10.The Unknown Soldier wakes up(無名戦士、目覚める)
「・・・うん、再出血もないし、バイタルも問題なし。もう退院できるよ。」
「・・・・・・ありがとうございます、雅治さん。」
別の意味でぐったりしてばっかりの麻癒美ちゃんが、重い腰を持ち上げる。
麻癒美ちゃんが流産してから数日が経った。僕の中では何一つ変わらない日常が延々と続いているが、麻癒美ちゃんはずっと複雑な思いをして過ごしてきたのだろう。回診のときはいつもぐったりしていて、精神的に滅入っている様子だった。
酷な入院生活も今日で終わり。彼女にとってこれから、少し前までそこにあった「日常」が待っているのか、僕も不安ではある。
病室を後にし、診察室に入る。午後の診療開始までちょっとだけ時間が残っている。既に水穂ちゃんも菘さんもスタンバイはできているが、空き時間も有効に使おうと、持ってきたノートパソコンを開き、検索エンジンにキーワードを打ち込んで検索する。
「えーっと・・・・・・須・・・佐・・・木・・・・・・っと。」
予測変換の欄に「スサノオノミコト」という文字が出てきて、それを検索したい衝動に駆られるが、検索したところで出てくるのは日本神話絡みの話かゲーム関連、はたまたSFとかイラストとかだけだろうし、時間もない。今すべきことはそれではないし、それを無視して文字を打っていく。
すると、「木」の字を入力した途端、予測変換の欄に出てくるキーワードの数が激減した。気にせず検索ボタンをクリックすると、目当てのものとは全然違うものが出てきた。
「・・・栃木県大田原市『須佐木』・・・・・・出雲市『須佐』神社のご神木?」
前者は、大田原市内のある地区の名称。後者は出雲市の中心部から南の山間に位置する神社で、名前の通り「スサノオノミコト」を祀っているんだそう。そりゃあ当の昔の話だ、神話の神様がどの辺にいるのか分からないし、「ここに祀られてますよー」と言った者勝ちだと思う。社不知にもそんな神社があるし、きっとそんな神社はいくらでもあるのだろう。須佐神社には夏休み休暇のときにでも行ってみよう。
僕が探していた「人物名」の情報は、これだけではヒットしなかったようだ。ヒットしたとしても、出てきた数が多すぎて、埒が明かないし時間も足りない。もう少し時間をかけて、ゆっくりと情報を集めよう。
水穂ちゃんに声をかけられ、パソコンをしまって午後の診療を開始する。最初の患者は悠馬だ。宝ちゃんも付き添いで入ってくる。
「さてと、それじゃあリハビリ・・・の前に軽く診察だけさせて頂戴ね。」
悠馬は着ていた服を捲って、鍛え抜かれた体を見せる。胸に出来た手術跡は周囲に馴染んでいるし、筋肉も以前に比べて鍛えられている気がする。
「あれ以降どう?息苦しいとかない?」
「ないですよ。歩けない以外は至って普通です。」
「なるほどね。結構運動とかもしてる?何か以前より引き締まって見えるよ。」
「そうですか?これでも体重5キロ近く増えたんですけど。」
「あれっ、そうなんだ?でも大事だよ、歩けるようになってから、筋力の衰えって顕著に出てくるらしいから、今のうちに鍛えておけば、また大会にも出られるんじゃないの?」
「が、頑張ります・・・」
「よし、じゃあ歩く練習しようか。肩貸すよ。」
まだ歩き方もままならない悠馬を負ぶって2階へ上り、トレーニングルームに向かう。もう少し設備を増やしたらトレーニングジムができてしまいそうなくらい充実しているが、あくまで今回の目的は歩行練習だ。
補助用の棒につかまってゆっくりと歩き始める悠馬。その俊敏さには、ちょっと前の覚束なさは感じられない。どれだけ鍛えたんだろうか、思わず惚れ惚れしてしまう。
「・・・ちょっとそのまま歩いてみて。」
「え、この先ですか?」
「うん。」
棒が終わっているところから、何の支えもなしに歩かせてみる。念のため僕が傍で見守っていよう。
傷ついた右足で踏ん張り、左足を出す。怪我人独特の脚を引きずる仕草はない。重心を左足に移し、右足を恐る恐る出す。忍び足から右足が着地した瞬間、僕は目を見張った。多少バランスは悪いが、悠馬は倒れることなく直立している。そのまま左足、右足、とゆっくりと歩き始める。僕はそれを、固唾を呑んで見守った。5歩くらい歩いたところで、悠馬はつんのめって倒れかけた。僕は我に返って、慌てて倒れかけの体を抱き上げる。
「凄いじゃないか、悠馬!もう少しで普通に歩けるよ!」
「ありがとうございます、自分でもびっくりです!」
「この調子で、もっと頑張ろう!」
「はい!」
勢いで意気込んでみたものの、そこからは思ったような進展はなく、前回同様悠馬が汗だくになったところで練習は終わりにした。悠馬を連れて1階に下りると、真正面の受付に伴夜と麻癒美ちゃん、宝ちゃんがいるのが見えた。
「あれ、伴夜と麻癒美も来てたのか。」
僕に支えられたまま悠馬も3人の輪に入る。
「ん・・・そうか、4人とも高校の同級生だっけ。」
僕は思い出したように呟く。
「今日、悠馬はリハビリか。だから宝がいるのか。」
「悠馬君、今日はどうだったの?」
「いや、前と全然変わってないけど。」
「嘘つけ~、ちょっと前と比べたら大分進歩したよ。支柱なしで何歩か歩けたんだよ、こいつ。」
「えっ、本当ですか!?やるじゃん、悠馬。」
「おめでとう悠馬、この調子で頑張ろうね!」
「ありがとう。ところで、伴夜と麻癒美はどうして今日ここに?」
「あっ・・・・・・」
「「「・・・・・・・・・・・・」」」
咄嗟に制止したが間に合わなかった。伴夜の横でずっと黙っていた麻癒美ちゃんが俯いてしまう。悠馬もその気まずい雰囲気を察したらしく、麻癒美ちゃんたちから目を逸らす。
僕もこの暗い雰囲気に耐えられず、素早く話題を変える。
「・・・そういえば、今日って学校は休みなの?」
「ま、雅治さん、今日土曜日っすよ。」
「えっ!?そうだっけ?いやー、診療所に篭ってると体内時計が狂うなぁ・・・」
伴夜に諭されて、はっとする。完全に日付の感覚がない。労基法に抵触しかねない休日診療をしていれば当然だ。キリスト教で言う安息日だって、僕らには無い。そうしていると、今日が何曜日だったかなんて気にしなくなる。
「雅治さん!次の患者さん、入れていい?」
診察室のドアが開き、水穂ちゃんが顔を出す。いけないいけない、立ち話どころじゃなかったのに。
「おお、そうだった。じゃあ、僕は仕事があるから、これで。4人とも、元気でね!」
僕は4人を見送ると、そそくさと診察室に戻り、次の患者さんの診察を始めた。
雲海の上、天高く聳える巨大な城。見方によっては宮殿にも見えるが、その内部構造は複雑で、多数の小部屋が存在する。その城の上層、ある大部屋で、全知全能の神ゼウスが玉座に腰掛けていた。
