体は…………社不知診療所の前所長。
「それは僕にも分からない。大学病院とは繋がりがあったらしいけど、僕も異動の時、前所長については急病としか聞いてないから…」
「大森知事に聞こうにも、死んでしまってからはどうにもならないわね…」
「健治がどうしてあそこにいたのも分からない、なんであそこにできた穴から化け物が湧いてくるのかも分からない、これからどうすればいいのかも分からない、僕だって分からないことだらけなんだよ!それで僕は…」
「テキトーな出まかせを言わずに、黙っていたのね…」
菘さんが口を開いた。…そっか、今朝僕の過去に起こった身の上話を話したもんな。
「…ふふっ、バカみたいだろ、いつまでも僕は自分のことが可愛くて、何かあるとビビって何も言えなくなる小心者だよ。」
「…そんなことはないと思う。」
「…えっ?」
それはあまりに突然だった。菘さんが真っ向から否定してきたと思えば、ゆっくりと僕に近づいて、しゃがみこんで、僕のことを、そっと抱き締めたのだ。
「私、今朝言ったばかりだったわよね?雅治は強い人間だって。でも、どんなに強い人間でも、多くの責任を一人で抱え込むのは無理があると思う。雅治が過去の出来事から、秘密を守り通すことを学んだとしても、一人で何かを背負う、一人で何かに立ち向かう、それは本当の強さじゃない。そんなときは、私たちを、仲間を頼って。それでこそ、雅治はもっと強くなれると、私は信じてるから、雅治も私たちのことを信じて。」
「……菘…さん…………ぅっ。」
言い負かされた、という屈辱感はどこにもなかった。むしろ僕はその事実を菘さんがそっと受け止めてくれたことが、たまらなく嬉しかった。僕は菘さんに抱かれながら号泣した。
「…やだ、私まで……」
水穂ちゃんもつられて泣いていた。
「まあ、困ったときはお互い様よ。私たちにだって、何かできることがあるはず。だから難なく頼ってほしいな!」
「…うん、そうする。」
どれくらいの時間が経ったのだろう。ほんの数十秒?それとも数十分?母親のように優しく僕を包み込む菘さんの腕が、時間さえも忘れさせた。
「…ぁ、患者さん来たよ、持ち場に戻らないと!」
「そうだね、じゃあ全員配置に散開!」
患者が来る。水穂ちゃんが受付をする。僕が診察する。菘さんが手伝ってくれる。…いつもの仕事、いつもの配置、いつもの流れ…それなのに、この身が引き締まるような高揚感は何なのだろう。僕はここに来てから、初めて味わう感覚がいくつもあるが、この高揚感だけは僕を虜にする。“仲間”、僕が忘れかけていた大切なもの。それを彼女たちが取り戻してくれた。なぜなら彼女たちは、僕の大切な“仲間”だから。そして僕もまた、彼女たちの“仲間”なのだ。
もうどれだけ歩いたことだろう。気付けば山肌がむき出しで、木々が一切見られないところまで登ってきていた。
「……はぁ……はぁ…………」
一行は揃って息を切らした。適当に岩場に腰を掛ける。
「ここまで来れば…例のモノは来ないでしょうね…」
例のモノ…地上をすっぽりと覆ってしまった紫色の霧。彼らはしきりにそれを気にしていた。
「分かりません…この霧が湧き出続けているのなら、あるいは…」
シルフィードが縁起でもないことを言う。
「とりあえず凌いだんだろーな!?そろそろ俺もヤバくなってきたぞ。」
巨体を這いずらせるだけでも一苦労の様子のリヴァイアサン。ここまで登ってくると水辺は期待できそうにもないし、酸素も薄い。ウンディーネとシルフィード、2人の精霊の力も格段に落ちていた。
「やっ!!」
「…ありがとよ。」
渾身の水飛沫も、今やバケツ1杯程度。全部リヴァイアサンの顔にかかる。
「にしても困りましたね。確かにあの霧ははるか眼下。ここまで来るにはさらに時間がかかるはずです。しかし…」
