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13.Crisis Continues(続く危機)

 あの後、高大を診療所の入院病棟に押し込み、昼食を取った。

「午前中、僕がいなくて困ったこととかなかった?」

「なかったよ、外来で来た患者さんと言っても、足立さんと手塚さんくらいですから。」

「あのお二方か・・・また関節かどこか痛めたのかな?」

「菘さんと私とで、鎮痛剤、処方しておいたよ。問題ないでしょ?」

「農作業に精を出してるのもいいけど、関節痛まで出しちゃあねぇ。やりすぎってもんでしょ。」

「あっははは!雅治さんが駄洒落なんて、爺くさいなぁ~。」

「じ、爺くさいとは何だ!寒いって言われるくらいなら許してやろうものを、爺くさいと一蹴するとは!!」

「はいはい、ダダすべりして逆ギレしてないで、早いうちに午後診療の準備でもしてきてよ。」

「分かってるよ・・・」

 言い負かされて、暗い気分のまま診察室に入り、整理整頓とかで時間を潰した。

 医療シンポジウムのパンフレットや、地下で見つけた人骨の鑑定結果、健治に関するニュース記事なんかは、何度見ても変わらないし、例のぬいぐるみの情報を調べようにも、数が多すぎてどうにもならない。

 結局午後の診療には誰も来なかったし、回診に行っても狡貴も高大も死んだように眠り込んでいたので、することはなかったようなものだ。

「後は僕がやっておくから、水穂ちゃんは上がりなよ。」

 半ばこの台詞も定型句になりつつある。水穂ちゃんも、最初のうちは少なからず否定の態度を窺わせていたが、今となっては

「じゃあお言葉に甘えて。お疲れ様!」

 と、軽~くOKしてしまう始末。

 満が勉強ついでに高大のお見舞いに来た。しかし、高大はあれっきりずっと目を覚まさない。

 アドレナリンか何かの興奮作用であの時は至って健常そうに振舞っていたが、――それでも精神状態は決して健常ではなかったが――魎のテーザー銃の電撃を受けて、ぷっつりとスイッチが切れたのか、あのときの異様な狂気は、病室のベッドに寝かされ微動だにしない高大からは感じられない。

「他の皆は、あれ以降どんな感じ?」

「皆元気っすよ。宝がまだちょっと咳が残ってますけど、伴夜も悠馬もすっかり回復しましたし。」

「そりゃよかった。」

「俺からも雅治さんに質問していいっすか?」

「えっ、何?」

 僕が質問しようとしていたのに、まさか満に先を越されるとは。

「高大があの部屋に閉じこもってたんすよね?」

「うん、そうだけど。」

「ガラスが割れる音がした後、雅治さん、1階からまた上がってきましたよね?俺ら、雅治さんが1階に降りるところなんて見てないのに。どうしてなんすか?」

「・・・薄々想像はついてるだろうけど、あの時激昂した高大に突き落とされてさ、下で魅鳥ちゃんに受け止めてもらったから、事なきを得たけど。」

「へー、魅鳥さんってそんな力あるんだ・・・」

「高大の突き飛ばす力も、魅鳥ちゃんの受け止める力も凄いけど、僕はやはり高大があそこで何をしていたのかの方がかなり気になるな。」

「で、その後どうなったんです?」

 まるで僕の高大への関心には興味がなさそうに、満は昼間の出来事のことをとやかく聞いてきた。

「魎の後を追いかけて、実験室の中で魎と会った後、二人で力ずくで高大を取り押さえたよ。」

 スタンガンの類を使ったことは敢えて伏せておいた。

「案の定硫化水素の中毒っぽいし、挿管して解毒剤投与したから、しばらく休めば元気になるよ。」

「ほっ・・・よかったです。」

 話が一区切りついたところで、前から気になっていたことをぶつける。

「満はさ、高大と仲いいの?」

「え?・・・まあ話はしますけど。」

「じゃあ満は、高大が何か悪趣味なことをしているとか、知ってる?」

「いや、さすがにそこまでは・・・クラスにいても、存在感を自分から消しているというか、登下校も一緒じゃないし、趣味の話とかもしないので、分からないですね・・・」

「そうか・・・・・・」

 ますます謎めいていく。教室の中で、いわば『空気』となっている高大。しかし満や宝ちゃんを初めとするクラスメイトと「多少は」話をするようだ。運動も勉強も出来るし、まさに文武両道、いじめの対象になっている可能性は低い。でも話をするとはいっても、趣味とかの踏み込んだ話ではなさそうだし、登下校時や普段は存在感を消すようなタイプ。宝ちゃんの話も参考にすれば、環境委員で花壇の水遣りなんかもするんだとか。さらに、クラス中では「恵みの神」だの「祟り神」だの言われているらしい。・・・あれ、祟り神じゃなかったっけ。まあいいや。

 うーん、羅列しただけでも不自然な組み合わせがいくらかあるような気がする。『空気』になっているはずなのに、絡みに行けば恵まれるか祟られるか。話はするけど、趣味とかではなくおそらく勉強とかの話だろう。文武両道なのに陰気なのも気になる、うちの高校にもそこまで陰気なのはいなかった。そして割に合わない環境委員というポジション。・・・実に不自然すぎて、ちょっと滑稽にすら思えてきた。

 さらに不自然なのが、そこから実験室を硫化水素で充満させるという非行に走ったことだ。運動ができるのならサシで殴り合いでもすればいいもの。聞いた限りでは話もするし、恵まれるなんていう噂話もされているくらいなら、少なくとも僕なら不満はない。・・・祟られるという噂にはさすがに納得行かないかもしれないが。

 それだけに、高大という人物像が、明白になるにつれて曖昧になっていくような矛盾を覚える。何なんだ、高大・・・

「よし、じゃあこの辺で切り上げますか。」

「お疲れ、気をつけて帰ってね~!」

 僕が一人で考えていると、満が引き上げる時間になっていた。いけないいけない、物思いに耽ると時間を忘れるなぁ。忘れないうちに診療所の整理整頓と内部点検でもするか。

 今日は使った人が少ないから、さほど散らかってはいない。やることといえばゴミ拾いと観葉植物への水遣りだけ。・・・高大もこんな感じに水遣りするのだろうか。

 ブスン。

「あれ?・・・・・・えっ?」

 突如として診療所の照明が全部消えた。いきなり真っ暗になり、僕は自分の居場所すら分からなくなる。唯一の照明は、裏口にある非常口の照明だけ。ポケットの中にある携帯電話の照明は弱すぎて使い物にならない。

 壁伝いに診察室へ戻ろうとする。引き戸を開け、中に入る。入ってすぐのところに棚があった。中には薬品類がずらり・・・ここは処置室のようだ。

 もう一度壁伝いに進み、引き戸を開け、中に入ると、机があった。診察室に戻ってこれたようだ。

 さて、懐中電灯はどこだろう?ここに来ると、非常口の照明すら届かなくなり、本当に真っ暗に等しくなる。早いとこ懐中電灯を見つけて、それからブレーカーの場所も探さないと。原因は知らないけど、ブレーカーが落ちたのならそこを直せば復旧するはずだ。その前に懐中電灯は・・・っと、あった。

 ゴンッ!

「うっ!?」

 不意に、後頭部に激痛が走る。僕は懐中電灯の場所を見失い、その場に倒れこむ。

 ゴンッ!

「ぬぅっ!!」

 僕は初めて気付いた。僕のことを殴りつけている誰かがいることに。

 僕が倒れこんでも、そいつは闇に紛れて僕を執拗に殴り続けた。両手でガードしても、今度は手に激痛が走る。

「うああ!!」

 僕はそのときになってようやく思い出した。僕の身を守る、唯一の武器があることを。

 僕は診察室の机の下に置いておいたカバンに手を伸ばす。その間も相手は僕のことを殴り続けてきたので、左手で頭はガードしたままだが、長くは持ちそうにない。

「くぅっ!!」

 何度か左手と後頭部に激痛が走る。焦りが僕の右手を逸らせる。カバンの中を必死に弄ると・・・あった!

 パンッ!

