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空の見える場所。外と繋がる廊下から少し出た場所、雪の積もっていないむき出しの地面。その上に腰を下ろし、何の遺物か壊れて何の一部かもわからなくなったコンクリートの壁に背を預ける。空は快晴だった。珍しく雪の降らない雪山の奥地。
人の気配は慌しく、すぐそばの廊下を走り抜けていく足はいくつもあった。吾平はそれでもどこかゆったりとした気分で牢獄からの開放の気分を味わっていた。
吐く息が白くなってすぐに消える。
「――“愛羅”」
オメガは言った。
『君が自らを吾平と称するのならば、君がその体を姶良と呼ぶのならば、――僕は今目の前にいる存在を、“愛羅”と名づけよう』
修羅を愛する業を背負ったもの――。
愛羅の名前を聞いて、すぐに思いついたのはそのことだった。
奇しくもそれは初めてシグマが吾平の戦いを見て覚えた感想と一緒だった。決して口には出さずにいたそれが吾平に伝わることが無かった。しかし、表すものは同じだった。
吾平の存在、それは“愛羅”というのがもっともしっくり来る。
鬼神の如き戦いぶり、修羅の強さ。業深く――命を摘み取りながらも命を尊ぶ。
「それが、俺の名前なのか……?」
乾いた笑いが出た。
人ではない存在。出来損ないの精神。しかし、それが称されるのは神。戦いの神。
かつて己が口出した、バーサーカーでもヴァルキリーでもない。
“世界の柱”という形は、秘玉は、次なる形を戦いの神へと変えたのか。
(曖昧だ)
存在が次々と異なる。境界線のあやふやな己に乾いた笑いは血反吐を吐きそうだった。
胸糞悪さが胸に広がり、じわりじわり、と体を動かなくさせていく。
全ての感覚が借り物だった。偽物のそれだと知っていたが、己の心と言うものまで存在を信じきれなくなった。思考することさえも怠惰に思えるそれを、吾平は何と呼ぶのか知れない。
よそよそしいそれが急激に遠ざかる。体に力が入らなくなり、熱を感じ取れなくなる。ただ、姶良の心臓の鼓動だけがトクン、トクン、と脈打つのを耳に心地よく聞く。
(このままここで……)
「案外子供だったんだな、お前も」
意識さえも放棄しようとした吾平の借り物の聴覚に刺激が走った。
「いや、年相応と言うべきか」
「『迷いは捨てろ』。以前お前が言った言葉だ」
ザッと足元の氷が払われる音。それは足音で、近づく物音。人の気配とその声。
「しかし、今のお前は他人に何かを言うほど立派か?悩むのは大いに結構。だが立ち止まるな。歩みをやめてしまえばわかるものもわからなくなる。……ま、年長者からのいらぬ節介だと聞き流せ」
吾平の担任・夢見る聖女――サクラ・フィグローゼが威風堂々とその場に立っていた。
「――あんたはなんで……」
言葉は濁った。
まるで見てきたかのように放つ。それでいて無責任で軽々しい言葉たち。なのに重く吾平の中にまとわりつく。
「私か?私はそうだな、……お前と同じだよ、自分が欲しかったんだ、明確にね」
「孤児だからさ、出自も親も知らないから、自分を知らなかった。誰にも存在を認められてなかった」
吾平の横に同じく地べたへと座りながら語り始めるフィグローゼはなんだかいつもとは違う。吾平を慰めようとしているのか、慰めてほしいのか。視線を虚空に、澄み渡る青い空に向けて言葉を放っていた。
「だから認めざるを得ない存在になってやろうとむちゃをした。結果はごらんの通りさ。目立ちすぎて面倒くさい。しがらみにがんじがらめ。自分が欲したのはこんなものだったのか、てね。何歳になっても悩む」
視線の先は遠かった。
なぜだか、見つめている先が同じような気分になってくる。届かない人物、理解できない人。なのに嫌いきれない孤独な影。
だからか、フィグローゼの言葉に、感情が心の淵からあふれそうになる。一度緩んだ螺子は外れるまで緩みっぱなしだ。絞めなければ、と思うのに最近の吾平は感情を揺るがされて、螺子を緩まされて、そればかりで絞める暇が無い。
「……人である限り、どんな小さなことであっても。人は考える葦、って偉人の言葉、覚えとけ」
「人じゃない」
「俺は…………俺は――ッ!!」
「なら、悩むお前は何なんだ」
否定した言葉はあまりにもあっさりと、静かな瞳に否定された。
「今私の前にいるのは“吾平”という人間だ。違うか?」
少しからかうような視線で向けられた言葉。口元に微かに上る朗らかな微笑み。
確かにそれは聖女と呼ばれるに相応しい美しい笑顔で、またその行動も慈悲なのだろう。
「あんた、もしかして初めから……」
知ってたんじゃないか、という問いは本人に否定された。
「いや、そうでもないさ。私の能力は曖昧だからな……確信はなかったし、おまえ自身もわかっていないようだった。私も――信じたい内容じゃなかった」
先見は不確定性ある未来だ。変わることはあるし、その大部分が空白でできていてそれを予知とするには使用者個人の能力こそが問われる。それで言えば過去視は確実にあった出来事を知る。けれど、その欠片を集める作業で間違うことはある。推測は推測で、過ぎ去った時間は永遠に推測のままだ。真実は明かせない。それでも――“視えて”いたのだろう。
吾平が何者なのか、何なのか。わかっていて、“先生”をやっていた。
「でも、止めることは出来なかったよ」
苦笑気味に、疲れの伺える口調でフィグローゼは言った。
「私には止められなかった。どんなことがあろうと、お前たちの人生だ。お前たちの生きる道だ。自分で考えて、選び抜いた道なら否定しない」
なにより、楽しそうだった……。そう、言われてドクン、と胸が打つ。
自分は、楽しそうにしていたのだろうか。それほど、彼らのとの生活を――“吾平”を楽しそうにしていただろうか。
動揺の広がる胸中で、山茶花の笑顔が思い浮かんだ。
「人である限り――」
逡巡は一瞬。次の時には既に覚悟を灯した瞳が強く、顔を上げていた。
吾平は瓦礫の山を後にした。




