想〜初夏・高三の頃〜
かつて高校生だった人へ
そして,これから高校生になる人へ
そして「想」い悩んでいる今を過ごす人たちへ
「こんな場所があるなんて知らなかったね」
僕の耳に彼女の楽しげな声が風に乗って届く。森林公園の木々たちを通り抜けてきた風は噎せ返るほどの緑の香りを含み、息苦しさで胸が詰まりそうだ。冬の寒さから夏の暑さへと人々を羽化させるこの時期、五月も終わろうという頃の風は昼間の暑さが僅かに残り、湿気を含んだ風だった。その風は半袖のTシャツにカッターを羽織るだけというラフな格好で歩く僕に甘えるように絡みつき、そしてくすぐったさに僕は体を僅かに捻らせた。
この気恥ずかしさも、足の動き一つさえ気になるのも、動悸が早いのも、遠く薄暗い蛍光灯の明かりに浮かび上がっているかもしれない上気した頬の感覚も全て、風のせいにしてしまいたいと僕は思った。
先を歩く彼女もどこか普段と違い、妙に元気にはしゃいでいた。足早に、もしかしたら今にも走り出すんじゃないかと思うくらいに軽やかな足取り、タイトなジーンズからもはっきりとわかる細く魅惑的な足が動き、スニーカーがひび割れたアスファルトを軽快に蹴る。淡く銀色に光る月明かりをスポットライトに、両手を大きく広げて先を歩く彼女はまるで今夜の特別ステージのダンサーだ。月明かりを吸収して輝く宝石のように眩しい輝きを見せる瞳は真っ直ぐに前を向き、くっきりとした鼻から唇、顎の繊細なラインが彼女の美しさを際立たせている。
いつも行く市立図書館、丘陵緑地公園に隣接するモダンな建物に通うようになったのは中学三年のことだから、丁度三年前になる。高校受験を前に、毎日のように両親(主に母親から)投げ掛けられる「勉強してるの?」という質問に嫌気がさし、僕は土日でも逃げ込める図書館を亡命先に選んだ。家からバスで二〇分、市民会館や多目的ホールが集められた丘陵緑地公園は街の文化の中心で、ゆったりとした雰囲気が流れる落ち着いた場所だった。
自分で言うのもなんだけど、学校の成績もほどほどに良く、ほどほどに真面目な性格から思春期特有の反抗に走らず、不良にもならなかった僕は世間的に見て一般的優良男子中学生だったんだろう。だから、月曜と金曜に塾に行く以外は図書館が閉館する午後八時まで図書館に居座り、軽く一時間ほど勉強した後は、適当に読書をして過ごすという毎日を送っていた。
結果、僕は県内のそこそこ優良な高校に進学を決めることが出来たし、今目の前を歩く一人の少女と出会うことも出来たわけだ。
彼女と初めて会ったのは、三年前の閉館ぎりぎりの八時前、場所は図書館のロビーだった。いや、出会ったというのはおかしいかもしれない。僕らは同じ中学に通う同級生で、クラスも同じになったことがあったからだ。でも、僕は彼女と喋ったことは無かったし、向こうも同じだったはずだ。女子たちが事あるごとにダサいと文句をいう野暮ったいセーラー服に、度の強い眼鏡、無愛想な顔は根暗で、けして自分からアピールするようなタイプではなかった。
その時はただ、同じ制服を着た子がいると言う程度で、彼女が落とした本を拾っただけだ。会話という会話も無い。
「落としましたよ」
「あ、すみません」
こんなもんだ。でも、それから毎日のように図書館で会うようになり、そのうち自然と話すようになった。きっかけなんて無い。同じ受験生同士の苦しみと不安が、そして同じように家のわずらわしさから逃げ出してきた僕らの間には暗黙の了解があったのかも知れない。無愛想な彼女もテストの結果には一喜一憂したし、同じように先生の不満は持っていたし、本を読んでいて面白いシーンがあれば自然と表情をほころばせているのを、僕は遠くから眺めて気付いていた。
