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小さな箱のその中で

作者: 野良にゃお

小さな箱のその中で


 もしも私が、あの時あの場所であともう一歩、僅か一歩踏み出してしまっていたとしたら……。


「………」私はあの時、笑顔を忘れてしまうような苦しみを感じ続ける事、一秒先さえ何の期待も出来ないような悲しみを感じ続ける事、そんな毎日を送り続ける事、それももう残り僅かで済むというそんなギリギリの所に独りポツンと立っていました。


 其処はコンクリートで固めた壁や床や天井の到る箇所にヒビ割れが目立つ、古くて人の気配がしない名も知らぬ五階建てビルの屋上。


 空には丸い月が此方を見つめているかのように浮かび、地上ではネオンがチカチカと呼び込みを始め出す、風がとても強い夜。


 もしかしたら、私の黒髪で遊んでいるんじゃないかしらっていうくらいの。


「………」私はあの時、それはあまりにも陳腐な比喩だと自嘲しつつも、そんな現実があれば独りでも寂しくないんじゃないかなって思ったんです。


 だって、

 それなら独りぼっちじゃないから。


「………」私は、いつも独りぼっちだった。誰かを好きになる度に感じる強烈な劣等感。何かに失敗する毎に膨らむ強固な挫折感。どうせアタシなんか……それが、偽らざる口癖でした。



 でも、もう大丈夫。



 そう声にしてみても、それは決して未来への期待などではなく、それはもうそれ以上の劣等感や挫折感を抱かないようになりたいが為の諦めの台詞。


 期待をすれば、希望した自分の愚かさを恥じなければならない。夢を見れば、憧れた自分の無能さを嘆かなければならない。どうせそんな未来が待っているのだから、未来がある事を忘れ、期待せず、夢を持たず、希望を持たず、感情を無くし、表情を消し、偽りの笑顔だけを貼り付けて呼吸を続ける。


 生きるとは、

 そういう事なのだから。



 ……けれど、



 そんな毎日は結局のところ心の何処かで人を羨む気持ちを芽生えさせ、それに気づいて隠そうと躍起になればなるほど膨らんでいき、イヤな自分ばかりに目がいくようになった挙げ句、自分の事がキライになってしまうという未来に繋がっていった。


「………」例えば、誰かの目の前に天丼が並べられているとする。ネタは南瓜、獅子唐、茄子、烏賊、そして海老。その誰かはまず最初に烏賊を口にし、最後の最後に海老を食べた。すると、殆どの人はこう思うんですよ。


 海老は美味しいから一番最後まで残しておいたんだ、と……そう、勝手に。


 もしかしたらその誰かにとっては烏賊が一番の好物で、だから一番最初に食べたのかもしれないのに。


 人間は、自分勝手に価値観を決めるのは構わないと思うけど、それを自分自身ではない誰かにまで勝手に当てはめて決めつける生き物。


 アイツはこうに違いない、

 そうに違いない、と。


 私は勝手に決めつけられ、それがレッテルであった為に敬遠され、我慢できなくなって自己防衛をするのだけれど、それによって張られたレッテルどおりの事をしていると受け取られてしまい、やっぱりそうだったと判った顔で蔑まれる。


 私は、どうせ自分なんかと思いながらもその実その心の何処かではみんなが判ってくれないんだと決めつけ、そして漸く気づいた。自分だってそうやって他人を勝手に決めつけているじゃないか、と。


「………」私はバカだ。


 あの時の私には何も無かった。励ましてくれる人も、心配してくれる人も、支えてくれる人も失った。


 私はもう、寂しいという思いを抑えられなくなっていた。苦しいという思いも、悲しいという思いも、何もかもが抑えられなくなっていました。


 ホントは死にたくないのだけれど、死ぬのは怖いけれど、もう生きていきたいとも思えなかった。


 そしたら、

 だったら死んじゃえば?


 と、

 そう思えた。



 呆気ないほど簡単に。



「………」だから私はあの時、自らの意志で其処に立っていました。


 其処で私は、静かに目を閉じた。気持ちを落ち着かせる為ではなく、最期に笑顔を作ってみようと思ったから、それが出来る何かを思い出せないかな、と。


 けれど、目を閉じても暗闇ばかりで、大切な思い出とか記憶なんて一つも思い浮かばなかった。つまり、それがその日まで歩んできた自分の人生でした。


「………」不意に辺りが暗さを増した。私は目を開け、空を見上げてみる。月が雲に隠れていました。月の明かりだけでこんなに違うモノなのかと少し意外に思ったけれど、そんな冷静な自分がいる事にも驚く。これで誰も、何も、私に気づかない。これで誰も、何も、私を見ていない。そう思ってすぐ、そう言えばずっと以前からそうだったと思い直した。そうでしたね……私はその程度の存在なんです。