 一発で仕留められなくても、反撃するなら今しかない。僕は次の一撃をしのいだ後、身を翻して相手のいると思われる場所目掛けて発砲した。護身用の道具として持っていたが、あまりにも腰抜けな音だった。

「ぐあ!」

 ・・・え、何だ、この聞き覚えのある声・・・・・・ぐっ!!

 僕は今更のようにめまいを起こし、立ち上がろうとしてふらつき、再び倒れこむ。くそ、この前晴子に襲われたときは一撃で仕留められたけど、今回は何度殴られても痛いだけで、意識が飛ぶことはない。いっそのこと、このまま飛んでくれたら楽なのだが、飛んでないのなら仕方がない。

 お陰でぶん殴られることには慣れたが、それはそれで皮肉だ。ひどい頭痛に耐えられず頭を押さえると、押さえた右手の手のひらいっぱいに、真っ赤な血がべっとり付いた。あれだけ殴れば、どこか切れてもおかしくはない。今更のように、顔を伝って滴り落ちる僕の血に気がついた。

 僕は真っ暗な上にめまいを起こし、平衡感覚がない状態で、懐中電灯のあった場所を思い出しながら、机にしがみつく。上体を起こそうとして、机の上にあった書類や舌圧子などの小さな診察用の道具も全部床にバラバラと落としてしまう。次第に指の先も痛くなってきたが、やっとの思いで懐中電灯を手中にし、暗い室内を照らし出す。部屋の中をぐるっと照らしてみると、一つの人影が浮かび上がった。

「お・・・お前・・・・・・?」

「・・・先生・・・・・・これは、その・・・・・・がほっ!」

 口から咳と共に血を吐き出したのは、あろうことか狡貴だった。左手で胸元を押さえているが、その左手も胸元も真っ赤に染まっていた。僕の撃った弾が命中したのだろう。そして驚いたのが、その右手。暗くてはっきりは見えないが、玄翁のような金槌を持っているように見える。あれで僕はしこたま殴られていたのか・・・

「せ、先生・・・・・・がはっ・・・助けて、ください・・・っ!」

 口元からも鮮血を垂らしている狡貴は、視界の霞む僕からしてみれば化け物のようにも見えた。同時に、僕の思考も冷静ではなかった。化け物のように見えるのならば、早いとここの引き金を引いてしまいたい衝動に駆られるし、ましてや相手は僕を殴っておきながら命乞いをしている。呆れて早いとこ殺してしまいたいとも思い始める。

「くぅ・・・・・・げぼっ!」

 それを思いとどまらせたのは、僕の正義感ではなく、狡貴が流す涙と鮮血だった。目の前にいるのは化け物ではなく、感情と生命を持った人間なのだ。医者がそれを見捨ててどうするものか。いわば理性のおかげだ。今まで懐中電灯と一緒に狡貴に向けていた銃口を下ろす。

「立てるか・・・って僕もまともに立てないけど・・・・・・」

「はぁぁっ・・・む、無理です・・・がはっ、力が、入らない・・・」

 全く、世話の焼けるヤツだ。返り討ちに遭うところは計算外だろうが、墓穴を掘ることになるとは、皮肉なものだなぁ。僕は狡貴の許にゆっくりと向かうが、その足取りは覚束ない。何とか肩を貸して、処置室の方向に歩き出すが、真っ直ぐに歩くことができないのだ。視界が揺らぎ、頭を満たす激痛と、懐中電灯の弱い明かりとで、条件はよくない。耳元から聞こえてくる狡貴の吐息は荒いが、昼間に宝ちゃんや高大に現れたものや、この間悠馬が運ばれてきたときにしたものとは違い、肺まで空気は行っているのだが、それでも息が速い。あの銃弾が肺に穴でも開けたのだろうか。

 あちこちに足や腕をぶつけながら、やっとのことで狡貴を処置室に連れてきて、ベッドに寝かせるところまではできた。だが僕は未だに足元がふらつき、視界も霞んだまま。こんなんでまともに処置ができるのか、自分でも不安になってきた。

「狡貴、僕のことを殴った代償は大きいよ・・・こんなんじゃまともに処置できないから、ぬうっ、お前を助けられるか、保証も自信もない。」

「・・・ご・・・めん、なさ・・・い・・・・・・がほっ、げほっ!!」

 息も荒く、時折血を吐き出す。あれからまだほとんど時間は経っていないが、僕の状態が回復しない一方で、狡貴はどんどん消耗していっている。このままでは持たないかもしれない。

 それならまだ、さっき射殺しなかっただけマシだろう、みたいな短絡的な思考が脳裏を過ぎった。それではダメなのだ。さっき撃ち殺さないで、ここまで漕ぎ着けたんだから!

「狡貴、じゃあ、自分でまずは、上に着てる服、脱げ。」

「は・・・はい。」

 僕は処置室の棚に寄りかかり、狡貴の様子をじっと見届けた。患者用のガウンを脱ぐところまでは出来たが、アンダーシャツは痛くて脱げなさそうだ。仕方なく僕は棚の中から服を着るための裁ちバサミを引っ張り出し、狡貴の許に向かう。

「切ってやるから、じっとしてろよ。たとえ傷に当たっても、動くんじゃないよ。」

「はぁぁ・・・わ、分かりました・・・・・・」

 ハサミで下着を切ることもままならない。先が思いやられるな、これは。

 何とか傷口には当てず、アンダーシャツを裂くことができた。若者らしい、筋肉質な肉体が露になったが、左胸には真っ赤な鮮血を流し続ける穴がある。心臓はうまいこと逸れたが、代わりに肺を貫通ってところか。放っておいたら狡貴が死んでしまう。躊躇している場合ではなさそうだ。

 僕は棚から開胸手術に最低限必要な道具を引っ張り出し、横のトレイに乗せる。麻酔薬の入った点滴用のパックを手にして、狡貴に説明する。

「場所が場所だから、全身麻酔しかないけど、アレルギーとかないよね?」

「・・・来たときも、平気、だったんで、多分、大丈夫・・・がはっ!」

「物は違うけど、仕組みはだいたい一緒だからな・・・じゃ、術中は眠ってもらうよ。」

「あ、先生・・・」

 点滴用のパックに繋いだ注射針を腕に刺そうとしたところで、狡貴が制止してきた。

「さっきのこと・・・許してください・・・・・・」

「な、何を言い出すんだよ。僕だって、お前のこと、撃ったんだから、お相子だろ?」

「そう・・・っすか・・・・・・優しいっすね、先生。」

「やめろ、煽てるのかよ。ますますやり辛い。」

「これが終わったら・・・俺は、どこにいると、思います?」

「さあね・・・・・・この診療所の、真っ白な天井、見上げてるか・・・・・・お花畑の中か、どっちかだね。」

「ははっ・・・どっちも、良さそうに、聞こえますね・・・・・・」

「やめてくれよ、僕としたら・・・くっ、死なれたら困るんだから。責任問題にもなるし、正当防衛かどうかも怪しい。仮に死なれても、お前のことだから、成仏できずに、僕の背後霊に、なりそうで怖いし。」

「んなこと・・・しないっすよ・・・・・・げぶっ!」

「ごめん、いろいろと、話させて。分かったよ、狡貴のこと、信じるからさ、お前も、僕のこと、信じてよ。起きたら、この診療所の天井、見上げてるって。」

「そうっすね・・・・・・そうします・・・」

「じゃ、麻酔、かけるよ。起きたら、『診療所の天井』、だからな!?よーく、念じておけ。」

「はい・・・・・・んあぁ・・・」

 長々とくっちゃべった後、注射針を腕に刺し、弁を開いて麻酔薬を投与する。数秒後、険しいままだった狡貴の顔が、優しい寝顔に変わる。

 麻酔をかけるところまではほぼ問題ない。ここからが勝負だ。本来なら異物の摘出くらいお手の物なのだが、今回は電気が消えていて暗いし、僕自身殴られて視界が霞む。こんな悪条件での手術、本当にうまく行くのだろうか・・・?

