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「もう止めろ。そんな奴に構うことない」
突然現れたと思ったのはたぶん、吾平も山茶花に対峙するのに夢中で注意が散漫していたからだ。そのことは吾平自身にも驚きをもたらした。普段なら、そう思う心がある。気づかないはずがなかった。戦場と分かっているこの場所で、誰かの、何かの気配を見落とすなんていう出来事は命を落としかねない大事だ。それを怠ったというのは吾平にも衝撃を与える事実だ。(気配を感じ取れなかった?)
いや。そうではない。龍城の実力は吾平の知るままであるし、気配を見落とすほど知らない相手でもない。吾平が見抜けないほど気配を殺していたわけでもなく……ただ、気づかないほどに吾平と山茶花は二人だけの世界でこの場を回っていたという事。
そんな龍城の言葉は今の吾平にどれだけ堪える言葉だったのか誰も知らない。
ただ、僅かに、吾平の眼が見開いた。そして、
「もう、どうでもいいんだ……何もかも」
どうしようもないほどに悲しげに、諦めた表情が俯いた顔に登る。込み上げる気持は衝動を持ち合わせていたが、何がしたいのかよくわからないそれは吾平の中で留まることしかできない。
“目の前”から背を向けることに躊躇いはなかった。
吾平にはもう何も残されてはいない。
揺れる山茶花の瞳を見て、吾平は唯一つの、残酷な言葉を告げた。
「なぁ、山茶花。俺を抱けよ」
大きく見開かれた瞳に移った自分の姿を、吾平は見つめていた。
濡れ鼠のように水簿らしいその姿。
他人がそれを好むだなんて信じられないほど、汚らわしく、卑小な存在。
大好きだったはずの姶良のそんな姿を、例え山茶花の目を通してさえ、瞳に映していたくなかった。姶良に伝わってしまうのではないかと、この汚さが姶良に見つかってしまうのではないかと、思った。
同時に、そんな汚い姿を見て欲しいと思った。そうすれば、
(傷つけば、姶良は――戻ってくるかもしれないじゃないか)
それは一片の花弁のように、甘く芳しい誘惑。仄かに色づいた蕾を待ちきれず、引き剥がしてしまおうとする不条理。……その先に得たものに意味があるのかもわからないままの暴行。
(姶良が傷つけば、そうすれば……)
「――そうしたら姶良は出てくるかもしれない」
吾平に残された、ひとつだけの方法。
絶望するような、切望するような、どちらとも取れない声音で吾平はひび割れた心を零した。
山茶花と、龍城の顔を見ながら、その瞳を見つめる事が出来なかった。
(勝手に動かすな、そんなことは許さない――そうして、怒って、目覚めてくれればいい)
(そうすれば、俺は――)
“俺はいなくなっても、姶良が戻る”。
「何、考えてんだよ吾平……」
強張った声に、吾平はぎこちなく笑みを乗せた。
そして、その腕を、山茶花へ、求めるように、縋るようにのばす。
「あい、ら……」
囚われたように動かない山茶花の見開かれた眼に酷く穢れた銀色が映っていた。
姶良の姿でありながら、姶良ではない。それは“吾平”でしかない。
「――いい加減にしろ……っ!」
初めて聞く怒鳴り声に、身体がちぢこまった。
「大事にしてきたんじゃなかったのかよッ!大切な人何だろ……?」
山茶花の腕が伸びてきて、咄嗟に身体が射竦められた。
けれど、口調の苛烈な勢いとは逆に、山茶花はひどく優しげで……壊れ物に触れるかのような、恐れるかのような触り方で、吾平の頬を拭った。
(あ……)
いつのまにか涙が零れていたのだと知る。
頬を伝う跡を、姶良とは違う無骨な手が撫でる。
(……大切だよ。大事だ。感謝してる)
その感触が優しいから、その手が温かいから、その表情がとても愛しげだから……吾平は俯くしか、なかった。
何もかもを失ってしまった今の吾平には山茶花を正視するだけの強さもない。
真っ直ぐ前を向いて歩いてきたはずだった。後悔する事はそれまで犠牲にしてきた全てのものにも、自分に対しても意味を失くしてしまう事だから、だから後ろは決して見ないようにして生きてきた。
(けれど、気づいてしまった)
後ろを振り向く事に、罪悪感を覚える事に、意味を与えていただけで――本当の自分は、自分のしてきたことに対する責任を持てなかっただけだって。振り返る勇気さえなく、恐れていただけなんだって……気づいてしまった。
「……でも、俺は耐えられない」
(堪えられないんだ)
目の前にある身体を突っぱねた。