「ここまで来るのに消耗した上に、約1名、尚も消耗し続けている輩がいるし…」
「…何、俺のことか?」
「あんた以外に誰がいるのよ!」
「…まあ、足引っ張るのも嫌だしよ、くたばりそうになったら、さっさと置いてって構わないぞ。」
「ぇっ…私、そんなつもりで言ったんじゃ…」
全員より一層ナーバスになってしまう。もはやこの状況を打開できそうもないことが、より鮮明になってきているのかもしれない。
「ウンディーネ、お前は生きろ。俺は日照りが続くと干からびるだけだが、お前は違う、無限に湧き出る力がある。微小の力でも、役に立つだろうからな。」
「ちょっと…そんな水臭いこと言わないでよ!」
「ああ、水臭いさ、海蛇だからな!!」
「まだ絶望するには早いかと思います。リヴァイアサンのあなたがそんな簡単に力尽きるとは思えません。」
「煽るんじゃねーよ、不死身ってわけじゃねーんだぞ。…クソッ、めまいがしてきた…」
ただ一人、フラフラと巨体を揺らめかせながら、ゆっくりと歩みを進めようとするリヴァイアサン。ウンディーネもシルフィードも、ただただ眺めることしかできないでいる。
さらに登っていくと、所々に残雪さえも見え始めた。山頂が近いのかも分からず、険しい山道を突き進み、どんどん消耗していく一行。引き返すこともできず、その足取りは重い。
「ちょっと休む?」
「…いゃ、立ち止まったらそれこそ動けなくなりそうだ…このまま行くぞ。」
「無理はしないで下さいよ?」
歩みを進めるリヴァイアサンの様子はさらにおかしくなっていく。上体もフラフラになり、まっすぐ進むこともままならなくなる。
ウンディーネが無言で肩を貸した。続いてシルフィードも背中から風を送り込む。3人揃って進み続けるという決意の表れであった。
「悪いな、二人とも…雄のクセに、情けねぇ。」
「変なプライドなんかいらないです…喋ってる暇があったら進みましょう。」
リヴァイアサンはさらに息が荒くなる。ウンディーネとシルフィードも消耗しつつあるのだが、その度合いの差は歴然だった。一歩前に進む、高々1メートル弱進むのに苦労し、それだけで体がよろけてしまう。
「…あ、あれは…?」
山道の先にぽつんと何かが現れた。好奇心から自然と足を速めると、そこには祠があり、山道はそこで終わっていた。
「山頂…着いたわよ!」
「はぁ……着いたか…」
祠の前まで一行が進んだ途端、リヴァイアサンが大きな地響きと共に倒れこんだ。
「ちょっと、しっかりしてよ!」
「…いいじゃねぇか、着いたんだから、ゆっくりさせてくれよ…」
「…………?」
倒れたリヴァイアサンそっちのけで、急にシルフィードが周囲をキョロキョロ気にし始めた。
「…変ですね、なんかこの辺りだけ、生暖かいような…」
風の精霊たるもの、空気の異変は素早く察知できる。山頂の祠の近くだけ、なぜか空気が生暖かい異変に気付いたのだ。シルフィードは五感を研ぎ澄ませ、風を読んで異変の元を探る。
「ん…どこかで何かが燃えているのでしょうか?」
熱源。簡単に言えばそれが近くにあることを、いとも簡単に突き止めた。空気の微妙な変化を頼りに、熱源へ近づいていく。それはどうやら祠の裏手のようだ。
「…………!?」
「…ご名答。さすがは風の精霊シルフィード、我がここに居ることを的中させたか。」
「あなたはシヴァ!なぜここに?!」
「ここは実に眺めがいい。世の中の動きが手に取るように見える。その滅びゆく様も一目瞭然だ。」
「まさか、この霧…あなたが?」
「それは違う。我はあくまで、この世の終わりを見定めた後に全てを無に帰し、一から新たなる世を創り出すわけであり、この霧が我の手によって作り出されたものではない。」
「…信じていいのでしょうか?」
「信じるも信じないも勝手だが、信じないで抗う愚か者もいた。」