「遅いな・・・」
肘掛に置かれた左手が落ち着きなく動く。あるものの到着を待っているのだが、予定を過ぎてもそれが来ないのだ。予定より遅れることなんて滅多にないのだが、なんて思っていると、バルコニーに立っていた使用人が声を張り上げて言った。
「・・・ぁ、来ました!」
重い腰を上げて窓の外を見る。雲の間を縫ってペガサスが全速力で飛んでくるのが見えた。しかしその動きは、どこか歪でぎこちない。
着陸態勢に入ったペガサスは、歪な翼をばたつかせて減速し、上体を少し上げる。その着地は一見滑らかだったが、着地と同時に脚が折れ曲がり、地面に叩きつけた体を引きずりながら、室内に突入していく。待ち構えていた使用人は一斉に逃げていった。
滑り込んできたペガサスが止まった直後、ゼウスは立ち上がってその許に向かう。
「大丈夫か?」
「・・・は、はい・・・・・・大丈夫です、遅くなりました・・・・・・」
「全身傷だらけじゃないか。全然大丈夫に見えないぞ。何があったか教えてくれ。」
「はい・・・ご子息様をお送りして、こちらに戻る道中、その・・・・・・飛龍に、襲われまして・・・」
「飛龍?ドラゴンということか?」
「左様でございます・・・僕よりもはるかに巨大な相手で・・・力量も適いませんでした・・・」
「そうか・・・・・・とにかく、今は静かに休んでろ。出立はそれからでも間に合う。」
「はい・・・・・・感謝します。」
「お前こそ、よくここまで戻ってきた。さすが駿馬だ。」
「とんでもございません・・・」
ペガサスは使用人たちによって運ばれていった。それを見届けると、ゼウスは再び玉座に腰を下ろし、厳しい表情のまま俯く。
「ドラゴンか・・・まさか・・・・・・?」
大事を取って休ませることを先に考えたゆえに、話の詳細を聞きそびれてしまったが、ペガサスが襲われたということは、まさか・・・という考えに陥ってしまう。
つまりは敵対勢力が攻勢を強めてきたのではないかと言う予想だ。本当に漠然とした予想だが、何か良からぬことが起こるのではないかと危惧しているのだ。
前々から注視してはいたが、ここ最近勢いを増してきている。ただでさえその素性が知れない連中だ。そいつらが動き出したと聞いただけで動揺してしまうのは、自然だろう。一体、何を仕掛けてくるつもりなのだろうか・・・
一日の診療を終え、水穂ちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲みつつ、終了後の余韻に浸っていたところ、何の前触れも無く、外からゴオゴオという音が響いてきた。強い風が窓ガラスを叩く。何事かと思って裏口から外に出ると、駐車場にヘリコプターが着陸していた。やがて、コックピットから降りてきた翼によってヘリコプターのドアが開けられ、中から晴子と、見知らぬ厳つい男性が下りてきた。強面で、ピシッとしたスーツを着込み、体格も大柄。どこぞのヤクザを連れてきたのか、と不安になる。3人は厳つい男性を先頭に、真っ直ぐ僕に向かって歩いてきた。
「あなたが、宮崎雅治さんですか?診療所の所長の。」
強面の男性が声をかけてきた。その声質もこれまた厳つい。
「はい、そうですが。」
「初めまして、私は島根県知事の大森能久です。以後よろしくお願いします。」
手馴れた手つきで名刺を出してくる。まるで大手企業のお偉いさんのようだ。僕も慌てて名刺入れを引っ張り出す。
「社不知診療所所長の宮崎雅治です。本日は遠路はるばるご苦労様です。立ち話もあれなんで、どうぞ中へ。」
「失礼します。」
3人を中に入れ、面接室に入る。僕から見て向かい側に県知事の大森さんと村長の晴子が座る。ここでも僕とは距離を置いているようだ。代わりに、隣には翼が座る。
「今日ここに来たのは、宮崎雅治さん、あなたに2つの話があったからです。」
「・・・順番におっしゃってください。」
「では、まず1つ目、この診療所の話から。宮崎さんは、この診療所の所長の任に就くにあたって、この診療所について詳細な話は聞きましたか?」
「えーっと・・・」
この人もなかなかアバウトで遠回しな質問の仕方をするな。それだとこちらとしても回答がしづらいぞ。晴子はひょっとしたら、この大森さんの影響を受けているのだろうか?
「建物の所在地と構造、内部の設備について一通り話は聞いています。」
「なるほど・・・では、この診療所が出来た所以と現在までの沿革は?」
「・・・・・・いや、それについては聞いたことがありません。」
「なるほど・・・ではその辺から説明させていただきましょう。あなたもお気づきかと思いますが、この診療所の地下1階部分へ向かう階段には二重のロックがされています。その理由については後述するとして、一番手前のドアは簡単な鍵のみという構造になっていて、その奥にパスワード入力式の電磁ロックがあるとしても、それでは警備が手薄だとは思いませんか?」
「確かに、あそこを開けて、パスワードも分かったら、下にいけますからね。」
僕はちらりと晴子を見る。険しい表情のまま俯いている。
僕としてはこんな風に質問を投げかけながら話を進められるのはあまり好かない。僕の考えを言うべきか、相手の質問に応じるべきか。どちらにしても自分の立場を追い込む羽目になる気がするのだ。それは昔のトラウマが関係するのだが、それについてはここでは割愛する。
「でですね、ここで診療所の建設に関わる話になるんです。実はこの診療所、自治体からの公費のみで作られたわけじゃないんですよ。」
「え、そうなんですか!?」
嘘つけ!と心の中で叫ぶ。晴子とは違った嘘のつき方だったりするのかもしれないが、幾分か現実味を帯びているので、自分の中では踏ん切りがつかない。
「そうです。前所長の話です。元々はこの村に個人経営の小さなクリニックを作ろうと言う話だったんですよ。医者のいない村で、是非とも医療活動をしたいという思いに、当時社不知村の村長だった私はもちろんのこと、当時の島根県知事も」
「えっ、大森さんって、この村の前村長だったんですか!?」
「ええ、そうなんですよ。」
「知らなかったなぁ~」
自分が無知であるということを恥じると同時に、それを曝け出すことに対する危機意識の無さを痛感する。今、目の前にいるのは、素性の知れない島根県知事だ。会話の流れに呑まれ、迂闊に答弁すると、墓穴を掘る羽目になるのは明確だ。もう少し慎重になるべきだな。
「まあ、その話は置いといて。で、その前所長の意向を汲み取る形で、県から補助金と土地利用に関する契約をしたわけですよ。ただ・・・」
「・・・・・・ただ?」
急に話のトーンが低く抑えられる。何か良からぬ話でもあるのだろうか?
