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月が薄く、鋭く刃を夜に向ける頃。
雲が早く通り過ぎるその下で、吾平は愛用のコートに身を包み、手に馴染んだ殺しの道具を握っていた。開け放たれた引き出しには既に残しておくものはない。予備のファラカイナもすべて、簡易ポーチに突っ込み、履き古したブーツに足を差し入れる。
冷たい夜風がそっと吾平を撫で、扉を押し開いた。ガツッ、吾平の覚悟と同じ重く古びた音が一歩毎、夜の静寂に低く響き渡る。
だが、気配がないはずの夜のアカデミアに、荒々しく騒々しく、それでいて冷静な気配が幾数もあることに気づいた。
「吾平、俺らも行くぜ」
「なんで――……お前ら」
闇の中、姿を現したのは吾平も良く知る面々。4軍、いやそれだけでない――同期のアカデミア生。雪山を歩く為の重く不恰好なブーツ、分厚いコート。そして、既に顕現された――武器。
(行く、つもりか?)
「分かり切ってんだよ、お前の考えることなんて」
軽く小突かれる。皆が揃って戦いの準備を終えて、吾平を待っていた。それだけで吾平の疑問が肯定される。
「うわっ軽く変態発言?」
「ちょ、俺だけかよっおまえ等もわかってたくせに!同罪だろ、同罪!俺は断固拒否!」
目の前で繰り広げられる、緊張感もない会話に、一瞬で思考を塞ぎ、気配を殺そうとした。たとえ気づかれても、巻き込むわけには行かない。この場で撒いて、
「若干名他のクラス混じってるよ」
フィガルノだった。だから無駄だと指すその視線は吾平から外されずにいる。そのまま見過ごすつもりはないようだ。
「水くせぇぜ、お前ら。二人とも、馬鹿か。それに4軍の他の奴らも馬鹿ばっかりだな!」
「うるせー、おまえらもだろ。敵の親玉のとこ乗り込むのになんでそんな顔してんだよ」
ニシシ、と笑うギギドナ。確かに、その表情は生き生きとして、とても戦争の指揮官を暗殺にしに行くとは思えない。友人だった、仲間だった敵を殺しにいくとは――
「殺さねぇよ」
ギギドナの発言に、軽く瞠目し、見返す。
「あいつには借があんだよ。きっちり、返させてもらうまでは逃がさねぇ」
思えば、ここにいる者たちと吾平は、山茶花を通して出会っている。こんなにも多くの人との絆を吾平に与えた山茶花。人と人の絆を深め合うように、山茶花と吾平は彼らと縁を作っている。友として、言葉を交わし合い、手を叩き合って、共に苦楽を過ごしてきた。
(お前が、それを断ち切ろうとするのか?)
明らかに矛盾した行動。それは山茶花の――オメガの本心じゃないのか。
希望がまた一つ、ほんのり胸を熱くする。
バタバタバタッ!
夜の時間帯だとか、廊下だとか、そんなものを無視して彼らは行く。
これで気づかれないと思っているような、そんな馬鹿。それが4軍だ。でも、そんなノリに誰もが付き合っている。アカデミアに臨時寄宿中の軍人も、徘徊しているはずの教師も、不寝番の隊員も、晴れない鬱憤を心に貯めたアカデミア生たちも。
初めて吾平がアカデミアに来た時と、逆の方向に向かってゆく。幾度も通った、最果ての回廊。吹き抜けとなった天井の高い迎々用ホール。アカデミアと外界とを繋ぐ門。
ホールを走り抜ける時。誰もが頭を下げて行った。小さく、「行ってきます」と口ずさんで。皆、分かっている。このホールに犇く闇を、闇の中に同化するそれぞれの先輩や仲間たち。――最後尾を走っていた吾平がふと、立ち止まる。
「あ~あ、もう、僕の計算ミスだな、これは」
背を離して、道化のように手のひらを返して彼は止まった吾平の横を歩いて行く。
「完全に予想外だ。こんなに早く動くとは思わなかったよ。ファラカイナも持ってない今の状態でこの人数は相手にできな――」
「シグマ……先輩」
通り過ぎる、その刹那。
吾平は初めて、その尊称を口にした。
「ありがとう……ございます――」
一瞬、動揺の末に無表情に陥ったシグマ。けれど、その彼の横を素早く通り抜ける小さな身体があった。吾平はそれ以上、何も言うことなく、帰ってくる約束もなしに、出て行った。「行ってらっしゃい」と、一方的な約束さえする暇なく姿は消えた。
「チセ」
陰に潜む、己に最も近しい人物を呼ぶ。
(例え、戻ってくるつもりが、彼にはないのだとわかっていても)
「巻き込んでごめん。でも、僕は」
「我を張るな、未成年」
カツカツ、甲高い音を闇の中に響き渡らせ、炎の魔女はその場に君臨する。
徐に懐を探ると、口に煙草を加え、ライターでその場をほんのり照らす。
「お前程度でこの責任がとれると思っているのか?ならバカだな、アホだな。事態はもっと深刻なんだよ」
苛烈な言葉。けれど、
「……私はお前らの“先生”だぞ?責任ぐらい取らせろ」
燻らせる紫煙が、その心情を表す。
生徒の前では禁煙している事を知っていた。いつも、シグマはそれを注意する。けれど、今だけは。
「……僕にも一本、くれませんかね」
「駄目だ、未成年」
素気無く、断られてしまったけれども。
東の空を見上げた。群青色の空は徐々に赤味を増しているようだった。
(帰ってくるつもりがなくても、……それでも、彼を止める事はできない)
愛しい人を、愛しいと。そう叫ばずにはいられないのが恋情だ。何をかけてでも、己の命さえも厭わない。大切な、想い。
身体が生きていても、心が死んでいては、生きているといえない。誰だって、世界なんて漠然としたものより、目の前の大事な誰かを選ぶ。だから、シグマもまた、選んだ。世界より、吾平を。吾平より、チセを。……それが結局は世界に対して吾平を見捨てる事になろうが、選んだ。
二度とは来ない、“みんな一緒”を曙の空に描くのは、どんな苦難でも乗り越えてきたからだ。今回も、と思う心は紫煙とともに吹き飛べばいい。心が痛むなんて気のせいだ。偽善を心に掲げるつもりはないのだから。




