14.Zeus‘s Death(ゼウスの死)
・・・体が落下する感覚は、居眠りしているときに感じるものに似ていたが、ある瞬間から、体全体が冷たく感じてきた。すぐに口元が塞がり、息苦しい感じを覚える。
目を覚ますと、視界が霞んでいた。メガネはどこだ?・・・宙に浮いている。・・・は?
息苦しさと寒さ、宙に浮いているメガネを見て、やっとのことで自分が置かれている状況を理解し、素早く行動に移った。
「・・・・・・ぶはっ!!・・・はぁ、げぼ、がほっ!」
水面の上に顔を出し、気道に入った水を吐き出す。浮かんでいるメガネを掴んで顔にかけると、やっとのことで視界がクリアになった。
そこには異様な光景が広がっていた。僕がいるのは海の上。近くには大小様々な欠片というか、機械の部品のようなものが、散らばって浮かんでいる。その欠片に混じって、丸みを帯びた物体がいくらか浮かんでいた。考えたくもないが、それは生活感というものを感じさせた。
僕はまだ状況が完全には理解できずにいた。落ち着きを取り戻そうという意図もあり、僕は過去の記憶を辿ることにした。
――それは、僕の記憶が途切れる、さらに16時間も前の話だ。
「・・・地下遺跡?何を寝ぼけたことを言ってるんだ?麻酔が強かったか?」
「嘘じゃないっすよ。サークル内であれこれ探って、本とかネットにも情報としてあったんすよ!」
昨日の夜9時。容態が大分回復した狡貴と僕は、魎の事情聴取に付き合っていた。そこには第一発見者の海斗の他にも、健治と風香ちゃんもいたのだが、その中で、僕を襲った理由について話を聞くと、『地下遺跡』なんて言い出したもんだから、僕はもうどうしていいかわからない。
「この村の地下遺跡ねぇ・・・魎は聞いたことある?そういう類のもの。」
「いやー、観光客に教えてあげられそうな場所なら一通り知ってるつもりだけど、そんな場所は見当もつかないなぁ。海斗はどうだ?」
「俺も知らねーな。和上の空き地なんかに、都市伝説っぽいのを感じるけどな!」
「あの辺はホテルの建設計画が浮かんでは、立ち消えになってますからね。曰く付きの土地、とかちらほら耳にしますよ。」
風香ちゃんの意外な情報に、話が逸れそうになるが、僕はあくまで地下遺跡の話が気になった。
「・・・・・・・・・・・・」
健治は腕組みをして俯いたまま、瞑想でもしているのか、目を瞑ってただ黙っていた。
「それで、その地下遺跡がここにあるなんて、どうして思ったの?」
「元々は、どこかなんて分からなかったんすよ。資料を読み漁っても、『村の中核に神話に伝わる神々が墓を作った』としか書いてなくて、ネットにも正確な情報はなかったんすよ。」
「それって、社不知神社のことじゃないですか?日本神話の神様を祀っている神社です。」
「神社に関する情報なら腐るほど出てきたんすけど、行った人のブログとか口コミを見ても、それっぽい情報がなくて、最終的にはそこに行く予定だったんすよ。」
「何か読めてきた・・・俺、仕事柄、村の地図はしょっちゅう見るんだけどよ、俺が案内用に作った地図はさ、南は和上、北は都賀野、東は守崎、西は高徳院がすっぽり入るような長方形の地図なんだけどよ、その『村の中核』って、もしかして地図のど真ん中を指してるんじゃないかって、思わなかったか?」
魎の発言は意外だったが、狡貴の眼差しが一層輝かしく見えた。
「それは俺らも思いました。でも地図によって中心なんかバラバラだから、航空写真とかストリートビューとかでそれっぽい場所に当たりを付けて行こうって話になったんす。」
「で、あの崖を見に行って、岩場に落ちたってか?」
海斗が茶化すように言った。
「まあ、結果的にそうなったんすけど、それでここに運ばれたとき、やけに建物が新しいなって思ったんすよ。」
「そんな理由!?」
「俺だけじゃなく、他の連中もそう思ってたっすよ。昔はここが何だったのか、気になるのは俺らの中では当然っすよ。」
その思考は僕の中では肯定しがたいものだった。
「そういえば、雷輝と知史は?」
「あいつらはあいつらで今日も村を散策してるんじゃないんすか。」
「何だよ、知らないのか?」
「携帯電話はありますけど、元々そういう話でしたから。」
「ふーん。」
「で、先生がいない夜中にメールが来たんすよ、知史から。」
「何て?」
僕は先を急ぐように言った。
「駐在所でもらった地図の中心は、俺がいる診療所だって。」
「ああ、確かに俺の地図は、分かりやすいように中心が公民館になってるなぁ。観光案内所もあるし、迷ったら分かりやすいところに来れるように、一応工夫はしといたんだ。」
「たまにいるぜ、道に迷ったと思わしき観光客に、公民館までの道を尋ねられるのは。仕事中だろうとお構いなしなんだよな」
「私は、神社にいらっしゃる方で、帰り道が分からない方とかには、最寄りのバス停を案内してますね、公民館までだと遠いので。」
ちょっとずつ意見交換会のようになりつつあるのに僅かながら苛立ちを覚え、浮かんできた疑問を素早く狡貴にぶつける。
「それが僕を襲う理由になったわけ?」
「最初のうちはそんなこと考えつきもしなかったっすよ。ただ、知史からあれこれ情報をもらうに連れて、診療所の全体像が見えてきたというか・・・」
「手っ取り早く事を済ませようとする考えは強盗と一緒だな。」
「雅治、落ち着いて聞いてやれ。」
魎に咎められた。僕としてもこの言葉が出てきたのは、後に考えれば不思議なことだ。汚い水をろ過せずに流したのと一緒だ。
「具体的にはどういうメールだったの?」
「診療所の大まかな構造とか・・・2階に通じる階段の脇に、鍵のかかった扉があるっていうのもそれで知ったっすね。」
うわ、僕の中で今、疑問というものが、泉から湧き出る水の如く、次々と湧いてきている。
「そのメールはいつ来たの?」
「ええと、俺が入院した日、だったと思うっす。」
「あいつ、片目が見えないクセして、そんなところまで入念に見てたのか・・・そんなこと知ってどうなるの?」
「遺跡を発掘したいっていう意欲が元々からあったんで、その怪しげな扉をこじ開けたいと思ったんす。」
「賞金稼ぎの考えることだな・・・で、そこからどう転がって、僕を襲おうと思ったわけ?」
「先生に聞けば、鍵の在り処くらい分かると思うっすけど、立入禁止の場所に行きたいって、管理人に言うような人はいないでしょ?」
「それで短絡的な思考に走ったと・・・そういえば、怪我人のお前がどうして、あんな金槌なんか持ってたんだ?」
「あれは雷輝から借りたんすよ。日曜大工が趣味なんすよ、変わってるでしょ?」
「どうせ僕が寝静まった頃に持ってきたとか言うんだろ。」
「雅治、殴られていい気持ちじゃねーのは俺にもわかるけどさ、マイナスの先入観っつーのは排除して、聞いてやった方がいいんじゃねーのか?」
海斗にも諭される始末。
とはいえ、聞かされている話があまりに幻想的で現実味を帯びていないのは、何も僕だけじゃなく、ここにいる全員が共通して持っている意識なんじゃないのだろうか?それを否定したいから、冷たい当たり方に自然となっているのではないだろうか?