「県としても、予期しない事態が発生したんです。この診療所が、今まさにあるこの地。ここで診療所の建設作業を始めたところ、不幸な事故が相次いだんですよ。」
「不幸な事故?」
何か怖い話みたいで嫌だなぁ。晴子と違って現実味を帯びているから、ますます嫌悪感を覚える。
「地鎮祭みたいなのはしたようです。それでも工事関係者が、不慮の事故や急病で多数亡くなったようです。」
「・・・どういうことですか、それ。」
僕は無我夢中で言葉を搾り出し、やっとのことで質問したが、大森さんはそれを受け流した。
「何とか完成、開院までこじつけたのですが、その後も来院した患者さんを中心に、不幸は続きました。外来患者が帰宅直後に急変したり、入院患者が自殺を図ったり。それはもう、『呪われた』と言われてもおかしくはなかったそうです。」
そんな話、初耳だ。現実味を帯びているとはいえ、そこまで飛躍すると僕でも嘘だと分かる。
実際、この診療所の経歴は、軽くだけど、調べている。そんなおっかない過去はない。それとも、それは都合よく隠していたからだろうか?でも、それだったら、少なからずマスコミとかにも取り上げられているはずだ。
「試行錯誤の末、前所長はある物を発見しました。それは、小さな穴です。」
「穴?」
「アバウトに言っているつもりはありません。本当に、小動物が通れるくらいの穴なんです。前所長はそれを見つけ、たまたまネズミや害虫が入り込まないようにと塞いだんです。そうしたら、どういうわけか、そのような呪われた出来事はなくなったんです。」
にわかに・・・・・・いや、ここまできたら、全くもって信じられない。そんな偶然があるか。僕は心の中で、大森さんが語ることをずっと否定していた。
「これで診療所も安泰かと思われた矢先、入院中の子供が、はしゃぎすぎたのか、別の穴を開けてしまったんです。今度は壁にサッカーボール大の穴をボッコリと開けてしまいました。そうしたら、これまたどういうわけか、あの『呪いの出来事』が再発したんです。」
自分でも『呪い』とか言っている。やっぱりこの人の話も飛躍しすぎている。
「今度は塞いだだけでは効果がありませんでした。そこで前所長は、藁にも縋る思いで、悪魔祓いや貼り札、八百万になってしまったようですが、とにかく神頼みという戦法をしました。すると効果が上がって、『呪いの出来事』は」
ちょっと待て!今、僕の中のもう一人の自分が、大声で『異議あり!』と叫んだ。
飛躍しすぎている上に、話の内容が都合よすぎる。
僕はそれに真っ向から歯向かおうとしたが、論破できそうな言葉も見つからず、饒舌な語り口を妨げるわけにも行かず、大森さんの話を聞き続けることにした。
「その後、その穴には誰も近寄らないようにしつつ、イメージアップにまい進したそうです。」
「あの~、その穴って、まさか・・・」
「そうです。この診療所の地下1階にあります。」
僕は息を呑んだ。この瞬間、大森さんが大嘘つきであることが証明された。その話が現実味を帯びている気がしなくもなくてちょっぴり怖かったが、確信する、この人は嘘をついている。
「そんな穴のために、あんなロックがあるんですか?」
「決して『そんな』という程度のことではないということが、あなたには理解できませんか?」
「うっ・・・」
しまった、調子に乗ったところを逆手に取られたか?
「でも、そんなおっかない物の存在、僕は今の今まで知りませんでしたよ?前所長をはじめ、誰からもそんなことは教わりませんでしたし。」
「・・・・・・フッ。」
「・・・!?」
今、それまで一文字だった大森さんの口元が、不気味にほころんだ。
何だろう。無知なことを嘲り笑ったのか、僕が地下に入ったことについて高を括っているのか?
「じゃあ、それも説明する必要がありそうですね。では、あの穴はどこに繋がっているか、分かりますか?」
「そりゃあ、ネズミとかが入ってきそうですし、外に通じているんじゃないですか?」
適当な回答をするわけにもいかず、無知であることを晒してしまう。
「普通はそう考えますよね。じゃあ、ここに大前提として、『普通でない』条件を与えましょう。例えて言うなら・・・どこでもドア!」
「・・・・・・は?」
「あの穴を通って、どこか余所へ行けるとしたら、どこだと思います?」
「壁に出来た穴だし・・・ブラジルとか地獄に行けるわけないでしょう?」
「ははははは!なかなか面白い回答をしてくれますねぇ。」
低い声のままけらけらと笑う大森さん。
何だろう、だんだんとこの人との会話に嫌気がさしてきた。
「まあ、考え方としてはそんなところです。そう、どこか余所から、呪いのような良からぬ物が入り込んでくるのです。我々に害をもたらす物が。」
「じゃあ教えてください、具体的に何なんですか、それは?」
僕はやっとのことで、話に突っかかる気になった。喧嘩腰の口調に持っていきつつ、相手の出方を伺う。
「オブラートに包んで言うのなら、悪魔や死霊の類でしょうか。」
言葉の真意を曖昧にしてきたが、ありもしないものをさらりと言ってきた。大の大人がそんなオカルトチックなことを鵜呑みに出来るか。
「それがその穴から出入りすると?」
「そうです。お分かりいただけたようで何よりです。」
晴子のときみたいに笑いそうになるのを必死に堪える。ここで笑って誤魔化したら、それを逆手に取られる。
「宮崎さんがこの診療所の所長であり、当然診療所全体を管理する責任があることは重々承知です。しかし、私としては、地下1階の部分には行っていただきたくないのです。それは宮崎さんのためでもありますし、診療所の面子のためでもあります。折角汗水流して前所長が築き上げてきた診療所の名誉を、一発で崩すことが、何のためらいも無くできますか?」
「・・・・・・・・・・・・」
ここに来て話を持ち上げてくるか。踊らされないように気をつけないと。
「じゃあ地下1階の管理や監視はどうすればいいんですか?誰も入れないんでしょう?メンテナンスとかはどうなるんです?」
「その辺は現在検討中です。警備のための予算は県からもバックアップがあります。そこは我々にお任せください。」
怪しい。検討中なんていう言葉で誤魔化して、結局本意が見えない。何なんだ、こいつ・・・
「他に何か質問等はありますか?」
「・・・・・・いいえ、ありません。」
僕は渋々頷いた。
「分かりました。では2つ目のお話を。」
うわー、ここまで長かったのに、もう1つあるのかよ・・・
「これは宮崎雅治さん、あなたに対するお話です。」
そう言って大森さんは、椅子に立てかけておいたカバンを持ち上げ、中からファイルを取り出す。その際、1枚の紙切れが落ちていったのを、僕は見逃さなかった。当の大森さん本人は気付いていないようだ。
ファイルからB5サイズのプリントが出てくる。解雇通告か!?
・・・いや、違う。日程や場所が書き込まれている。何のイベントだろうか、と目で追っているうちに、大森さんがすべて口頭で説明してしまった。
「来月、福岡で行われる日本医師学会主催の医療シンポジウムの中で、地方、特に過疎地域での医療活動について、報告と質疑応答等をするらしいのですが、宮崎雅治さん、あなたに地方医師代表として参加してほしいと通知が来ています。」
「え!?」
待て待て。出世の夢を早々と諦めてここに来たのに、いきなりそんな大役を務めなければいけないのか!?しかも、来てまだ間がないのに?
