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「君の記憶を奪ったのは君が大切にしていたこれ自身さ。正しい道、なんて期待しても無駄だよ。僕らは最初から間違ってなんていやしない。正しい道を歩んでいる」
(記憶を奪った?正しい道を歩んでいる?)
確かに、この石にはそういう意味がある。そういうことを願った。
心細い夜、不安を胸に掻き立てられた日。そんな時、吾平はそれを握った。
硬く冷たい金属が熱を持つようになるまで握り締めて、自分に問いかけた。この道でいいのか、まっすぐ進んでも大丈夫なのか。……記憶のない不安と、それを探すに至る道への模索を石に託した。
精神の安定を図るため、その日一日の疲れを癒すため、そして姶良への呼びかけをする時に握ったもう一方。血に染まった時、自分自身が不浄な気がしてそれを縋り付くように握り締めた。
「だからオルイナもライナスも目論見違いさ。再び道は交差し、合わさった。出会うべく僕らは出会った。――そう、その石に導かれた。世界の意志でもある」
オルイナとライナスの目論見。正しい道へと進ませようという石。
それがオメガと吾平を出会わせないようにする意図のものだったなら、出会わないことが正しいと思っていたなら……(これは、姶良のものでなく、――俺のもの……?)
そう思い至って、ぶるりと身体が震えた。
歓喜だ。全身が喜びを感じる。いけないとわかっている、けれど止めようがなかった。
何も無かった自分。記憶も身体もない自分。名前さえ、同一化して、吾平は何も持たなかった。吾平とはどこまでも姶良によって“提供され”ているばかりの、何一つ持ち得ない存在。――そう、思っていた。だが、(そうでは、なかった……?)
暗い喜びだ。真実は吾平が姶良を踏み台にしてきた、ということ。
姶良はずっと続いてきた“アイラ”のうちの一人でしかなく、“愛羅”のための犠牲者。吾平が借り物なのではなく、姶良は入れ物。
吾平は自らが怖かった。
そんな、姶良を蔑ろにしてしまう思考をしてしまう自分が恐ろしかった。それまで大切で愛おしくてたまらなかった姶良を、本心では嫉妬まみれに想っていた。
(こんなこころまで、姶良に伝わっているのか?)
姶良は今、何を考えているだろう。姶良のことを思うと胸が痛くなるのは今でも変わらないのに、吾平は歓喜に胸を震わせている。
「ところで、“彼ら”は大丈夫なのかい?」
「え?」
唐突過ぎて、何もわからなかった。彼らとは誰か。
状況も敵も忘れて自らに震えていた吾平にはその見当がつかない。
「ほら……。早く行かないと、死んじゃうよ」
「――――ッ」
あまりにも簡単で、残酷な言葉にようやく、思考が正常化する。
――人。そう、今、世界中で人が戦っている。サリファンダと、人類。その中心にあるのはガダンで、アカデミアで、そして……この雪原。
吾平は突きつけられた己の武器さえも忘れて立ち上がる。呼び動作も、あれほど全身に溢れていた無力感もなく、力強く足を地に押し付け、――疾走。
雪原に更なる銀粉を撒き散らし、目的の場へと、オメガを捨てて走る。
だから、吾平はその時のオメガの顔をしらない。頬から伝ったものがわずかに雪原へと吸い込まれたことも、その時に抱えていた感情も知らないままだ。
何の覚悟も持ち得ないまま、ただ状況に流されるまま突っ走った吾平。だが、それこそが吾平の何よりもわかりやすい本心。だから、オメガはこの後のことが予測されて、――覚悟する。