「とりあえず今の話は全部録音させてもらったから、証拠として採用するよ。これが嘘っぱちだったら、ただじゃおかないからな。」
魎は熱くなってるつもりはないのだろうが、口調が自然と凄みを帯びている。
「私は・・・この話、聞かなかったことにします。神社の方で、古い文献とか、一応調べてみますけど。」
「俺も気になるなー。地下遺跡かぁ。パトロールって銘打って、そういうところ探してみるか!」
まったく、二人とも真に受けて。
以前、晴子や大森知事から話を受けて、確かにここの地下に怪しい場所があるのは何度も聞いているが、嘘に嘘を重ねて本当になるかというと、必ずしもそうとは限らない。
僕はちゃんとした理由があると思うし、地下遺跡だろうと異次元と通じる穴だろうと、そんなものは現世の日本にあるわけないと思ってるから、どちらも否定したい。
だけど、現にこの間地下に入ってみて、ミノタウロスに遭遇したことを思い出した。僕はあれで大森知事が単なる脅しで押しかけてきたわけじゃないと分かったし、狡貴の言う地下遺跡とも、似て非なるものだが、近からず遠からずなのは、自分の中で嫌でも分かっているはずだ。
それを僕は、いや、今日ここに集った全員は・・・否定したいのだろう。だから、頭の中で強い拒絶反応が起こっているから、その話を嘘だと思い込みたいのだろう。
僕は、ここにいる誰もが真に受けているのを驚き呆れながら、薄々は僕の中で否定していたことが現実と化していることに焦りも感じていた。
「さてと、俺らは引き上げるか。長々と付き合わせて悪かったな。早く良くなれよ?」
「おいおい、魎の言葉が意味深に聞こえるぜ?」
「そうですね。なんとなく、私にも今のニュアンスから分かりました!」
それって、敵対している僕と狡貴が同じ診療所にいるってことがか?
別に呉越同舟って訳じゃない。狡貴とその取り巻きが変な気を起こさなければ、僕も彼らとは、医者と患者という関係でいれたのだ。いや、狡貴とは、それ以上の関係であれたのかもしれない。
僕の中では、狡貴という人物像は、完全には構築されていないが、決して悪いものではないと思う。でなければ、僕は襲われたとき、持っていた拳銃で、迷わず狡貴を撃ち殺していたはずだ。
僕は複雑な感情に耐えられず、魎たちと一緒に病室を出た。3人ともキョトンとしていたが、健治だけは僕の目をじっと見つめ、小さく頷いた。それが何を意図するのかは、僕にも分からないのだが。
「あれ、皆さん、今からお帰り?」
1階の受付にはまだ水穂ちゃんがいた。あれっきり、僕を一人で診療所に残して帰れないとか言っているが、そんなハーレムめいたことは、僕は一切期待していない。
「ごめんな、遅くなっちゃって。もう9時か。」
「そろそろ戻らないと、神主さんに怒られちゃいます。」
「門限破りで怒られるくらいなら、いっそこのままパーティーでもするか?」
「冗談だろ、海斗。」
「「「「「あははははは!!」」」」」
これだけ賑やかに騒いでいても、健治は輪から外れて、一人寡黙でいる。
「そういえば、健治さんって言うんですよね、体調はもう大丈夫なんですか?」
風香ちゃんがこう切り出してきた。当の健治はどうしてよいのか分からず、ただ黙ったまま。
「俺が見た感じだと、特に問題ねーから、一過性の頭痛だったのか、何かのショックで頭痛が誘発されてるか?・・・だな。」
海斗が珍しく冗談抜きで言ってきた。
「どういうことですか?」
「いや・・・俺、こいつと一緒に外出したりしたんだけどよ、その途中でも何回か突発性の頭痛に襲われては、なんでもなかったかのようにケロッとしてるんだわ。それで、どうしたのか聞いても、古臭い口調で煙に巻いてばっかだし・・・精神医学とかは詳しくねーけど、心身的な要因で頭痛が誘発されるってのは、よくある話だからよ。」
「私も最初、古臭い口調は気になりましたし、説明の最中に、何か引っかかることでもあったのか、急に頭痛を訴え始めたのも、気になりますね・・・」
どうしよう、このままでは健治が怪しい人物というレッテルを貼られてしまう。ここはやはり僕が介入してあげるべきだろう。
でも僕としては、これほど大勢の前で打ち明けることになるとは夢にも思わず、咄嗟に、今まで満とかに言ってきた嘘をついた。
「あ、ああ、ホームレスなんだよ、こいつ!」
4人の視線が、一斉に僕に注がれる。その目は、驚きに満ちていた。
「いやー、この間出雲の街で見かけてさ、雨の中ウロウロしてたから、とりあえず家の中に入れたんだよ。そしたら仲良くなっちゃって・・・」
「・・・お前よく、知らないヤツを家に入れたな!?」
最初に魎が、目を見開いて言った。
「だって、ほら・・・僕は一応、医者なんだし?放っておけないじゃん。」
「どうやって仲良くなったんだ?俺にも教えてくれよ!」
海斗はやけに興味津々。
「いや、普通に衣食住をともにしただけだよ?特別なことなんて・・・ねぇ?」
「じゃあ、古臭い話し方とか、気にならなかったんですか?」
風香ちゃんは、ずっと前からそこが気になっていたのだろうか。
「そりゃあねぇ、綺麗事かも知れないけど、世の中色々な人がいるからね。医者という職業柄、いろんな人と接するから分かるんだけどさ。」
「苦労とかはないの?支出が増えるわけだし!」
水穂ちゃんは、ここで僕に対する質問をぶつけてきた。
「それはあまり気にしてないかな。収入はそこそこにあったし、少し支出が増えたくらい、あまり気にならないよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
一通り全員が質問を終え、腑に落ちないような微妙な表情が窺える。・・・いや、海斗だけは薄ら笑いを浮かべている。
「へー。ますます面白く感じてきた!俺はこいつのこと、受け入れてやるのはいいことだと思うぜ!」
「そ、それは何をもってしてだ?」
相変わらず魎は半信半疑な様子。
「・・・ち、知的好奇心ってヤツだ、単にこいつの素性が知りたくなっただけだし!」
「ふうん?海斗に好奇心がねぇ?らしくもないことを言うのね。」
水穂ちゃんも表情を明るくして言った。
「雅治さんも、そういうことはもっと早く言ってくれないと。明日からでしょ?福岡出張。ここも余裕はあるから、うちでも面倒見てあげられるよ!」
「水穂ちゃん・・・」
周りの雰囲気が変わりつつあるのを感じ取った。感無量、その一言に尽きた。
「健治さん、神社の社殿が気に入ったみたいですよ。いつでも連れてきてくださいね!」
風香ちゃんも満面の笑みで応えてくれた。
「・・・まったく。この村にいるからには、嫌でも俺に会うことになるからな。よろしく頼むよ。」
「魎、なんだよ、そのツンデレ発言!」
「だ、誰がツンデレだ!」
「「「「あははははは!!」」」」
一致団結。その言葉は、小説とかの文面上では飽きるほど見てきたが、身を持って実感したのは初めてだ。
僕はその喜びを噛み締めると、健治の方へ振り返った。健治は文字通り、面食らった様子でポカンとしている。
「今まで独り身で辛かったりしただろうけど、これからは僕らがいるから。色々頼ってよ!」