図書館で話す僕らも、学校では他人同士だった。いや、学校ではと言うのはおかしいかもしれない。多分道ですれ違っても僕らは声をかけないだろう。図書館だけが僕と彼女の接点なのだから。
そうしているうちに中学最後の夏はやはり家と図書館と塾だけで通り過ぎ、風が徐々に秋の気配を濃くする中を受験へと加速され、服が夏服から冬服へと変わり、公園の木々が紅葉の準備に入っていった。
僕と彼女は図書館の売店で缶コーヒーを買い、ガラス張りの温室のようなサロンで銀杏の黄色い木々を眺めながら勉強の捗り具合を確かめる程度だった。
丁度その頃、僕は親に言われて携帯を持つようになった。その携帯のアドレスに彼女の番号が登録されるには、まだ随分と時間が必要となったのを覚えている。要するに、僕らは確かに知り合いになったが、二人ともお互いにプライベートな距離を明確にし、そこには近づかないという暗黙の了解が確かにそこにあったのだ。僕も彼女も、他の誰もが人との距離に敏感になり、触れるのを恐れていて、臆病になっている、そんな年頃だったんだろうと思う。
お互いの学力は同じ程度で、同じような志望校を選んでいたため、結局二人とも同じ高校に受かり、進学した。
合格発表の日、僕は友達と一緒に番号を目で追った。僕は合格に喜びの声を上げた。彼女は一人で受験番号を確認し、唇を綻ばせていた。僕らは目があったが、お互いに歩み寄って喜びを共有することは無かった。ただ、彼女は恥ずかしそうに綻んだままの顔を俯かせ、僕はそんな彼女の仕草が逆にこそばゆくて、フイッと顔を背けることが限界だった。
その後、高校に入学した僕らは極々平均的に高校生活を謳歌し、マスコミやドラマが誇張する華やかな恋愛も無ければ学園ドラマも無いままに日々勉強と遊びに興じ、遠足にも行ったし運動会や文化祭もやったし去年の秋には修学旅行にも行ってきた。
高校に入ってから今日までの三年間を思い出しても特別な思い出は僕らには無かった。ただ、中学の頃からの生活習慣が引き継がれ、毎日八時まで図書館にいるのが日課となっている程度だ。
僕は自分では中学の頃から変わっていないと思っている。流れるように毎日を過ごし、学校では友達とたわいも無い会話で笑い合い、図書館で勉強を少し行い、家に帰って家族とテレビを見ながら食事をする程度だ。華やかな衣装を纏い、ピアスを空け、頭の悪そうなくだけた話し方をして繁華街を歩き回り人に迷惑をかける今時の若者という極一部の思い違いをした不良になることも無く、外界に興味を失って部屋の中に閉じこもるようなことも無い、平凡だけがとりえの様な人間だ。
そして彼女は……。
目の前を歩く少女を表現することは僕には難しいことだと思った。高校に入ってからの彼女は明るくなった。それは友達に恵まれたと言うこともあるだろうし、いろいろとあったのかもしれないが、僕が知っているのは彼女の全てではない。極めて限られた、図書館の中だけの彼女なのだ。
彼女は眼鏡からコンタクトに変えた。その理由は友達に勧められたからだと言うが、はっきりと正面を見るようになったのは良いことだと思う。
少女は歳相応に興味の対象も移っていき、ファッション誌を読むようになり、派手さは無いが十分魅力的な私服に変わり、薄く化粧をするようになった。学校では結局三年間親しく話すことは無かったが、図書館では一緒にいることが当たり前になっていた。
机に座って本を読む。自習室で参考書を捲る。レストハウスで息抜きにティータイムに興じる……初めて会ってから三年、今ではお互いすっかり意気投合してしまった。