 手術道具のセットの中からメスを引っ張り出し、いつものように持ち替える。懐中電灯を天井の機器に固定した即興の照明が、メスの鋭い刃先を照らす。それに見とれた瞬間、僕の不安は吹っ飛んだ。

 いつものように、を意識しながら、手際よく皮膚を切開、次いで大胸筋を切開、肋骨を切除し、左の肺が露になる。狡貴が呼吸するたびに、弾丸の貫いた穴から空気が漏れる音がはっきりと聞き取れる。これはいかにも苦しそうだ。

 傷口を探ってみたが、肝心の弾丸が見つからない。体を起こしてみると、背中側に敷いたタオルにも血が染みていた。予想通り、弾丸は狡貴の左の肺を貫通していた。太い血管には当たっていないが、おそらく肺の中の毛細血管に当たってこの出血なのだろう。止血して穴を塞げば何とかなる程度でよかった。手先がブレて、新しく傷をつけるなんてことがなければ、簡単に終わる処置だ。

 電気メスで毛細血管を焼いて止血し、円形の傷は縫合する。殴られて視界が霞み、覚束ない手でも簡単に出来る処置だった。

 背中側の穴と胸の手術跡を縫合しても、まだ頭痛は続き、視界も歪む。胸元を見ると、頭部の切り傷から垂れた血がこびり付いていた。

「・・・ぐぅっ!!」

 突如として、さっき殴られたときと同じような頭痛が襲ってきた。平衡感覚がなくなり、視界は再び真っ暗になった。・・・慣れるのは嫌だけど、まだ慣れてないのか・・・・・・殴られるのに。


 山の向こう側、平野部を流れる川岸に、一人の老婆がやってきた。

「よっこらしょっと。」

 平野部には、山の逆の向こう側で何が起こっているか、知る由もない。老婆はいつものように川の水で洗濯をしていた。

「・・・・・・ん?」

 上流の方から何かがプカプカと流れてくる。老眼でよく見えないが、魚ではないことは確かだ。懐疑的だったというのもあって、手元まで流れ下ってきたその物体を手にとって見た。

「うわ、重たい。桃・・・かな?」

 ずっしりとした桃を川から引き上げるだけで腰が痛む。何とか川岸に引き上げ、どうしようか暫し考え込む老婆。

「おうい、どうかしたのかい?」

 折よく、うちの旦那が昼食を取りに帰ってきた。

「ああ、山の方から流れてきたのさ。ただの桃にしちゃ、大きすぎやしない?」

「ふむ、そのようだな・・・どれどれ?」

 軽々と桃を持ち上げ、その様子を観察する老人。

「どういう育て方をしたらこうなるのか、いささか気にはなるが、ここじゃなくて、家へ持って帰ってから、調理なり何なりしよう。」

 老婆の苦労が嘘のように、老人は軽々と巨大な桃を担ぎ上げ、自家へと持ち帰った。

「さて、どうしようものかね。」

 玄関口から桃を入れるだけでも一苦労。二人は勝手口まで持って行き、その大きさに改めて驚きつつ、巨大な桃を凝視していた。

「何をするにも、まずは切ってみたらどうだい?」

 老婆が提案した。最初はそれこそ、どこか残念でならない感じがして躊躇っていたが、渋々老人は了承し、台所から包丁を持ってくる。

 刃先がすっぽり埋まるくらいまで差し込んでも、一刀両断するには長さが全然足りなかった。半分にも届いていない。そのまますーっと下まで切り開いて、輪切りにしようと反対側に刃先を付き立てた時だった。

「・・・あんた、これ!」

 老婆が、包丁で切りつけた傷が、卵の殻が破られる過程のように広がり、反対側で傷が繋がるのを見た。

 輪切りにされた巨大な桃の中にいたのは・・・

「おやまあ、あんた、これって・・・」

「こ、こんなことがあるものかねぇ・・・」


 昼間は専ら観光客の相手ばかりしていたので、少し疲れが溜まっている。

 夜間は境内の掃除を済ませればいいのだが、その最中、見慣れない人影が気になった。

 見慣れない人影と言っても、夜間はほとんど人がいないし、会うとしたら夜勤上がりの汀さんとか、仕事中の雅治さん、海斗さん、魎さんくらい。観光客がまだ残っていたら、さすがの私でもその違和感からすぐに気付く。

 この時間でも残っている観光客というのは、最終バスまで堪能している、近場から来た方か、村内唯一のホテルに宿泊される方かしかいない。

 それでもその人は、観光客と呼ぶにはさらなる違和感を覚えずにはいられない、不自然さを纏っていた。観光客の割には身軽そうだし・・・いや、身軽というか、服以外に何も身につけていないのだ。観光客なら、少なからずリュックサックとかデジタルカメラとかを持っているものだが、見たところ、境内をうろつく男性は手ぶらで、年齢も私より年上だが若い。筋肉質の体は、少々キツそうな服装で強調され、髪の毛はポニーテールにしていて、どこか武士のような貫禄を感じられる。

 変質者だったら嫌だが、ここは私が勤める神社の境内だし、私にとって損になるようなことはない。私は意を決して、観光客に話しかけるつもりで、ゆっくりとその人影に近づいた。

「お困りでしょうか?」

「・・・・・・」

「あ、ちょっと。」

 男性は私を無視するかのように、奥の社殿の方へ向かっていってしまった。私の声が聞き取りづらかっただろうか。私は遅れをとらないように男性の方へ付いていき、素盞鳴尊(スサノヲノミコト)の社殿への階段を上りきったところで再び声をかけた。

「あの、いかがなさいました?」

「・・・ん、拙者のことでござるか?」

「えっ・・・・・・?」

 自分のことを拙者とか言い出すし、語尾が『ござる』になってるし、何なんだろう、この人・・・

「拙者はただ、かのいと麗しき社殿を拝見つかまつっていた次第でござるが?」

「・・・あー、そうだったのですか・・・」

 堅苦しい上に古臭い話し方だが、何を言っているのかは何とはなしに分かる。古文の授業なんかでよく出てきた言葉だが、大体は今の言葉とほとんど同じだ。それに、同じ日本の言葉なんだ。分からないはずはない。

「この社殿がお気に召されましたか?」

「うむ、誠麗しき社殿なり。」

「日本神話で有名なあの素盞鳴尊の社殿ですよ。姉の天照大神の社殿は、石段を下ったあちらの」

「くっ!!」

「あ、ど、どうなさいました!?」

 説明の最中に、この男性は頭を押さえて苦しみ始めた。

「あ、そうだ、何でしたら診療所にお連れしますよ?」

「・・・ああ、是非に及ばす。その心遣い、痛み入る。」

 ゆっくりと石段を下り、神社を後にして診療所へ歩き始める。そう遠くはないはずだ。

「・・・拙者、手元不如意でござるが、まかりならぬか?」

「えっ・・・・・・」

 おかしいな、同じ日本語のはずなのに、何を言っているのか全く分からない。手元不如意?まかりならぬ??何ですか、それは、と思わず聞き返したくなるのを我慢する。

「だ、大丈夫ですよ。診療所につけば、医者が待ってます。」

「薬師のことでござるか・・・かたじけない。」

「・・・・・・」

 何を言っているのか分からないまま、私はこの男性に肩を貸した状態で、診療所まで歩いた。

「・・・あれ?」

 やっとの思いで診療所の前に辿り着いたが、その周囲の雰囲気は異様だった。診療所は公民館に併設されているが、公民館の入り口には黄色いテープで規制線が張られ、赤色灯をつけたパトカーが駐車場に止まり、現場を取り囲む警官の中には魎さんの姿もある。

 ただ事ではない雰囲気だったが、こちらも病人を放っておくわけにはいかない。私は男性を負ぶったまま、魎さんの許に向かった。

「魎さん、どうしたんですか?」

「ああ、風香ちゃんか。・・・どうしたんだ、その男。」

「神社にいたときに頭痛を訴えたみたいなので連れて来たのですが、何かあったんですか?」

「いや、海斗から連絡があってさ、急患の受け入れを要請しようとしたら、電話が繋がらなかったらしくて、診療所の様子を見に来たら、中が停電してて、雅治が頭から血流してたって。」

「雅治さんが!?襲われたんですか!?」

「いや、そこまでは分からないよ。見た感じ、手術室に患者が横になってたし、緊急オペの直後に襲われた感じだけど、診察室も荒らされてるし、物取りかなぁ。」

「じゃあ、当の雅治さんは?」

「患者を出雲の病院に運んだ後、海斗が戻ってきて応急処置はしてくれたよ。まあ、まだ意識は戻ってないけど。・・・停電も、単にブレーカーが落ちただけだったから、すぐに復旧したし。」