「どういう風の吹き回しだ・・・」
思わず呟いたのを、大森さんに聞き取られた。
「その辺は私も分からないので、何ともお答えできませんよ。とにかく、出張費用なども援助しますから、社不知村の看板を背負ったつもりで、胸を張って行ってきてください!」
「・・・はい、僕でよければ頑張らせていただきます。」
さっきとは一転して笑顔を交えながら話す大森さんだが、僕の心境は複雑だ。
話が大きすぎるし急すぎる。何か背後にチラチラと見え隠れしている気がしてならない。
「では、こちらからのお話は以上ですが、宮崎さんから何かありますか?」
「いえ、僕からは特に何も・・・」
「そうですか、では我々はこれで。」
「ああ、お見送りしますよ。」
僕ら4人は席を立ち、3人の後に続く。ところが出口のところで、僕の目の前を歩いていた翼が立ち止まる。
「すいません、トイレに行ってくるんで、先に乗っていてください!」
大森さんと晴子はそれに頷き、ヘリに乗り込む。翼は踵を返し、僕の脇を通り抜けようとしたとき、僕に向かって小さく囁いた。
「奥に来てくれないか?」
僕はそれに従って奥へ向かう。翼の目的はどうやらトイレではなさそうだ。
処置室の前に来ると、翼は立ち止まって、こちらを振り返って言った。
「お前、すげーじゃんか。県知事と張り合うなんて、カッコいいよ!」
「そう?僕としては凄い複雑だけど。」
「そうなのか?まあいいや。俺の飛ばすヘリ、またいつか乗ってくれよ!さすがに福岡まではきついけど。」
「おう、何かあったら使わせてもらうよ。」
「ああ。じゃあ、俺もう行かないと。」
走り出そうとする翼を制止した。
今の僕の中は、出てきた疑問を真っ先にぶつけないと耐えられなくなっていた。
「待って、翼。お前、あの2人に縛られてるのか?」
「・・・俺の雇い主は、神村さんだから。」
翼はこちらに振り向くことなく、そう言い放って、裏口から外へ駆けて行った。
僕が裏口から外に出る頃には、ヘリコプターのローターが回り始め、数秒後にヘリコプターは離陸していった。そしてヘリコプターは、村の南に聳える山々の向こうに消えていった。
僕は診療所の中に戻り、面接室に入る。さっきまで4人で向かい合っていたテーブルの、大森さんが座っていた椅子の下に、1枚の紙切れが落ちている。その正体は、メモ帳から破り取った紙を折りたたんだものだった。そっと拾い上げて、折りたたまれた紙片を開く。
「・・・変更前 1341、変更後 1373・・・?何だ、これ。」
法則性とか色々考えたしまったが、これはひょっとしたらパスワードなのではないかと思った。変更とか書いてあるし、何しろこの診療所の地下1階の電磁ロックはテンキーで数字を打ち込む方式で、大いに関係がありそうだ。
紙切れをマジマジと見ていると、面接室のドアがいきなり開いてビックリした。僕は紙切れを慌ててポケットにねじ込む。ドアを開けて入ってきたのは、水穂ちゃんに連れられた満だった。
「こんばんは。元気っすか?」
「お、満か。僕は元気だよ。そっちはどう?」
「おかげ様で。ところで雅治さん、面接室で何してたんすか?」
「ああ。来客があったから後片付け。」
「へー。クライアントとか来るんですか?」
「何のだよ。」
「ははは!まあ、そのための面接室っすからね。」
「満は・・・勉強か。ごめんごめん、今どくよ。」
僕は足早に面接室を出て、診療所を後にし、夕食を食べに喫茶店に向かった。
場所は、再び高山の城。
大広間の一番奥。そこに、母神ティアマトと下僕のゴブリン、それに共謀者のエキドナが集っていた。
「ゼウスたちとの連絡手段は断ち切ったのよね?」
「もちろんだ。邪魔者は容赦せず排除するつもりだと言っただろ?」
「とうとうこの日が来たって感じですね。」
3人の前には大鍋があり、中に満たされた不気味な液体はぐつぐつと煮え返っている。大鍋の後ろには窓があり、大きく開け放たれている。ティアマトは手際よく、ゴブリンが集めてきた毒草や動物の骨を大鍋に入れていく。その中には、壁にかけられていた動物の頭蓋骨もあった。
「こんなありふれた物で、本当にあなたのお望み通りの結果が出るのかしら?」
「確証はある。このために今日までたくさんの事を調べ、たくさんの時間を費やしてきたのだ。失敗するわけには行かない。」
「・・・そろそろお時間です、ティアマト様。」
「よし・・・・・・始めるか。」
ティアマトは煮立った液体でいっぱいの大鍋の前に仁王立ちし、文献を参考にしながら、呪文を唱え始めた。
「全知全能の神をも恐れさせ、強大な闇の力を授かりし、偉大なる魔王よ。今、ここに下準備は整った。今こそその力を覚醒させ、この世界に『混沌』の言葉の意味を知らしめるがいい!」
「うわー、字面だけは立派なんだけどねー。」
「言葉を慎みなさい!まだ詠唱中ですよ!」
突如として、城の周囲に雷雲が現れた。大広間には激しい雷鳴が轟いている。
「私たち、感電したりしないわよね?」
「さあ・・・」
雷雲は完全に城を包み、周囲のあちらこちらに雷が落ちる。そしてその一つが、開け放たれた窓を通って、大広間の大鍋に落ち、爆音が大広間に木霊する。
「きゃっ!」
「うわ!」
呆気に取られているゴブリンとエキドナとは対照的に、ティアマトの表情は硬いまま変わらない。
やがて雷は収まり、大広間は当初と同じ静けさに包まれる。大鍋の中は相変わらず煮立っている。
「・・・何、これでおしまい?どうなったのよ?」
「・・・・・・ちょっと待て。こんなはずでは・・・」
「どうなさいましたか?」
3人して、煮立った大鍋を覗きこむ。そこには先ほどと同じ不気味な液体がぐつぐつ煮立っているだけで、何も変わっていない。
「失敗みたいね、何が確証よ。」
「ひょっとしたら、足りないものがあったのかもしれないな。」
「今から取ってきましょうか?」
「私の獣、1匹くらい使う?」
「・・・いや、それには及ばない。」
ティアマトがゆっくりと振り返る。その目は殺気で満ちていた。そしてその目がゴブリンと合う。
「何でしょうか?」
「・・・ティアマト、あなた何する気?」
ティアマトは無言でゴブリンに歩み寄る。この期に及んでゴブリンは、微動だにせず、何を言われるか待っているようだった。
「・・・・・・すまないな、ゴブリン。悪く思わないでほしい。」
「・・・?」
ゴブリンにはその真意が分からないようだった。無防備なゴブリンの胸元に突き出されたティアマトの右手が、鈍い音とともにゴブリンの胸の中に埋まっていく。
「うがっ!?」
やっとのことで状況を理解したゴブリンだが、胸に突っ込まれたティアマトの手を掴むので精一杯だった。傍観しているエキドナは息を呑む。
ズブッという音を立て、ティアマトの手がゴブリンの胸から抜かれる。その手は鮮血に染まり、手のひらには心臓が握られていた。大量の血を流しながら、ゴブリンがその場に倒れこんだ。
「あなた、何てむごいことを・・・!!」
「これも私の大義名分だ!」
半ばヤケクソになりながら、ゴブリンの心臓を大鍋の中に放り込む。すると、大鍋の中の液体は真っ赤に染まり、一層激しく沸騰し始める。
