63
「行こう」
暗い部屋の中に光が一筋差し込んだ。そして言葉が滑り込んでくる。同時に差し伸べられた手。丸まった背にシーツを巻きつけて、頭まですっぽりと隠してベッドにジッと座っていた吾平はその姿に、ゆっくりと見上げ、――けれどまたゆっくりと否定に口を震わせた。
「……そんな気分じゃない」
ポツリと一言を零す吾平の様子には鬱陶しさが隠す事もなく含まれていた。
丸一週間以上続いた戦闘。開始を告げる音もなく奇襲から始まった戦闘は吾平がハウネを倒すという事で徐々に集結を見せていた。無論、サリファンダと人間との生存をかけた全面戦争がそれだけに終わるはずもない。そもそも、この国が、このアカデミアが中心・激戦地となっているだけで端緒は世界各地にある。戦いは今も継続して、何処とも知れず行われ、誰とも知らない人々が命を落としているだろう。
そんな中、アカデミアの戦いは今現在、小規模に継続していた。時折紛れ込んでくるようにサリファンダが現れる。戦線では黒い群のサリファンダが未だ息をしている。アカデミアの外――極寒の中、震える身体に熱を加えるが如く、猛る者たちがいる。
「吾平!」
シーツを硬く、まっ白になる程強く握り締める指だけが飛び出していた。それを山茶花は引き出す。
「……っ!」
冷たく、白い腕が零れだした。素肌は雨に濡れたかのようにびしょぬれで、小さく震えている。通常ならあるはずの抵抗もなく、吾平の白い体が山茶花の方へと倒れこむ。
「……気分じゃないとか、関係ないだろ。俺たちは――戦わなきゃならない。強くなる必要があるんだッ!」
きつく、抱きとめる。水分をふき取らなかった身体は冷たく、熱を奪われていた。まるで吾平の心さえもが凍り付いてしまったかのように思えて、熱を逃がさないよう抱きしめる。隙間を作らないほどきつく、己の熱を分け与えるかのように強く。心を代弁する。
無抵抗の冷たい身体はひどく死を近しく思わせ、……糸の切れた人形よりも重く無気力な、投げ出された肢体が――暴かれた死体にも似て見えた。
ふいに、吾平が腕を上げた。
冷たい腕で優しげに山茶花の頬を撫で、そこだけ色づいたかのような赤さの唇が、「……じゃあ、俺はお前らと競って強くなれるのか?違うだろ」
その言葉に、ないはずの隙間からするりと風が入り込んだ時の凍てつく空気が山茶花を突き刺す。(彼らが吾平を必要としているだけだ。相互じゃない。一方的)
そんなものはわかっている。だが、剣を交わす事は心を通わせる事でもある。吾平にとっての利とは何か。
「――俺と、戦えよ、吾平」
吾平は無感動の瞳で見つめ返して、パタンと音がするかと思うほど急激に腕は力を失った。
へなへなと、座り込んだのは山茶花だった。
武器もおかずに、吾平の前で、その視線を知りながら、しゃがむ。頭が痛くなりそうだった。何もかも、思考がぐちゃぐちゃになりそうだった。
こんな吾平は知らない。こんな吾平は山茶花の知る吾平ではなかった。
「何やってんだよ、お前。こんな、こんな――」
今なら分かる。吾平がどれほど強かったのか、そして自分がどれほど弱かったのか。
正式に対峙したのはこれで三回目だった。最初は最初の授業で、実力勝負の時。あの時はただ翻弄されるだけだった。手も脚も出ないどころか、全く相手にされていなかった。あんなものは眠っていてさえ出来る。次は吾平に約束した時だ。入隊する際に、吾平に深く関わる事を許された。だが、それは山茶花の実力ではない。吾平は山茶花が禁忌に手を出したのかと疑っていたし、山茶花も風邪薬のせいで意識も曖昧に動いていた。――そして今度は、
(弱くなって)
その言葉だけが、どうしても出てきそうになかった。
言ってしまえば最後、吾平は――壊れてしまう。そんな気がしてならない。
「山茶花」
いつの間に来たのか、龍城が座り込んでしまった山茶花の肩に手をかける。
アカデミア生が自由に使える訓練室。いや、それよりももっと広々としたただっぴろいだけの何もないホール。音が反響し、客席の高く用意されたその場所はその存在だけで使用目的が明確となっていた。はっきりと、対戦用。人と人、争わずにはいられない種族はサリファンダという存在へと変化してでも戦いに赴く者がいる。
決して避けられない、人同士の戦い。そのための、躊躇をなくす場所。人と人が争う事も時にはあるのだと、肯定する場所。いつもなら、この場所には多くの生徒がいる。生徒同士が互いを高め合う。感染者が挑戦者となり、監督者が戦い主となる。生徒同士の自由な時間に行う訓練。……けれど、今はそこに誰もいない。
ガランと空間が広がっているだけだ。戦争が起きている。その最中である。生徒たちも、教員も、戦闘中か静養中か。休息時には失った体力の回復を図って眠りにつく。戦いの様子を、動きを伝える為に方々に走る人。人、人、人。
人は今、右往左往して、現状を見つめている。戦場に生きている。アカデミアで過ごした時間は決して忘れる事の出来ない、平穏な時間だった。それでも、その至福の中に皆は浸れない。浸りたいと願う心よりも多くを占める――復讐心。
楽しかった学校生活とは、復讐のために強くなる、その過程。アカデミアに入学した者たちのそれぞれ抱える心の傷。家族を、故郷を、友人を、サリファンダに奪われた。そして未来を、世界に奪われた者たち。
戦う理由はそれぞれの心にあった。
けれど、――吾平は既にそれを持ち得ないという。
あの日、吾平と退治したこの場所で、まったく逆の瞳を持って吾平は山茶花に戦いを拒絶する旨を伝えたのだ。。