僕がそう言って右手を差し出すと、健治の強張った顔も緩んで、気恥ずかしそうに右手を出してきた。
「面目ない。」
ただ一言、そう言いながら。
僕でも驚いたのが、それにつられるように、横から伸びてきた5人分の片手。僕を取り囲むようにして、海斗も、魎も、水穂ちゃんも、風香ちゃんも、僕と一緒に健治の手を握っていた。
「・・・痛い痛い!誰だ、強く握ってたヤツは!」
「さぁ?誰だろ~な~?」
「やっぱり海斗か、お前ってヤツは!」
「「「「「あっはははははは!!」」」」」
僕はこうして、この村に来て一番幸せな日を終えた。
人里離れた島に辿りついた、1隻の小船。
「ここか・・・・・・」
乗っていたのは、少年が一人と、3体の動物。犬、猿、雉が1体ずつ。
「よし・・・気合入れていくか!」
黍団子を腹ごしらえに頬張り、刀を携えて島の内陸へ進んでいく。
だが上陸してまだ間もないうちに、手荒な歓迎が控えていた。
「おい、小僧!ノコノコとやってきて、タダで帰れると思ってねーだろーなぁ!?」
「イヒヒヒヒ!鬼だけに、餓鬼を甚振るのは容易いでっせ!」
「うわ、早速お出ましかよ・・・」
思いがけない出迎えに戸惑いつつ、素早く臨戦態勢に入る。
「お前たちが人の村で大暴れしてる鬼たちか!」
「だったら何なんだぁ?俺たちが好きなことやって、何が悪いんだよ?」
「村の人たちが困ってるんだ!お前たちが悪さをやめないってんなら、僕が成敗してやる!」
「ははははは!可愛いなぁ、『成敗』だとよ?」
「イヒヒヒヒ!やれるもんならやってみろってんだ!」
鬼たちは揃いも揃って桃太郎を見下した。桃太郎はそれでスイッチが入り、近くにいた鬼に容赦なく斬りかかった。
「でりゃあ!」
「・・・ぐおっ!?」
最初の鬼は一太刀で倒れてしまった。
「・・・こ、こいつ、只者じゃないな!?」
「次はお前だ!」
「ひぃッ!」
「どりゃあ!」
「わわわっ!!」
もう片方の鬼は一振りかわすと、最初の鬼の傍らを弄り、尖った棒を構えた。
「ひ・・・ヒヒヒッ。鬼に金棒だぜ、尻尾を巻いて帰ったほうがいいんじゃないかぁ?」
「くっ・・・・・・」
暫しの睨み合い。・・・それを破ったのも奇襲攻撃だった。
「ケェッ!」
「うわ、こ、こら!あっち行け!」
金棒を持った鬼に、雉が果敢に突っ込んで行き、目潰しをした。
「ワゥッ!」
「あぁっ!痛い、やめろ!」
続いて犬が噛み付く。
「キィッ!」
「だあっ、おい、こら、返せ!」
猿は鬼の腕に組み付いて、金棒を奪い取ってしまった。
「観念しろ、でりゃあ!」
「ぎゃあぁ・・・」
一刀両断された鬼は、その場にバッタリと倒れてしまった。
「今の連携、よかったよ!この調子で行こう!」
連帯感を確認しあった一行は、そのまま島の奥地へ入っていった。
大分歩くと、森林の開けた場所に砦があった。砦とは言っても、防衛設備の手薄そうな作りで、さっきのお出迎えは何だったのかと、桃太郎は面食らう。
正面からではなく、脇の小さな扉から中に入る。中庭みたいな場所に出るが、ここにも人の・・・いや、鬼の気配はない。
中庭には水路が巡っていて、生垣が囲っている。水路に沿って生垣に隠れながら、中庭の端を伝って、正門から見て一番奥にある建物を目指す。
「見ろよ、これ。うまそうだろ?」
「またお前は食い物かよ!たまにはこいつみたいに金目のものを盗ってきたらどうだ?」
「いやー、今日はそんなに盗れなかったぞ、思った以上にしぶとかったな、今日の連中は。」
正門の方から声がする。生垣越しに覗き見ると、3体の鬼が手にそれぞれ得物を持って帰ってきたようだ。持ち物は、話と一致するように、農作物や貴金属などだった。
あいつら、またどこかの村を襲ってきたのか?・・・ただならぬ思いが胸に宿った瞬間、桃太郎の体が動いた。
入ってきた脇の扉の方へ逆戻りし、水路にかかっている橋を渡り、3体の鬼の背後に回りこむと、否応なく3体に斬りかかった。
「うりゃあぁっ!」
「ぐわ!?」
「何・・・うぉっ!?」
「くそ・・・ぬわぁ!」
3体とも仲良く地面に倒れこむ。手にしていた物も地面に叩きつけられた。
「・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・」
肩で息をする桃太郎の許に、犬、猿、雉が遅れてやってきた。
「闇討ちなんて、するつもりなかったのに・・・許して。」
同情するわけでも非難するわけでもない、返事をしない動物たちを、桃太郎はそっと撫でた。
改めて中庭を進み、奥にある建物に辿り着いた。誰もいない縁側を横目に、裏の勝手口から中に入る。
生活観はある。それも強烈な。なぜかというと、勝手口は散らかっていて、余った食材や汚れた食器が無造作に放られていたからだ。この食材も、どこかの村からかっぱらってきた物なのだろうか・・・
誰もいないはずはないだろうという期待と、巣に帰ってきた残党を巣の中から叩き潰そうという固い意志から、桃太郎はゆっくりと階段を上がり、2階に着いた。
「・・・来たな。」
やはり誰かいた。視線の先を、声がした部屋の奥に絞る。
窓の傍に佇む人影が一つ。部屋が暗すぎて、シルエットしか見えなかった。
「ここまで来たことだけは褒めてやろう。だが・・・」
ゆっくりと人影が振り返る。やはりまだ顔は見えないが、姿かたちははっきりした。・・・ただ、それはさっきまで外にいた大柄な鬼だとするには、違和感を覚えるものだった。
「ここに来たところで、何が変わるというものか・・・終焉はすぐそこまで来ているというのに。」
誰だ、顔が見えないまま、その人影はゆっくりとこちらへ歩き始める。
恐怖から後退りすると、かかとに何かがぶつかった。
振り返った桃太郎の顔が固まった。大柄な鬼の無残な屍が2つ、自分の近くに転がっていたのだ。
再び前を振り向いたとき、人影はすぐ近くまで迫っていた。そのお陰で顔まではっきり見えるようになる。青ざめた皮膚、長くて白い髪、筋肉質な体、腰には虎の皮を巻き、手には鉾みたいなのを持っている。・・・それだけで十分萎縮してしまう。
「これは・・・お前がやったの?」
「我が名はシヴァ、そう呼べ。一体となる三神のうちの一人、破壊を司る者だ。」
「・・・僕は桃太郎、その・・・シヴァのこと、信じていいのかなって・・・・・・」
「信じるも信じないも勝手だが、結果は変わらない。この世はもうすぐ終わりを迎える。貴様が何をしようと、どうにもならないことだ。」
「えっ、何を言ってるのか分からないんだけど・・・」
「・・・子供が。」
その一言に桃太郎はムッとし、鞘に手をかける。それをシヴァは見抜いた。
「我が貴様の敵だろうと味方だろうと、行く末は変わらないと言っているのが、貴様には解せぬか?」
「うるさいっ!代わりに鬼をやっつけてくれたことはありがたいけど、お前も悪そうなヤツだから、僕が成敗してやる!」
素早く剣を抜く桃太郎だが、シヴァは先ほどまでの鬼とは打って変わって、怯む様子もない。
「・・・無意味だと言うのが解せぬか、子供が。」
「覚悟っ、どりゃあ!」
ブンッ!
渾身の一振りは派手に空を切った。・・・早い!