こういう関係を、世間ではどういうのだろう? 僕は彼女と図書館以外の場所に出かけたことも無い。彼女の手を握ったことも無ければ、彼女の気持ちを聞いたことも無い。肩を寄せ合ったことも無い。僕らはこの図書館という独特の限られた空間の中で、ただ隣にいるだけの間柄でしかないのだ。
何も知らない人が見たら、いやもし学校の知人が僕らを見たら、付き合っていると噂されたかもしれない。しかし、青春を謳歌することに忙しい級友が図書館に興味を持つことは無かったし、僕らはお互いをそこまで意識することも無かった。毎日のように会っていながら、それでも友達でしかなく、よく会って話す程度という認識から抜け出せていなかったんだと思う。
ただ、僕らはお互い意識したわけでもなく、自然と今の関係に落ち着いていたし、今がベストなんだと自分に言い聞かせるしかなかった。僕だって、平穏な日々を送っている中で歳相応に恋愛に興味もあったし、そういう話を聞くことが多かった。彼女のことを意識したことも何度もあるが、だからといって何のアクションも起こさなかったのだ。僕らは友達で、そしてたぶん恋人というより親友に近かったんだと思う。僕らは非常に似通っていて、もし人間の内面にリズムがあったら同じ音楽を奏でていただろうし、魂に色があったら僕らは同じ色に違いなかった。僕らは鏡を映した存在で、彼女はもう一人の自分のようで、僕らは同志だった。
箱庭のように隔離された庭園を歩いていく。そこは丘陵公園の一角だったが、広大な公園とは図書館や市民会館を挟んで対岸に位置していた。施設の利用者の休憩のためにと、限られたスペースを有効利用して作られただろうその洋風庭園は三年間図書館に通っていた僕らでも知らないほどだから、よほど人の来ない辺鄙な場所だったに違いない。そもそも唯一といっていい図書館裏の通路は建物の影になって見えないし、通路の先も樹が邪魔をして何があるのか想像することは不可能だった。施設の案内板には地図が記載されていたはずだが、長い年月にペンキが剥げ、錆の浮いたその案内板は完全に読めなくなっていた。
その小さな庭園は、来場者がいない割にはそこそこ手入れが行き届いていた。「そこそこ」と表現した理由は単に五月末という植物が生長する時期のために、草が生え、四角く刈り込まれていた庭木も枝を伸ばしていたからだ。石畳の隙間から健気に葉を伸ばす雑草が暗い闇の中でズボンにすれるのが感覚でわかる。
庭園の中央の小さな噴水は水を止められて久しく、すっかり乾いたコンクリートには砂と葉っぱがたまっていた。ぽつぽつと立つ明治時代のガス灯を模したような外灯も蛍光灯の白々しい明かりを最低限与えるだけで、緑を鮮やかに浮かび上がらせるだけだ。広場の中心に立つ時計の簡素なアナログの表示板は学校の時計のようで、針は誰も訪れない庭園の中で刻々と己が役目に従い、八時十七分を指していた。
振り返ると、木々の向こうに図書館の明かりが見えている。閉館時間は過ぎたが職員の人たちがまだ仕事をしているのだろう。なるほど、窓の向きと生い茂る樹の枝が死角となってこの公園を隠している。今日まで幾度となく飽きるほど目に焼き付けたあの窓からの景色にこの庭園が無いのも納得だ。そして、そんな図書館の足元を僕らが降りてきた細い下り坂があり、アーチ状のトンネルの形に剪定された樹の通路が見える。
周囲はひっそりと静まり返っていた。聞こえるのは虫の鳴き声だけで、時々吹き抜ける微風に樹がざわめいた。自動車のエンジン音も遠く樹のフィルター越しに優しいBGMになって響くだけで、僕の足元からは蛍光灯の明かりで生まれた影が幾本にも伸びていた。
この庭園という切り取られた世界の中には僕と彼女しかいなかった。閉鎖された時間の中で僕は前を歩く少女の細い背中を見つめ、足音に耳を澄ました。ゆっくりと歩きながら、それでも意識は研ぎ澄まされ、僕の五感の全てが彼女の意志と繋がっていくのがわかった。