「そうですか・・・この男性、どうしよう。」

「頭ってことは、しばらくは起きないぞ、あいつ。」

「そうだ、海斗さんは、まだいます?」

「ああ、雅治の様子を見ているだろうよ。中にいる。今通してあげるよ。」

「ありがとうございます!」

 魎さんは親切にも黄色いテープを持ち上げて、私のことを通して、中まで先導してくれた。

 中にはまだ刑事さんや鑑識の人がいて、物々しい雰囲気だった。診察室の中を覗くと、書類や医療器具が床にばら撒かれ、いかにも荒らされていたというのが見て取れる。

 処置室の方はさらに人が多かった。人ごみに阻まれてちらりとしか見えなかったが、やはり散らばる処置に使う道具、そして、点々と赤いものも見えた。あれは、血痕にしか見えない。

 魎さんは診療所の階段を2階へ上り、ある病室に入っていった。私たちはその前で待機する。

「あの、大丈夫ですか?」

 さっきからぐったりしたままの男性に声をかける。

「うぅっ・・・面目ない。」

 大丈夫なのか否かすらイマイチだ。

 しばらくすると、魎さんに連れられて、海斗さんが出てきた。

「俺が処置するのかよ!?俺は救急隊員の資格はあるけど、医者じゃねーんだぞ?」

「いいから頼むよ、こいつなんだ。」

「お、風香ちゃん、お疲れ。こいつは?」

「神社にいたときに頭痛を訴えたらしくて。」

「へー。にしてもガタイいいなぁ、お前。運動、何してるんだ?」

「う、運動?」

「ほら、海斗さん、ボディータッチと無意味な質問は後にして、ちゃんと診てあげてくださいよ!」

「分かったよ、ったく。」

「そういえば、雅治さんの容態は?」

「あー、CT検査等々じゃ問題なさそうだが、脳震盪で意識がねーんだ。おまけに6針縫った。」

「うわ、痛そうですね・・・」

「1階は人が多い。やるならそこのデイルームを使うか。」

 海斗さんはさっきの男性を連れて、デイルームに入って照明をつけた。私と魎さんも続く。

「よし、どんな感じに痛いんだ~?」

「どんな感じ、とは・・・」

「あー、さすがに分かりにくいか。じゃあ頭痛も辛いだろうし、イェスかノーかの質問に答えてくれよ。」

 そう言いつつ、手馴れた手つきで目にペンライトを当てている。

「痛いのは頭のてっぺんか?」

「・・・いや。」

「横じゃないのか?」

「・・・いや。」

「じゃあ後ろか?」

「・・・いや。」

「じゃあ前か?」

「・・・いや。」

「え、どこだよ。・・・分かった、奥の方か!」

「・・・ああ。」

「腫瘍とかだったら厄介だな、CT撮りに行くぞ。」

「・・・あいわかった。」

 海斗さんは、この男性がゆっくりと立ち上がるのを見届けた。いや、ずっと凝視しているというのだろうか。この男性もその視線に気付いたらしく、海斗さんと視線を合わせた。

「・・・何だ?」

「・・・・・・お前、俺と前に会ったこと、あるか?」

「・・・・・・何?」

「はい?」

 私までも、海斗さんの意外すぎる発言に驚いてしまう。何のことだろうか?

「覚えてないか?俺のこと。」

「・・・・・・うっ!」

「あ、あぁ、そんなこと聞いてる場合じゃなかったな。すまんすまん。さ、行こか。」

「ああ、面目ない。」

「二人とも・・・?」


 山道が険しいことくらい容易に想像はついていた。それでも毒霧で消耗しきった彼らにとっては、それはさらに厳しいものだった。

「・・・げほっ、ごぼっ。」

 それまで体調が悪かったカーバンクルに続き、ケンタウロスにも症状が現れた。

「大丈夫か?」

「・・・ああ、気にするな。それよりも、お前が言えたことか?」

「確かに俺も辛いけどよ。」

 それに比べて、ケンタウロスの俺に対する邪険な扱いは変わらず。

「私はそういう態度の強い男も好きだけどな・・・」

「な、なんだよ、その意味深な発言・・・」

 ついにはサキュバスにまで茶化される始末。

 まだそれだけの余裕があるように見えた一行だが、カーバンクルはもはやそのような気力すらなくて、ぐったりしていて、時折乾いた咳をするくらい。

 余裕を見せているように見えるケンタウロスも、実はかなり体力を消耗している。こいつもどこかで霧を吸ってきたのだろう。

 あの毒霧は徐々に体を蝕んでいくのだろうか?あれからかなりの時間が経っている。山登りをしているという点もあるかもしれないが、少なくとも2人、いや、俺を入れて3人か、状況は悪化している気がしなくもない。

 そんな中、山道の上の方、木々が途絶えて開けた場所に佇む人影が見えた。

「あれ、何かしら?」

 余裕のない俺らと比べたら、ぴんぴんしているサキュバスがその違和感に気付く。

「あんなところで、何やってるんだ?」

 近づくにつれて、その姿が明るみになった。

 そいつはまず、山道に座り込んで瞑想している。髪は白く、肌は青黒く、俺そっくりだ。ただ全然違う点は、白髪は腰辺りまで長く、腰には豹柄だか虎柄だかの腰巻、その傍らに置かれている三叉の槍。

「厳ついな・・・お前の知り合いか?」

「いや、そんなわけないだろ。」

 ケンタウロスも、そいつが発している威厳めいた何かに萎縮しているようだ。

「・・・けほけほっ。な、何なの?」

 カーバンクルも目を覚ます。優しく宥めようとしたら、ケンタウロスに先を越された。

「気にするな。何でもない。」

 ぶっきらぼうな諭し方が気に食わない。ケンタウロスはそう言うとズカズカと先を行った。

 その時だ。道端で瞑想をしていたそいつが、重く瞑っていた目を開いたのだ。

「げっ、何だこいつ。」

 思わず声が出た。言葉の通りだ。通ろうとしたのを察したかのように、目を見開いてきたのだ。正直、気味が悪い。

 俺らが足を止めると、そいつは組んでいた足を解き、傍らに転がっていた槍を手にとって立ち上がり、一行の前に立ち塞がった。

「・・・よく来たな、こんな山奥まで。」

 声も威厳に満ちていた。何だろう、凄みがあるというのとはまた違うような・・・

「こんなところで何をしてた?」

 臆することなくケンタウロスが尋ねる。いや、少なからず物怖じはしていたのだろう。さっきからちょくちょく感じていた威圧感みたいなものは、少なくとも今の台詞からは感じられなかった。

「我は見ての通り、ここで瞑想していただけだ。次の世界を創るのに備えてな。」

「ふうん・・・って、何を物騒なことをさらりと言ってるのよ?!」

 注意深く観察していたサキュバスが素っ頓狂な声を上げる。

 確かに聞き捨てならない。次の世界を創るだぁ?何を抜かしてるんだ、こいつは。

「まもなくこの世は滅びる。我にはそれを成し遂げ、次の新たなる世を創る力と義務がある。」

「おいおい、ちょっと待て。じゃあこの森一杯に広がる霧は、全部お前の仕業なのか!?」

 俺は開けた場所から眼下を指差して迫った。眼下には紫色の不気味な霧に覆われた森林が広がるのみ。

「そうは言っていない。我はあくまで、この世の終わりを見定めた後に全てを無に帰し、一から新たなる世を創り出すわけであり、この霧が我の手によって作り出されたものではない。」

 胡散臭い話し方だが、要はこの世界はまもなく無くなると。にわかには信じがたい内容だが、かといってこの見知らぬ男を信用していいものかも分からない。

「それを証明できるのか?それより、お前の名前は?」

 ケンタウロスも同じ事を考えたようだ。やはり突っかかるような、それでいて威圧感のない話し方だ。

「申し遅れた、我が名はシヴァ。一体となる三神のうちの一人、破壊を司る者だ。」

「・・・俺はケンタウロス。お前の話を聞く限り、どの道この世界を闇へ葬ろうとする真意が見え隠れしてならない。」

「・・・解せぬか。旅路に終わりがあるように、この世にも末というものが存在する。我はそれが存在すべく、我もまた存在している。」

「なら話が早い。その力を持ってして、破滅に向かう道を変えられぬか?」

「悪いがそれはできない。理由はこうだ。先ほどの旅路の例えを用いよう。旅路に始まりと終わりがあるのは必然だ。それと同じく、この世にも始まりと終わりが存在する。いつか終わりが来るのは必然なのだ。」

