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11.Person concerned(渦中の人)

「・・・ケンジ?」

「うむ、拙者の名は須佐(すざ)() (けん)()。今し方、しかと思い出した。」

「・・・・・・・・・・・・」

 若いクセにたいそう古臭い話し方をするな。武士の末裔でもこんな話し方はないと思うぞ。

 僕とこの男・・・健治は、診療所の手術室の前にいた。ミノタウロスによって腹に風穴を開けられてしまった魎の緊急オペの間、手術室の前で待っていた健治に僕が話しかけたのは、魎を病室まで運んでからだった。

 そういえば、ミノタウロスを倒したとき、そいつは紫色の霧に逆戻りして、穴の向こうに消えていったな。あまりの不気味さに、我を忘れて穴をベニヤ板で塞ぎ直してたっけ。

「彼は大丈夫なのでござるか?」

「うん、出血が多かったけど、大動脈を傷つけていたわけじゃなかったし、傷も小さかったから、縫えば何とかなる程度だったよ。」

「なるほど、お主は薬師でござるな?」

「え?薬師??」

「医業を司る者でござる。」

「ああ、医者っていうことね。」

 話しにくそうだが、僕からも説明しないといけないことが多い。

「ここは、僕らが働いている診療所。その・・・なんだ?医業をする上での拠点、とでも言うのかな。」

「・・・・・・・・・・・・」

 そんな感じで、片言の武士語を交えながら、説明を続けていたときだった。階下から診療所のドアが開く音がして、菘さんと水穂ちゃんの会話が聞こえてきた。

「うわ、帰ってきた!どうしよ・・・」

 病人の格好をして、話し方も凝っている健治と一緒にいるのを見られるのは、色々と面倒くさい。僕は健治の腕を掴むと、病室の中に入れた。

「蟄居せねばならないでござるか?」

「何それ?」

「・・・・・・」

「とにかく、僕は君が言う薬師で、君は体のどこかを病んでいるから、ここにいるんだ。暇かもしれないけど、床について、僕がまた来るまで、待っててくれないかな?」

「・・・承知仕った。」

「かたじけない!じゃあ、また後でね。」

「その前にお主に尋ねたいでござる。」

「何?」

「髪を結ぶもの、何かないでござるか?」

「えーっと・・・」

 確かに長い髪の毛が邪魔そうだけど、「結ぶもの」と限定してきたか。そんなもの、あるか?

 ・・・・・・1つだけ、ある。けど、僕としてはそれを見つけるだけで辛いものがある。

「後で持ってくるよ。それまで我慢して。」

「・・・是非に及ばず。」

 何言っているか、8割方分からないが、とりあえず承諾ということで受け取ろう。

 僕は病室を後にすると、1階に下りる。水穂ちゃんが午後の外来受付を始める前の準備を進めていた。

「あれ、雅治さん、どこ行ってたの?」

「ああ・・・魎が大怪我したらしくて、緊急オペやってた。」

「え?魎さんが!?」

 嘘はついていないが、健治を発掘したことは隠しておこう。それよりも、水穂ちゃんの度々のオーバーリアクションには、こっちがビックリしてしまう。

「どんな状態なの?」

「・・・・・・そこの階段から落っこちて・・・ボールペンが、腹に刺さっちゃって。」

 適当な理由探しに苦悩する。何か滅茶苦茶な言い訳だが、腹の傷を誤魔化すのにちょうどいい理由なんて見つからない。

「大丈夫なの?」

「相当深く刺さってたけど、血管切れてなかったから大丈夫。数日入院すれば治るよ。」

「よかった・・・雅治さんがいて。」

 どちらかといえば命拾いしたのは僕の方なんだがな。あのまま僕だけで地下1階でミノタウロスに襲われていたら、今ここで水穂ちゃんと華々しく会話ができていたかどうかもわからない。

 僕と魎は、持ちつ持たれつの関係なのか。いつか魎が言っていたように、僕らには運命的な繋がりがあるのかもしれないな。

 診察室の奥からは、ジリジリと暑い太陽光が差し込んできて、放射熱で室内も自然と暑くなる。そこそこ強めの冷房の恩恵を受けながら、今日も午後の診療を始めた。


 風が止み、森林が静まり返った刹那、放たれた矢が風を切って飛んでいく。矢は真っ直ぐ、その先に立ちすくんでいる怪物の毛深い胴体に突き刺さるが、そのダメージは軽微なようだ。一瞬怯んだだけですぐにこちらに向き直る。

「急所はどこだ・・・?」

 胴体は毛深く、前足は猛獣、後ろ足は猛禽、首から上は蛇で、尻尾はサソリのように尖っている。こんな化け物、見たことも聞いたこともない。

 闇雲に矢を射っても消耗するだけだ。ここは一旦後方に退こう。蹄の音を響かせて、静まり返る森林を駆け抜けていく。

 しばらく走り続けたときだった。どこからともなく、翼を羽ばたかせる音が聞こえる。あの化け物・・・飛べるのか?

 その刹那、視界の隅から黒い物体が飛び出してきた。反射的に弓を構え、矢を射る。

「うわ!?」

 黒い物体は寸でのところで矢をかわしたが、バランスを崩して墜落した。蹲っているその物体に向かって、弓を構えたまま近づく。

「お前、何者だ?」

「ま、待て待て。俺は、その・・・悪い者じゃない。」

「・・・見てくれがいかにも悪そうだが?」

「勘違いするなよ?俺はあくまで淫魔のインキュバスだ。そんじょそこらの悪魔とはわけが違うんだよ!」

「そうなのか?」

「ああ、とにかくその矢をどけてよ。」

「分かった。」

 弓をしまうなり、インキュバスはゆっくりと立ち上がる。

「あんた、名前は?」

「・・・ケンタウロス、と呼んでくれ。」

「何かキザそうな話し方。もっとさ、こう、和やかにいけないか?」

「悪いが構っている場合ではない。化け物がすぐ傍まで迫っているというのに。」

「・・・あー、そうだった。なあ、ケンタウロス、この辺には他に誰かいないのか?皆、あの怪物にやられたのか?」

「・・・いや、詳しい話は知らない。」

「そうなのか・・・ハーピーにもカーバンクルにも会えないから、ちょっと心配になってきたなぁ。」

 何気ない言葉に、ケンタウロスが過敏に反応する。

「・・・カーバンクルに会ったのか?」

「ああ、あの綺麗な宝石付きのちっちゃいヤツだろ?それが何か問題でもあるのか?」

「・・・いや、心配なのは、俺も同じだからだ。」

「ありゃ、人妻だったの、あの子!?あっははは!悪りぃ悪りぃ。大丈夫、まだ犯してないから。」

「そういう問題じゃないだろ。お前も探すの手伝え。」

「言われなくてもやるよ。」

「こういうのは二手に分かれたほうが早い。お前は向こうを頼む。」

「それはいいけど、戻ってくるときはどうするの?」

「・・・草笛を吹くか。呼ばれたらすぐに行く。お前も呼んだらすぐに来い。」

「分かった。」

 化け物との距離が大分離れていることを確認し、ケンタウロスとインキュバスは森の中を彷徨い始めた。

 真夜中になり、静まり返った森林に響くのは、蹄が地面を叩く音と、翼が風を切る音だけ。何の音もない。それは、探せど探せど、何もないということを暗示していた。

「ん?」

 それでもケンタウロスは何かを見つけたようだ。茂みの向こう側に横たわっている物体に近づくが・・・

「っ!」

 強い刺激臭を放ち、腐敗した肉に虫が集っている。元々がどのような生物だったのかも見当がつかないくらい、滅茶苦茶に食い荒らされていた。

 だが、周囲には抵抗したときに飛び散ったと思われる、鳥の羽がいくらか見つかった。死体を見る限り、鳥にしては大きい。こんな大きな鳥でさえ貪ってしまうような怪物なのだろうか・・・不安を押し殺して、さらに森の中を進んでいった。