シヴァの存在に気付いたのは、首根っこを捕まれたときだった。
「うぐ・・・」
「時間の無駄だ。邪魔をするようならば、いっそこの場で絞め殺してやろう。・・・いや、もっと楽に死なせてやろうか・・・」
「・・・・・・ツッ。」
首を絞めている右手を振り払おうにも、力量的に適わないと見るや否や、桃太郎は持っていた剣をシヴァの胸元目掛けて突き出した。
ズバッという音と共に血しぶきが舞う。
薄れ行く意識の中で桃太郎は自分が見た光景に・・・唖然とした。
「・・・こんなことをして何になるのか、未だに解せぬか!?」
シヴァは桃太郎の突き出した刀を、空いていた左手で受け止めているのだ。しっかりと刀を握っている左手からは鮮血が滴り落ちている。
「そんな・・・・・・」
「もう容赦せん、一思いに絞め殺してやる。」
「くぅ・・・・・・」
絶望が意識を支配し始めた。・・・いや、意識というものすら、消え失せつつあったのだろう。遠くなる意識に一筋の光が差すように、耳を劈くような鳴き声が響いた。
「ケェッ!」
「ワゥッ!」
「キィッ!」
犬、猿、雉がシヴァに飛びついた。
「ちっ、邪魔者めが!」
振り払おうにも、手は両方とも埋まっている。その間に、犬は噛み付き、猿はのしかかり、雉は飛び掛った。
「・・・こうなったら全員纏めてッ!」
シヴァはその怪力で、桃太郎と、犬と、猿と、雉を、窓の外に放った。
ドボンという音と共に、全員水路の中に落ち、流れのままに流されていった。
――翌日、僕はまだ受付が始まらないうちに、診療所を後にした。
診療所を出る前に、入院病棟を見ていったが、まだ朝早いというのもあって、狡貴も高大も寝ていた。各種データは問題なさそうだったから、菘さんと水穂ちゃんに任せよう。
珍しく早起きした菘さんが、車で出雲空港まで送ってくれた。
僕は道中、この村に来た日を思い出した。羽田空港で僕を見送ってくれた二人の旧友――メールでのやり取りくらいしかしなくなったが、二人とも仕事で忙しそうだった。・・・そして出雲空港で出迎えてくれた菘さん。新たな出会いに、少々戸惑っていたのが、ついこの間のようだ。そういえば、あの日も菘さんは、朝の9時くらいに着いた僕を、空港まで来てわざわざ待っていてくれたな。
色々考えていると、出雲空港までの道はあっという間だった。僕が乗る便は、ちょうど昼前のラッシュアワーの便らしく、東京、大阪のみならず、隠岐島を結ぶ便も到着してくる。
チェックインカウンターで福岡行きの便にチェックイン。予約してあったとはいえ、空席の多いコミューター路線らしく、座席指定までさせてくれた。
「じゃあ、診療所は菘さんに任せるね。」
「雅治は、こっちのことは気にしないで、シンポジウムに集中したらどう?スピーチの内容とか、覚えたのかしら?」
「何とか頑張って覚えるよ・・・じゃ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい!」
菘さんの満面の笑みは、僕にとってはハニカミ程度にしか見えないけど、その気持ちに応えたくて、僕は高々と、搭乗券を持った右手を振った。
僕が乗ったのはプロペラ機だった。そりゃあ出雲から福岡まで、それほど長くはない路線だし、使うのも出張のサラリーマンくらい。ちらほら子供の姿も見えるが、それでも空席が目立つ。
僕を乗せたプロペラ機は、予定通りに出雲空港を離陸。眼下にさっきまでいた社不知村を見ながら、日本海へ抜け、山陰地方に沿うように西へ飛んでいった。
・・・ここからだ。僕の記憶というテープに、雑音や映像の乱れが出てくるのは。
確か僕は、中途半端な冷房で暖かいくらいだった機内の空気に促されて、そのまま寝てしまったんだ。
――その便のコックピットの中で、緊迫のやり取りがなされていたことを知らず。
「・・・なんですかね、あれ。」
「ん、ウィンドシールドの汚れじゃないのか?」
パイロットたちが、眼前のウィンドシールドに突如として現れた小さな物体に気付く。
「東京コントロール、こちらJCA850。前方に未確認飛行物体を発見。情報を求む。」
「・・・JCA850、こちら東京コントロール、こちらのレーダーでは、貴機の前方に飛行物体は見受けられないが?」
無線のやり取りを行っていたのは機長だった。その間、副操縦士は前方を注視していた。
「・・・あれっ、見えなくなりましたね。」
未確認飛行物体が視界から消えたのは、機長も同じだった。
「東京コントロール、今視界から消えた。」
「了解、JCA850、引き続き警戒せよ、情報が入り次第伝える。」
レーダーの故障か、幻覚でも見ていたのか。パイロットたちも管制官も、それくらいにしか思っていなかったのかもしれない。
「こんなところでUFOかよ。なぁ?」
「帰ってきて誰かに言っても、信じてもらえるか、微妙ですね。」
「そんなはずあるか、って馬鹿にされるかもな!」
しかし、そんな和やかなムードは、一瞬にして終焉を迎える。
「・・・・・・何だ!?」
ウィンドシールド一杯に閃光が走ったのが、パイロットたちの見た最期だった。
――破裂音で、僕は一度目を覚ました。
一瞬のうちに、通路の前方から眩い光が差し込んできて、ついには僕の周囲も見えなくなった。
続いて、熱波が襲ってきた。目を開けると、霞んでいて痛い。息も苦しくなるし、これはどうやら煙のようだった。
状況が理解できないまま、突然視界が開けた。・・・周囲に何もない。ある物と言ったら、空中に漂う綿雲と、僕を乗せていた座席。眼下には、真っ青の日本海が広がる。
・・・所々ノイズが混じっていたテープが、ここでついに止まってしまった。
――そして今、僕は海の上に体を浮かばせている。
ここで、やっと僕は状況を理解できた。・・・僕の乗っていたプロペラ機は墜落したのだ。
正確には、空中分解って言うのかもしれないけど、何で僕の乗った便が空中分解したのか分からない。
・・・いや、原因はこの際どうでもいい。助けを求めようと、体が動いた。
もう一度、周囲を見渡す。一面に散らばった部品は、僕が乗っていたプロペラ機のものだろう。胴体の壁の一部だったものや、天井の棚、座席なんかはそのまま浮かんでいる。機体の尾翼や、プロペラも浮かんでいた。それ以外、丸みを帯びたものは、乗客の荷物や、乗客そのものだったが、どれも微動だにしない。
・・・嘘だろ。
助かったことが嬉しいとは思えなかった。僕はすぐさまポケットを弄り、携帯電話を取り出すが、水没したせいで壊れたのか、使い物にならなかった。
近くに救命胴衣が浮かんでいたので、それに手を伸ばしたときだった。
「・・・けほっ、げほっ。」
バシャバシャと水しぶきをあげる音と共に、咳き込む誰かの声が聞こえた。
そっちを振り向くと、手だけが海面で蠢いていた。
・・・誰か、溺れている!?
五体満足で怪我もなさそうだった僕は、泳げないわけでもなかったので、そこへ向かおうとクロールで泳ぎだした。
「・・・あぁっ!!」
途中で右手に激痛が走った。一旦止まって右手を海中から出すと、手の甲が真っ赤に腫れていた。
クラゲに刺されたようだ。夏になると日本海側にはクラゲが出てくるらしいが、こんなところでの思わぬトラブルに、自身の運のなさを嘆いてもいられず、痛いのを我慢して泳ぎ続けた。
沈みかけの手を掴んで、その腕を伝って、脇の下に手を入れ、上半身を引き上げる。・・・溺れていたのは小柄な男の子だった。
近くに、飛行機から外れたのだろうか、飛行機のドアが浮かんでいた。大きな板みたいに浮いていたので、その男の子をそこに乗せる。
「大丈夫だから、そこでじっとしてて。」
「・・・・・けほっ。」
意識朦朧としているが、生きてはいるようだ。
ドアの向こう側を掴もうとする手が見えた。僕はそれに気付くと、反対側へ泳いで回り込み、手を掴んでドアの上に乗せてあげた。こっちは女の子だった。女の子はドアの上で丸くなると、すすり泣いているように見えた。
「大丈夫、きっと助けが来るよ。」
僕は別に泳げるし、服が水を含んで重たいが、かろうじて浮かんでいられる。しかも今は6月中旬、水温も高いから、凍死する心配もない。よく映画とかで、真冬の海に投げ出されるシーンとかがあるが、もし今その状況にあったら、僕はとっくに凍死しているだろう。
しばらく海面に浮かんでいると、少し遠い東の空に、飛んでいる何かが見えた。・・・助けが来たのか?
・・・あれ、助けに来るにしては、飛んでいる何かが、飛行機やヘリコプターとは違って歪な形をしているし、よく見たら・・・羽ばたいている!?
まさか・・・・・・あいつのせいで、僕たちの乗っていたプロペラ機は・・・墜とされたのか!?