「…………」
祠に寄りかかりながら佇むその様からは想像がつかないが、恐らくその愚か者とやらはシヴァに…
「貴様にも忠告しておこう。生き永らえたいという希望は捨てることだ。」
「…どういう意味でしょうか?」
「見ればわかるだろう。この霧によってこの世はもうじき滅びる。死にぞこないがいつまでも足掻いたところで無駄だ。」
「小癪な…無駄な労力は費やさない方がいいと、随分遠回しな忠告ですね。」
「貴様も貴様の連れも、精根尽きかけて苦しんでいるのだろう?その苦しみから解き放ってやりたいとは思わないのか?」
「っ……」
もちろん目の前でもがき苦しむのを見ているだけで何もできないのは辛いし、出来れば楽にしてあげたいとは思っている。しかし、シヴァの考える「楽」とは「死」を意味しているようで、容易にシヴァの意見を受け入れたくはない。
「貴様がそうしないのなら、慈悲深い我がするのもやぶさかではないが、さあ、どうする?」
「っ……私は所詮風の精霊、シヴァのその炎を纏った鉾には適いません。あなたと争うつもりもありません。しかし、あなたに慈悲があろうと、希望を持つ者を一掃しようとする考えは」
「解せぬ、か。」
「…………」
「よいだろう。貴様らをここに放置して、もがきながら死んでいく様を見るのも悪くはない。」
「…………」
シルフィードは黙って俯いた。シヴァに丸め込まれず、かつ温和に話をつけるには、これしかない。だがウンディーネもリヴァイアサンも、弱りつつあるのを自覚し、嘆き苦しみながら死んでいく…その様が脳裏に浮かび、結局踏ん切りが付かなかった。まるでシヴァに見透かされたかのようで、敗北感に襲われたほどだ。
瞑想を始めたシヴァを後目に、シルフィードはウンディーネとリヴァイアサンの許に戻った。
「お二人に相談があります。」
リヴァイアサンに寄り添うウンディーネに、シルフィードは優しく問いかけた。リヴァイアサンはもう意識が朦朧としている。
「祠の裏手にシヴァがいました。彼が言うにはこの霧には関与していないものの、彼はこの世の破滅を見届けるつもりだから、生き残るといった希望は持つなと言われました。望むならこの苦痛から解放すると言っていますが、お二人はどうしますか?」
「…何だよ、それ……選択肢、ねぇじゃん……」
薄れゆく意識の中、リヴァイアサンが何とか声を出した。確かにリヴァイアサンにとっては選択肢がないも同然だ。
「なんか向こうの思う壺で気に食わないわね…」
「私も口車に乗せられそうだったので、とりあえず断って戻ってきたのですが。」
「何で断ったんだよ…足引っ張るのは、嫌だって…言っただろ?」
「えっ。」
「リヴァイアサン…?」
どうしてよいか分からず右往左往するシルフィードやウンディーネと違い、リヴァイアサンの腹は決まっていたようだ。
「鵜呑みにするようで気分悪いけどよ…俺みたいな邪魔者は、とっとと退場した方がいいのさ…」
「待ってよ、何でそんな…」
「許せ。無駄死になんかじゃ、ないはずだ。」
「…………」
「…………」
「…シヴァに話してくる。」
「……ウンディーネ?」
覚束ない足取りで、ウンディーネが祠の裏手へ歩いて行った。シヴァはまだ瞑想中だったが、ウンディーネが近づいてきたのに気付き、すぐにそれをやめた。
「死にかけているリヴァイアサンを…楽にしてくれるの?」
「もちろんだ。…いいのか?」
「…本人の希望なの。私に拒否権なんか、ないわよ。」
「…よいだろう。」
重い腰を上げ、燃え盛る鉾を持って、リヴァイアサンの許へ進んでいった。ウンディーネはそれよりも先にリヴァイアサンの許に戻った。
「本当にこれでよかったの…?」
「おい、泣くなよ…俺が決めたことだ、悔いはない…」
「…………」