 日が傾き、観光客などもいなくなって静まり返る神社の境内。淡く灯された提灯の灯りが、朱色の社殿の美しさと厳かさを一層引き立てる。

 そこへ、バイトを終えた汀が訪れていた。汀が天照大神の社殿の前で賽銭を終えたとき、巫女の風香が話しかけた。

「こんばんは。今日は何をお願いされたんですか?」

「え?えーっと・・・」

「・・・あ、別に言いにくいのなら無理して言わなくてもいいですよ。」

「いや、言いにくいというか、言うほど大したものじゃないというか・・・それより。」

 視線を逸らしがちに話していた汀が、急に風香を向いた。

「今、『今日は何をお願いしましたか』って言ったよね?」

「ええ、確かに。」

「ということは・・・私がここに何度も足を運んでいることは・・・」

「存じ上げております。平均して週に3回から4回、夕食後くらいの午後7時前後に、よくいらっしゃいますよね。」

「あちゃー・・・そこまで見られていたか・・・」

「一応、私もこの神社の巫女ですから。」

「・・・そうだよね。」

 年齢的にはほぼ同年代の汀と風香。余所から来たという意味で結構控えめな風香とも、汀は気兼ねなく話が出来る。

「じゃあ・・・風香ちゃんには話しちゃおうかな。私がここに何度も、何度も来て、神様にお願いしてること。」

「差し支えなければ、でいいですよ。」

「ううん、いっそのこと全部言っちゃうよ。私が何度もここでお祈りしてること、それは・・・」

「・・・・・・・・・・・・?」

 暫しの沈黙の後、汀の顔から笑みが消え、言いにくそうに話し始めた。

「大分前に、この村の海岸に、若い男の人が溺れて、流れ着いた話は、知ってるよね?」

「・・・ああ、確かそのお方は、まだ意識不明の重体のまま、でしたよね?」

「うん。それで、早く元気になりますようにって、お祈りしただけだよ。」

「・・・確か、汀さん、あなたって、確か・・・」

「そう、実は第一発見者が私なの。今でも覚えてるよ。細かく話すと長くなるけど。」

「でも、それだったら診療所にお見舞いにでも行ってあげればいいじゃないですか・・・まあ、神頼みするに越したことはないと思いますけど。」

「それがね、ちょっとおかしなことがあって。」

「おかしなこと?」

 話の展開が一気に変わる。神社の周りは、さっきよりも一層暗くなった気がする。

「一応、第一発見者なわけだし、お見舞いに行ってあげようと、その次の日に診療所に行ったわけ。でも、そんな患者は来てないって所長さんが・・・あ、今の雅治さんの前の人ね。でも、海斗さんにも聞いたんだけど、確かに診療所に搬送したって言うから・・・」

「搬送に付き合ったりはしなかったのですか?」

「うぅ~、仕事に行く途中で急いでたからなぁ。善きサマリア人でもあるまいし。」

「なるほど・・・なんとなく、状況は掴めました。それで、どこにいるのか分からない、その男の人が、一日も早く元気になるようにって、お祈りしていたわけですね。」

「・・・ね?それほど大したことないでしょ?」

「いや、私にとっては、あまりに大それたことで、正直驚いてます。」

「そうかなぁ?この神社にも、病気の人とか怪我した人が、早く元気になりますように!って、お祈りしに来る人、いない?」

「いるにはいますけど、そんな込み入った事情の方なんか・・・ほとんどお会いしたことがございません。」

「・・・そう、だよね。ごめんね、変に怖い話みたいになっちゃって。」

「いいえ、汀さんとお話ができて、嬉しいです。」

「私も、風香ちゃんとお話が出来て、嬉しいな!」

 二人揃って、クスクスと笑いあう。さっきの怖い話はどこへ飛んでいったんだ、と思わせるような、爽やかな笑顔だった。

「・・・もう帰らないと。じゃあ、風香ちゃんも頑張ってね!」

「はい、失礼します!」


 探せど探せど、何も見つからない。

 いつの間にか辺りには濃い霧が立ち込め、少し煙たく感じるくらいだった。

「ゴホッ・・・」

 本当に煙たいな。山火事でも起きているのだろうか。少しむせるくらいになってきた。

 森の上に出ると、新鮮な空気に出会えたが、肝心のカーバンクルたちを探しにくい。とはいえ、一度この澄んだ空気の中に出てしまうと、どうしても霧の中に戻るのを躊躇ってしまう。どうしよう・・・

「・・・あ、こんなところにいた。もう、探したじゃない。」

 振り返ると、サキュバスが俺の許に飛んできた。豪邸の寝床で見るような淫乱な姿とほとんど変わっていない。

「探し物でもしてるの?」

「・・・ああ、一応。」

「それって、あなたの好きな人?」

「んなわけないだろ?宝探しに興じてるんだよ。」

「下手な嘘つかないの。そんな趣味、端からなかったでしょ?あなたの好きな友達でも探して」

「シッ!今、何か聞こえなかったか?」

 森の遠くの方から騒がしい物音が聞こえる。そして砂埃を上げながら、木々が倒れていくのが見えた。

「ここまで来たのか・・・サキュバス、こっちに来い!」

「言われなくても行くわよ。」

 化け物が暴れているところから大急ぎで逃げるように飛んでいるとき、ふとあることに気付いた。

 あの煙たい霧が、少し先の川のところで途切れている。その向こうは、今いる空の上のような澄んだ空気に満たされているようで、視界もクリアである。あそこに行こう。

 俺とサキュバスは川の上を飛び越え、その先の森の中に着地した。振り返ると、川の向こう岸から先は、不気味に煙たい霧で見通しが悪い。

「向こう側は霧が濃いのね。」

 サキュバスは今更気付いたようだった。あそこから先は空気が悪そうなので、近づかないことにしよう。

 二人でゆっくりと、お互いに黙ったまま森の中を進んでいると、遠くから今度は草笛の音が聞こえてきた。俺は立ち止まって音のする方向に神経を研ぎ澄ませた。

「何なの?」

 もちろんケンタウロスが呼んでいることをサキュバスは知らない。

「友達が呼んでる。まあ、ついてこい。」

 サキュバスは怪訝そうな顔をしているが、俺は構わず翼を羽ばたかせて空に舞う。サキュバスも遅れてついてくる。俺はゆっくりと、その草笛のする方向へ飛んだ。


「はぁ~。どうしよっかな~。」

 夕食を終え、ぶつくさ呟きながら、僕は診療所の扉を開けた。

 ここのところ、厄介事が多い。大森知事に咎められつつも健治を発掘するし、健治が寝ていた部屋に置かれていた人骨の鑑定結果もまだ分からないし、あの穴はベニヤ板の上からガムテープと釘で塞いだけど万全ではなさそうだし、健治の処理もどうすればいいかわからないし、腹部貫通の大怪我を負った魎もまだ眠っているし、大森知事からは福岡に行くようにお達しがあるし・・・診療所の管理の件や、この村への引越しの件もあって、なかなか悩ましい。

「・・・何をどうするんですか?」

 受付の影で食事をしていた水穂ちゃんが顔を出した。彼女はよくここで、作ってきたお弁当を食べている。隠れて連れ出すとしたら、僕が当直をする夜中くらいしかないだろう。けど、当直をするんだから、どうやって診療所の外に行くのか、そこが大いに疑問だと思う。

 重たい足取りで診察室に入ろうとすると、急患受付の方の電話が鳴る。水穂ちゃんは食事中らしいので、僕が代わりに出た。

「はい、社不知診療所です。」

「お、その声は雅治か!俺だよ、海斗。」

「ああ、海斗、どうした?」

「急患の受け入れ、いいか?」

「うん、いいよ。容態は?」

「20代の男性、観光客らしいんだけど、岩場から転落して、ふくらはぎの裂傷から結構出血してる。圧迫止血してるんだけど、なかなか止まらなくて。・・・あと3分くらいでそっちに着く。」

「分かったよ。」

 手元のメモ帳に容態を軽くメモする。最初は足の裂傷ならば、たいしたことはないと思っていたが、圧迫止血で止まらないのなら、傷が深い可能性もある。しかも岩場から落っこちたのなら、なかなか軽傷では済まないはずだ。

「どうだって?」

 弁当を大急ぎで流し込んだのか、口を頬張らせた水穂ちゃんが駆け寄ってきた。

「観光客が岩場で転げ落ちたって。」

「え、大丈夫なの?」

「さあ?意識レベルは聞きそびれたし、足の切り傷から出血多量らしいし。」

「えー、とても大丈夫とは思えないね・・・」

「とにかく、衛生面に気をつけつつ、サポートお願いね。」

「OK!」

 しばらくすると、けたたましいサイレンの音とともに、急患受付のある裏口に救急車が止まり、海斗が担架を下ろして運んできた。

「うぅぅっ!!」

 運ばれてきた男性は、若くて髪の毛が長い。そして不気味な紫色に染まっている。という第一印象。

 右腕を額に当て、目を固く瞑って、歯軋りしつつ、痛みのあまりに唸っている。

 視線を足元に移す。破れたズボンには血が滲み、その下の皮膚は真っ赤に染まっている。右足のふくらはぎの傷の辺りを縛っている包帯も血で真っ赤だった。

「おい、大丈夫かよ!?」

「しっかりして!」

 救急車には他にも、患者と同年代の男性が二人乗っていた。片方は、体質も声質も厳つく、片目には眼帯をしている。もう片方は、金髪にメガネ、ハスキーボイス。ぱっと見ではどういうくくりの集団なのか、分かりかねる。

「1、2の、3!」

 海斗と数を合わせて、患者を処置室の台に移す。続けて血まみれの包帯を解くと、一瞬だけ裂傷を視認できたが、すぐに大量の出血で見えなくなってしまう。これは・・・苦戦しそうだな。

「足ちょっと見ますねー!」

 手際よくスウェットのズボンを切り、右足のふくらはぎを露にする。相当な出血で傷が見えないので、横のトレイにあるガーゼを2,3枚の束で掴んで、真っ赤なふくらはぎに当てたときだった。

「あああああぁぁぁぁぁっ!」

 激痛のあまりに悲鳴を上げる男性。お前、男だろ!って心の中で突っ込もうかと思ったときだった。

 バシッ!

