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「君は、弱くなった」
その言葉に、縛り付けられたように身体が動かなくなる。
この間は出なかった、山茶花の言葉の先。それは強さだけが頼りだったあの時とは違う響きを持って吾平に届けられる。吾平を壊す言葉というより、吾平を傷つける――失望の色。無力さが募る。
姶良の身体は少女だ。細い手首にオメガの指が回る。向ける視線は上だった。腰に回された手は軽く身体を拘束する。――それは歴然とした事実だ。けれど、オメガが放った意味はそれよりも重く、深い。
「仲間を得て、孤独がなくなった?違う。それは錯覚だ。僕らは孤独、他に同じものなど存在しない」
受け入れられたからなんだというのか、そう質問している。慰めでしかないのだろう。それぐらいにしか意味を感じられないのだろう。信じる事を恐れている。
(支えになる。信頼、できる)
吾平は口を噤む。吾平は――愛羅はほんの短い時間を人の中で過ごしてきた。
秘玉である本体が壊れ、愛羅は自身を癒すのに人の子の中に場所を定めた、最初は、少女。世界に愛されているといっても過言ではない、幸せそうに微笑む少女だった。少女の温もりを揺りかごに愛羅はまどろむ。
しかし、オメガがやってきた。その時には既に“幼子”からオメガへと変わっており、――サリファンダを引き連れていた。そう、世界の軋む音と少女が壊れる音は同時に鳴り響いた。
それから何世代、繰り返したのか。名を繋がりにして老若男女に関係なく“アイラ”へと愛羅は寄生し、寝床としてきた。オメガはその度に現れ、“アイラ”を壊す。いつしか、人はサリファンダに対抗する能力を得て、“アイラ”もまたサリファンダ――延いてはオメガへと対立していく。
(これが、初めてなのか)
アイラが壊れる前に愛羅は目覚めた。だから、愛羅とオメガが話し合う機会を得た。
それはオメガが姶良を壊す事に失敗した、そのことに所以する。――オルイナが、オメガと同化する前に“アイラ”を見つけたからだ。ライナスを頼り、姶良が壊れないようにした。……眠りという形を取り、姶良は壊れる事を免れた。
代わりに、愛羅が目覚め――吾平は生まれた。
対立しあう二人が、例え偽りでも関係性を持った。そのことが齟齬を生んだ。今までとは違う結末になる――終決するのだと、確信させられる。
「無理だ。人は自分とは違うものを受け入れない。訳の分からないものは追求しようとする。……僕らは人に忌避される。捕まって、身体中弄られるのがオチだ!」
なぜ、それが分からない!?――そう、オメガは訴える。
しかし、それは逆だ。信じたから、信じた事があったから、そう言える。そんな経験をしたから、そんなことを言う。それが今出来ないのは諦めたからだ。信じる事に疲れた、それがオメガの本音だ。ならば、吾平が言う事は一つ。己の不利を知ってなお、吾平はキッと睨み返す。
「弱くなったのはお前だ!信じて、裏切られるのが怖いんだろう……っ!」
山茶花として、アカデミアに入った。それはオメガが精神に介入したせいかもしれない。愛羅に近づく為に、アカデミアに――吾平の元へ来たのかもしれない。
それでも、そこにあった日々は決して偽りではなかった。過ごした時間も、その間に得た思い出も、笑いあったことも――変わらない事実だ。
あの場所で、オメガは人と過ごし、……山茶花として生きていた。
信じられないのは弱さだ。信用できないのは時間が足りないからでも、人が信じるに値しないからでもない。信じないならば、裏切られても別にい筈だ。それを裏切りと呼ぶのなら、オメガは信じているのだ。裏切られれば辛いと感じるほどには信じてしまっている。期待して、裏切られて、傷つく。自分が傷つきたくないから、初めの一歩さえも怖くて出来なくなる。――“山茶花”として生きて、過ごして、その時間が大切だと感じている、その証拠が拒絶だ。拒絶される前に拒絶する、そんな弱さ。オメガが手にした“弱さ”。
「――ッうるさい!」
(あっ……)
ぶちっ――小さい、鈍い音がそれが切れた事を教える。
直後、それを大きく振って手放すと、オメガは吾平を抱えて跳んだ。
一瞬後、忘れかけていた白が目の前を蔽う。
吾平は抵抗する事も、作戦も全てを忘れていた。白の目前を暴れつくすのを見ていることしか出来なかった。
真白の大地に奮われた、暴力。指の先ほどしかないような大きさのものではそれを前にして太刀打ちする術など、当たり前にない。――吾平のネックレスは雪に埋もれた。
「……っ」
白が音と震動を従えて通り過ぎて吾平は開放された。雪が雪を追う光景、白が山を下りてゆく光景を前に駆け出した。粉雪が視界を覆う刹那が陽の光に煌いて眼に焼きつく。
キラリと消えた軌跡を追って向かったまっ白の大地。誰もが躊躇う未踏の純白に身を埋めて手でかき分ける。直に感じる冷たさに身が凍えそうだった。悴んだ白い指先に赤が滲んでも一瞬の躊躇いもなく白に赤を散らす。
(見つからない。見つからない。見つからない……っ!)