「愛してるよ、ウンディーネ。お前と俺は、どこでも、ずっと、一緒だから。」
「…………水臭い。」
「悪りぃな。」
最後の会話を交わすと、ウンディーネとリヴァイアサンは接吻を交わした。終始シヴァとシルフィードはそっぽを向いていた。
「…言い残したことはないか?」
「……ヘヘッ、ないぜ。」
「…他に死にたい者はいないな?死に急ぎたくなければ下がることだ。」
「…………」
ウンディーネは無言でゆっくりとその場から引き下がった。シルフィードもゆっくりとその場から引き下がる。それをシヴァが見届けると、炎を纏った鉾を振り下ろした。
「ぐおおおおぉぉぉぉぉっ!!」
瞬く間に辺り一面が炎に包まれる。山頂から響き渡る、低く、くぐもった悲鳴。シルフィードは相変わらずそっぽを向いたままだが、ウンディーネはその場に崩れ落ちた。
梅雨の晴れ間ということで、私はまた、あの場所に戻ってきた。
平日の午前にもかかわらず、神社の境内は人が多かった。私はその中に混じって、デジタルカメラを片手に境内の彼方此方を写真に収めて練り歩いていた。
ここには、私を虜にする何かがある。朱色の社殿は太陽の光をいっぱい浴びて輝かしく見えるし、横に伸びる階段を昇れば、それらが全て一望できるのだ。
その眺望もまた、季節や時間帯によって異なる。私は前回も同じ時間帯にここに来たのだが、その時私は急病になり…お腹の中にいた赤ちゃんが死んでしまった。写真は撮れてないわ、精神的に滅入っていたわで、次に仕事が休みの日はいつだろうか、その日は行けるだろうか、といったことで頭がいっぱいだった。あれから1月も経たないと思うが、私は何とか立ち直り、仕事の休みができたので、今日ここにリベンジに来たわけなのだが…
「…あれっ?」
写真を撮ろうとしたときに、デジタルカメラの様子がおかしいことに気付いた。電源ボタンを入れても電源が入らないし、シャッターを押しても何も起こらない。電池切れだろうか、困ったなぁ…かなり年季の入った古いものだし、電池の消耗が予想以上に早かったのかもしれない。ただ、この辺りに乾電池を売ってそうな店なんか、ないよね…
諦めようか、うろうろしていると、眼下の境内に騒がしい集団がいるのに気付いた。若い男性3人衆。長い髪の人、眼鏡をした人、眼帯をした人。会話が弾んでいるのか、階段の上からでもその声が聞こえたくらいだ。
「…悪い、俺、ちょっとトイレ行ってくるわ。お前ら、見たいところがあるだろ?どうせだから、今から自由行動にしようぜ?」
長い髪の人は催したようだ。
「おう、じゃあ俺たちは適当にふらついてるよ。」
眼帯の人は声からして強そうだ。
「そうだね、なかなか大人数で行くには気が引ける場所があるかもねぇ?へっへっへ!」
眼鏡の人は何を企んでいるのやら。
そんな会話があると彼らは解散していった。
――トイレに行こうにも、場所が分からない。困った俺は、売店にいる可愛い巫女さんに道を尋ねることにした。
「すいません、トイレ、どこっすか?」
「トイレですか?あちらの駐車場の脇にある建物になります。」
「どうも!」
指差された方向に蔵のような建物があった。化粧室の看板があった。何とか失禁することなく、用を足すことができた。
さてと、どこを見て回ろう?あいつらはバラけて適当に彼方此方歩き回っている頃だろう。とはいえ、この神社のどこを見ればよいものか。
神社に入って脇に伸びる階段を昇れば、そこから境内が一望できる。そう思った俺は、駆け足で階段を駆け上った。…胸に風穴を開けられたとは思えないくらい、すっかり回復した証拠だ。
階段の上には長い赤髪の女性がいた。女性は手に持ったデジタルカメラをしきりにいじっているが、ちょっと覗き込むと、ディスプレイは真っ暗で、シャッターも切られている様子はない。壊れちゃったのだろうか?