「ぐはっ!?」

 固定されていなかった左足を大きく振り回され、フリーになっていた僕のわき腹に食い込む。くそ・・・脚力だけは男前だ。

「おい、コウキ、じっとしてなきゃダメだろ。」

 コウキと呼ばれた男性は厳つい眼帯の男性に咎められる。ハスキーボイスの男性もそれに乗っかった。

「全く、悲鳴上げた上に先生蹴っちゃうなんて、見っとも無いよ!」

 僕はよろよろと立ち上がると、台にうつぶせに寝かされている紫の髪の男性は、こっちを向いて苦笑いしていた。

「ヘヘッ、すいませんね、先生。あまりに痛かったもので・・・」

 何か開き直られているようで気に食わない。地味に蹴りが痛かったというのもあり、ちょっと棘のある言葉で話してしまう。

「まあ、いいけど・・・お前、名前は?」

「え、タメ口っすか・・・俺は蛭川(ひるかわ) (こう)()、東神大学文学部2年生、ハタチっす!」

「ああ、東神大(東大モドキ)か~。でもヒルカワって、どう書くの?」

「そうっす・・・あの、俺の右側の腰ポケットの財布の中に、保険証と学生証があるんで・・・」

「ちょっと探るよ。」

 予め断った上で、血が滲んだ手袋を外して、中に手を入れ、財布を取り出す。

「お札抜き取らないでくださいよ。」

「誰が抜き取るか。」

「ははは。」

 保険証を取り出して驚いた。難しい漢字、それにそれをホワイトボードに書き写すだけでも時間と労力を要する画数の多さ。これでヒルカワ コウキって読むの?今時、キラキラネームが多いんだな。

「僕は社不知診療所の所長の宮崎雅治。以後よろしくね。それと、僕の方が一応年上だから。タメで行かせてもらうよ。」

「マジっすか・・・」

「狡貴ってさ、凝固障害の既往歴とかある?」

「いや、多分ないっす。」

「今確かめちゃう?」

「いや、痛いんで勘弁です・・・」

「だよね。でも、この出血見る限り、縫わないとまずいくらいの傷だと思うから、ちょっと痛いのは我慢してね。それとも、局所麻酔でもする?軽く注射とか打つからその分痛いけど。」

「まだ注射の方がいいっす・・・」

「あっそう・・・じゃあ準備するから、ちょっと待ってて。」

 道具を取りに行こうと振り向くと、付き添いの男性二人が動線上に立ち塞がっていた。

「ちょっと失礼。」

「ああ、すいません。」

 厳つい眼帯の男性は、見かけによらず素直だった。

「君たちは・・・狡貴の同級生?」

「ああ、同じサークルの仲間なんですよ。」

 ハスキーボイスの男性が言った。僕はその辺で黙ってうろうろされてもかえってやりづらいので、道具を出しつつ話題を振った。

「へー、何サークルなの?」

「古典文学研究サークルです。略して古研!あ、ちなみに僕は吉倉(よしくら) (らい)()、国際関係学部です。こいつは狡貴と同じ文学部の知史。」

高島(たかしま) 知史(ともふみ)です。よろしくお願いします。」

 ハスキーボイスの雷輝に促され、眼帯をした知史も挨拶する。

「コケンかー。どんなことを研究するの?」

 話題を振りつつ、狡貴の寝ている台に戻り、傷口から少し離れたところに麻酔薬を注射する。

「太古の昔から現存する神話やら童話やら昔話やらを、片っ端からひっくり返すように読み漁っては、時代背景、人間関係、舞台背景や作者の思惑その他諸々を、様々な観点から考えてみよう!というサークルです。」

 ひ、非常に熱の入った説明だった・・・僕には途中から早口言葉に聞こえた。にしても饒舌だな、雷輝は。見た目的にもおしゃべりそうだもんな。

「で、ここ社不知村にも、その研究で来たと。」

「はい、片道1時間半、航空券だけで3万円近くかけてきた甲斐がありましたよ~。滅茶苦茶綺麗ですね、この村は!」

「それは何より。・・・じゃあ狡貴、麻酔が効くまで4,5分、その状態でキープね。」

「はぁい・・・」

「どこを巡ったの?」

「神社に行ってみたかったんですけど、僕らの中で真っ先に行くべきだと思ったのが、灯台と神社の間にある海岸沿いの高台なんです!昼食を取っていなかった上に途中で何度も迷ったので、結局そこに着いたのは夕方だったんですけど、水平線に沈んでいく夕日を見るのに何の障害物もなくて、それはとても綺麗で!」

「で、あまりに見とれて、こいつが岩場に落っこちたと。」

「まあ、そんなとこです。」

「で、そこには何の古典文学と繋がりがあったの?」

「・・・日本神話だったっけ、知史。」

「そう。社不知神社のこともあるし、日の出・日の入りが見れるあの高台は、日本神話の天照大神と、何か関係がありそうだと思ったのが発端です。」

「石碑とかもなかったもんね、地図に載ってなくて当たり前だわ!」

 そんなところがあったのか。須佐神社といい、行く必要がありそうな場所が多いな。

「じゃあ、サークルの話はその辺にして」

「学業の話?勘弁してくださいよ、堅苦しい政治経済の講義から解放されて、ここに来たんですから~。」

「まだ何も言ってないだろ。そうじゃなくて、ちょっと個人的なこと、聞いてもいいかな?」

「いいですよ。狡貴だって先生にクレジットカードの番号、知られちゃったもんね!」

「カード番号?」

 僕は処置室の端にあるテーブルの上を見る。保険証と学生証があるだけ・・・いや、保険証の下にもう一枚カードがある。それを引っ張り出すと、なんとそれはクレジットカードだった。大学生のクセにリッチだなぁ・・・

「あぁ、番号、見ないでくださいよ!悪用されたら困ります!」

「誰がお前のカードなんか悪用するか!」

「ははは!気をつけないと、またこの間みたいに返済不能になりかねないよ?」

「雷輝、お前、後で焼き入れるから、覚えとけ!」

「はいはい。怪我を治すのが先なんじゃないの?」

 見ていて和やかな光景だ。僕は医学部であったので、彼らとは対照的だった。理系の話は堅苦しいし、専門的だし、医学的な話だとユーモアとかはほとんどなくなる。そう思うと、文系の彼らのキャンパスライフが実に羨ましい。

 設定したタイマーが鳴る。麻酔が効いたかな。確認のために患部を触ったり、ふくらはぎの筋肉を軽くほぐしたりする。

「これ、どう?痛くない?」

「・・・いえ、あまり感じないっす。」

「OK。じゃあ縫ってくよ。」

 ガーゼで血を吸って、素早く針と糸をピンセットでつまむ。そして、わずかながら見えた傷口の端に針を通す。その間も出血が多いので、水穂ちゃんがサポートに入ってくれた。

「仲良さそうだね。」

 すると水穂ちゃんが、傷口の周りの血をガーゼで拭いながら、小声で聞いてきた。

「ね、羨ましいよ。あんなキャンパスライフ。」

「フフッ、そうじゃなくて、雅治さんと古研の人たちとの話です。」

「僕?そうかな、確かに話していて面白いけど、仲がいいのとは違うんじゃないかな。」

「あ、雅治さんが彼らを羨望的に思う理由、分かりました!」

「・・・マジで?」

「敢えて黙っておきますね!」

「くっそ~!無意識のうちに自分自身を曝け出してる自分が悔しー!」

「絶叫してないで、縫合に集中してください!」

「はいはい。」

 縫合している間に、また二人とも黙り込んでしまった。さっき振りかけた、個人的な話に戻す。

「狡貴のその髪型、お前の好み?」

「え?ええ、そうっすよ。髪の毛長い方が似合うって、よく言われるんで。」

「ふーん。・・・雷輝のそのハスキーボイスは、生まれつき?」

「そうですよ。学生時代、ボーイソプラノやってましたんで!ジャパネットの高田社長の物真似ができるんですよ!聞いてみます?」

「いや、うるさくなりそうだから勘弁。」

「そうですか・・・じゃあまたの機会に。」

「またの機会なるものがあればいいんだけど。・・・知史は、さっきから気になってたんだけど、その右目の眼帯、どうしたの?」

「ああ、これは、ものもらいがひどくなっちゃって。」

「麦粒腫かぁ。お大事に。」

「どうもです。」

 その間にも水穂ちゃんが拭ってくれた傷をどんどん縫っていった。血を拭ってみて分かったが、裂傷は縦に10センチ近くできていた。どうやら小さな裂傷同士が一繋がりになってできたようで、その中で深く抉れた傷もあり、結構痛そうだった。