芯から冷えるのは、身を着る寒さよりも、見つからない事への焦燥からだった。
痛みから吾平が手を止める事はなかった。それを止めたのは吾平でなく、予想外に無視された形となったオメガだ。
「捨てればいいのに。いつまで大切にしてるつもりなんだ?――僕のあげたものなんか」
血の滲む、吾平の指先を冷たい瞳で見下ろした。何を考えているのか、吾平にはわからない。深く考えるほど、心の余裕はなかったし、それでなくとも吾平にはオメガの思考が読めない。――蹲り、まだ柔らかな雪を退かそうと動かす手。隣に立つオメガに片腕を囚われて尚、もう一方の手が穴を深めようと空を掻く。
「ただの感傷でしかないネックレスもまだつけてるし。使えない武器だから、“代わり”を上げればいいと思った。だから、“それ”を上げただけなのに」
吾平のために、与えたものではない。全てはご都合主義の下に生まれた価値行為。
(俺を認めるものじゃ、ない)
吾平を吾平として認める、物品。姶良じゃない、吾平だけのもの。
その言葉が耳に入り、思考へと至った時。初めて、吾平は抵抗を止めた。
急に大人しくなった吾平へと、戒めは緩まる。解けた拘束に、囚われていた腕は垂れ下がった。しかし、もう足掻くことはしない。オメガは吾平の旋毛辺りを静かに見つめる。
その瞳がぐんっと上げられたのが次の瞬間。
「ぉあぁああああぁぁ!!」
背後のオメガへ振り向き様に立ち上がり、手首を一閃。――金の煌きが白の大地に反射してキラキラと輝く。
背後に跳んで攻撃を交わしたオメガの手前を、いつの間にか握られていた黄金の剣がゆく。全身を蔽うような形で隠していたローブの、顔の付近が斬撃を受けて掠め取られていた。――朝の陽光が降り注ぐ元、ようやく、数千年ぶりにオメガの素顔が露わになる。
「オメガ――」
やはり、変わらない。
そこにあるのは山茶花と同じで、そしてオルイナと同じものだ。
同一人物なのだから変わりようもない。それでも、オメガの顔は晒された。歴史の陰に潜んできたものの正体が白日の下へ。
オルイナを知る吾平が山茶花に気付かなかった理由――愛羅の記憶に馴染みすぎて、近しすぎて気付く事がなかった。彼らの一族は共通して顔が似ている。特にオメガに選ばれるものは、血が濃い。故に、吾平は見慣れすぎたその顔に気付く事はなかった。言ってみれば、ガダンの出身者は皆、こんなものかと簡単に考えていた。
正体を気付いて尚、口に出す事の出来なかった、その理由。信じたくなかったというのと同時に、半信半疑だった。間抜けといわれても否定できない。
オメガは吾平が出した名に、もしくはその視線にか、不愉快気に眉を顰めた。そして、先ほどは口にもしなかった、吾平の質問へ答えを出す。