「じゃあその『終わり』とやらを先延ばしにすることは?」

「したところで『終わり』が来ることに何ら変わりはないであろう。それに・・・」

 シヴァは一旦そこで会話をやめると、目を見やって言った。

「貴様の背中で横たわっている小娘、先ほどから、いや、ひょっとしたらかなり前からかもしれないが、ずっと苦しがっているな。それ以上、悶え苦しむ様を見続けるつもりか?」

「くっ・・・・・・」

 もっともらしい事を言われ、いや、カーバンクルを引き合いに出されたからか、ケンタウロスは気圧されてしまった様子。

「一思いに楽にしてあげた方がいいと、我にも分かるがな。」

「・・・黙れ。」

 その言葉は唐突だった。それはシヴァと会う前の、威圧感や威厳に満ちた、力強い声だった。

 しかし、ケンタウロスはシヴァに向かって弓を構えるという、予想外の行動に出た。

「おい、落ち着けよ!」

「インキュバス、お前にも分からないのか?こいつは破滅という行為を正当化するような戯言を並べているだけだぞ?」

「・・・これほどの時間を割いてまで力説したのにも関わらず、解せぬか。・・・仕方あるまい。貴様がその気なら、我の言ったこと、力を持ってして証明して見せよう。」

 シヴァもそれに乗って、槍を構えてくる。もう、一触即発の状態だ。

「やめてくれよ、こんなところで戦ってたって、毒霧に巻かれて死ぬだけだぞ!?」

 俺は必死に二人を宥めようとするが、明らかに二人は火花を散らしあっているし、手に負えない・・・

「・・・げふっげふっ!」

 ケンタウロスの背中に寝ていたカーバンクルが激しくむせた時だ。

「はあぁ!」

 油断したケンタウロスの隙を突いて、シヴァが先手に出た。槍を構えたまま突進してくる。咄嗟にケンタウロスが放った矢も空を切った。

「ちっ!」

 慌てて横にダイブするケンタウロス。

「わああ!」

「危ない!」

 その勢いで飛んでいきそうになるカーバンクルを無我夢中で受け止めた。

「まずいわよ、あの霧、かなりの至近距離まで来てる!」

 サキュバスが俺たちに教えてくれるが、それどころではない。うまいこと一撃を交わしたケンタウロスだが、シヴァも素早く身を翻して、再び攻撃態勢に移ろうとしていた。

「サキュバス、カーバンクルを頼む!」

 そういって俺はサキュバス目掛けてカーバンクルを球のように放り投げた。

「分かったわ!」

 返事も聞かずに俺は夢中で走り出した。そしてその勢いのまま、シヴァを羽交い絞めにする。

「やめろ!」

「ぐっ、何をする!」

 シヴァも必死に抵抗した。

「うがっ!」

 シヴァの肘が俺のわき腹に食い込む。俺はそのまま後ろに吹き飛ばされ、シヴァはそんな俺を見向きもせず、未だ立ち上がれずにいるケンタウロスの許へ向かっていく。

 頼むからやめてくれ、と何度も内心で願った。こんなところで殺し合いをしている場合ではない。一刻も早くあの霧から逃れる必要があるのだ。そうすれば、少なくともここで命を落とすことはない。

「やめねぇかぁ!!」

 腹の底からの唸り声を上げたときだ。

「ウオオオオオォォォォォ・・・・・・ン。」

 不気味な遠吠え。それにはシヴァも思わず足を止める。

 不意に、ヒュウッという風を切る音がした。

「・・・そこか!」

 シヴァも気付いたようだが、反撃ではなく、ケンタウロスと同じようにダイブした。

 ドシン!

 山々にまで響き渡りそうな地響きと共に、黒い影がぬうっと俺の前に立っていた。月影でシルエットしか見えないが、がっしりとした体躯、それに巨体。只者ではないし、敵か味方かも分からない。

 恐怖心から後退りしたとき、落ち葉を潰す音を立ててしまった。その音に反応した黒い影がこちらを振り返る。その視線が合ったとき、俺の思考と動作は硬直した。

「・・・!!」

 その眼差しは、決して凄みのある物ではないが、代わりに暖かな優しさを秘めていた。その目に、俺は見覚えがあった。

「・・・お前は!」

「ちっ、こんなときに邪魔がっ!」

 シヴァは逆に気圧されたのか、かなり間合いを取った。黒い影は素早くその間合いを詰め、シヴァに飛び掛った。

 その時になって、月明かりに照らされた黒い影の姿が浮き彫りになった。全身毛むくじゃらで、人より少し大きいくらいの体格。間違いない。

「固まっちゃってどうしたの?さては、知り合い?」

 まるで全てお見通しかのようにサキュバスに言われる。

「ああ、ライカンスロープだ、前に話してた。」

「あんなおっかないのなの?」

「根はいいヤツさ、俺が保証する。」

 話しながらライカンスロープの動きを目で追う。避けようと間合いを開けてばかりのシヴァにどんどん突っ込んでいく。

「あいつは・・・俺たちのために、戦ってくれてるのか・・・・・・?」

「そうなんじゃないかしら?私たちの前に立ち塞がったシヴァに、あそこまで堂々と踏み込むなんて、よっぽど肝っ玉の大きな子じゃない。あなた、あんな立派な子と知り合いだったのね。」

「ああ、誇りに思うよ!」

 やがてシヴァとライカンスロープは山道をさらに進み、視界から消えていった。

「ほら、ケンタウロスもいつまで寝てんだ?早く、追うぞ!」

「分かってる。ちょっと手、貸してくれ。」

 すっかり体力を消費してしまったケンタウロスに手を貸し、ゆっくりと引き起こす。足取りがさっきよりは覚束なくなっているが、それでも俺たちは2人の後を追うべく、山道を一気に駆け上がった。


 目覚めの感覚は、睡魔が大きな渦の中に吸い込まれていくかのように、突然だった。

「ぬっ・・・」

 頭がガンガンする。それだけで目が覚めてしまったし、二度寝することすら許してくれないようだった。

「ううん・・・」

 ゆっくりと体を起こす。病室は照明が消され真っ暗だが、暗闇に目が慣れているので、風景はそれとなく分かる。僕のベッドの脇には、椅子に座ったままうな垂れた姿勢で寝ている魎がいる。僕の寝ているベッドの区画はカーテンで仕切られ、外側は見えない。少なくとも太陽光が入ってきていないので、まだ夜中であることが分かる。

 ポケットに携帯電話が入っていることを思い出し、取り出してみると、時刻は午前4時にもうすぐなるところ。確かに日の出前の真夜中だ。

 僕は頭痛が残る中、これまでの出来事を思い出した。えーっと、今日の午前中は暇で、昼間は学校に言って高大に襲われて、帰ってきても暇で、夜になって水穂ちゃんが帰った後、僕は・・・

 そうだ、狡貴に襲われたんだ。それで殴られて意識が飛んで・・・あれ、その辺の記憶も飛んでるような気がする。

 魎がいるってことは、少なからず僕が襲われたというのは確定的要素であって・・・あれ?

 狡貴は何が目的で僕を襲ったんだ?恨みがあるのなら僕を殺していたはずだし、魎がいるってことは、僕はまだ狙われている!?