先ほどの呪文の効果が残っているのか、瞬く間に城の周囲は再び雷雲に包まれ、大鍋に落雷する。すると、先ほどとは違い、澱んだ霧状の気体がドライアイスのように溢れてきた。
「・・・これだ。これが・・・・・・私が長年待ちわびていたもの・・・・・・!!」
「うわ、見るからに危なっかしいわね。」
大鍋の中を覗き込み、無限に沸き立つ不気味な霧をティアマトが見ているときだった。大鍋が一気に傾き、中に入っていた液体がティアマトめがけて流れ込む。
「うあああああぁぁぁぁぁっ!!」
一見、ティアマトは流れに飲まれたようだったが、目を凝らすと、体が下半身から溶けていっているのが分かった。それに気付いたエキドナは、素早くその場から離れる。
「嫌だ・・・・・・ここまでの苦労が全て・・・水の泡となってしまうのは・・・・・・!」
大鍋の方を見て、ようやく真実に気がついた。大鍋を沸かすための薪が下に敷かれているのだが、その数本がゴブリンによって引き抜かれていたのだ。要はバランスを崩した大鍋が倒れたのだ。
「一生涯・・・仕えるって言ったじゃないですか・・・・・・道連れにして・・・地獄でも仕えてあげますよ・・・・・・」
「き・・・貴様ァ!!」
「あぁ・・・・・・あっ・・・」
気持ち悪さと恐怖心から、エキドナは発狂しそうになるのを押さえつつ、素早くその城の牢獄に向かい、閉じ込められている猛獣を解き放った。
「ティアマトとの計画は、半ば失敗したようなものだわ・・・せめてこれくらいは!!」
おびただしい数の猛獣を解き放ち、エキドナは無我夢中で城から離れた。
日曜日になると、意外とたくさんの観光客が社不知村に訪れる。リピーターのみならず、新規の顧客も多く、神秘的なスポットも多いことから、経済的には潤っているはずだ。
「この道をあちらに行って、すぐのところにありますよ!」
この日もいつもとほとんど変わらない。神社などに行く観光客の道案内だ。バス停の傍に駐在所があるので、困ったことがあればすぐにここに駆け込める。
「さてと・・・そろそろ昼飯時かな。」
仕事を切り上げようとしたとき、神社へ向かう道の入り口にあるバス停に止まったバスから、賑やかな声が聞こえてきた。
若い男性三人衆。年齢的には俺と同年代か少し下。先陣を切って進むのは、紫色の髪の毛を女性の如く長く生やした男性。その横に立つショートヘアの男性は大柄だが、なぜか眼帯をしている。2人の後ろに立つ金髪の男性はメガネをしている。ケラケラと笑いながら歩いていて、仲良さそうだ。
3人は駐在所を見つけると、真っ直ぐ俺の許に近寄ってきた。
「どうしましたか?」
俺の方から気さくな雰囲気を出しつつ話しかける。すると先陣を切ってきた髪の長い男性が、地図のある一点を指差してきた。
「ここに行きたいですけど、道が分からなくて・・・」
「ん?ここですか?」
近くに神社などの観光名所が多数あるのに、この髪の長い男性は、海沿いの何も無いところを指差してきた。一応村の地理は理解しているつもりだが、この地図には小道とかは載っていないようだ。それでは教えようがない。
「ちょっと待っててくださいね!」
俺は一旦駐在所の中に入り、観光客用に用意した道路地図を引っ張り出し、先ほど指差された場所の近辺を探る。道は一応あるが、やはりここに特徴的な建造物などがあるという記号はない。そこへの道順をマーキングしている最中、外から三人衆の会話が聞こえた。
「やっぱりここじゃないんじゃないの?」
髪の長い男性の声だ。若者らしい、ハキハキとした声だ。
「いや、ちゃんと下調べしたんだから、間違いないだろ。」
今度はドスの効いた声。おそらく、あの眼帯をした大柄の男性だろう。
「これで違う場所だったら、とんでもない額の旅費をドブに捨てたも同然だよね!」
金髪でメガネをした男性の声は、他の2人と違ってハスキーボイスだ。
3人とも、ここは初めてなのだろう。色々と調べてきたのだろうが、一体何があるのだろうか?地図にも載っていない観光スポットなんて、果たしてあるのだろうか?そんな疑問を抱きつつ、地図を完成させて、3人のところに持っていく。
「お待たせしました。これが・・・そこへの地図です。今ここ、神社前にいて、あちらに行って突き当たりを・・・」
といった感じに指でなぞって、指定された場所の辺りへの道順を教えてあげた。
「よろしければ、この地図、差し上げます。参考にしてください。」
「ありがとうございます!失礼しまーす!」
3人は笑顔で手を振りながら去っていった。やっぱり遣り甲斐あるな、この仕事。
・・・あ、いけねっ。昼食に行く時間を忘れていた!大急ぎで喫茶店に向かったが、既に雅治の姿はなかった。
「あちゃー・・・」
「いらっしゃいま・・・あ、魎さん、雅治さんが探していましたよ?」
店員の汀ちゃんに声をかけられる。
「ああ、すまないね、仕事で忙しくて。」
「適度に休んでくださいね。ご注文がお決まりになりましたらお呼びください!」
「うん。」
この間に雅治に何か良からぬことが起こっているのではないか・・・と心配になるほど、出された昼食もまともに喉を通らなかった。何とか昼食を平らげ、勘定を素早く済ませて、診療所に急行した。
山奥の静かな村。長閑なその雰囲気に合わないような、八重垣の御殿がある。山々に囲まれ、近くに川が流れ、麓まで見下ろせるその地は、見るものの心を晴れやかにさせてくれる。
この地に、二人の姿があった。洗濯物を干す少女に家主が声をかける。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。あと少しですし、一人でやれます。」
「そうか。」
「お気遣い、ありがとうございます。」
「いやいや、俺こそ、余計なお世話だったかな。」
仲睦まじい夫婦――スサノオとクシナダヒメは、お互いの顔を見合って笑う。
その刹那、ポツポツと雨が降り出す。雨脚は見る見るうちに強まり、傍を流れる川は荒れ、雷鳴も聞こえてくる。
「ヤバい、早くしまわないと!」
二人は慌てて、干していた洗濯物をしまって家に駆け込む。
「こんなに荒れるなんて、珍しいものですね。」
「驚いたよ。こんなことって今までなかったよな。」
突然の豪雨に驚嘆しつつ、ほっと一息ついていたときだった。
それは突然だった。衝撃と轟音が辺りに木霊する。
「な、何事ですか!?」
「嫌な予感がするな・・・ちょっと見てくる。お前はここで待ってろ。」
スサノオは剣を携え、建物の外に出る。音がした方に向かう途中、再び衝撃と轟音が辺りに木霊する。先ほどよりも近くから、大きな地響きが伝わってきた。
やがて、幾重も設けられた垣根の一つが崩れたとき、その向こうにいた怪物が姿を現した。
「何だ、あれ・・・この間滅多打ちにしたヤツか!?」
巨体からいくつも生えた頭を揺らしながら、その大蛇はまた一つ、これで3つ目の垣根を破壊した。
・・・いや、あいつは頭の数が7つ、8つあったこの間のより1つ足りない。ということは、この怪物は一体何なんだ?