「あ!」
突然華やいだ声を上げて、彼女が小走りに駆け出す。その小さい声に心臓が大きく跳ね上がり、僕は思わず体を硬直させて立ち止まってしまった。
「どうしたの!?」
多少上ずった声が出て、それがさらに僕を追い込んだ。
彼女は、庭園の端にある手すりに寄りかかると、大きく身を乗り出した。そして、軽やかなステップで振り返ると、手すりに腰を預けるようにして振り返る。彼女のセミロングの髪がふわりと風に流れ、彼女の微笑が月明かりの下で輝いた。
「村岡、見てみなよ!」
彼女の楽しそうな声に、僕はあえて返事をしなかった。従順な子犬のように尻尾を盛大に振って駆け寄りたい衝動を抑え、わざと大人ぶった余裕を見せて彼女の傍に歩み寄る。彼女の隣に並んで手摺を握り、そして僕は目の前の光景に魅了された。
そこは、小さな展望台になっていた。切り立った斜面にはツツジが植えられ、色とりどりの花を咲かせている。敷地の関係か、斜面の下の方はまた小さな雑木林になり、そこから先は住宅地へと繋がっていた。それが遥か彼方、市街地の広がる平野部を通して海岸線まで一望出来た。建物を彩る明かり、国道のナトリウムランプの光が道路を大地に縫いつけ、そこを車のヘッドライトが走り抜けていく。
斜面を風が駆け上がってきて、僕を覆った。風はまるで包みこむように優しくて、ひんやりと心地よくて、安らぎに満ちていた。この風に抱かれて眠りたいと思った。
「……いい風が吹いてるね」
思わずそう口にして、恥ずかしさがこみ上げてきた。ありきたりで、そして気取った台詞に感じたのだ。僅かに横に視線を向けると、彼女も気持ちよさそうに風に体を預け、大きく深呼吸していた。
「こんな場所があったんだね……村岡は知ってた?」
彼女の言葉に、僕は首を横に振る。
「いや、僕だって今日初めて知ったよ」
「そっか」
彼女はどこか満足げにそう呟いて、瞳を輝かせて街の夜景に見入っていた。
「こんなに綺麗に街を一望出来る場所があるなんて知らなかった。ほら、JRの駅ビルが見えてる」
「そりゃ、一番高いビルなんだから見えるだろ?」
僕の言葉に、そりゃそうかと、彼女は苦笑した。
僕らは、しばらくお互いに言葉を交わさずに静かな時間の中にいた。あるのは風と静寂だけで、すぐ隣にいるはずの彼女との距離はわからなかった。ただ、確かにそこに彼女はいたし、僕らは同じ時間を共有していた。
彼女がくるりと夜景に背を向け、手摺に腰掛ける。そして庭園の風景を右から左へとゆっくりと睥睨した。
「ほんと、こんなところあったんだ……なんかおかしいよね、ずっと昔から知ってる公園なのに」
「確かに。小学校の遠足とかでも来たけど、こんなところ来なかったもんな」
同意する僕の言葉に、彼女も頷く。
「秘密の花園だね……でも、あまり手入れはされてないのかな?」
「あんまり人の来ないところは頻繁にはやらないんじゃない? 一応年に数回は手入れしてるみたいだけど」
「そうだね……」
消え入るような彼女の声に、僕はこっそり伺うように彼女の瞳を追った、僅かに伏目がちにされたその瞳に浮かぶ想いがわからず、だからといって尋ねるわけにもいかず、僕は知らない振りを決め込む。
「きっと僕らが久しぶりの訪問者なんじゃないか?」
「そうかも。……それにしても静かだよね」
クラシックに聞き入るように静寂に身を預ける彼女に、僕も頷く。
「ああ、静かだね……夜ってこんなに静かなんだ」
「だね。それに星も綺麗……周りに明かりが少ないからかな? よく見える気がする」
彼女の声に顔を上げる。白銀の満月が空に上がり、雲が白い輪郭に浮かび上がっている。星達が天球を彩り、瞬いていた。その空を、飛行機の識灯の赤と緑の点滅がゆっくりと横切っていく。
