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足元が崩れた。足がすくんだ。
吾平はもう、一歩も動けなかった。歩き出す事も、戻る事も。
「俺は……奪った。命を、弟を、妹を、父を、体さえも――奪い続けているッ!もう、これ以上、俺はッ!姶良から何も奪いたくない――ッ!」
踏み出す事が躊躇われた。自分の起す行動一つで“物語”は動く。その責任が取れないなら、動かなければいいのだ。
「ハハッ!どんな面して会えって言うんだ?我が物顔で体を所有して?」
罪悪感が競り上がって来る。涙が込みあがる。感情が噴出しそうだった。見えないものが、今まで見てこなかった全てのものが吾平に今、圧し掛かってくる。
それでも、姶良に反応はない。何処にも、姶良なんていないかのように、沈黙が――不変が、身体の中心にある。
「違う」
やけに断定的な声音に、不思議な感覚を覚えた。
「何が違う?」
全てを知っているかのような声。全てを見透かされたような言葉。
吾平の思いを理解しているような、その言葉が不快だった。
「吾平は怖いだけだ。怖気づいてるだけだ!」
吾平は今、山茶花の言葉を聞きながら、二人が会った頃のことを思い出していた。
あの頃も、何も知らないまま山茶花は吾平の心を的確に突いて来た。
真っ直ぐな瞳は揺るぐことなく吾平を見据え、頼れ、と言った。吾平を知りたいと言った。
「今更吾平ひとりが止まったところで動き出したら、もうすべてが元には戻れない!吾平が行動を起さないことで幾つの命が救われる?いくつの命が失われる?」
一人でいることにいつから寂しさを覚えていたのだろう。
いつのまにか、吾平の周りには沢山の人がいた。多くの人々が笑顔を湛えていた。
「思い出せよ。今まで、失ってきた分だけ守ってきたことを」
そういえば、あの時。山茶花はなんと言っていたか。
サリファンダを倒す理由、アカデミアに入った理由。戦い続ける、その意味は。『人も世界も、守る為に俺は戦う』――それは、今でも変わらないのだろうか。
あの時は馬鹿にしていた。危険だから戦う、なんてなんて単純だと……そう思った。
けれど、それこそが唯一正しい答えなんだろう。揺ぎ無い、信念。サリファンダに対して、一番に持つべき感情。
「歩みを止めるな!歩き続けろっそれがせめてもの報いだろ!?」
戦場に散っていった命。刻まれていった血の跡。皆が倒れ臥していく道。
サリファンダとは何なのだろうか。中毒者は、、擬者は……搾り取ってきた命にも意味はあるのか。等しく命はあった。人類の敵となっても、それでも命があった。
生かしてやるべきだったのか、それとも望まない殺しを前に命を刈り取って欲しかったのだろうか。
(人を、生きている命を、搾取する権利も裁く権利もなかったくせに)
卑屈な想いが、今の空洞だらけの吾平の心に入り込む。腐食していく己に歯止めが聞かなかった。弱さに侵食されていく。強さが臆病に書き換えられていく。
「――俺は……お前らとは違う」
(強く、ない)
そんなこと、とっくの昔に気づいていた。
現実を受け止めて生きるアカデミアの生徒たち。こんな呪われた宿命の世界で、なお笑顔でいられる人たち。唯一つ、昔にだけ縋って生きる自分とは違う。
たった一つがすべてで、だからそれだけは失くさないようにと必死だった。大切なもの、吾平の大切なもの、“自分”。
けれど、吾平はその心の拠り所まで失ってしまった。
そんな今の吾平より、――彼らの方がよっぽど強い。
「お前らは戦う目的が、サリファンダに対する怒りが、恨みがある。俺にはない。俺にとって戦いは、手段だった。でも、それが断たれたなら――理由なんて、無くなったよ」
決して混合する事のなかった手段と目的。いっそ、二つがどうしようもなく離れ難いものであれば良かったのに。記憶と取り戻す事も、姶良を開放する事も、……結局はサリファンダと無関係というわけだ。いや、それどころか、もっと悪い。
記憶なんて初めからなかった。無いものを探す徒労に時間を費やしてきただけだった。
姶良から奪ってまで得た時間を、――二年もの間、無駄にしてきた。
「強くなって何の意味がある?戦って俺の記憶が戻るのか?俺の体が何処にあるのか分かるのか?――なぁ、教えろよ。姶良は……姶良は戻ってくるのかよっ!?」
眼を瞑った。現実から、事実から、目前から。
誰も何もかも、信じられない。自分のことさえ分からないのに、自分さえ信用できないのに、他人を信じられるわけがなかった。信じる土俵がないのに信じるのはただの無謀だ。
自分の身体。姶良の身体。自分の記憶。姶良の記憶。――混ざり合う事のないものこそ、混ざり合う。そう、わかっていたはずだ。
(これはきっとよくない傾向だ)
この戦場に戻る事は、姶良にとっても辛い事。アカデミアに着た時、姶良の記憶が姶良に流れ込んできた。それはきっと(悪いこと)