考えていたらキリがない。何重も設けた垣根を利用し、怪物の視界に入らないようにしつつ、怪物の後ろに回る。
「うおおおおおおーーーーーーっ!!」
雄叫びとともに一気に間合いを詰め、背後から斬りかかる。しかし、ズバッという音とともに飛び散ったのは、真っ赤な鮮血ではなかった。
「うわ?!」
不気味な色をしたその液体を、寸でのところで避ける。その液体が雑草や昆虫にかかると、それらは忽ち死滅した。
「まずいな・・・」
迂闊に斬りかかると、毒のような血液がかかるっていうわけか。
しかも、今の一撃で怪物に気付かれたようだ。ぬうっと7つの頭がこちらを向く。
「おい、化け物!俺が相手だ、こっちに来い!」
せめて御殿の方へ向かわないように、垣根の外へ誘導する。怪物は巨体を翻してこちらに向かってノッシノッシと歩いてくるが、その度に地響きがする。前みたいに酒に酔わせているわけではないので、正攻法で太刀打ちできるのかは分からない。でも、ここで引くわけにはいかない。
「たあっ!」
まずはその首を切り落とそうと考えた。しかし振り下ろした剣は空を切った。怪物はスサノオが切ろうとしていた首を引っ込め、代わりに横から別の頭を突き出し、噛み付こうとした。
「早い!?」
素早くそれをかわした。その時に、ばっくりと開けられた怪物の大口を見てぞっとした。鋭く尖った歯がびっしりと生えていて、噛まれたらタダでは済まなそうだった。
「くそっ!」
何度か剣を振り下ろしたが、全てかわされ、別の頭に噛みつかれそうになる。しかし、スサノオもそのスピードについていけるようになってきた。
「・・・ヘヘッ、見切ったぜ。でりゃあっ!」
奥に首を引っ込めようとしていたところに刃先が振り下ろされる。背骨に刃先がめり込み、一瞬スサノオは勝ちを確信した。が、バキッという音を立てて、剣の刃先が折れてしまった。
「嘘だろ!?」
対する怪物も、思いもよらぬ攻撃をしてきた。先ほど刃先を振り下ろした、引っ込みかけの首を、再び突き出してきたのだ。スサノオはそれもかわすが、バランスを崩して倒れてしまう。
「くっ・・・」
丸腰になったスサノオが立ち上がると、対峙していた大蛇が目と鼻の先で立ち塞がっていた。
ここまでか、とスサノオは観念した。心の中で、愛するクシナダヒメに話しかける。守ってやれずに申し訳ない、としきりに謝っていた。
目の前の怪物の頭が、7つ一気に迫ってきた、その時!
ドンッ!
「なっ!?」
スサノオは体がふわっと羽のように軽くなったのを感じた。気付けば自分は宙に浮いていて、目の前に大蛇はいない。まさか・・・・・・
さっきまで自分が立っていたところを見ると、愛する人――クシナダヒメが両手を突き出して立っていた。無防備な彼女目掛けて、7つの頭が向かっていく。
やめろ!と心の中で叫んだ。しかし体はそれに反するように、どんどんクシナダヒメから遠ざかっていく。そして大蛇の首はどんどん彼女に近づいていく。
「クシナダッ!」
そう叫ぶのがやっとだった。次の瞬間、スサノオは大雨で増水した川に落ちていた。
なんという激流だ、泳げないわけではないが、身動きが取れないくらい流れが速い。もたもたしている場合ではないと分かっていながら、体は水中に留まったままだ。
やがて息が苦しくなってきた。クシナダヒメを助けに向かえず、自分はこのまま溺れ死ぬ。最後まで無力で、未練ばかりが残る人生だった、この苦しみがいつまで続くのか、終わったら楽になれるのか、と自問自答しては、自分を責め続けていた・・・
「はぁ~、涼しー。」
外は梅雨前のかんかん照り。公民館の冷房が心地いいと思える時期になってきたのか。
喫茶店で昼食を済ませて診療所に戻ってきたのだが、その間に魎に会わなかった。今日は日曜日。観光客も多いし、忙しいのだろう。以前も日曜日などはたまに出会えないときがあったから、別に不思議と思ってはいなかった。
逆に、言い方が悪いかもしれないが、魎がいないことを喜んだ。僕は処置室から再びメッツェンとメスを取り出し、それをポケットに忍ばせて、地下1階に通じる階段の施錠されたドアの前に立つ。この前と同じ要領で鍵穴にメッツェンを突っ込んで解錠し、蝶番がキィッという音を立てるのを聞きながら、入り口脇にあるスイッチを入れて照明をつける。無機質な、雑居ビルのような階段を下り、例のドアの前に辿り着いた。
テンキーが埋め込まれた電磁ロック式のドア。前回とは違い、解錠されていないし、押してもドアは開かない。開けるにはドアロックを解除するしかないようだ。
メッツェンやメスが入っているのとは違うポケットを探る。その中にある物が手に触れた。引っ張り出すと、小さな紙切れ。紙面には数字が書いてある。
「変更前 1341、変更後 1373」
大森さんがここの暗証番号を変えたかどうかは不明だが、少なくともこれはヒントになりうる。ヒントと言うか、もはや正解に近いが。
「えーっと、1、3、4、1、と。」
十六夜と書いて、いざよい(1341)も読めるな。なるほど、語呂合わせということか?でもなぜ十六夜なのだろうか。
そんなことを考えながら数字を打ち込み、インサートボタンを押すと、ライトが赤色に光り、打ち込んだ数字がリセットされた。結果は分かっちゃいるが、試しにドアを押してみる。びくともしない。
「じゃあ次だ。1、3、7、3。」
こっちはイザナミ(1373)と読める。やはり語呂合わせだった。
インサートボタンを押すと、今度はライトが青色に光り、ガチャッという音が聞こえた。やった、解錠成功だ!