 裂傷を縫合してしまえば、出血はすぐに収まった。傷の周りを消毒しつつ、血のついた患部を綺麗に拭う。最後に傷の上にガーゼを当て、包帯とテーピングをして処置を終了した。

「はい、終わったよ。お疲れさん。」

「あぁ、ありがとうございます・・・」

 消耗しているのか、結構しんどそうだった。まあ輸血が必要になるほどの大量出血ではなかったし、あとは傷口が治るのを待つだけだ。

「数日間入院してもらうことになるけど、二人とも、帰りは大丈夫?」

「大丈夫です。元々、村の北にあるホテルに泊まる予定でしたし。」

「でもここで寝泊りするわけには行かないだろ。」

「ああ、別に、ゆっくりしてっていいんだよ?お金がもったいないならホテルに行ってもいいし。」

「まあ、狡貴が無事なようなら、僕らはゆっくり休ませてもらおうか。」

「俺なら大丈夫だよ。すまないな、迷惑掛けて。」

「迷惑なんて、そんなぁ!これも旅の思い出だよ!さ、知史、一緒にホテルに行こうか♪」

「そうだな。」

「・・・あ、雷輝、ちょっと待て!まだ焼き入れてねーぞ!」

「じゃあ、僕らはこれで。また明日来ますね。」

「うん、いつでも来て頂戴!」

「じゃ、狡貴、お休み~!」

「待てっ!」

 雷輝と知史は、狡貴から逃げるように診療所を後にした。

「畜生~!まだ焼き入れてねーのに・・・足が動かない!?」

「そりゃあ局所麻酔だもの。しばらくは痺れてるかもね。麻酔が切れたときに、さっきみたいな悲鳴上げないでよ?」

「いや~、お恥ずかしいっすわ~。」

「ははは。」

 僕の顔からも自然と笑みがこぼれる。観光客相手に、これだけ親しくなれるとは、思っても見なかったな。

「じゃ、2階の病室まで運びますね!」

 水穂ちゃんが狡貴を乗せたベッドをエレベーターに乗せて病室に向かった。残されたのは僕だけだ。

 あれ以降、地下1階には入っていない。ただ、鍵を閉めようにも、どこに鍵があるのか分からないし、探している暇もないので、とりあえず一番下のドアだけロックしてある。ドアが閉まるとオートロックが働く仕組みになっているらしい。

 あのベニヤ板の上から頑丈に塞いだ穴は、今頃どうなっているだろうか。ドアを開けた瞬間に魔物とばったり、なんて嫌だな。

 ・・・あ。

 誰もいない病室に健治を押し込んだままだが、水穂ちゃんはどの部屋に狡貴を入れたんだろ?健治とばったり・・・だったら嫌だな。

 しかし、僕の心配は無駄だった。何事もなかったかのように、水穂ちゃんはゆっくりと階段を下りてきた。

「魎さん、まだ寝てるね。」

「そうか・・・精神的に来てるのかもね。しばらく休ませておこう。」

「そうね。」

「じゃあ、後は僕に任せて、たまには早めに帰ったら?色々あって疲れてるだろうし、もう夜も遅いし。雑務は僕がやっておくよ。」

「・・・疲れてるのは雅治さんの方だと思うけど、そこまで言うなら、お言葉に甘えようかな。お疲れ!」

 あれ、まくし立てた体がバレなかった。水穂ちゃんはスンナリと僕の提案を受け入れ、帰り支度を済ませるなり、一言「お先に失礼!」と言って、診療所を後にしていった。

 診療所の表玄関の施錠と簡単な掃き掃除、観葉植物の水遣り、診察室や待合室の消灯など、普段は水穂ちゃんにまかせっきりのことを、僕がやった。・・・結構しんどい。

 健治のこともあるし、やっぱりどこかしらに休みを入れたい。患者は待ってくれないし、村内ではここだけが頼りなのは分かるが、その前に自分の体がくたばっては意味がない。隔週2日くらい休みにしても問題ないだろう。

 誰もいなくなったことを確認して、僕は2階へ階段を上った。一番手前の病室のネームプレートには、さっき運ばれてきた蛭川狡貴の名前と、急ピッチで水穂ちゃんが書き上げたのか片岡魎の名前もあった。

 病室の中に入ると、狡貴のベッドがあるところはカーテンが開けられ、ベッドに寝そべってテレビを見ている狡貴の姿があった。

「お、仕事上がりに来てくれたんすか?」

「ああ、暇そうでかわいそうだったから、来てあげたよ。」

「ちょ、かわいそうってなんすか?俺は別に寂しくて泣いてたわけじゃないんすよ?」

「まあ、そうだけどさ。することないでしょ?実際。」

「そうなんすよね~。」

「・・・そうだ、子供がぐずった時用の道具ならある、けど、お前が飽きなさそうなのはトランプくらいしかないし、二人で何ができるのやら。」

「ポーカーでもしますか?俺、強いっすよ?」

「本当?じゃあやるか!今持ってくるよ。」

 デイルームに向かい、隅に置かれた籠を漁る。子供が好きそうな、車のオモチャ、おままごとセット、けん玉やヨーヨー、人形、そしてボードゲームやトランプ。蔵書なんかも含めて、持ち寄りなのかどうなのかは細かい話は知らないが、これらの存在を知ったのはつい最近だ。子供がぐずって、診察が思うように行かないときは、これを餌にしている。

 ・・・正直、これらを餌として使ったこともほとんどない。さっきのときのように狡貴に横っ腹を蹴られたこともないし、僕がここに来てから子供が入院したこともない。診察中の子供たちも結構大人しい。これを使う機会はほとんどないだろう。

 さて、トランプはどこだろう?大き目のオモチャに埋め尽くされ、どこにあるのか見当がつかない。以前から無造作に扱われていたらしく、極めつけは綾取りの糸が絡まったレインボースプリング。管理がいかにもお粗末だし、これでは綾取りもレインボースプリングも使い物にならないだろう。

 一つ一つオモチャを取り出し、フリーマーケットに出品するかのように、一列に綺麗に整列させる。そして最後に残ったぬいぐるみを手に取る。籠の底は暗くて、細かい様子は分からないが、テディベアのようなフカフカした感覚ではない。触った感じでは、表面はなめらかで、軽さの割りに結構大きい。

 籠の中からぬいぐるみを引っ張り出し、光に当てる。それが何なのか脳内で素早く認識した瞬間、僕の神経を電気のようなものが走り、手からそのぬいぐるみが滑り落ちて、籠の底へ戻っていった。そして僕は強烈なめまいと動悸に襲われる。

 ぬいぐるみは、カエルを象ったもので、子供向けにデフォルメされた可愛らしいもの。胸元には赤と白の勾玉のような模様をしたペンダントをつけている。

 なぜ・・・このぬいぐるみがここにあるのだろうか!?やはり僕は・・・あの過去から、逃れることはできないのだろうか?