「…お困りですか?」
俺が声をかけると、はっとして振り向く女性。まるで声をかけられるまで俺の存在に気付いていないかのようだった。
「いや、その…電源がつかなくなっちゃって…」
「ちょっと見てもいいですか?」
「ええ。」
女性からデジタルカメラを受け取る。電源ボタンを押しても、シャッターを押しても、まるで反応がない。ディスプレイを操作するボタンを押しても何も変わらない。中身の問題だな。
「電源がつきませんね…」
「そうなんです。結構古いヤツなんで、もう寿命なのかもしれませんね…」
サークルでよく写真とかは撮ったりするので、カメラにはそれなりに詳しいつもりだ。ディスプレイに何も映らない以前に電源が入っていないのが分かったので、そのまま女性にカメラを返そうとしたが、問題を解決できていないことが気がかりで、思いとどまった。
「まだ写真撮りたいですよね。よかったら、僕のカメラ、使いますか?」
「えっ…そんなこと出来るんですか?」
「ええ、SDカードをあなたのカメラに入っているものと入れ替えれば、あなたのSDカードに撮った写真が保存されますから。」
「でも、さすがにそれは申し訳ないというか…壊しちゃったら大変ですし…」
「首から下げられるように紐がついてますから、大丈夫ですよ、ほら!」
「あぁ、じゃあ…お借りします、すいません。」
俺はその場で女性のカメラからSDカードを引っこ抜き、カメラを女性に返すと、自分のカメラを取り出して、自分のSDカードを抜いてポケットに突っ込み、女性のSDカードを差し込んで、女性に自分のカメラを渡した。
「ありがとうございます。」
女性は一言お礼を言うと、カメラを構えて眺望を撮影し始めた。カシャカシャというシャッター音を横から聞くのも新鮮だ。
「この景色が好きなんですよ。四季折々、時間帯によっても七変化するんです。それが面白くて、見とれてしまって。」
「へー、いい場所ですね!」
この神社に来たのは、別に景色が目的ではなかった。それゆえここ社不知神社が、景色が綺麗な場所、でもあることに俺自身も驚いた。
女性は十数枚の写真を撮ると、SDカードを抜いてカメラを返してきた。
「ありがとうございました、おかげでいい写真が撮れたと思います。」
「いいえ、よかったです、お手伝い出来て。」
「よかったら、お礼をさせてください。一緒にお茶でもいかがですか?」
「…俺と?」
「あ、いや、お時間ないようでしたら、いいんです。ただちょっと、恩返しがしたいなと、思っただけなので。」
一瞬躊躇した。ただカメラを貸しただけで、お茶でもいかがですか?俺はそんな大したことはしていないつもりだったし、正直戸惑った。
周囲を見回す。雷輝も知史も見当たらない。ポケットに入っている携帯電話の電池はまだたっぷりある。
「…お、俺でよければ…お茶、しましょう!」
「え、いいんですか?よかった…てっきり断られるかと。」
「いやぁ、せっかくお誘い頂きましたし?時間も全然ありますし?断っちゃうのはこっちが申し訳ないかなぁ、って!」
「あっははは。じゃあ、行きましょうか。近くに喫茶店があるんですよ。そこにしましょう。」
雷輝と知史に見つからないうちにと、自然に足が速くなる自分がいた。
神社から少し歩いたところに、その喫茶店はあった。お昼前で人はまばら。軽くお茶するにはもってこいだった。
「いらっしゃいませ、空いているお席へどうぞ!」
うお、店員さんも可愛いなぁ。一緒に来た女性もまた魅力的だけど、この人は可愛さとは違うものを秘めている。この村の女性が可愛さに溢れているとしたら、この女性もまた観光でここ社不知村に来ているのだろう。
さっきの可愛い店員さんが、お冷とメニューを持ってきてくれた。まだ昼食には早いし、お互いスイーツとコーヒーを注文した。料理が来るまでの間、会話に花を咲かせた。
「じゃあ、自己紹介しましょう。」
そう切り出したのは女性の方だった。
「私の名前、平塚 阿八女といいます。よろしく。」
「俺は、蛭川 狡貴です。よろしくお願いします。」
アヤメさんというのか。
「コウキ君、私より年下かしら?大学生?」
「あ、ええ、はい、大学生です。」
「そっか。大学生は休みが多いもんね。私もその頃は彼方此方旅行に行ったりしたわね。」
「今はお仕事ですか?」
「そうね、なかなか休みが取れなくて。狡貴君も今のうちに楽しんでね…って、なんか説教みたいでごめんなさいね。」
「いえ、とんでもないです。」
不思議と阿八女さんとの会話が弾んだ。阿八女さんの仕事の話、俺のいる大学やサークルの話、この村の話。ところがこの村の話とはいえ、診療所の話は話題として出てこなかった。俺の方には言いづらい事情があるが、阿八女さんにもあるのだろうか?