「………」私は今、どんな表情をしているのだろう? そう考えたら、何故だか少しだけ笑えました。よし、そろそろ終わりにしましょう。居場所のない世界に居る事を。


「………」私は目を再び閉じ、ゆっくりと体重を前に預ける。



 と、

 その時。



「え?!」目を閉じている私にも感じるくらいの強烈な光が遥か空の上から私に向かって放たれたような、そんな気がしました。


 それは……、


 浴びたような、

 包まれたような、


 表現が難しい不思議な感覚でした。私は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、月の明かりが霞んだ時のようにその正体に意識が向きかけたけれど、結果として向く事はありませんでした。


 何故ならその時、


「月を見てると思うんだけどさぁ……」


 と、


 突然と言えば突然に、

 唐突と言えば唐突に、

 真後ろから話しかけられたから。


「えっ?!」私は、ビクンと身体が震えるくらいに驚きました。いいえ、間違いなくビクンと震えました。それによって落ちそうになった。だから慌てて、手すりに向けて腕を伸ばしました。



 死のうとしていた筈なのに。



「………」辛うじて左手で掴む事が出来た途端に、私は全身の力が抜けたようにヘナヘナとその場に崩れました。死のうとは思っていたけれど、死のうとしていたけれど、落ちると実感した瞬間の私は恐怖でいっぱいでした。


「………」自分勝手なものですよね、アンタのせいで落ちるところだったじゃないのよぉー! と、いう怒りがこみ上がってきた私は、顔を上げてその声の主を睨みつけました。


「オレ達が生きてるこの空間ッてさ、実はそんなに大きくて広い世界なんかじゃなくッてさ、言ッてみれば箱の中に暮らしてるような感じでさ、この箱の外には別の世界があッて、そこには別の住人が居て、オレ達はその誰かが箱の蓋を開け始めた時を朝と呼び、開け広げた時を昼と言い、閉め始めた時を夕、閉め終えた時を夜と言ッてるだけ……なんか、そんな気がしてならないんだよね」


 が、しかし。


 声の主であった彼は、意にも介さない感じで前を眺めたままそう続けた。


「あの、アナタ……誰なんですか?!」


 唖然というか呆然というべきか、状況が把握できなくて尻餅をついたまま聞いていた私は、時間が経つにつれて怒りから怪訝に変わった胸の内を彼に向けて声にしました。


「で、あの月なんだけどさぁ……」


 が、しかし。


 彼は私の問いには答えず、そう言って夜空に浮かぶ満月に指を向けました。


「………」私は彼を見つめ続ける。


「今は夜。でも、この箱の外は光に満ち溢れた世界かもしれない。だとすれば、オレ達が月と呼ぶあの光は……外から漏れ入ってくる光なんじゃないかなッて思うんだよね」


 彼はそう言い、言い終えると漸く私に視線を移す。


 そして、


「其処で何をするつもりなの?」


 寂しそうな表情で、

 悲しそうな声で、


 私にそう訊いてきました。


「えっ? と、アタシが何をしようとアナタには関係ないでしょ!」私は思わず声を荒げました。


「関係あるよ」


 それに対して彼は、穏やかに返してくる。


「なッ、な、何で関」

「だッてもう」

「け、い」

「こうして出逢ッてるもん」

「な……」

「でしょ?」


 言い返そうとした私を制するように、彼は言葉を重ねる。


「今、そうする事でわざわざ人生を終えなきゃならない理由、わざわざ生きる事を止めなきゃならない理由、どうしてもそうしなきゃならない理由、それッて何なの?」


 彼は真っ直ぐに私を見つめたままそう訊いてきました。


「どうせアタシなんか……アタシなんか居なくなッたッて、アノ人は悲しんでなんかくれないし、誰も寂しがッてなんかくれないわよぉ!」私は叫ぶようにそう言ったのだけれど、期待している自分が居る事に気づきました。少しでイイから悲しんでくれないかなと、そうすれば其処に私の居場所があったんだと、そう思えるから、と……バカだよ、私は。


「誰もがそうなんだけど、赤い糸の先ッて実は繋がッてないんだよ。だッてそうでしょ?じゃなきゃさ、色んな人に惹かれるワケないもん。でしょ?つまり、赤い糸は繋がッてるんじゃなくてさ、繋げる……いいや、結ぶモノなのかな。頑張るッてそういう事だし、じゃなきゃ好かれないもん。でしょでしょ?」


「………」私の心を見透かすように、彼はそう言って私を促そうとしてきました。私の本心……暗闇の中を吐露させるつもりなのでしょうか。


「ア、アナタ、何なのよ!」私の声は震えていました。涙が溢れ出していたからです。感情が高ぶっているのが、自分自身でも判りました。


 捨てた筈の感情が。


「この世の中に、アタシの居場所なんて無いのよ! どうせアタシなんか! アタシなんか、アタシなんて居なくッてもイイのよぉ……」私の心の奥底にあるモノ、全ての根底にあるモノ、それは疎外感でした。