 焦りと恐怖から、僕の感情は崩壊し始め、涙をボロボロ流しながら、過呼吸気味になる。・・・ダメだ、まずは落ち着かないと。とりあえず、このカエルのぬいぐるみは、なくなると困るので、かといってこれといった確証もないのに持ち去るのもまずいので、携帯電話で写真を撮って保存した。

 息を整え、涙を拭って、籠の一番底にあったトランプの入ったケースを掴み、並べたオモチャを丁寧に敷き詰め、籠を元あった場所に戻した。

 トランプを持って狡貴のいる病室に入る。そこで度肝を抜かれたのは、さっきまでテレビを見て横になっていた狡貴は、テレビを消して、体を横にしたまま、眠っていたのだ。

 おい、冗談だろ、という言葉が口から出そうになった。しかし、僕の中の本能がそれを止めた。そして、狡貴の寝顔を凝視する。

 ・・・似てる。性別も年齢も全く違うが、あどけなさと幼さの残った感じが、あの子と似ている・・・

 はぁ、と大きくため息をつく。確かに似ているが、彼は蛭川狡貴、僕の知っているあの子とは全くの別人だ。あのことは、金輪際頭の片隅にでも追いやってしまおう。

「おい、起きろ!」

 拳で狡貴の肩をどつく。狡貴がはっとしたように目を覚ました。

「あれ、俺、寝てました?」

「うん、ガッツリ。」

「ふぁ~ぁ、眠いから寝ちゃダメっすかぁ?」

 確かに狡貴は観光目的でこの村に来たんだし、早朝から行動しているのかもしれない。夜型って可能性もあるし、怪我人でもあるから無理させたくもない。だけど、僕にトランプまで取りに行かせて、図らずも僕の思い出したくもない過去を彷彿とさせるものまで発掘したのに、ここで寝るという判断に至るか!?言語道断、この自己中野郎、夜明けまで付き合ってやらぁ!

「お前、それはふざけんなよ!折角持ってきたんだ、一戦くらい交えようよ。」

 ・・・とは言えず、結局僕の方の押しが弱くなってしまった。

「一戦でいいんすか?ポーカーの一局って短いっすよ?」

「あー、そうか。じゃあ・・・5回くらい、お願いできる?」

「いいっすよ。コールド勝ちしてやるっす!」

「望むところだ!」


 草笛の音は、静寂に包まれた森林を劈くように響き続けている。その音を頼りにサキュバスと一緒に飛んでいくと、森林の奥の山の麓の辺りに、草笛を吹き続けるケンタウロスを見つけた。ゆっくりとその傍に下りていくと、ケンタウロスの横には蹲るカーバンクルがいるのも見えた。

「カーバンクル、大丈夫だったか?」

「あぁ・・・インキュバス、げほっ。」

「さっきからこの調子らしい。何かまずいものでも食ったか聞いたんだが、そんなことはないとか。」

 激しくむせるカーバンクル。その仕草に見覚えがあった。

「カーバンクル、お前、あの煙たい霧の中にいたか!?」

「え・・・いたといえばいたよ、気付いたら回りは霧が濃くて・・・ゴホッ。」

「心当たりがあるのか?」

 ケンタウロスに突っかかられる。さてはこいつ、カーバンクルに思いを寄せているな?

「ああ、俺も煙たい霧の中にいたら息苦しくなったから、素早く抜けてきたのさ。」

「毒霧だったのかもしれん。カーバンクルは俺が負ぶっていくから、早いところ、ここからズラかるぞ。」

「はいはい、言われなくても。ついてこい、サキュバス。」

「分かったわよ。」

 カーバンクルを背中に乗せたケンタウロスは、走ろうとはしなかった。俺とサキュバスも、地面に下りてその後ろに続く。

「・・・・・・ん?」

 ある程度進んでいたとき、先陣を切っていたケンタウロスが急に立ち止まった。

「どうした?」

「インキュバス、あれがお前の見た、例の霧か?」

 前方からモヤモヤしたものが、煙のようにこちらに迫ってくる。

「・・・ああ、多分そうだ。」

「あっちはまずい、向こうに行くか。」

 俺らは道を外れ、凸凹の山林の中を進んでいく。ケンタウロスに乗ったカーバンクルも、乗り心地の悪さが相まって辛そうだ。

「・・・!?」

 向こうに見えた山道には、今度はさっきの化け物がいる。まだこちらには気付いていないようだが、これ以上向こうには行けない。後戻りも出来ない。

「おい、あれ!」

 山を下ろうかと思った俺だが、さらに下の方を見ると、そちらからも濃い霧が斜面を登ってくるのが見える。

「くそ、上るぞ。」

 諦めて斜面を登り始めるケンタウロス。とてもじゃないが登山には慣れていないので、俺とサキュバスは翼を羽ばたかせて宙に舞い、ケンタウロスの後ろに続いた。

 険しい山林を歩くことが続いたが、やがて視線の先に、平坦に整備された山道が見えてきた。

「ふぅ・・・」

 やっとのことで上りきったとでも言わんばかりに、大汗を流しているケンタウロス。

「ケンタウロス、大丈夫か?カーバンクルをおぶるの、代わろうか?」

「気にするな。ちょっと息が上がっただけだ。」

「うぅん、私そんなに重くないよぅ、ゲホ。」

「強がるなよ。いつでも代わってやるから。」

「ああ、頼りにしてるぞ。」

 山登りでただでさえ辛いのに、背中にはカーバンクルを負ぶっている。空を飛べる俺が手伝ってやるべきだが、本人が大丈夫と言っているのだから、今はケンタウロスに任せるべきだろう。

 俺とサキュバスは、二人を見守るように、後ろからゆっくりと続いて飛んでいた。


 カードを切るところから配布まで、全部僕に任せてきたところからして、相当な自信があるのだろう。

 ただ、自分でカードを切ってみると、まるで魔法でもかかったかのように、途轍もなくひどい手札が出来上がるのだ。現に僕の手札は最悪。2、4、5、10、キング。マークすらもバラバラ。

「先生、これちゃんと切りましたぁ?」

 狡貴の方もなかなかにひどそうな・・・いや、そう見せかけるブラフか?意外とポーカーフェイスとかは狡貴の方が上手そうだ。

 ペアも揃っていないし、マークも不一致。高得点の役に持っていくには無理がある手札なので、安泰な役でサクッと行こう。

 せめて1ペアだけでも作りたい。ただ、相手も同じ1ペアだと、数字の強さで負け越す可能性が出てくる。ここは唯一の文字カードであるキングと、次いで大きい10に賭けよう。2、4、5の3枚を裏にして、ベッドの横に置いてある小さな丸椅子の上に捨てる。そしてテーブルの上に置かれた山札から3枚引いて、そこに描かれた柄を確認すると・・・

 なっ・・・見事に撃沈した。10の方はペアになったが、残りの2枚はどうでもいいカードだった。しかも、そのうち片方は、さっき捨てた5・・・

 さて、狡貴の方はどうかな?・・・っと、僕とは違って2枚を場に捨てた。続いて山から2枚取ると・・・狡貴は、顔色一つ変えないまま、小さく頷いた。

「いいか?」

「・・・いいっすよ。」

 そして二人の手札がオープンされた!

「・・・僕は1ペアだけ。」

「俺は2ペアっす。勝った!!」

「うげー・・・」

 たった2枚の交換で、しかも僕よりも上手の役で上がるとは・・・さっきのはやはりブラフなのか?それとも何かこう、強運の持ち主だというのか?

「まだ初戦っすから、次頑張りましょ!」

「とほほ・・・」

 狡貴に励まされるとは、何とも落ちぶれた気分。

 続く2局目。やはり手札が悪く、交換しても1ペアが限界だった。対する狡貴も眉間にシワを寄せている。交換を終えてもその表情は変わらず、こっちとしては読みにくい。

 手札をオープンさせると、狡貴も1ペアであることが判明した。勝ったか!?

 ・・・いや、僕のペアは7、狡貴は9だから、僕の負けだ。

「いやー、危ねー危ねー。」

「こっちはいつでも崖っぷちなのに・・・」

 だが続く3局目、ついに僕にも勝機が訪れる。手札を見てみると、既にペアが1つ出来ていた。口元が綻びそうになるのを必死に堪え、残りの3枚を交換してみた。

 すると、自分でも驚いたことに、ペアになっていたカードがもう1枚加わって、3カードが出来たのだ。・・・勝てる。

 我慢の限界になり、口元がにやけるのを、咄嗟に手で覆い隠した。一方の狡貴は、さっきと変わらない渋い顔のまま、淡々と交換をしていく。後は手札を公開して、軍配がどちらに上がるかだ!