「ごちそうさま~」
「美味しかったです。またここに来たいですね。」
「私、お勘定してくるわね。」
「いやいや、僕も払いますよ、割り勘にしましょ!」
「いいのよ、私が誘ったんだし、私に払わせて。これも恩返しのうちよ!」
「…じゃあ、そこまで言うのなら。」
軽食を平らげ、連絡先を交換して、話の区切りがついたところで、二人で店を出た。梅雨の晴れ間とはいえ、真っ昼間の日差しは暑い。
「じゃあ、私はこれで。」
「え、もう帰っちゃうんですか?」
「元々、長居する予定じゃなかったから。それに、帰るんじゃなくて、泊まってるホテルに戻るだけ。あと3日はこの村にいるわよ。」
「え、ホテルって、北の端にある?」
「ええ、そうだけど。」
「奇遇ですね~、俺もそこに泊まってるんですよ!」
「あら、そうなの?じゃあ向こうで会うかもしれないわね。」
「そうですね。」
「じゃあ、また後で!」
「失礼します!」
運命って、つくづく偶然でできていると思う。良心の呵責からカメラを貸してあげただけでここまで親密になれるなんて、普通考えられない。
ポケットに入っている携帯電話が振動した。恐らくあいつらからの呼び出しだろう。とりあえず電話に出て、適当に取り繕っておいて、俺は神社への道を戻った。まだ俺の感情は昂ったままだった。
眼下に広がる雲海。
普通の雲海には美しさが宿るが、今あるのは毒霧による雲海だ、美しさのかけらもない。
「…………」
「…………」
「…………」
ペガサスに跨る二人の女神。その顔つきはまさに行く末を見据えているかのようだった。
怪我を負っているペガサスだが、あれだけ大見栄を張っただけあって、飛んでいる間は痛みを嘆いたりはしなかった。もっとも、そんなことを言っている余裕もなく、実際はかなりの激痛を堪えているのかもしれないが、二人の女神に知る由もない。
「うん?」
不意にペガサスが周囲をキョロキョロと見渡し始めた。さっきまでなかったその動きに、まず天照大神が問いかける。
「…傷が痛むのか?」
「いえ、そうじゃないです。」
「何か気がかりなことでも?」
セレネーも続けて問いかけた。
「…主の気配が……一向にしないのです。」
「それはいつから?」
「実は少し前から、おぼろげにしか感じられなくなってたんですけど、ここに来て、もう完全に…」
「困りましたね、当たりをつけて探そうにも、眼下はこの霧ですし…」
「…………」
「あ、ごめんなさい、気を削ぐような発言でしたわ。」
「だが、先ほどから似たような光景だぞ。海も山も見当たらない。星を見ないと現在地を見失うかもしれない。」
「闇雲に探し回るのも危険かもしれませんわね。」
「でもここまで来て諦めるわけにはいきません。」
辺り一面雲海。城を発ってかなりの時間を進んできたが、景色も変わらない。とはいえ、ここまで来て戻るという選択肢もまた、選び難いものだった。
「目星もつかないまま探し回っても、埒が明かないぞ?」
「とりあえず、『おぼろげに』気配を感じた辺りまで行ってみてから考えますか?」
「…信じていないわけではないが、そこに何があるとも分からないぞ。」
「行ってみる価値はあります。」
「…………」
天照大神はここに来て迷っているようだ。弟すら信用できない疑心暗鬼がここで災いするとは。見かねたセレネーは毅然とした態度で対応した。
「私もあなたも知っているはずです、何もせずに後悔する顛末を。」
「…何もせず?」
「エキドナが産み続けた獣…もしかしたら私は、あなたがエキドナに斬りかかったとき、止めるべきではなかったのかもしれません。」
「……!!」
「止めていればこうはならなかった…これは私たち共通の『後悔』のはずです。だったら、行動が起こせるのだから、天照大神、私はあなたと、後悔しないような選択をしたいのです!」
「セレネー…」
後悔。神でさえ時に後悔する。ただ、神とて学ぶ。何もしない、何もできないで後悔するのであれば、事が良い方に運ぶと保証されなくても、何かをする方が気楽だと、学ぶのだ。
「何もせずに後悔したくない、だったらまだ、当てがなくても探し回った方が、気が楽ではないでしょうか。」
「そうか、お前…息子のことで…」
「あなたにだって、弟さんがいらっしゃるのでしょう?ならゼウスでなくてもいい、彼らがまだどこかにいるかもしれない、だったら探しましょう、私たちで!」
「…そうだな。迷っている場合じゃなかったな。…探そう、私たちでだ!」
「そうです、その意気です!ペガサスも聞いていましたね?誰であろうとかまいません、見つけるまで探しますよ!」
「元からそのつもりです、行きますよ、しっかり掴まっててくださいね!」
迷いはもうない。眼下に広がる雲海。いつまでも続く雲海などない。…探そう。この世の果てまで。誰かがどこかで待っていることを願って。