 僕は疑心暗鬼に陥り、天井のある一点に視点を合わせてしまう。・・・ん、天井。ここは診療所、診療所の天井。シンリョウジョノテンジョウ・・・

「“診療所の天井”・・・」

 何だ、この引っかかるようなワードは。今、いきなり脳裏に浮かんできたけど、何か重要そうなキーワードのようだ。けど、どういうワードだ、これ。

 急にそのワードまで不吉に思えてきて、布団を頭まで被り、目をぎゅっと瞑った。もう、何が何だか分からない。どうすればいいのかも分からない。

 見えない恐怖から逃げようともがいたのが1時間にも及ぶとは、このとき予想もしなかった。気付けばカーテン越しに、病室の窓から眩しい朝日が差し込んでいた。携帯電話の時計は朝5時半。僕は再びゆっくりと体を起こした。頭痛はさっきまでに比べたら大分マシだが、痺れに似たようなものがまだ残っている。

 魎はまだ寝ているようだし、僕は起き上がって、ちょっと歩いて回ることにした。魎を起こさないようにカーテンを開けると、眩しいばかりの太陽光に出迎えられた。

 あ、生きてる。改めて実感した。

 病室には他に患者はいない。あれ、狡貴がいる病室はどこだったっけ。回診に行っても寝てるか言い負かされるかで、面白くなかった記憶はある。

 病室のドアを開け、廊下に出る。中途半端に温もりを持った埃っぽい空気に満たされていた。

 デイルームの照明が付けっぱなしであることに気付き、中に入ると、奥の方のテーブルに、大男が一人座っていた。

 怪獣だったら嫌だな、というのは無駄な妄想であって、身なりから見て海斗だと分かった。こんなところで何をしているのだろう、なんて疑問に思いつつ、海斗の傍に近寄る。

「・・・すー・・・すー・・・」

 腕を組んでぐっすり眠っている様子。通報があったらどうするんだとも思うし、それ以上にさっきから、何で海斗がここにいるのかが気になって仕方がない。

 僕は海斗を起こそうと、テーブルを軽くトントンと叩いた。

「・・・んあ、あれ、いつの間にか寝ちまってたのか・・・」

「海斗、こんなところで寝てて平気なの?」

「雅治か・・・悪りぃ、すっかり寝入っちまったようだ。」

 髪の毛をガリガリと掻き毟りながら体を起こす海斗。本当に爆睡していたようだ。

「第一、海斗がこんなところで何してたのさ。」

「いやぁ、急患頼みたかったのに電話に出ないから、他の病院に回してから寄ったら、雅治がぶっ倒れてるからさ・・・」

「あ、お前が見つけてくれたんだ。ありがとう。」

「な、何だよ、水臭ぇなぁ~。」

「うぐっ!?」

 こ、こいつ、照れ隠しのつもりなのか、凄い腕力で僕を抱き寄せてきた!洗剤と汗が混ざった海斗の消防服の匂いが鼻をつく。その分厚い胸板に僕の顔を押し当てようとしようとするかのように、海斗はゴリゴリと頭を押さえつけてくる。同じ事を水穂ちゃんにもしてるんじゃないだろうな!?

「ちょ、まだ痛いんだから勘弁してよ!」

「いいだろ~?お前が生きてただけでも嬉しいんだから!」

「それ、本音!?・・・いててて!!」

武士(もののふ)同士の戯れか?」

 健治の声だ。声はしたけど、図体の馬鹿でかい海斗が邪魔で、姿は見えなかった。

「お、すっかり元気になったようだな!」

 やっとのことで海斗は僕のことを解放してくれた。男にあそこまでガッツリ抱かれるのは初めてだったから、僕はかなり困惑している。

「元気になった?健治にも何かあったのか?・・・ていうか、健治はどこ行ってたんだ?」

「健治っていうのか、そいつ?知り合いだったのか?」

 僕は困惑するとストッパーというものがなくなる。疑問が浮かんだら即ぶつけてしまうのだ。

「昨日、風香ちゃんが連れて来たんだよ。一応、俺が診てやったけど、本人は頭痛がするらしいのに、CTとか見ても何もなくてよ。様子を見るってことで、一晩寝かせてやった。」

「僕のいた病室には魎が寝てたよ?」

「ああ、全員空いてる部屋に入れたよ。若いヤツ一人の部屋、手術台に横になってたヤツ一人の部屋、お前の部屋、そいつの部屋。」

 なんだかんだうちの診療所の入院病棟は空室が多い。元々、高大と狡貴しかいなかったから、そこに僕と健治を押し込んでも支障はないわけだ。つまり、高大、狡貴、僕、健治は別々の病室に入っても問題はないということだ。

 僕の寝ていた病室には魎がいた。じゃあ、健治がいた病室には風香ちゃんがいたのか。

「で、健治はどこに行ってたの?」

「・・・少々近場を巡って参った。」

「・・・・・・要は散歩だな。」

「様子見とはいえ、抜け出すのは感心しないなぁ。」

「・・・面目ない。」

 まあ、拘束されるのは武士らしくないというか、僕もこの駒を手元に抱えるだけで負担になっていることが分かったというか。

 ・・・健治のことを余った手駒のように思うのはよくない。というか、どうしてこう、誰かに殴られた後って、疑心暗鬼になるものなんだ?

 そういうものなのだろうか?僕はちょっと錯乱した患者なら大学病院で何度もあっている。ひょっとしたら、僕が今経験している懐疑的思考は、その前触れなのかもしれない。患者の立場になって考えろとはいえ、何度もその立場になるとは。

「そうだ、雅治、こいつちょっと拝借してもいいか?」

「え、健治を?」

「ああ、ここに押し込むのも気が引けるし、いっちょ観光案内と行こうか、と思ってるんだけどよ。」

 確かに健治をここに置いておくのも気まずいし、どこかぶらぶらさせるのもまずいと思う。しかし、海斗の考えは僕にとっては懐疑的な点が多いものだった。

「ちょいちょい、急患をデートに誘い出すってどういうことだよ?」

「デートとは言ってねーだろ!?一応俺はお前ほど忙しくはねーし、力仕事とかできそうだからな、こいつ!」

「患者をパシリに使うのかよ・・・」

「ゴチャゴチャ言うんじゃねぇ!お前の代わりに村を案内するだけだから、心配すんな!」

「いていていて!僕、頭が痛いんだからヘッドロックはやめてよ!」

「・・・・・・いとおかし。」

 僕はまだ痛みの残る頭をさすりつつ、渋々了承した。結局僕が折れたわけだ。

「あまり遅くまではダメだよ?僕が先に寝込んじゃうから。」

「分かったよ。じゃ、健治借りてくわ。」

「行ってらっしゃい。」

 階段を下りていく二人を見送った。海斗は馴れ馴れしく健治の肩に手を回し、さながら大親友のようだ。・・・前にもこの表現、使ったことがあるな。

 背後からガラガラという音がした。振り返ると、僕がいたのとは違う病室から風香ちゃんが出てきた。身なりは神社にいるときの巫女の格好と同じだ。

「雅治さん、起きてたんですか、おはようございます。」

「ああ、風香ちゃん、おはよう。」

「あの・・・昨日の男性は、どこ行っちゃったか知りませんか?」

「昨日の男性?・・・・・・ああ、健治なら海斗と出かけて行ったよ。すっかり元気になった様子だったし。」

「そうですか。雅治さんの方は?」

「僕もまだ痛みが残るけど、大分よくなったよ。ありがとう。」

「お二方ともご無事でよかったです。」

 再びガラガラという音と共に、今度は僕がいた病室のドアが開く。そこから魎が眠そうに目を擦りながら出てきた。

「何の騒ぎだ・・・お、雅治、元気になったのか?」

「うん、おかげさまでね。」

「誰に襲われたん・・・いや、その話はまたの機会にするか。」

「・・・・・・・・・・・・?!」

 僕はその話を持ち出されてはっとした。その瞬間まで忘れていた、確かめたい重要なことがあるではないか!

 僕は無我夢中で、あいつがいるはずの病室のドアをこじ開けた。ネームプレートなどいちいち確認しない。

「雅治!?」

「どうしたんですか!?」

 ドアを開けてすぐのところ、締め切られたカーテンを一気にバーッと開け放つ。そこに・・・やはりそいつはいた。

 点滴やら電極やらを体につながれ、点滴スタンドには薬剤が吊るされ、そばにあるモニターには心拍数や血圧が表示されている。

「おい、起きろ!」

 寝込んでいるほどの重症患者であろうと知ったことではない。事実かどうか確かめたいことがある。僕はそいつの胸倉を掴み、はっきり聞こえるような大声で怒鳴りつける。

「雅治、落ち着け!」

「何やってるんですか!?」

 魎に羽交い絞めにされ、風香ちゃんに椅子に座るよう諭される。

「うーん・・・」

 でも、そいつにとっては少なからず刺激になったようで、重たい目蓋をゆっくりと開けた。僕は腰を下ろすことなく、そいつに詰め寄る。

「・・・おい、狡貴、聞こえるか!?」

「・・・・・・あ・・・ぁぁっ。」

 かすれた声だ。本調子じゃないのか?