「星空って綺麗だよね。ほら、あたし眼鏡だったからさ、コンタクトにするまでちゃんと星なんて見たこと無かったの。空なんて見ることもなかったなぁ」
そして、「本当に綺麗だよ」という彼女の呟きが風に乗るのを、僕はただ静かに見守っていた。凍えるほどではないものの、まだ夜は僅かに肌寒いというのに、心の奥は僅かに暖かかった。そんな僕に、彼女は手摺に寄りかかるようにして僕の顔を下から覗き込み、クスリと笑った。
「どうかしたの?」
「え? いや……」
見透かされたようで、僕は慌てた。そんな僕に、彼女はクスクスと笑う。きっと彼女は全てわかっているんじゃないかと、僕は思った。そんな僕に追い討ちをかけるように、彼女は上目遣いに僅かに頬を上気させ、甘えるような声で呟いた。
「なんか、世界にあたしたちしかいないみたいだよね……」
そう言葉を形作る彼女の唇が艶やかで、仕草が可愛くて、儚くて、風に揺れる彼女の髪の一本一本の輝きさえ何かしら意味があるように僕には思えた。そんな彼女に僕はどうしたら良いのかわからなかった。ただ、曖昧に頷くしかなかった。
しばらく、そうして風景を眺めていたが、僕は沈黙に耐えかねて彼女に声をかけた。
「城山は進路どうするの?」
「あたし? そうだな……まだよく考えてないんだ……」
「でも、文系クラスだろ?」
「だって、数学苦手なんだもん……」
恥ずかしそうに拗ねて言う彼女に、僕は苦笑しただけだった。文系クラスのほぼ大半はそんな理由で進路を決める。数学や理科が嫌いだとか、国語や英語、社会が好きという理由が大半だ。彼女もその類に漏れなかったらしい。
「そういう村岡はどうなのよ?」
「僕? まぁ学力に合ったところでどこか適当にいい大学探すよ」
「でも理系でしょ? なんか将来何になりたいとかあるんじゃないの?」
「別に……ただ国語よりは数学とかの方が得意だと思ったから選んだだけさ」
「そっか……でもそうなると、お互い進路はバラバラだね」
「だね……まぁ高校受験みたいにはいかないさ」
「それもそっか」
お互いにそう言って納得する。僕らの間に流れるしんみりとした雰囲気は何も湿気を含んだ風のせいではない。今日まで続いてきた僕らの日々、そしてこれから続くであろう日々が無限に繰り返すメビウスの輪ではなく、決められた終わりがすぐ目前に近づいていることをお互い理解したからだ。昨日までは当たり前だった日々が、急に愛しいものへと変化する。これを憧憬や郷愁とでも喩えればいいのかとふと思う。かけがえのない時が思い出へと変わる日が来るのだろうか。
「そういえば、この間のセンター模試の結果どうだった?」
重たい空気を振り払うように、彼女が明るい声で尋ねる。そんな彼女に、僕は首を横に振った。
「最悪だった」
「あ、あたしも! だいたいさぁ、ゴールデンウィーク明けにテストなんて酷いよね! あれ絶対狙ってるって!」
「ああ、わかるわかる! 休みに遊ばせないための先生たちの策謀だろ? ほんと嫌になるよね!」
「しかも、来週には中間試験の範囲発表! もういい加減にしてって感じでさ」
僕らの話題はそのまま学校生活の愚痴に変わっていく。今を生きることに精一杯で、僕らはまだそんな遠い未来の先に想いを馳せている余裕は無かった。
大人たちは「子供はいいな」とやっかむように言い、「経験してきたからこそ言うんだ」という傲慢な態度で将来を説き、しっかり勉強しろと口を揃えて言う。
でも、あなたたちだって同じことを言われてきたんじゃないか? あなたたちだって、僕らと同じ歳の頃には耳を傾けることなんて出来なかったんじゃないか?