「どん!3カード!!」

 あまりの嬉しさに、自信満々に叫んでしまった。

「・・・フルハウス、よっしゃ、勝った!」

「・・・・・・え?」

 狡貴の手札は、1ペア揃っている上に・・・僕と同じ3カードもある。そう、フルハウスだ・・・

「何ぃっ!?さっきのあの渋そうな顔は、ポーカーフェイスだったのか!」

「いやー、先生、口元覆っちゃうんですもん。てっきり、もっと強いので来られたかと思っちゃったっすよー。」

「く、くそーっ!!」

 最高の勝機さえ、逃げていった・・・

 4局目では、3局目で運を使い果たしたのか、終始ペアが出来ることはなく、あっさりと負けてしまった。

 5局目でも、最初に出来た1ペアから変化を起こせず、完膚なきまでに打ちのめされた。一方の狡貴はストレートで上がったものだから、僕はその場でうな垂れた。

「5戦5敗ってどういうことよ!?ストレート負けじゃん!お前、カードを透視とかできるだろ!?」

「あははは!透視なんかできないっすよ!」

「でもお前、勝負には全部乗ってきたよな?僕は何回か降りたのに。」

「あー。運だけじゃなくて、自信もあったから、って言って納得してくれないっすかね?」

「無理。自信満々の3局目で叩きのめされたんだから。」

「ははは!」

 笑って誤魔化されたが、僕も薄々気付いた。その強い自信は、きっと狡貴の優れた洞察力にあると。

 きっと狡貴には人の心を見透かす能力というか、人を見る目があるというか。でないと、際どい勝負に乗ってくるような、特攻のようなことはしないはずだし。

「じゃあ、俺、もう寝ていいっすか?」

「ああ、ごめんよ、付き合わせちゃって。」

「じゃ、お休みなさい。」

「おう、枕元にナースコールがあるから、いざというときに呼んでよ。お休み。」

 僕は狡貴のベッドから離れ、カーテンを閉めてやった。

 反対サイドにある魎のベッドをカーテン越しに覗く。まだ魎は眠ったままだった。横に置かれているモニターにも異常はない。それを確認して、病室を後にする。

 そして、誰も入っていない病室に入る。・・・あれ?確かこの部屋のはずなのに、照明は一つもついていない。健治のヤツ、寝ちゃったかな・・・

 ふと、病室の一番奥にある窓の外に見える満月が目に留まった。この村に来たのも、あんな感じの満月の日だった。あれから、僕の生活は一変した。満が一時行方不明になるし、大雨で崩れた土砂に突っ込むし、そのときに見た大きな鳥も何だったのか、今となっては思い出しようがない。

「・・・薬師の方、拙者はここでござる。」

 暗闇に目が慣れた頃、突然声をかけられる。声のした方を向くと、健治がベッドの上であぐらをかいて瞑想していた。

「ああ、自己紹介してなかったね。拙者は・・・ぁ、僕まで『拙者』とか言ってるよ。まあいいか、健治の面前なら。・・・ゴホン。拙者は薬師の宮崎雅治と申す。・・・なんちゃって。ごめんね、長い間お待たせして。仕事が忙しくて。」

「大義であった。いざ、そちらへ参ろう。」

 ゆっくりとベッドから降りてくると、真っ直ぐこっちに歩み寄ってきた。その気迫に、こっちが押しつぶされそうだ。無理もないだろう。悠馬のように長い髪の毛に、海斗のような屈強な体。僕はその勇ましさに驚嘆しつつも、逆にその威圧感に耐えかねていた。

「お腹、空いてるでしょ?僕の家で夕食でもどう?こんな時間だけど。」

「腹が減っては戦はできぬと申す、是非に及ばず、雅治殿の迷惑でなければ、拙者も同行つかまつる。」

「へー、そのことわざ、武士たちの時代からあるんだ。まあいいや、僕は全然構わないよ?たらふく飯食って、風呂にも入って、今日はゆっくりと休んでよ!」

「かたじけない。いざ参ろう。」

 所々難解な武士言葉が出てくるが、英語みたいにニュアンスで伝わる。・・・うーん、英語か古典の教師に教わろうかな。

 健治も僕に対して心を開いてくれたのか、僕の誘いに躊躇しつつも乗ってくれた。会話の端々に笑みもこぼれ、僕としては一安心している。

 真っ暗の病室を出て、通路を進み、階段を下りて1階の裏口へ向かおうとしたときだった。当直室の方からブザー音が鳴っているのが聞こえてくる。このブザー音は・・・ナースコールの呼び出し音だ!

「あぁ、健治、ちょっとここで待っててくれない?」

「・・・承知つかまつった。」

 僕は今さっき下りてきた階段を駆け上がり、魎と狡貴のいる病室に向かう。狡貴のネームプレートの横のランプが点滅していた。呼んだのは狡貴か。ドアを開けると、狡貴のところだけ照明がついていた。カーテンを勢いよく開けるも、そこには至って平気そうな狡貴が寝そべっていた。

「どうしたの?」

「・・・いや、テストしてみただけ。25秒、早いね。」

「あぁ・・・なるほどね。」

 僕が試されているなんて、思っても見なかったな。でも、狡貴に試されるなんて考えると、やっぱりさっきと同じ複雑な気持ちになる。

「お待たせ健治、行こ」

 階段を下りたところに待っていた健治に声をかけた直後、再び当直室からナースコールの呼び出し音が聞こえてきた。踵を返して階段を駆け上がる。病室の前に辿り着くと、やはり狡貴のところのランプが点滅していた。ドアを開けると、これまたやはり狡貴のところの照明がついている。

「何?」

「悪いっすね、この電気、どうやったら消せるんすか?」

「えーっと、壁にあるそのスイッチで切るの。」

「ああ、なるほど、ありがとうっす!」

「全く・・・」

 しょうもないことで呼ぶんだな、あいつは・・・

 階段を下りると、健治は腕組みしながら壁に寄りかかっていた。やはりどこか荘厳な雰囲気を醸し出している。

「ごめんね、バタバタしちゃって。」

「さもあろう、大義であった。いざ参ろう。」

「そうだね。」

 ゆっくりと歩き出した刹那、再び当直室からナースコールの呼び出し音が響いてきた。

「あいつ、いくらなんでもふざけすぎなんじゃないか!?」

 弄ばれている気がしつつも、狡貴のネームプレートの横のランプが点滅しているのを確認した。ドアを開け、カーテンを力任せにこじ開ける。

「今度は何!?」

 しかし、今度の狡貴の顔には、さっきまでの和やかな表情はなかった。

「さっき、向こうのベッドから、唸り声が聞こえたんすよ・・・」

「え?!」

 僕は視線を背後のベッドに移し、カーテンを開ける。

「うぅ・・・・・・ん・・・」

 そこに寝そべっている魎は、悪夢にうなされているかのように、激しく体を震わせていた。

「魎!!大丈夫か!?聞こえるか!?」

 何度か苦しそうに唸った後、魎はゆっくりと目を開けた。

「・・・・・・雅治?」

「そうだよ、僕だよ。大丈夫?」

「・・・あれ、俺は・・・・・・一体?」

 魎は、さっきまでの何かに悶え苦しむような素振りは一切見せず、ちゃんとこっちを見て、話も出来る。

「よかった・・・」

 その安堵感から、僕は自分でも驚く行動に出た。

 ・・・魎に勢いよく抱きついたのだ。

「お、おい、雅治・・・どうしたんだよ、苦しいじゃないか。」

「僕・・・魎が死んじゃうんじゃないかって・・・・・・ずっと心配だった・・・僕のために体を張ってくれたのに・・・そんな魎を見捨てて死なれたら・・・・・・それが嫌で・・・怖くて・・・・・・っ。」

 いつしか、僕は魎の肩に顔を埋め、決壊したダムのように勢いよく涙を流していた。

 ・・・そんな僕を、魎も抱き返してくれた。

「いや、謝らなくていいさ。むしろお礼を言わせてもらうぜ。雅治は命の恩人だ。お前のために死ねるなら、本望だぜ。」

 僕はだらしなく号泣していることが急に気恥ずかしく思えて、魎を離して、ベッドの傍に置かれた椅子に腰掛ける。

「っていうか、俺は信じてたぜ?運が悪ければ死んでたかもしれねーけど、雅治は医者だろ?絶対に助けに来てくれるって、信じてたぜ?」

「・・・・・・ぁ・・・・・・」

 僕は・・・どうだったんだろう?

 おそらく・・・・・・信じ切れていなかったと思う。

 心のどこかで、もうダメなんじゃないかと思っている自分が、確かにいた。

 魎は僕のことを信じてくれていたのに、僕は魎を・・・信じ切れていなかった!