そいつがゆっくりと降りてきた。姿かたちは、間違いなく、ファンタジーに出てくるようなドラゴンそのままだった。ドラゴンは宙に浮いて停滞すると、バラバラになって墜落した機体の残骸を、品定めするように見下ろしていた。その最中、僕らと目が合った。
「・・・・・・やめろ。」
体が震える。声も震える。ドラゴンはそれでもなお、僕を睨み続けた。そして、何を思ったのか、一度羽ばたいた後、僕らの方へ突っ込んできた。
「・・・来るなぁぁぁ!!」
聞こえるはずのない叫び声をあげる。僕はドアの上にいた子供2人を抱き寄せ、庇うように上に覆いかぶさって、目を瞑った。
ブルルルルルルルルルル・・・・・・
その音は突然だった。思わず目を開けて空を見上げると、ドラゴンは降下をやめて上昇に転じようとしていたところだった。そこへ、何の迷いもなく、1機のヘリコプターが突っ込んでいった。
ドラゴンはヘリコプターのローターを寸でのところでかわすと、一瞥をくれて、どこかへ飛び去っていった。
ヘリコプターはそれを見届けると、ゆっくりと旋回して、こちらへ戻ってきた。ヘリコプターのコックピットのドアが少し開いて、中からパイロットが顔を覗かせた。
「雅治!大丈夫か!!」
ローターの回転音に負けない声に聞き覚えがあった。
「・・・翼、来てくれたんだ!」
「何があったのか知らないけど、とにかく乗って!後ろのドア、鍵は外してあるから!」
僕は外れたプロペラ機のドアに乗って、海面スレスレまで降下してきた翼のヘリコプターのスライドドアを開ける。僕は女の子を抱え上げてヘリコプターに乗せ、続いて男の子を担いで僕もヘリコプターに乗り込んだ。
「・・・他に生存者は?」
「・・・・・・」
翼に聞かれて、返答に困った。もう一度、開かれたドアから眼下を見る。機体の部品、乗客の荷物に混じって、乗客も浮かんでいた。生きているかどうかは分からないが、正直厳しいと思う。
「・・・とりあえず、無線で現在の場所を教えておいたから、まずはお前らだけ運んじまおう!」
ヘリが上昇を始めると、僕は未練を断ち切るように、スライドドアを閉めた。「許してください」と心の中で祈りつつ。
険しい山を登っていた一行は限界に近づいていた。
「・・・・・・げぼっ!!」
ケンタウロスが激しく咳き込むと、血を一緒に吐き出した。
「おい・・・大丈夫かよ?」
「・・・余計な心配はするな。」
「あ・・・あぁ。」
サキュバスの胸に抱かれているカーバンクルは、もう意識がなく、呼吸もゆっくりで、既に危篤状態だと一目で分かる。
「あいつら、どこ行ったんだ?」
ライカンスロープとシヴァが山の上の方に消えていってから、大分経つ。あれからかなりの距離を上り、あの毒霧も再びかなり下の方に見えるようになってきたが、それに比例するかのように、彼らの体力も消耗していっていた。
「・・・おい、これ・・・・・・」
何とか体力の消耗を力強い意志で抑えていたが、それすらも打ち砕くものが、山道の途中にあった。
「・・・血痕、まだ新しいわね。」
点々と続く、滴り落ちた血の痕。血生臭い事態になってきたことを実感しつつ、誰の血なのかを気にしつつ、山道を登り続ける。
「・・・・・・くっ!!」
覚束ない足取りだったケンタウロスが、山道で派手に倒れこんだ。
「おい、しっかりしろ!」
「・・・やめろ。足手まといにはなりたくない。俺のことはいいから、先に行け・・・」
聞きたくもなかった、ケンタウロスの弱気な発言。俺は俺の中でそれを打ち消した。
「いや、嫌でもお前を連れて行く。肩貸してやるから。」
「・・・言っても聞かないとは思ってたが・・・・・・げほっ・・・頼りにしてるぞ。」
「ああ、任せろ!」
ことごとく期待を裏切ってくれる男だと思った。もちろんいい意味でだ。
二人で再び山道を登り始める。サキュバスは身軽ということもあって、どんどん先に進んでいってしまった。
・・・しかし、途中でサキュバスが立ち止まっているのが見えた。
「・・・インキュバス、例の血痕、ここに続いてるわね。」
近づかなければ分からなかったが、サキュバスの指差す方向には、見慣れた洞窟があった。
「懐かしい・・・・・・」
「えっ、何を言ってるの?」
「・・・ケンタウロス、ちょっと休憩でもするか。少し休めば、楽になるだろ。」
「寄り道か・・・悪くないな。」
お互いに苦笑いしながら、懐かしみのある洞窟へ入っていった。期待と不安が入り混じって、おかしくなりつつあったのだろう。血痕を追いかけて洞窟の奥の方に行くのも、どうってこともなくなっていた。
「・・・・・・!」
血溜まりを踏む懐かしみを感じることなく、目の前の風景に絶望した。
洞窟の奥で血だらけで蹲っていたのは、ライカンスロープの方だった。まだ狼の姿のままだが、全身にできた無数の切り傷からかなり出血している。シヴァにやられたのだろうか。
俺はケンタウロスを洞窟の壁に寄りかからせると、すかさずライカンスロープの傍に寄った。
「・・・おい、俺のこと、分かるか?」
「・・・・・・・・・・・・」
ライカンスロープは無言で俺の方を向いた。その目はやはり優しいものだった。
こみ上げてくるものがあった。俺は傷を撫でるように、ライカンスロープの背中に手を回す。ライカンスロープもそれに応えて、傷だらけの手を肩に回してきた。
「・・・・・・懐かしいな。」
「・・・・・・・・・・・・」
「何泣いてるんだよ・・・・・・俺もか。」
「・・・・・・・・・・・・」
懐かしいことばかりで、もう他の事はどうでもよく感じてきた。・・・シヴァみたいだな。なんだかんだであいつの思う壺になってしまったが、俺はそれでもいいと思えてくる。
「・・・この子達、寝ちゃったみたい。」
「相当疲れてただろうからなぁ・・・サキュバスも歩きっぱなしで疲れたんじゃないか?」
「私は別にあなたたちと違って、あの霧、吸ってないから。」
「そうか?・・・まあ、どっちにしろゆっくり休んで・・・」
不意にサキュバスが体を寄せてきた。そして俺の腕に組み付いてきたと思うと、サキュバスの手は俺の腕を伝って、ライカンスロープの体に触れていた。
「さっきはちょっとカッコよく見えたけど・・・改めて見たら、あなたって可愛いのね。」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・何照れてんだよ。」
「照れてるのはあなたの方なんじゃない、インキュバス?」
「な、何でだよ・・・」
こんな形でサキュバスとライカンスロープは初対面とは・・・つくづく運命とは残酷なものだ。
「・・・何、眠るのか?」
ライカンスロープの目が虚ろになってきた。俺の呼びかけに答えることなく、ライカンスロープは目を瞑ってしまった。
「寝ちゃったようね・・・じゃ、私もこの辺で。」
サキュバスも俺のすぐ傍で横になった。
「そうだな、俺も寝るか。」
ライカンスロープとサキュバスに囲まれ、近くにはケンタウロスとカーバンクルもいる。城の中にいたようじゃ知ることの出来ない、かけがえのない仲間に出会えて、俺は幸せだ。この幸せが永遠に続けばいいのに、と思いつつ、眠りについた。
「おやすみ・・・」
午後の外来の受付開始時間前に、診療所の電話が鳴り響いた。
「はい、社不知診療所です。・・・・・・えっ、そうですが・・・え、本当ですか!?」
電話を受けた水穂が叫ぶ。
「・・・どうしたの?」
診察室から、空港に雅治を送って戻ってきた菘が顔を出す。水穂の表情は、沈んでいた。
「・・・雅治さんの乗った飛行機と、連絡が取れないって、航空会社から・・・・・・」
「え・・・・・・」
沈黙が訪れたのと同時に、二人とも固まった。
数秒間の後、まるで電気が走ったかのように、菘の体が動く。待合室にあったテレビのリモコンを、震える手で取り、電源ボタンを連打する。
テレビがつくと、昼のニュース番組が放送されていて、臨時ニュースでそれを取り上げていた。