 不意に感じるそれは、いつだって私の笑顔を曇らせ、不安にさせ、被害妄想を膨らませ、遂には良好だった筈の関係を自ら壊していった。そう、自分で勝手に決めつけ、結論づけ、苛まれ、他人のせいにして。


「あのさ……今、この世の中に当たり前にある世界、モノ、そのどれか一つでも欠ければそれはもう当たり前ではなくなるよね? 例えば、輝く星。例えば、真白な雪。例えば、お気に入りのペン。例えば、ありふれた料理。そして、この世に唯一人しか存在しないアナタ」


「えっ……」


「スペアがあろうとなかろうと、そもそもそれはスペアなんかではないんだよ。同じ姿形をしてても、同じ仕組みをしてても、同じ目的の為に存在してるとしても、それ等の一つ一つの全てが唯一無二の個なんだ。アナタが求めたモノが何なのかは判らないけど、其処にあるモノの全ても唯一無二の個だよ。アナタはそれを意識した? 周りに絶望する事ッてさ、身勝手な事なんじゃないかな」


 見透かされていた。

 的を得ていた。

 そのとおりだった。


 私は、私自身によって居場所を無くしていたのだ。勘違いかもしれないのに。誤解かもしれないのに。それなのに、自分自身が壁を作っていたんです。


 傷つくのが怖かったから。

 傷つくのがイヤだったから。


 周りもそうだと疑って、勝手に決めつけて、要求だけして自分はそのままで、居場所を作ろうとはせず、作ってもらおうとしていました。



 悲劇のヒロイン気取りで。



「な、な、何を……」後悔の念がポロポロ、そしてボロボロと、涙に乗って溢れ出す。嗚咽を含んで声が更に震える。けれど、気づくのが遅かった。もう今更だと、そう思いました。


「もう、遅いよ……今更だよぉー」私は力無く呟く。みんなが内心ではどう思っているのかを知ってしまった後だから。それもこれも自分が蒔いた種だし、だから自業自得だし、それは判っているけれど、判っているから戻れない。現実はドラマのように都合良く展開する事なんてない。作り話ではないのだから。変わる勇気の無い私には、戻る覚悟も、許してもらえる自信も無いの。


「それならさ、始めようよ。イチからやり直すんじゃなくて、ゼロから始めればイイじゃん」彼は当たり前のようにそう言いました。


「えッ……」私は戸惑う。


「アナタの人生において、その主役はいつだってアナタなんだから。アナタがするべき事は、次こそ頑張ろうと思って尚且つ頑張ろうとする事でしょ? アナタが考えるべき事は、同じ過ちを繰り返さない事でしょ? けれど、元の場所でやり直す勇気が無いというのなら、うん……新しい場所でそれをするしかないよ」


「どうして……どうして私に、その勇気が無いなんて判るのよ!」心を見透かされている事に焦りを感じた私は、再び声を荒げました。


「だから死のうとしてるんでしょ?」


「………」彼の言うとおりでした。私はその時、何故か安堵した。今になって考えれば、見透かされているのではなく、理解しようとしてくれている気がしたからかもしれません。


「じゃあ、まずはこッちに来る事から始めようか」


「えッ? えッ!」彼は私を柵越しに優しく抱え上げ、驚く私をそのままに出口へと歩きだす。


「お願いだから、死なないで……」


 そして、

 私にそう告げたのです。



 ………。



 こんこん、こん。



「………」この部屋を仕切るドアをノックする音がして、私はゆっくりと目を開けた。私は今でも、彼の言葉が耳に残っている。


 もしも、彼の言うようにこの世界が小さな箱の中であるならば、きっと私を哀れに感じた優しいこの箱の持ち主が、こんな私の後ろに彼を置いてくれたのかもしれません。


 だとすれば、この箱の持ち主は……人形で遊ぶ女の子? それとも、神様って本当においでなのかしら? 彼と私はあそこで出逢う運命だったの?


「………」いずれにせよ、それからの私は生まれ変わったかのような毎日を続けている。



 こんこん。



 あ、いけない。



「はい。どうぞぉー」私は、穏やかに促しました。少ししてドアが開く音がしたのでゆっくりと顔を向けると、その視線の先に真白なタキシード姿のその彼が、あの時の彼が、笑顔で私を見つめてくれていました。


「どうかな……似合う?」彼の瞳に向けて視線を微調整した私は、心から自然に湧き上がる笑顔で純白のドレスを纏い終えた自分を見せ、そしてそう告げて、優しさに満ちた言葉を待つ事にしました。



 小さな箱の中にある、


 更に小さな、


 この箱の中で……。




       小さな箱のその中で 完

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