「ごめん、魎。僕・・・」

「それ以上は言わなくてもいいぜ?俺が死ぬかもしれないって、本気で心配してくれたことは感謝してるよ。だからさ・・・」

「何・・・?」

「俺も雅治を信じてるからさ、雅治も俺のこと信じてくれよ。」

「・・・・・・うん!信じる。約束する!」

 半ベソをかきながら、僕は魎と、大きな約束をしたのであった。

「じゃあ、こんな時間だし、俺はもう一眠りするかな。」

「ごめんね、夜中に起こしちゃって。」

「大丈夫だって。ほら、お前も仕事があるんだろ?行った行った。」

「ああ、じゃ、お休み。」

「おう。」

 魎のベッドの前のカーテンを閉める。そして僕は目の前、狡貴のベッドの前のカーテンを開ける。まだ狡貴は起きていた。

「ありがとうね、あいつが起きたの、教えてくれて。」

「いや、こちらこそ、いい話が聞けてよかったっすよ。」

「いい話?」

「仲良さそうじゃないっすか~、先生たち二人。ホテルにいる俺のサークル仲間とは大違い。」

「ははは!どうかな。僕が見たところ、君たち3人は、上辺だけの付き合いとは思えないよ?」

「え、そうっすか?」

「僕から見たら、仲が良さそうな3人組、だったけどなあ。」

「・・・だといいっすけど。」

「狡貴も信じてみなよ?知史だっけ?それと、雷輝のこと。」

「・・・・・・そうっすね。・・・でもそれを、泣き腫らした顔で説教されてもなぁ~。」

「う、うるさいなぁ!とにかく、言うことは言ったし、早く寝ろ。ナースコールでいたずらするのも勘弁してよ?」

「は~い、分かったっす!」

「ったく。」

 声をかけたのが間違いだったようだ。素早くカーテンを閉め、病室のドアを開け、外に出る。

「あ、雅治、ちょっと来て。」

「どうした?」

 カーテンを開けると同時に、僕の胸元に黒い塊が放られた。それは・・・

「わあっ!あわあわあばばっ!!」

 慌てて落としそうになるが、しっかりと掴むことができた。

「ははは、なんちゅう声出してんだよ!」

「え、だってこれ、拳銃・・・」

「命の恩人に、せめてものお礼。護身用に使ってくれよ。」

「いや、でも、これ、仕事で使うんじゃないの?」

「あー、さてはお前、俺がガンマニアだって知らないなぁ?」

「ぇっ。」

「そいつは俺が私用で使ってるヤツだ。セミオートだし、使い方に慣れれば誰でも使えるぜ。」

「はぁー・・・」

 いや、意外すぎるでしょ、魎の趣味。

「分かった、ありがたく使わせてもらうよ。」

「俺の形見だと思ってとっとけ!いつ死んでもおかしくねーから!」

「もー、そんな不謹慎なこと言わないでよー!」

「あははは!悪りぃ悪りぃ。」

 悪びれる様子を全く感じさせない平謝り。・・・でも、それはついさっきまで消えかかっていた、その昔僕にとっては慣れ親しんだ日常だった。

「じゃあ、ゆっくり休んでおけよ、何かあったら呼んでね、お休み!」

「おう、お疲れ!」

 これでよかったんだ。僕は再び、目の前に広がる日常へと、一歩ずつ戻りつつある。僕はそれを実感し、またその喜びを噛み締めていた。

 階段を下りると、またしても健治は腕組みして、壁に寄りかかっていた。

「ごめんね、何度も何度も。」

「是非に及ばす。大義であった。」

「いざ参ろう?あはは。」

 僕と健治は裏口のドアから外に出て、公民館の駐車場に止めてある僕の車に乗り込んだ。

「かはいと面妖な駕籠でござるな。」

「カゴ?!・・・ああ、車のことか。まあ、今は人力じゃないからね。」

 アナログな方が慣れている健治にとって、現代は住みにくそうだ。

 エンジンをかけて、車を出し、社不知村から出雲市街へ抜ける海岸沿いの一本道を走る。

「あ、そうだ。健治、渡しておくものがあるんだ。」

「ん?」

 右手はハンドルを握ったまま、左手で後部座席に置いた僕のカバンに手を伸ばす。どこに置いたかは覚えているので、視線を前に保ったままカバンを引っ掴む。ただ、その中のどこに、健治に渡すものがあるのかは、物が多くてゴチャゴチャしているので分からない。カーブを抜け、少し長い直線に出たところで、視線をカバンの中に移して、左手だけで中を探る。そしてカバンの底に、それがあった。

「・・・雅治殿、前!!」

「えっ?」

 再び前を振り返る間に、健治が助手席から体を乗り出し、ハンドルに飛びついてきた。車が一気に右に曲がるが、ゴンッという衝撃音が左側から聞こえてくる。車がガードレールに突っ込む直前にハンドルを今度は左に切り、ハザードランプをつけて路肩に車を止める。

「ヤベッ・・・僕、何轢いた?」

「分からぬ。狐か?」

「ちょっと見てくる。健治はここで待ってて。」

「承知つかまつった。」

 車から降りると、まずは車の後ろに向かう。横向きに倒れて、蹲っている獣のような、ちょっと大きめの動物が見えた。近寄ってみると、唸り声を上げているそいつは、狼だった。

「こんなところに狼?・・・・・・まさか、満!?」

 その考えが脳裏をよぎった瞬間、無我夢中で倒れている狼に駆け寄った。低い声で唸り続ける狼は、足を痛めたのか、蹲ったまま立ち上がることが出来ずにいる。

「大丈夫?」

 そっと声をかけて抱き上げようとした時。

「ガウゥッ!!」

 いきなり牙をむいて威嚇してきた。慌てて2,3歩後ずさりする。

 理性をなくしているのだろうか?前回のときも、無意識のうちに暗い山道に入り込んでいったのだろう。今回も、こんな村の外れまで来ている。他に適当な理由なんて、あるとは思えない。

 とにかく、目の前のこいつが満であろうとなかろうと、轢いて怪我をさせてしまったことには変わらない。僕は医者なんだし、こいつの傷を治してやろうと考えた。

 ・・・よくよく考えたら、僕は医者ではあるが、獣医ではない。

 僕は狼の傍に近づく。大きな声で吠えつつ、牙をむいて威嚇しながら、動ける足をばたつかせる狼をものともせず、両手で抱えあげる。車の傍まで歩いて、片方の手に持ち替えて、もう片方の手でトランクをこじ開けて、その中に狼を放り込んだ。四肢を挟まないように気をつけながら、何とかトランクを閉めることが出来た。僕は今更のように疲れた素振りを見せて、車の運転席に乗り込んだ。

「獣を蟄居させるのでござるか?」

 事の終始を見ていたのか、健治がそう聞いてきた。

「うん。後ろに乗せて暴れられても困るし。」

「・・・・・・」

 家にある救急箱とかで応急処置はできるし、何とかなるだろう。という、軽はずみな考えは、車を動かしてすぐに吹き飛んだ。

 日本には狼などいない。何年も前に日本の在来種の狼が絶滅し、外来種の狼もいない。ペットとして飼っている人もいないだろうし、人目につけることはできない。だとすると、動物病院なんかも頼れない、ということになる。仮にトランクに押し込んだ狼が満じゃなかったら、骨折の処置くらいして、治った頃合を見て山に返そう。生態系がどうのこうのとか、知ったことではない。

 車の運転をしながらも、そのような考えが脳内を埋め尽くしていた。日本に狼はいないんだから、今トランクにいるのは満ということになるんだけど、もし満じゃなかったらとか、そうだとして動物病院も頼れないのにどうやって傷を治そうとか。

 いつしか後部のトランクから、さっきまで聞こえていた狼の暴れる音や吠える声は、ぱったりと止んでいた。しばらくして、出雲市の観光名所、出雲大社を通り、市街地に入る。出雲市駅の方向に車を走らせ、駅の近くにあるマンションの駐車場に滑り込ませる。

 車を止め、監視カメラがある表のエントランスではなく裏口から、なんて考えながらトランクに回り、トランクを開けたときだった。

「・・・・・・満?」

 トランクの中に寝そべっていたのは、紛れもなく満本人だった。やはり上には服を着ていない。意識はないようだが、息はある。

「・・・知り合いか?」

 車から降りてきた健治も覗きこむ。その表情には、少なからず動揺も見える。

「ああ。とにかく、怪我してるかもしれないから、部屋に連れて行こう。」

 満を担ぎながら、駐車場からマンションの裏口に回り、階段を上って自分の部屋に入る。

「お前、16のクセに、重いなっ。」

 とか何とか愚痴りながら、ベッドの上に仰向けに寝かせる。

「健治はどこかその辺にかけていて。」

「承知つかまつった。その気遣い、痛み入る。」

 部屋に置いてあるクッションを座布団代わりにして、健治はその上にあぐらをかく。

 僕は部屋の隅にある箪笥の中から救急箱を取り出し、いつも急患を相手にするように、丁寧に診察を始める。

「うーん、心拍と呼吸は問題なさそうだね。」

 さっき狼だったとき、後ろ足を傷めたせいか、立ち上がることが出来なかった。骨折を疑いながら、足回りの診察を始める。

 だが、僕の予想に反して、足を動かしても、痛がる素振りは見せなかった。あれ、骨折じゃないのかな?