「・・・先ほどテロップでもお伝えしましたが、国土交通省とJCAから入った連絡によりますと、今日正午頃、JCA運航の旅客機が、島根県の沖合で消息を絶ったとのことです。繰り返します。国土交通省とJCAから入った連絡によりますと、今日正午頃、JCA運航の旅客機が、島根県の沖合で消息を絶ったとのことです。詳細に関しては手元に入ってきている情報は少ないのですが、現在入っている情報によりますと、消息を絶ったのは、午前11時40分に出雲空港を出発し、福岡空港に向かっていたJCA850便、乗客74人乗りのプロペラ機で、850便には、乗員乗客合わせて36名が乗っていたとのことです。」
食い入るようにテレビ画面を見る水穂と菘の顔が青ざめていく。
受付の電話の音が待合室に鳴り響く。飛び上がるように驚く二人。水穂は覚束ない手で受話器を取った。
「・・・はい、社不知診療所、受付の雨宮です。」
震える声を堪え、いつも通りに振舞おうとする。
「おい、水穂!俺だ、海斗だ。翼から連絡行ってるか?」
電話の主は海斗だった。水穂には翼からの連絡とは何のことか分からず、困惑して上擦った声を出す。
「え、何も来てないよ、どうして?」
「聞いてないのか、じゃあ教えてやる。テレビのニュースでもやってるだろ?飛行機がいなくなったってやつ。たまたま翼のヘリがその近くを飛んでてさ、雅治の他にも生存者を収容して、そっちに向かってるってよ。」
「雅治さん、生きてるの!?」
その言葉に菘も反応する。
「ピンピンしてるってよ!すげーよな、あいつ!」
「よかった!それで・・・こっちにけが人を搬送してるのよね?」
「ああ。詳細は分からねーけど、翼は子供が2人って言ってたな。」
「分かった、じゃあこっちは万全の態勢で迎えないとね!」
「歓迎パーティーかぁ?だったら俺も行くぜ!」
「あんたは仕事しなさい!」
「分かったよ!冗談だって・・・」
水穂が受話器を置くと、菘が駆け寄ってくる。
「雅治は生きてたの?」
「ええ、怪我人2人を連れて帰ってくるみたい。準備して出迎えましょ!」
「そうね!」
二人揃って処置室に向かって駆け出し、必要な道具を揃えてヘリの到着を待った。
山の向こう側の村では、残された私たちが束の間の休息をとっていた。
「昔はこんなんじゃなかったんだけどな。ちょっくら山登りしただけで、体に堪えちまう。」
「はっはっは。もう若くないんですから、あまり無理をなさらないでくださいね。」
私たちは茶の間でくつろぎながら、静かな外の景色を眺めていた。
「こんな静かな村でも、少し遠くに行きゃあ、鬼がいるっていうから、世の中物騒だよなぁ~。」
「あの子も無事に鬼ヶ島に着けたかしらねぇ。途中で船が沈んだりしていたら、どうしましょう。」
「心配するな。気の強いあの子のことだ。きっちり仕事をやり遂げてくるさ。それに、仮に船が沈んだとしても、自力で直してみるか、流されてここまで戻ってくるかだ!」
「はっはっは!そうですね、期待して待っていましょうか。」
孫のいない昼過ぎは久しぶりだ。慣れていたとはいえ、突然の子宝に、暫し酔いしれていた。可愛い子には旅をさせよ、と言われるが、実際にそれを一時的に手放してみると、その有り難味というのが改めて実感できるものだなと思う。
静寂を破る水しぶきの音。近くを流れる川から聞こえてくるようだった。
「やだ、冗談のつもりが、本当に溺れたのか?」
「そんなわけないでしょう!まさか、あなたの言っていた鬼かもしれません!」
「・・・・・・ちょっと見てくる。お前はここで待ってろ。」
「気をつけてくださいね・・・」
私は勝手口から農耕用の鍬を持って川の方へ近づいた。バシャバシャと派手に水しぶきを上げて暴れる様は、ただならぬ雰囲気を醸し出している。
しかし川岸に近づいてその姿が見えると、私は目を丸くした。
「・・・あれは?」
川に仕掛けてある魚がかかる罠に、白い塊がかかっていた。白い塊は鱗のようにキラキラと輝く白い物を散らしながら、尚も暴れ続けている。大きさは想像よりもはるかに小さかった。
私は鍬を放り捨てて、罠の方へ向かった。近づくと、白い塊は美しい鶴だと分かった。鶴は罠から逃れようともがいているが、かえって深みに嵌っているようにも見える。
「よしよし、今放してやるからな。」
複雑に絡み合った仕掛けを解き、鶴を自由にしてやった。かなりの羽を飛び散らせ、翼も痛めているのか、自力で飛び立とうとしない。
「ほら、これで自由の身だぞ、飛んでいけ!」
体の下に手を潜り込ませ、一気に掬い上げて、宙に向かって放り投げる。すると鶴はその勢いに乗って、大空へ舞い上がっていった。
「ちゃんと巣まで戻るんだぞー!」
大声で叫んでみたが、鶴が返答できるわけもなく、そのまま飛び去っていった。
茶の間に戻ると、家内は私の分のお茶も入れて、待っていてくれた。
「お疲れ様でした。結局、何だったんですか?」
「ああ、綺麗な鶴が罠にかかって暴れてたから、逃がしてやったよ。」
「へえ、こんな時期に鶴が?不思議なこともあるもんですねぇ。」
「何が起こるか分からないから、この世の中も面白いもんだ。それを言ったら、桃太郎の件だって、そうだろう?」
「そうですね。もしかしたら、これもまた何かの縁なのかも・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「「・・・まさかね。」」
窓の外に、今朝見たような景色が見えてくる。ヘリコプターは公民館へ機首を向け、裏手の駐車場にゆっくりと降下し、着陸する。既に裏口から菘さんと水穂ちゃんが待機していてくれた。
僕は溺れていた男の子を背負い、泣いていた女の子の手を取って、一緒にヘリコプターを降りた。
「雅治さん・・・大丈夫?」
「僕は全然平気だよ。とりあえず、この子をお願い。」
「男の子の容態は?」
「ちょっと低体温気味。肺に水が入っちゃったかも。女の子の方はかすり傷程度。僕は強いて言うならこんなもん。」
そう言って僕は女の子を水穂ちゃんに引渡し、空いた右手を菘さんに差し出した。クラゲに刺されて、さっき見たときよりもプックリと腫れている。
「まずいタイプのクラゲじゃなさそうね。とりあえず、中に入って。」
「この子の処置したら、僕の傷も治さないと。軟膏ってどこだったっけ?」
「右の棚の奥。」
「ああ、そうそう。」
女の子の方は水穂ちゃんが傷の手当をしながら、「大丈夫大丈夫!」と宥めていた。僕は男の子を処置室のベッドに横にして、回復体位を取らせつつ、口を広げてお腹を軽く押して、飲み込んでしまった海水を吐き出させる。すっかり消耗しているようだ。
「この子、傷の処置済ませたから、上のデイルームに連れてくね!」
「うん、お願い!」
水穂ちゃんが咄嗟に機転を利かせてくれた。デイルームに行けば遊び道具もあるし、堅苦しい病院の空気から解放されてゆっくり話も出来るだろう。
「この子の方は入院病棟で様子を見ましょうか。衰弱してるみたいだから、点滴でもして、寝かせてあげた方がいいわね。」
「そうだね。病室も空いてるわけだし。・・・さてと、軟膏はっと。」
菘さんが男の子を病室に連れて行ってくれたので、僕は処置室の棚から軟膏を探し出し、腫れ上がった患部に塗りこんだ。しばらくすると痛みは引いて、腫れも幾分治まってきたと思う。
受付の電話が鳴り始めた。無人になった受付に駆け込み、受話器を取ろうとする。しかし、電話機の「内線」のランプが点滅していたので、少しした違和感を覚える。
「はい、社不知診療所の宮崎です。」
「あ、もしもし、受付の江角です。」
相手は公民館の受付係兼観光案内所所員の江角さんだった。
「どうしました?」
「取材に来たという報道陣の方が詰め掛けているのですが。」
「えっ?」
ひょっとしたら、僕の乗ってたプロペラ機が墜ちた一件だろう。でも、それで僕を含め、負傷者がここに来ているという情報がどこでリークしたんだ?
「・・・何とか入り口で食い止めてください。手に負えなくなったら警察・・・魎を呼んでいいですから。」
「・・・ぁ。」
僕は一方的に受話器を置いた。僕でもあの時何があったのか分からない。
――僕はヘリの中で、翼とこんな会話を交わしていた。
「ところで、雅治。興味本位で聞くんだけどよ。」
「うん、何?」
「さっきのワイバーンだけど、何だったんだ、あれ?」
「ワイバーン?」
「ああ、お前のいた辺りをうろついてたドラゴン。」
翼はあれをワイバーンとか言うドラゴンだと言っていた。でも、何でそんな物騒なものが、飛行機も飛ぶような現代の日本にいるんだよ!?