周りに誰もいないことを確認し、ドアを開ける。中には真っ白い壁と床が蛍光灯に照らされた空間が広がっていた。
何歩か足を踏み入れると、僕の立てる足音以外に、あの呼吸音と機械音が聞こえてきた。
・・・すぅ・・・・・・すぅ・・・・・・
・・・ピッ・・・ピッ・・・
ウォーーーン・・・
音が聞こえてくる方へゆっくりとその足を進める。やがて、前回も立ち止まった部屋の前に来る。もう一度、周囲に誰もいないことを確認し、鍵穴にメッツェンを突っ込み、解錠を始める。ここの鍵穴の構造も単純で、しばらくしたらカチャッという音とともに解錠できた。
僕はドアノブに手を掛けて、周囲を見渡し、覗き穴から中を見て、部屋が合っていることを確認した上で、意を決してドアを開けた。
ドアを開けた瞬間、僕の思考は凍りついた。入り口に・・・不気味なものが立ち塞がっていたからである。
「ぅ・・・・・・うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
なぜそこにあるのか分からないが、入り口に人型の骸骨が立てかけられていたのだ。僕がドアを開けた拍子でそれが一気に崩れ去る。崩れた骨の一部が僕の足の方に転がってくる。慌てて後ずさりするが、転がってきた骨に足を取られて尻餅をついてしまう。
「ああ・・・あぁ・・・・・・」
慌てて立ち上がろうとする僕の耳に、階段を誰かが駆け下りてくる慌しい音が聞こえてきた。僕は素早くメスの入ったポケットに手を突っ込み、音の主が姿を現すのを待った。
「雅治?そこにいるのか!?」
あれ、声の主は魎だった。僕はポケットから手を出す。姿を現した魎は僕の許へ真っ直ぐ駆けてくる。
「どうしたんだよ、悲鳴が聞こえたぞ?」
「ああ、開けたら中から出てきたんだよ。」
そう言って、崩れて山になった人骨を指差す。
「・・・白骨化した死体!?神村村長、これを隠すために隔離病棟なんか使ったのかよ?!」
「いや、死体かどうかは調べてみないと」
まだ話し終わっていないとき、どこからともなく、今度は不気味な音が聞こえてきた。
ベリベリベリベリッ!!
「何だ?」
「あっちから聞こえてきたな。」
魎は何の躊躇もなく音のした方へ走っていった。
「おい、魎!」
僕は部屋の中の様子も気になるが、不気味な音も気になったので、通路の奥の方へ走っていった魎を追いかける。
「どうしたんだよ?」
「おい、これ・・・」
魎は突き当たりを曲がったところで立ちすくんでいた。視線の先には・・・壁に出来たサッカーボール大の穴。そこから不気味な紫色の霧が出てきていた。床には押さえになっていたと思われる蓋のような板が落ちていた。
やがて紫色の霧は目の前で溜まり、大きく上へ伸びて、人の形を形成していった。いや、頭部だけ人とは違って歪だ。兜でも被ってるのかな?
紫色の霧は、人型の足元から徐々に・・・固形になっていったといえば分かるだろうか。人型の霧が実体化して、霧のような透き通るものではなく、そこに存在する肉体と化していっているのだ。
下半身が出来上がってきた。鎧を纏っていて、太い足。腹部から胸部にかけてもがっしりした体つき。そして首から上は・・・え?
「牛頭?こいつ・・・ミノタウロスじゃねーのか!?」
魎が言ったとおり、ファンタジーものによく出てくるミノタウロスそのものだ。遅れて出来上がった手には、約束どおり大斧が握られている。
「何でこんな厳つい牛頭がここにいるのさ?」
「それは僕が知りたいよ!」
頭頂部まで実体化したミノタウロスは、やがて命ある物となり、ゆっくりと僕らに向かって歩き始めた。僕と魎はゆっくりと後ずさりする。
直後、ミノタウロスは何を思ったのか、ズンッと間合いを一気に詰め、大斧を振りかぶってきた。
「危ない、避けろ!」
僕と魎は素早くしゃがんでその大斧を避ける。ゴンッという鈍い音を立てて、大斧が壁にめり込む。ミノタウロスはそれを抜こうと必死だった。
「抜けないくらい振りぬく腕力なのかよ・・・」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!?」
呆然としている僕を尻目に、素早く立ち上がった魎は、大斧を抜こうと必死のミノタウロスのフリーになっている胸元に飛び込み、体当たりを食らわせる。その巨体がよろけ、大斧から手を離す。
「よし、こっからどうする?」
「どうするもこうするも、逃げないと!やられちゃうよ!」
「逃げるって、この化け物を連れてか?村で大暴れされたらどうするんだよ!?」
「あ、そうだ、メスがあるんだった!」
僕が思い出したようにポケットを弄る間に、ミノタウロスは体勢を整え、背中から何かを取り出した。
「あれは・・・・・・ロンギヌスの槍?!」
ファンタジーものはあまり見ないので疎いが、大斧以外に槍まで武器として持っていたようだ。これだと相手は必死に突いてくるから、壁に突き刺さるのを期待できない。
「雅治、早くしろ!」
「急かすなって!」
僕は焦りと手汗でメスをうまく握れない。
「よし、これで」
「危ない!」
やっとのことでメスをしっかり握って取り出したときだった。後ずさりした魎とぶつかり、メスが後方に転がっていく。
「うがっ!?」
ブスッという嫌な音がした。魎の方を見ると、前かがみになって、両手で腹部を押さえている。
「魎、どうし」
ポタリ、ポタリと鮮血が魎の胸元から垂れていくのが見えた。
「雅治、早く・・・逃げろっ!」
「・・・嫌だ!お前を置いていくわけには」
「ぐぅっ!!」
ギリギリッという別の嫌な音も聞こえてくる。その直後、ズブッという音と同時に、槍の先が魎の背中側まで突き抜けてくるのを見てしまった。
「早く・・・」
「・・・・・・分かった。すまない!」
僕は魎に背を向けて走り出す。許してくれ、と何度も暗唱しながら。
その途中、開けっ放しの部屋の前に通りかかった。ミノタウロス相手だとしても、多勢に無勢だ、こいつをちょっと起こしてみるか。助っ人になってくれることを願う。
部屋の一番奥にあるベッドに寝ていたのは、一人の成人男性だった。分厚いファイルに書いてあった「須佐木」という人物だろう。
驚いたのはその体つきだ。管やら電極やらが体と機械につなげられているが、悠馬のような長い髪の毛と、海斗のような筋肉質でごつい体。見た目は至って健康体だが、死んだように眠っている。どうやって起こそう?
「おい、起きろ!」
こんなこと、患者に対してしていいことでは決してないのだが、両肩をがっちり握って揺さぶる。もちろん反応はない。
何か刺激的なことをしてみようかと思い、シャープペンで皮膚を突いたり、耳たぶを引っ張ってみたり。しかしどれも反応がない。
何か他にないか・・・
ふと、真横に置かれているモニターが目に留まった。血圧や心拍数、脳波といった各種数値が映し出されている。
脳波のところの波形が微妙に変化してきていることに気付いた。決して無反応というわけではなかったのだ!
心電図にもヒントを得た。心臓が普通に動いている人間に対して、できればやりたくはないが、除細動用の電極を引っ張り出し、充電してそれを分厚い胸板に当て、ボタンを押す。電気が流れて体が一瞬びくっと痙攣した。脳波のモニターを見ると、一気に振れてきている・・・来たか?