「どうした、僕の名前を言ってみろよ。」

「・・・んあ・・・・・・雅治・・・先生。」

「言えるじゃん。」

 何かが僕の腕に触れた。

 腕に視線をやると、狡貴の指先が僕の腕に触れていた。そして覚束ない手つきで、僕の手首を掴んできた。

 僕はそれを見た瞬間・・・・・・信じられないくらいの強さでそれを振り払った。それはまるで、汚いものや止まった虫を払うときの仕草と同じだった。

「雅治?」

「大丈夫ですか?」

 その様子を二人も怪しく思えてきたらしい。

 そりゃそうだ。いつもの僕ならそのまま手をスライドさせて、がっちりと握手をしている。なのに、僕はこいつの手を、やっとのことで探り当てた僕の手から、払いのけた。

「気安く触るなよ。」

 しかも、こんな言葉まで浴びせて。後から思えば、このときの僕は大分イカレていたのかもしれない。

 でも、そのときの僕は、とにかく前にいるこいつが、僕を殺そうとしたという既成事実の元、あらゆる意味で許せなかったのかもしれない。

「・・・雅治・・・先生・・・・・・どうしたんすか・・・?」

「何を寝ぼけたことを言ってるんだ?お前は今、そんなことが出来る立場じゃないだろ。正直、ここに誰もいなければ、首を絞めるなり、点滴チューブ全部抜くなりして、お前のこと、殺してるよ。」

「雅治、落ち着け。」

「お祓いした方がいいですか?」

 僕はもはや二人の言うことには耳を貸していない。僕は完全にストッパーが外れて暴走していた。

「・・・雅治・・・先生・・・・・・し・・・りょ・・・じぉ・・・て・・・んじぉ・・・」

「何だ、反論があるのならもっと大きな声で言え。」

「・・・診療、所の・・・天・・・井。」

「えっ、『診療所の天井』・・・・・・んっ!?」

 その言葉が脳内で認識された瞬間から、あの時の光景が走馬灯のように駆け巡る。

「うあ・・・あぁっ・・・・・・ああああぁぁぁぁっ!!」

 早送りボタンと巻き戻しボタンを連打されるリモコンの気持ちになったことはあるだろうか。実は僕は何度かそれをやってボタンが潰れるということがあったので、少なからずリモコンの気持ちが分かるつもりだ。

 僕が今感じているのはそれだ。頭の中をフラッシュバックのように映像が高速で流れている。その間に頭の中のどこかが強く押されるように激痛が走る。

 痛さのあまりに、蹲ろうとして派手に尻餅をつき、二人に介抱される。

「おい、大丈夫かよ、雅治!?」

「やっぱり、もう少し休んでいた方が・・・」

 落ち着け、もう一度頭から、つまり映像の最初から、ゆっくりと再生するんだ。

 僕は診療所の中にいる。・・・やがて照明が消え、僕は暗闇の中に一人投げ出される。・・・しばらくして誰かに殴られる・・・このときだ、一番シャープな痛みが来るのは。・・・僕はたまたま持っていた銃で反撃して・・・暗闇の中から懐中電灯を見つけて・・・照らしたら狡貴がいて・・・狡貴は死に掛けていて・・・僕はそいつを負ぶって手術台に横にして・・・麻酔をかける前に一言、こう言った。

“起きたら『診療所の天井』”

 ・・・・・・走馬灯を見終わり、全身の力がフッと抜けた。まだ頭の痛みはぼんやりと残っているが。

 僕はその後、狡貴の胸を貫いた跡を何とか塞げたんだ。で、目を覚ましたら頭痛と共に診療所の病室のベッドに寝そべっていた。この間の記憶はない。

「ごめん、狡貴。今、思い出したよ。大丈夫か?」

「・・・・・・雅治先生・・・」

 おいおい、いい男がここで泣き出すかぁ?しょうがない、さっき海斗にやられたのと同じことをやって慰めるか。

「ほら、泣くなよ。」

 身を屈めて、ぎゅーっと強く狡貴を抱き締める。海斗に頭を押し付けられたから、狡貴の胸を締め上げてやろう。

「うっ・・・ぐぅ・・・・・・」

「ああっ、苦しいよな、ごめんごめん。」

 僕はそれで解放してやろうと思ったが、狡貴が離そうとしないので、少し力を緩めてやった。

 肩の辺りが冷える感覚を覚え、狡貴の背中に回した手を僕の肩に伸ばすと、狡貴の涙でしっとりと濡れていた。狡貴もそれに気付いたようで、慌てて僕を解放した。

「・・・すいません・・・・・・濡らしちゃって・・・」

「大丈夫大丈夫、すぐ乾くよ!」

 どういうわけか、狡貴の涙がしみこんだこの白衣を、何の気なしに洗濯機にぶち込んで洗うことを躊躇う。このまま数日間は着ていたい気分だ。

「じゃ、僕は仕事の準備があるから。何かあったら枕元のナースコールで呼んでよ。」

「・・・それ、ここに、来た時も・・・聞きましたよ。」

「あれ、そうだったっけ?」

「何か・・・・・・懐かしいような・・・感じがします・・・」

「そりゃよかった。じゃあ、また後でね。」

「はい・・・・・・」

 僕が席を立つと、狡貴は再び体を横にして、寝る姿勢になった。まだ本調子じゃないだろうから、今はゆっくり寝ていてもらおう。

 僕に続いて、風香ちゃんと魎も病室から出た。

「元気そうでよかったですね!雅治さんのお陰ですね!」

「あはは。後は様子を見て退院する日にちとか決めないと。」

「俺の方からもいいか?例の如く、色々と話を聞かせてもらいたいんだが。」

「僕は正直、今はまだ整理がついてないし、頭も痛いまま。あの調子じゃ記憶もいくらかぶっ飛んでるだろうし、もう少し落ち着いてからでもいいか?狡貴が回復するのも待つ意味も合わせて。」

「そうだな、雅治とあいつのさっきの・・・確執めいた何かが俺としても気になる。お互いの回復を待つのが賢明なんだろうな。」

「ごめんよ、少しの間でも、待たせちゃって。」

「気にするなよ。まずは自分自身の体を治すのが先決だぜ。」

「ありがとう。」

 魎も、前とは違って、僕のことを気にかけてくれるようになった。矢継ぎ早に質問をぶつけることもなくなったし、それを言ったら、狡貴の性格も変わった気がする。人ってこういう風に変わるのか、と勝手に感傷に浸る。

「じゃあ俺もそろそろ駐在所に戻らないと。風香ちゃんも神社に戻らなきゃまずいんじゃないのか?」

「そうですね、朝からやることとか結構あるから・・・」

「どうせなら僕も途中までご一緒してもいい?汀ちゃんの店に朝ごはんでも食べに行こうと思うんだけど。」

「大丈夫なのか?そんなんで歩き回って。」

「いや、歩く分には問題ないよ。むしろこの状態で料理をする方がかえって険しいと思うし。」

「そう、か。じゃ、俺もお供するぜ。朝飯食ってないのは俺も同じだからな。風香ちゃんも来る?」

「私は遠慮しときます、神社の方で出ますから。」

「ああ、そうなのか。じゃあ途中まで3人で行こうか!」

「はい!」

 僕は戸締りを確認し、診療所を後にした。

 公民館のドアはガラス張りで、外の様子が中から見える。外は朝から灰色一色。地面には水溜りがいくつもあり、雨が降っていることは一目瞭然だった。

「雨かよ・・・」

「もうそんな季節なんですね・・・」

 滅入る二人に、僕は診療所にある置き傘を貸してあげた。

 ドアを開けると、生暖かい空気が出迎えた。雨による湿気と夏の前の暑さが混ざった感じで、朝からあまり気持ちよくはない。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 何かを話そうと思っていたのだが、記憶の混乱のせいか、何を言えばいいのか分からない。魎と風香ちゃんも、なかなか口を開くことが出来ずにいる。