「いや、僕もよく分からないよ。普通に飛んでたら、機体が爆発して・・・気付いたら海の上。」
「パイロットが気付かないとは思えないしなぁ。あの巨体だぜ?アホでも分かる。」
「でも、仮にそのワイバーンとやらに墜とされたとしても、それまでは本当に何ともなかったんだよ?」
「闇討ちか?それとも超高速で特攻でもされたか。」
「近くに軍艦とかいなかった?戦闘機とか。」
「いるわけないだろ?ここは日本の領海領空だぞ?」
今だから分かる。ドラゴンのせいにした方が、敵国に襲われたとかいうよりも、ずっと現実味を帯びているような気がしなくもないのだ。
でも、それを公にしてみろ?僕が嘘をついているとか、頭がおかしくなっているとか、夢を見ているとか、あれこれ書き連ねるに違いない。認知症だろうと痴呆症だろうと夢遊病だろうと、僕が言っていることが真実だとは思ってもらえない。
三流雑誌の片隅にでも載ればそれでいい話だ。僕の立場は医学雑誌の片隅に乗っただけで急転直下。苦い思い出でもあるが、名前が知れたという意味では不思議な高揚感も得られたし、不気味な感情を味わった時期もあった。
このときはどちらかと言えば前者、苦い記憶ばかりが沸々と湧きあがってきていたので、一方的に報道陣を拒絶したのだ。
受付の椅子に腰掛けて、ゆっくりしよう。状況を把握する時間が欲しい。・・・とっくに僕の服は乾いているけど。
・・・再び電話の呼び出し音。僕はムシャクシャしつつも受話器を取った。
「はい、社不知診療所の宮崎です。」
「・・・雅治か、俺だ、魎。」
今度の電話は魎からだった。
「大丈夫なのか?お前の乗った福岡行きの飛行機、事故ったって聞いたけど?」
「ああ、そのことか。僕は大丈夫だったよ、他の人は分からないけど。」
「ならよかった。それと、今俺公民館の近くにいるんだけどよ、何なんだ、このマスコミの人数は?!」
やはりその件で、ここまで来ていたか。それほど外のマスコミは殺到しているのだろうか?
「受付のお姉さんに頼んで、診療所には入ってこないようにしてもらってるけど、お前に電話が行ったってことは、あのお姉さん、もう手一杯なのかも。」
「そりゃあそうだろ。島根県の片田舎の公民館に、10社近いマスコミがいるんだぜ?」
「え、10社!?」
想像を超えるマスコミの数。飛行機事故の関係者がいると知れば、マスコミはどこにでも行くと思うが、医学雑誌の片隅にしか載ったことのない僕には、いささか規模の大きすぎる話に思えてきた。
「・・・そ、そうだ。記者会見という形にしよう。公民館の応接室を会場にしてさ、この後・・・14時から。とりあえず、混乱の渦中に飛び込むと、僕に対してのみじゃない、診療所、公民館の安全とか秩序が乱されるかもしれない。だから、14時まで絶対に誰もここに通さないでもらえる?受付のお姉さんには、応接室を貸し切るって伝えておくからさ。・・・患者が重篤とか、処置中とか言えば、聞いてくれるかな?・・・いや、それで聞いてくれるとは限らな」
その時、ガチャリという裏口の扉が開く音がした。はっとして振り返ると、黒い人影が横切っていった。
「・・・ちょっと待って、誰か入ってきた。急いで裏口まで来て!」
「え、裏口?分かった、待ってろ。」
僕を嫌な記憶が操り始めた。今入ってきたのは僕の敵であり、僕は敵に脅かされている。何をするわけでもない、敵は僕を貶めようと策略を練ってくる。・・・僕はそれを許すわけには行かない。
もう僕の中には、善意なんていうものはこれっぽっちもなかった。保身、逆襲、もみ消し・・・そんな黒い思考に、僕は自然と染まっていった。
処置室に寄って、またしてもメスを取り出す。・・・1本取り出して、念のためという思考が働いて、2,3本余分にポケットにねじ込んだ。
先ほどから、階段の方でガチャガチャという音が聞こえてくる。そっちに向かい、黒い影の背中を捉えたとき、鍵が開いて階下への扉が開き、黒い影はそこへ吸い込まれていった。
まずい。あの下に入るのはまずい。診療所の禁が破られる。秘密が露呈すると、入っていったヤツの身も危ない。でも、今の黒い影・・・大柄で、スーツ姿。どこか見たことのある貫禄を感じた。
僕は閉じかけのドアに足をかけて、閉まりきる前に扉をこじ開け、無機質な空間へ足を踏み入れる。この光景に僕は胸騒ぎを覚えつつ、階段を勢いよく駆け下りる。
階下から電子音が何回か聞こえ、その後ピーッという音がして、そこの扉も開いた。まずい、まずいまずいまずい!!
「・・・わっ!」
焦るあまりに、足がもつれて踊り場へ派手に倒れこんだ。
「くそっ・・・・・・」
焦りと恐怖、憎悪の念から、僕は素早く立ち上がり、地下1階へ駆け込んだ。
「・・ぐおおっ!?」
しかし、地下1階に着くなり、奥の方から低い唸り声。・・・畜生、遅かったか!?
通路の奥を曲がると、驚愕の光景が飛び込んできた。上裸でがっちりした体躯、身長が3メートルはありそうな、不気味な色の肌をした、巨人とも言える化け物が、大柄な人間1人を、トリトンが持っていそうな三叉の槍で突き刺し、高々と掲げていた。突き刺さっている部分から滴り落ちる鮮血が、無機質な蛍光灯の照明に輝いて見えた。
「ぬわあっ!」
巨人は三叉の槍の先端に刺さった人間を、僕のいる方向へ放り投げた。投げられた人間と目が合い、僕の思考が凍りつく。
「お・・・・・・大森知事!?」
「お前かっ・・・・・・がほっ!!」
派手に血を吐き出す大森知事。傷の手当をしようとその傍に寄るが、巨人も僕に気付いたのか、はたまた大森知事に止めを刺すつもりなのか、こちらに歩みを進めてきた。
「・・・スプリガンは・・・・・・怪力な以外は、っ、普通の人間と・・・同じだっ。」
「スプリガン?何だよそれ、何神話の化け物だよ!?」
正確にはイギリスに伝わる妖精の類らしいが、そんなのはこの時知らなかったし、妖精にしては醜悪で、デカイだけの巨人そのものだった。
ただ、体のつくりが人間と一緒だというのには自信をもらった。なぜならば、持ってきた武器で十分対抗できるからだ。
僕はポケットからメスを取り出し、カバーを取り外す。
「前みたいに健治はいないし、あんなうまい投擲できっこないけど、僕だって・・・逃げてばっかりじゃいられない!!」
暫し、スプリガンと対峙。先に僕の体が動いた。大森知事の上を飛び越え、その勢いでスプリガンの足元へ滑り込む。もちろんスプリガンだって容赦しない。滑り込んでいく僕目掛けて、三叉の槍を振り下ろしてくる。
「うわ!」
体をねじって一撃をかわしつつ・・・
「せいっ!」
腕を伸ばしてメスで相手の左足首の辺りを切り刻む。この辺は人間なら血管も神経も集中していて、激痛が走るはずだ。
僕が後ろを取ると、スプリガンは左足を押さえつつ、こちらを振り向いた。やはり堪えているこうだ!
「ほら、僕はこっちだ!こっちに来い!」
スプリガンは、図体は立派だが、脳みそはちっぽけなようだ。僕の挑発に見事に乗り、三叉の槍を突き出すように構えて、僕の方に突進してくる。・・・これを待っていた。
さっきと同じ要領で、間合いをずらしてスプリガンの足元へ滑り込む。これにはスプリガンも対応できず、咄嗟に振り下ろした三叉の槍も空を切って床に突き刺さった。
「てやっ!」
僕は滑り込む勢いで右足首も切り刻んでやった。するとスプリガンは、人間で言う膝立ちのような状態になった。今しかない!