その直後、ガタガタという音とともに、部屋中が揺れ始めた。
「え、地震!?」
次の瞬間、揺れは一気に大きくなり、僕はその場に倒れこむ。揺れに耐えようとベッドの手すりにつかまるが、真横にあったモニターが僕のほうに向かって倒れてくる。
「うわぁ!」
モニターが僕の頭部を直撃し、僕は脳震盪のようになって意識が飛ぶ。ああ、頭ぶつけるの、これで何回目だろ・・・
――槍が腹部を貫通したままの魎は、その状態でミノタウロスとずっと対峙していた。
地震にはすぐに気がついた。俺もミノタウロスも揺れるので、当然突き刺さっている槍も揺れる。体中をほじくられる感覚はたまったものではない。俺は勇気を出して、体をずらして両手に力を込める。
「はあああああぁぁぁぁぁっ!!」
腹部に走る激痛。突き抜けていた槍がボキッと折れた瞬間、それは頂点に達した。
「うああぁ・・・」
俺はあまりの痛さに倒れこむ。傷口から溢れ出した血が池を作り始める。ミノタウロスも、折れた槍を捨て、壁に突き刺さった大斧を抜くと、俺の方を向く。命運尽きたか・・・
――誰かがずっと囁き続ける。それは・・・聞き覚えのない声だった。
「おい、大丈夫でござるか?」
意識朦朧としていたが、誰かに引きずられる感覚はあった。目を開けると、モニターに下敷きにされた僕が引きずり出されているところだった。
・・・・・・誰によって?目の前のベッドに人影はない。振り返ると、さっきの髪の毛が長く筋肉質の男性だった。
「ああ、ありがとう・・・」
「これはたいそう異なことなり。拙者は今どこにいるのでござるか?」
頭はまだ痛いが、完全に機能不全を起こしているわけではない。この「須佐木」と思われる男性の語り口が古臭いってことは分かる。そしてここがどこかも分からない。
この武士っぽい言葉・・・神社で話しかけてきたのは彼なのか?!気になって仕方がなかった僕は、そのことを聞いてみる。
「遠くから話しかけてきたのは君だったの?」
「ん?何のことでござるか?」
「じゃあ、もっと初歩の初歩から聞いてみよう。そなたのお名前は?」
ありゃ、僕まで武士っぽい言葉使いそうになってきた。
「名前・・・拙者の、名前は・・・・・・」
思い出せないようで、視線を逸らしてしまった。だから僕があの名前をぶつけてみる。
「・・・須佐木、って言うんだよね?」
「スザキ?・・・・・・うっ!」
思い出したのか、頭を押さえてフラフラし始めた。
「大丈夫?無理するなよ?」
「あ、ああ、拙者なら大丈夫でござる、かたじけない。」
僕はこのときになって、それどころではないことを思い出す。
「ああ、そうだ。今ピンチなんだけど、手伝ってくれない?」
「ぴんち?」
「えーっと、武士らしい言葉が見つからないな・・・僕と仲のいいヤツが討たれそうなんだ。助太刀、お願いできないかな?」
「・・・・・・別に構わないでござる。」
「え?それは助かる!かたじけない!」
僕は予想外の発言に驚いた。
「武器はどこでござるか?」
「え、武器?」
「ああ、刀を見てないでござるか?なければ金物であれば何でも構わないでござるよ。」
「えー、そんな物騒なものはとても・・・あ!」
僕はさっきメスを落としたことを思い出した。魎のすぐ近くに落ちているはずだ。
「向こうに落ちてるから、それ使って!」
「承知した。」
おお、勇敢にもこの男、僕より先に部屋を出ていった。歩き方から見るに、完全に回復したと見ていいな。
「あれでござるか?また随分と小さき刀でござるな。」
「確かに、殺すためのものじゃないからねー。とにかく怪物はあっちだ、早く!」
「あれでござるな。」
ミノタウロスは大斧をいつの間にか手にして、魎目掛けて振り下ろそうとしていた。
「ふんっ!」
この男・・・須佐木は、ミノタウロスに近づくようなことはせず、手にしたメスを投げナイフの代わりにして投げた。野球選手の投げるストレートのように速く投げられたメスはミノタウロスの喉を貫いた。
「凄い・・・」
一瞬にして素早くメスを投げ、しかも喉に命中させる集中力は凄いし、何しろ須佐木から感じられるオーラというか、殺気というかに、僕は気圧されそうだ。
ミノタウロスが派手にぶっ倒れたのを確認し、僕は魎の許に駆け寄る。
「魎、しっかりしろ!今すぐ助けてやるから!」
「うわあっ!」
派手な音とともに、ハーピーが森の中に墜落する。
「大丈夫ですか?」
つむじ風とともにシルフィードが現れる。
「シルフィード・・・あなたも早く逃げて!」
「一体何が起こっているというのですか?」
「分からない・・・いきなり、竜みたいなのに襲われて・・・・・・」
「竜みたいなもの?」
「気持ち悪くて直視できなかったわ。頭が無数に生えてるの。」
「それって、ひょっとしたらラードーンじゃないでしょうか?」
「細かいことは分からないけど、まだ近くにいるはずだから、早く逃げないと!」
「・・・・・・」
この身に危険が及ぶことは分かっていても、傷ついたハーピーを放置していいのか、苦悩しているときだった。
「・・・ん、風向きが変わりましたね。何ででしょう?」
「え?」
さっきまで、シルフィードから見て右側から吹いていた優しいそよ風が、左から強めの風に変わる。
嫌な予感は的中した。左に目をやると、真っ赤なものが熱波とともに迫ってくる。
「あれは・・・・・・火!?」
「・・・ふんっ!」
シルフィードはハーピーの前に立ち、両手を突き出すと、シルフィードの背後から突風が吹いてきて、炎の塊を打ち消した。
「凄い・・・」
「これくらい序の口ですよ。それより、この炎は一体どこから?」
「・・・シルフィード、上!」
「上?」
見上げると、森林の上の方にラードーンがいた。急降下しながらラードーンは再び炎の塊を次々と吐き出してくる。シルフィードは再び両手を突き出して風を呼び集め、炎の塊を打ち消した。
「これじゃあキリがありませんね!」
打ち消している間に間合いはどんどん詰まっていく。そして至近距離から放たれた炎の塊を防ぎきれず、シルフィードは数メートル吹き飛ばされる。
「うっ!」
ドシンという音とともに、ラードーンはハーピーの近くに着地する。
「そんな・・・」
「シルフィード、私はもういいから、早く逃げて!」
「でも・・・」
「命運はもう尽きたわ・・・その誠意だけでも十分だから、あなただけはせめて生き延びて!」
「・・・・・・分かりました、ごめんなさい、ハーピー!」
ラードーンがハーピーに食らいつこうとした瞬間、シルフィードはつむじ風に包まれ、姿を消した。森林の中には、ラードーンが獲物を咀嚼する音と、吹き荒れるつむじ風の音が木霊していた。