「・・・しっかし、もう梅雨時かぁ。今年の夏も色々大変そうだな。」

「そうですね、忙しくなりそうです。」

 やっとのことで出てきた会話も、一言二言で終わってしまうような世間話だった。僕はその違和感の中、一人ぽつんと孤立感にも苛まれていた。

「じゃあ、私はこの辺で。」

「うん、また今度ね。」

 そうこうしているうちに神社前で風香ちゃんと別れ、魎と喫茶店に着く。ドアを開けると、華やかなウィンドチャイムの音が響く。こんなの、前からあったっけ?それすらも曖昧だ。

「いらっしゃいませ!おはようございます!」

「おはよう、汀ちゃん。」

 華やかなのは汀ちゃんの笑顔も同じだった。これまでの不安が吹っ飛ぶような感覚を覚えながら、僕は魎と四人掛けのテーブルにつく。間髪入れずに汀ちゃんがお冷とメニューを持ってきてくれた。

「雅治さん、頭の包帯、どうしたんですか?」

「ああ、これは・・・ええと。」

「階段から転げ落ちたんだとよ。」

 慣れない言い訳作りに苦労していると、魎が助け舟を出してくれた。

「そうですか・・・早く治ると良いですね。」

「うん、ありがとう。」

「ご注文がお決まりになりましたら呼んでください!」

 ああ、汀ちゃんの笑顔のお陰で、頭痛も不安も全部吹き飛びそうだ。

 僕も魎もメニューに視線を注いでいた時、ドンッという音が響いた。同時にお冷が入ったコップの中で氷が踊る音もする。何事かとメニューから視線を外すと・・・

「雅治、あんた、どうしたの!?」

 血相を変えた晴子がテーブルに両手を突いて立っていた。会ったのは久しぶりだが、晴子のことは覚えていた。

「え、何が」

「まさか、また地下に!?」

「まあ、待て待て!そんな早とちりするなよ。」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「ええと・・・・・・」

 状況が分からない魎も口ごもる。それを確認したかのように、晴子は僕の横に座った。

「ちょっとよく見せて。」

「やめろって、転んだだけだよ。」

「本当なの?」

「ちょっ・・・・・・」

 過剰に抵抗するとかえって厄介そうなので、適当なところで大人しくした。晴子は包帯越しに僕の後頭部に出来たデカい瘤を撫でる。よくよく考えたら、転んだにしては瘤が出来た場所が不自然だが、逆に晴子は瘤くらいで済んだのかと安堵のため息をついた。

「心配させないでよ。」

「勝手に誤解しただけだろ?」

「・・・そうね。私の勘違いだったみたいだわ。」

 あれ、珍しく挑発に乗ってこない。挑発に挑発で返すのが今までの流れだと思っていた僕にとっては、それもまた違和感としか感じられなかった。晴子は誤解が解けるとすぐに自分のいた席に戻っていった。

「大丈夫かよ?」

「え、僕のこと?」

「ああ、俺に言わせてみれば、お前、何かに対して極端にビクついてるように見えるぜ。」

「それ、マジで言ってる?」

「マジじゃなきゃ言ってないと思うけど?」

「・・・・・・・・・・・・・」

 やはり、この違和感は嘘ではない。一度殴られて意識を失う度に、この世界が現実味を帯びていないような疑心暗鬼に陥っているが、何度も繰り返されるうちに、もう元々いた世界と違うところに来ているのではないかと、全てのものを疑い始めている。

 どうなっているのかなんて、今の段階では見当もつかない。仕方なく僕はいつも通りに、頼んだ朝食を平らげ、魎と神社の近くで別れて、一人診療所へ向かった。


 あれからかなりの月日が経った。

 私も家内も大分歳を取り、家事をするのにも一苦労するようになってしまった。

「・・・おじいちゃん、採ってきた山菜はこの辺に積んどいていい?」

 その分、うちの子は逞しく育ってるし、家事の手伝いも進んでしてくれる。本当に理想の息子に育ってくれたと思っている。

「ああ、そこでいいよ。あとは婆さんに任せて、あんたは昼飯までゆっくりしてなさい。」

「はーい。」

 本当に献身的な息子だ。子宝に恵まれなかった私たちにとって、あれは願ってもみなかった出来事だったが、その分この子は神からの素晴らしい恵みだと思えるほど、理想的なものに育ってくれている。

「・・・やっぱり体が落ち着かないや、川で魚でも獲ってくるよ。」

「ああ、流されないように気をつけてな。」

 未だに元気が有り余っているとは、健気な子だ。駆け足で近くの川へ向かっていった。

「ごめんくださいな。」

「・・・あ、テナヅチさん!こんにちはー!」

 来客にいち早く応対したのも彼だった。来た道を駆け足で引き返して玄関の方へ向かっていった。

「こんにちはぁ、桃太郎はいつ会っても元気だね、こっちも元気をもらうよ、ハッハッハ!」

「どうも、テナヅチさん。どうかしたのですか?」

 私が遅れて玄関先に着くと、テナヅチさんは手にカゴを持っていた。カゴの中はキノコや木の実が一杯入っていた。

「北の方の山で主人が採ってきたものなんだけどね、大分余っちゃったから、悪くならないうちに食べてもらおうと思って。」

「ありゃあ、こんなに申し訳ないねぇ。」

 私がカゴを受け取ると、桃太郎は一礼して川の方へ再び駆け出した。二人でその背中を見送った。

「元気良いねぇ。うちの子は今頃どうしてるのやら。」

 そんな感じで他愛もない世間話が始まった。

「テナヅチさんもまだまだ元気そうじゃないかい。アシナヅチさんも元気かい?」

「ピンピンしとりますよ。これでポックリいかれた日にゃあ、私までどうにかなりそうですわ。」

「ハッハッハ。そりゃあよかったですなぁ。一時期体を壊したって話だったのにねぇ。」

「向こうの薬師のお薬が効くんですよ。年取ると節々が痛くなるけど、あそこの薬屋のは効きますよ。ご主人もいかが?」

「そうだねぇ、ここのところ桃太郎に任せっきりだから、早死にしない長寿の薬でも頂こうかね。」

「ハハハ。うちも欲しいですわ!・・・あ、そうだ、思い出した、ご主人、この話、聞いたことあります?」

「ん、何の話かな?」

「鬼だよ、鬼。その薬屋に薬草とか運びに来る若いのが鬼に襲われたって、市場で騒ぎになってたんですよ。」

「鬼!?」

 途轍もなく物騒なワードに、思わず素っ頓狂な声を上げる。それには桃太郎も驚いて振り返った。

「・・・そんな近くに鬼がいるのかい?」

「細かいことは聞かなかったけど、南の海の方は危ないって言ってましたねぇ。先祖の話じゃ、鬼ヶ島くらいしか、そっちの方にはないんだけどねぇ。」

「何かただ事じゃなさそうだねぇ。そっちには行かないのが得策じゃないかな。」

「だねぇ。人里に来るような事がなければいいんですけどねぇ。」

 薬屋の若造が鬼に襲われたらしく、テナヅチさんが言うには南は特に危険地帯らしいが、そこには鬼ヶ島くらいしかない。確かに、南の方には人里はないし、果ては海になっている。その辺りに島があってもおかしくはないが、決して人が近づくようなことはない。鬼が巣食うには絶好の場所だろう。それが人里に来なければ良いと私も思った。

「いやぁ、お昼時に長々と人ん家の前ですいませんねぇ、じゃあ、私はこの辺で失礼しますわ。」

「あ、はい、お元気でね。」

 テナヅチさんはゆっくりと、元来た道を引き返していった。しかしその足取りには年寄りのような重たいものは感じられなかった。

「おじいちゃん!」

 桃太郎の甲高い声がした。振り返ると、両手に網一杯の魚を持った桃太郎が駆けて来るのが見えた。

「おお、今日も大漁だったな。そうだ、これをテナヅチさん方へのお返しに」

「・・・に行ってくる!」

「え?」

 私と桃太郎の声が被ってしまい、何を言っているのかよく聞き取れず、聞き返した。

「何だって?」

「僕、鬼ヶ島に行ってくる!」

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