僕らには、そんな預言者のように先を見通す能力も無ければ、政治家のように勝手に世界を決め付けてそれを変えようなんて思い上がった事も無かった。ただ、自分の知っている全ての中で、ただその日を乗り切ることに必死だったのだ。それが僕らにとっては大学受験であり、高校生活であり、目の前の彼女だった。
楽しげに話す時間が、今という刻が、この星空に彩られた庭園で過ごす瞬間が、彼女の微笑みを見つめるその一瞬が僕には全てであり、何物にも代えがたいものに感じられた。
その瞬間、僕はとてつもない孤独感に襲われ、彼女を抱きしめたいという衝動に駆られた。しかし、僕の体は石のように動かず、衝動だけが行き場所を無くして心の中でせめぎあった。
僕らは友人であり、親友であり、同志であった。今のバランスはとても繊細で、僅かな変化だけで壊れてしまうだろう。もしほんの少しでもその境界を越えてしまえば、きっと僕らは今のままではいられないということだけ、たったそれだけのことを僕ははっきりと理解していた。ほんの少し、たった一〇cmの場所にある彼女の手の、白く細い綺麗な指先に触れることすら、僕には許されていないと思った。彼女の唇の柔らかさと温もりを知ることも一生無いだろうし、この腕の中に彼女がいることも、想像することさえ出来なかった。
僕は彼女のことを好きなのだろうか? そんな自問をすることを、僕はもうすでに数え切れないほど繰り返してきた。そしてその度に答えを得ることも出来ずに一人悩みながら、一人眠りに落ちていった。僕らが会えるのは図書館だけで、そこ以外では他人なのだ。廊下ですれ違っても挨拶もしない僕らが、急に親しくなって、付き合っていると噂されて、友達からからかわれる日が来たらどうだろう? たぶん、僕たちは耐えられないんじゃないだろうか?
だからそう、僕らは今のままの関係がいいのだ。そして、僕らの関係の有効期限は来年三月となり、その先についてはわからない。
僕らはひとしきり雑談をした後、バスの時間を考えて庭園を去った。図書館前のバス停で、外灯の白々しい明かりの下でバスを待った。
一緒のバスに乗り込み、二人がけの席に一人ずつ、前後に座った。
僕より先にバスを降りる彼女を見送る。闇の中で小さく手を振る彼女の姿が遠ざかっていくのを、僕はじっと見送った。
窓枠に頬杖をつき、流れていく対向車のヘッドライトと街の明かりを眺めながら、僕は残された時間を数えていくしかないのだと思った。時間に急き立てられ、追い立てられるように消費されていくモラトリアムな時代に焦燥感を抱き、一歩を踏み出せないでいる自分に嫌気が差す。
しかし、想像の中にいる彼女の傍には僕はいないのだ。彼女が誰か恋人と一緒にいる姿を想像しても、そこにいるのは僕ではない。
僕は彼女のことが好きなのだろうか?
もうすぐ、夏が来る。気温はますます高くなり、湿気を帯び、蝉の鳴き声が煩い夏が来る。照りつける太陽の日差しと、公園の濃い緑、図書館のひんやりとした冷房の風と本の香り。三年前と同じ受験の夏、そして僕らにとって最後の夏がやってくる。そして風が徐々に秋の気配を濃くする中を受験へと加速され、服が夏服から冬服へと変わり、公園の木々が紅葉の準備に入っていく中、僕らは再び受験生として追い立てられるのだろう。
窓ガラスが白く曇る頃、どんよりと曇った空を眺め、底冷えのする夜の寒さの中で時計の針を気にしながら机に向かうのだろう。
そして全てが終わった春、僕らはどうなっているのだろうか?
ぼんやりと、流れていく景色にそう問いかけるも、窓ガラスに映る自分の瞳があるだけで、答えは出そうに無かった。