 続いて、ボディーチェックをするように腰から順番に両手で少し強めに足を押していくと、ある1点、脛の辺りを押したときに満が唸った。

「うぅっ!」

 その辺りをもう一度押すと、やはり唸った。細かく触診してみると、左足の脛の横の辺りを痛そうにしていた。ズボンを捲ると、そこだけうっ血してアザのようになり、若干腫れ上がっていた。骨折ではないが、打撲傷か。救急箱から湿布を取り出して、そこに貼り付け、ズボンを元に戻して、しばらく様子を見ることにした。

「ちょっとぶつけただけみたい。しばらく様子を見よう。」

「大義であった。」

 あぐらをかいたまま微動だにしない健治に報告する。そして今あるだけの食材で簡単な夕食を作り、食後はお湯を沸かして風呂に入った。慣れないながらも健治も食事と入浴を済ませた。

 その後、僕は押入れから布団を出し、部屋に敷き始める。元々、予備用と来客用と用意してあったので、健治の分も用意できた。

「今日はもう遅いし、健治も疲れただろうから、もう寝ようか。」

「そうだな。」

 ただ、健治の分の寝巻きまでは用意していないので、何かイベントとかあるときに使うだろうと、押入れの奥に眠っていた、浴衣を健治に着せてあげた。・・・案外似合う。

「服とか色々、僕からも用意しておいてあげるよ。」

「・・・かたじけない。」

「そうだ、僕は明日も診療所に行かないといけないんだけど、健治はどうする?衣食住くらいなら、できる?」

「・・・・・・出来なくはない。」

「・・・そ。あと、これ。」

 僕はカバンの中から、さっき出そうとしていた物を取り出し、健治に手渡した。

「これは?」

「ヘアゴムだよ。髪を結ぶ物が欲しいって、言ってたでしょ?」

「・・・ああ、ありがたく頂戴する。」

 そう言うと健治は、長すぎる後ろ髪を慣れた手つきで縛った。それはまるで・・・

「ポニーテール?案外似合うけど、その髪型が好きなの?」

「ぽにいてえる?拙者のこれは、総髪でござるが。」

「え、ソウハツ?」

 へー、現代のポニーテールは、昔でいう総髪なんだ。いい勉強になる。もっと昔のことについて勉強しないと。

 逆に健治に教えることも多いかもしれない。現代の生活に慣れていない限り、携帯電話を使うことも、ガスでお湯を沸かして風呂に入ることも、電気をつけることも、乗り物に乗ることも、おそらくままならないだろう。

 まあそれは、感覚的にはホームステイに来た外国人を迎え入れるのと似たようなものだろう。苦労も多いが、こっちにとっても得るものはある。前向きに捉えよう。

 僕は部屋の電気を消し、満の寝ているベッドと、健治の寝る布団に挟まれながら床についた。

「じゃ、お休みなさい、健治。」

「・・・お休みなさい、雅治殿。」

 え?!今の言葉って、大昔からあったのかな!?

 大いに疑問だけど、ないとしたら、オウム返しは健治が僕に対して心を開いているということだろうか?それは・・・非常に嬉しいことだけど、僕の思い違いかもしれない。

 とにかく、健治とはもっと仲良くなって、色んなことを知ろう。昔の生活よりも、彼の身の上話が気になる。今はそういうのは抜きにして、お互いに信頼できるようになるまで頑張ろう。

 そう考えると、僕は今日一日の喧騒を思い出したかのように、どっぷりと深い眠りに落ちていった。


 濃い霧立ち込める森林の中、逃げ惑うもう一つの影。動きにくそうな体を酷使しながら、無我夢中で森の中を抜けていく。

「・・・あぁ・・・・・・っ・・・・・・」

 闇雲に進んでいると、さっきから背後から追いかけてきている煙霧が、目の前にも迫ってくるのが見えた。右も左もその霧が覆い尽くされている。・・・こんなところで命運って尽きるものなの?

「おい、大丈夫か?こっちだ!」

 誰かに声をかけられるが、暗がりに紛れて見えない。

「どこ?!」

「こっちだ!」

 突如、頭上の暗闇から白い腕がぬうっと伸びてきた。薄気味悪さに躊躇するが、八方塞となった今、藁にも縋る思いで、その白い腕を掴むことしかできなかった。

 白い腕に捕まると、凄い力で木の上に引き上げられる。暗闇の中に引きずり込まれても、相手の顔は見えなかった。

「大丈夫?」

「ええ、ありがとう、助かったわ。」

「勘違いするなよ?蛇女が逃げ惑ってたから、手貸しただけだからな?」

「・・・あっ、そう。」

 嘘が下手なのかツンデレなんだか分かんないけど、どこかいけ好かないヤツ・・・

 何の前触れもなく、結構な力でさらに上に引っ張られる。小枝や木の葉が当たって痛いが、相手はそれをすり抜けているかのように、どんどん上に上がっていく。その間、一時も手を離さないから、こっちから振り払ってやろうか迷っていた。

 もう少しで森の上に出るところで、少し細めの枝に乗り上がった時、その枝が根元からボキッと折れた。

「きゃあ!」

 枝と一緒に真っ逆さまに落ちるかと思ったが、さっきからずっと私の腕を掴んでいた相手の手が、しっかりと支えていてくれた。

「お前、重たいな?俺でも折れなかったぞ。」

「し、失礼しちゃうわね!枝が細かったのよ!」

「はいはい。」

 全く、無礼にも程があるわ。

 そうこうしているうちに、ガサッという音とともに木の上に出た。月明かりに照らされ、ようやく私の腕を握っていた人物の全体像が照らし出された。

 スリムな体で背が高く、凛々しい顔つきをした美少年、といったところだ。しかも足元を見ると・・・その体は宙に浮いている!?

「あれ、俺の馬、どこ行っちゃったのかな~。」

 なるほど、枝に乗っかっても折れなかった、というのは嘘っぱちだったのか。

「天馬なんて持ってるの?」

「ああ、専属の天馬がな。」

 う、嘘くさい・・・どこぞの神様にしては、ちょっとチャラいし、性格も粗暴なんじゃないかな。

「お、来た来た。」

 少年が手を振る方向から、凄い勢いで馬が走ってきた。その見た目は、私が想像していた天馬とは違い、翼が生えているわけではなく、代わりとでも言うのか、足がタコのように8本もある。私たちの産んだ獣にも足がいっぱいあるものはあるが、こんなものは見たことがない。

「何、これ。」

「俺の専属の天馬、スレイプニルだよ。あ、お前が乗ったら重量オーバーかなー。」

「えっ・・・・・・なんで!?」

「・・・嘘だよ。真に受けるなって。早く乗れ。」

「・・・全く、もう。」

 どうやら私は、見た目は良くても中身は最低という、典型的なダメ人間に拾われてしまったようだ。おまけに大嘘つき。

 でも、あの得体の知れない霧の中にいて、悶え苦しみながら死んでいくのに比べたら、はるかにマシだろう。

「・・・さっきは、ありがとうね、本当に。」

「だ、だから言っただろ?俺は走りにくそうだった蛇女に手貸してあげただけだっつーの!」

「蛇女って言わないでくれる?私にはエキドナっていう名前があるの!あんたは!?」

「俺はロキだ。まあ、賢明な神様だとでも思ってくれよ。」

「自分で賢明って・・・」

 それこそ『嘘つきの神様』の方がよっぽどお似合いだ。だけど私はそれを口にはしなかった。

「手を貸して?これから私をどこに連れて行くつもり?」

「まあ、簡単に言えば」

「余計な嘘はいらないから、率直に教えてよ。」

「・・・怖いなぁ。とりあえず、少なくともこの霧がないところだな。」

 空を駆け抜けるスレイプニル。眼下には森が広がるが、不気味な霧に覆い尽くされている。

「大丈夫なの?」

「大丈夫じゃなきゃ、わざわざお前に手貸したりしねーよ。黙ってついて来い。」

 それを信用できないヤツに言われてもなぁ・・・

 とはいえ、今更下ろしてくれなんて言えないし、とりあえずロキを信用した上で、それから何とかしよう。・・・大嘘つきだと分かっていながら信用するなんて、なんと滑稽なんだろう。

 私とロキを乗せたスレイプニルは、聳え立つ山々を軽々と越え、尚も上昇しつづけていった。

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