体勢を崩さずに滑り込めたことで、素早く立ち上がることが出来て、僕は体を反転させてスプリガンのずんぐりした背中を駆け上がり、メスを逆手に持ち替えて、うなじの辺りから延髄目掛けてブッスリとメスを刺し込んだ。
「これでどうだ!」
くぐもった断末魔を上げ、スプリガンはその場にバッタリと倒れた。巨体が倒れた勢いで地震のような揺れが起きたほどだ。
スプリガンは絶命すると、例の如く体が紫色の霧状に変化し、僕が塞いだはずの穴へ戻っていった。
どういうことだろう。僕はあの穴を塞いだはずだし、それ以降ここには誰も来ていないはずだ。
それに、大森知事は何を思ってここに来たんだろう?堂々と鍵まで開けてくれちゃって。
・・・そういうのは後で考えよう。僕は大森知事が倒れている場所に戻って、傷の手当を試みた。
「・・・倒したのか。」
「動かないでください!」
着ていたスーツとワイシャツを脱がす。中年らしくない、がっしりした上半身が露になるが、鳩尾の辺りに出来た3ヶ所の穴からかなりの出血が認められる。
「道具、取りに行ってきます!」
僕がそう言って立ち上がり、走り出そうとしたとき、足に何かが引っかかった。・・・大森知事が僕のズボンの裾を掴んでいた。
「必要ない・・・それよりも・・・・・・渡すものがある。」
「えっ?」
大森知事は、空いていた左手でズボンのポケットを漁り、鍵束を引っ張り出して、僕の前に突き出した。
「これは?」
「この村の要所に入れる鍵だ・・・あの穴と繋がっている、地下遺跡にも入れる・・・」
「地下遺跡!?どこですか?!」
そのワードが大森知事からも出てきた。・・・どこなんだ、地下遺跡って!!
「村の北の外れに・・・島がある。そこに行け・・・」
「村の北の島・・・」
忘れないように、小声で反芻した。
「こうなった以上・・・もう、手に負えん・・・・・・穴の先を、直接封じ込めない、限りはっ、げほっ!」
「・・・・・・・・・・・・」
取り返しのつかない事態になっていることは、もはや確定的要素なのか・・・・・・
「さっきのを見て・・・気が変わった・・・・・・これをお前に託す・・・診療所の所長として・・・・・・危機を救え。」
「・・・・・・・・・・・・」
「人は決して近づかない場所だ。だから・・・正直、お前みたいな青二才には・・・無理だと思ってた・・・・・・でも、違ったな。」
「・・・・・・・・・・・・」
「これは・・・・・・診療所の所長として、全うすべき責務だ!かはっ。お前が、全世界を救う、英雄になれ。」
「・・・・・・・・・・・・」
「はぁ・・・・・・老兵が、ここで敗走とはな・・・・・・情けない・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・!?」
僕は黙って、ただ黙って・・・大森知事の言葉を、噛み締めるように聞いていた。それが突然・・・止まった。
「おい、冗談だろ?」
僕は無我夢中で、逞しい胸の奥底に眠る生命の根源が、再び息を吹き返すようにと、力強くその胸を押し続けた。
「責任丸投げとは、いい度胸じゃないか、えぇ!?ここのことを教えて、バックアップも検討するって言ったのは、お前だろう?だったら僕に全部押し付けないで、情けないと本当に心の底から思っているのなら、最後まで全うしてみせろよ、この老いぼれ!こんなところで・・・死んでんじゃねぇッ!!」
罵詈雑言を浴びせたところで・・・力任せに心臓マッサージをしたところで・・・無駄だと分かっていたのかもしれない。でも、僕はその手を止めなかった。止めたくなかった。
「雅治・・・おい、雅治、聞こえてるか?!」
例えて言うのなら、そうだな・・・試験終了後も回答を続けようとする受験生と同じ、未練がましい何かが、そこにはあった。
「落ち着け、雅治!もう死んでる!!」
魎に羽交い絞めにされても、全身が血まみれになっていると気付いても、僕には何か、未練がましい何かが残っていた。
「くそぉっ・・・・・・」
スイッチか何かが切れた。僕は溜まっていたものを吐き出すように、魎にもたれかかって号泣した。
「しっかりしろ。深呼吸するんだ。」
魎に肩を抱かれ、ようやく気付く。過呼吸気味になっている。僕は未だに・・・何を恐れている?
目覚めはいつも、全身に走る激痛で始まる。何週間もこの激痛に苛まれているが、何度経験しても慣れるようなものではない。
「んっ・・・・・・」
その日もそんな感じの目覚めだったが、いつもと違うのは、やけに騒がしいところだ。
重い体を動かし、大部屋に向かう。騒がしい話し声はそこから聞こえていた。
「じゃあ行き違いということになるのですか!?」
「くそ、遅かったか・・・」
大部屋を覗き込むと、使用人に詰め寄る2人の女神が見えた。その口調からして、切迫した状況なのは明らかだ。
「ペガサスじゃないか、もう少し寝てたほうがいいんじゃないのか?」
使用人の一人が僕に気付いて声をかけてきた。それに釣られるように、2人の女神も僕に気付く。
「ペガサスが・・・ここにいる?」
「どういうことだ?一人で行ったということか!?」
2人の女神は目を丸くして言った。僕には何のことだか分からない。
「あの・・・一体、何のことでしょうか・・・・・・?」
僕がそうつぶやくと、2人の女神のうちの1人、暗色系の服を身にまとった女神が答えた。
「ペガサスはご存知ありませんか?この世界に異変が起こっていること。そして、ゼウス様がその対応に迫られていることを。」
「えっ。」
僕はその質問で思い出した。先ほどから我が主、ゼウス様のお姿が見当たらないのだ。
「この世界に溢れ出した獣と霧。その原因が何であれ、それらによってこの世界は破滅への道を進んでいます。ところで、ペガサスのその怪我・・・いかがなさったのですか?」
僕の翼の付け根の辺りには、まだあのドラゴンに襲われたときの生々しい傷跡が残っている。
「・・・ある日、主の許へ戻る最中に襲われたんです。ドラゴンだったと思いますが、はっきりとは覚えていません。」
「なんということでしょう・・・ゼウスの乗る天馬にまで手をかけているとは・・・」
「だが、獣を野に放っただけであって、当事者の計画性はそこには窺えないな。」
黙りこんでしまった1人目の女神に変わって、今度は明色系の装いの女神が口を開いた。
「少なからず従える輩がいるはずだ。それなのに誰もそのような者には会っていない。ペガサスがドラゴンに襲われたというのも、偶然だろう。」
「偶然・・・・・・」
「しかし、事が急を要するあまりに、ゼウスがペガサスを置いてでも、手っ取り早く解決したいと思う気持ちは、私にも分からなくはない。」
「・・・・・・・・・・・・」
「とにかく、ゼウスがここにいないと分かった以上、何とかして探し出すしかないだろう。必要があれば加勢するつもりだ。」
「加勢って・・・そんな。」
「ええ、私も、さすがのゼウス様でも、今回の敵は底知れません。この世の平和のためなら、私も戦いを惜しみません。」
「お二方・・・・・・」
僕の中にも、少しずつ2人に共感するものが芽生えた。それ以前に、僕には主のお迎えに上がるという重要な職務がある。
翼を一回羽ばたかせる。前ほど痛んだりはしない。飛ぶ分には問題ない。
「でしたら、僕がお連れしますよ。一緒に主を探しましょう。」
「大丈夫なんですか?大事を取って休んだほうがよろしいと思いますが・・・」
「同感だな。古傷が癒えるまで横になった方がいい。」
2人とも乗り気ではないが、僕だって引くわけには行かず、首を横に振った。
「主が危険な目に遭っているかもしれないのです。きっと僕のことを気にかけて、お一人で出かけたのだと思います。それでも僕は、主が僕に寄せてくれていた期待、信頼に答えたいんです。僕は主の乗る馬として、主を見殺しにはできません!」
「「・・・・・・・・・・・・」」
「普通に飛ぶ分には問題ありません。僕を信用して、一緒に探しに行きましょう。」
2人は顔を見合わせて、観念したように口を開いた。
「・・・ペガサスがそこまで言うのなら。」
「やぶさかではないな。」
「・・・ありがとうございます。そうと決まれば善は急げです。行きましょう!」
2人は大きく頷いた。そして僕の上に跨る。僕はそれを確認すると、翼をはためかせて宮殿を後にした。・・・どこにいるかも知れない、主を探すために。