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(――名前もないのに)
吾平とは、ただ識別するために付けられただけだった。
そこに吾平に対する思いはない。単に、姶良との区別、呼称のために必要とされただけだ。それを名前として使用しているのは、それでも、それが唯一つ吾平の存在の証明となったからだった。
(――記憶さえ、なくて)
思い出すはずの記憶はないといわれた。元からない、と。
姶良でいうところの14歳の時に吾平は目が覚めた。己の年齢など知らなかったが、それでも両親も家族も、家も、何も思い出せなかったがそれはあるのだろうと、おぼろげながら思っていた事柄だった。友人だって、もしかしたら想い人さえいたのかもしれないと。――二年間、捜してきた。何の手がかりもなく、それでも懐かしく思う場所はないかと、世界中を一人、孤独に苛まれながら歩んできた。
(人じゃ、ないかもしれない?)
人ではないのならばなんだというのだ。
人ではないのならば――。
何の意味もなかった。この二年間に意味はなかった。戦う意味さえ、失ってしまった。
(身体、姶良に戻さなきゃ……)
いつまでも己の勝手で使っていいわけではない。
けれど、それは吾平にとってどんな意味を持つだろうか。
己の身体が見つからない。ならば、意識の在り処はココ以外にはどこにもなくなる。どういう方法でか、姶良の体から意識を解き放ったとて、その意識はどこへも行く当てなど無い。
(消滅、するのだろうか…・・・)
些細ながらも吾平は“吾平”として生きてきた。たった二年間の間で、充実した日々を遅れたのはアカデミアに来てからの数ヶ月だけだった。
それでも、出会ってしまった人がいる。
知り合い、名前を知り、言葉を交わしてきた人々がいる。いつの間にか、心の中で大きくなってしまった存在も……今の吾平にはいるのだ。
(はは……ッ馬鹿だな、俺。なんで、あいつらに、――気ィ許しちまってんだろ)
楽しかった。
楽しかったのだ、彼らと過ごすのが。
(自分の身体が、あれば……良かったのに)
いつか見た夢。
己の本当の身体で、彼らと共に笑いあうこと。姶良に真正面から会うこと。
自分の身体で、触れ合いたかった。そこから、新しい何かが始まるのだと――人として、何かを築き合えるのだと……。
(叶いもしない夢だった、か)
「ほん、と……ばッかみてー」
最悪、と呟きながら眼の高さに上げた腕の下から、隠しきれない涙が伝った。
目元が熱い。喉が痛い。胸が締め付けられる。
「馬鹿ね、あんたって。ホント、馬鹿」
聞こえるはずのない返答に上げた視線の先、赤の景色が広がっていた。
「な、んで――」
目の前の光景が信じられない。吾平が現実を疑いたくなるのは初めてのことだった。
「さぁ?身体が動いちゃったんだもの」
しかたないでしょ、といいながら微かに苦笑して見せるその顔は赤い血で彩られていた。
女の顔だ。洗練された、少女。少女らしい少女。綺麗で、穢れない、――吾平の決してなれない姿。それが、目の前で、……血に穢されている。
「仇、とりなさいよ。――倒してよ、私の代わりに」
腹から食い千切られながら、その女は言った。
「カガラ、ファ……」
うめき声のようなくぐもった呟きにも「名前、知ってたんじゃない」そう言って彼女は笑った。
「わらい、なさい。女の子、でしょ……恋をして、輝いて――幸せになるのよ……あいら」
風をそよがせ、大気を震わせていた吐息が細く、恥じ入るような切なさで消え入った。
腕はだらりと力なく下がる。若々しい命の輝きに満ちていたその身体から輝きが零れていく。――漆黒と純白の世界に赤が混じる。
いつもの、華美なほどの装飾と、制服と、手入れのされた髪と爪。そして武器を握る白い手、潤った肌。化粧によって更に美しく着飾ったカガラファのいつも。それが上から赤に塗りたくられている。真っ赤なそれは踏み躙り、荒らし、――彼女の美しさを赤で彩った。二度と変わることのない美しさで、これ以上に壊れる事もなく、変わることさえ止めてしまって、その美しさは永遠になった。儚く壊れた姿だった。
「“吾平”の知り合い?」
頭上から、それは響いた。
「食べちゃった。知ってたらご馳走用に残しておいたのになぁ……」
悔しげな言葉だが顔が笑っている。何の感慨も覚えていない瞳は笑っていない。穏やかな表情が常に乗せてあった顔には今、壊れて歪んだ笑みが乗せられていた。
「じゃあね」
「どうし、て――お前が、“ハウネ”!」
飛び跳ねるような格好をしたサリファンダの上、膨れ上がるように大きく裂けた腹部を晒したハウネがそこにはいた。二つ目の“口”だ。
ダランと長く垂れ下がる腕は途中から人外のものへとなり、指にあたる部分は無く、拳のように膨れた部分がまた口を裂けさせていた。それがクチャクチャと咀嚼する。……カガラファの腹部だ。それ以外の場所には興味が無いように、投げ捨てられている。
「案外鈍いね、吾平も」
先を行こうとしたハウネが振り返り、言った。
「どうして……っなんで擬者に!?」
その姿は人として生活いていた頃とは遠い――異形の様相を呈している。理性を保ち、けれどサリファンダの力を手に入れた、サリファンダと人のどちらにも属さない、そしてどちらにも属する存在、擬者。その思考はサリファンダに近く、ファラカイナへの希求も押し留められない。中途半端な存在。
「アテナは!?お前はアテナをあんなに――」
「アテナは死んだよ」
(え?)
数度しか会ったことのない、勝気な少女の姿をその背後に見たような気がした。
「僕が殺したんだ」
感情の死んだ声。
アテナを殺したことでハウネの感情も共に死んでしまったのだろう。
(感情で動くアテナをハウネがよく、止めていた)
姶良の記憶が弾ける。
幼い頃の姶良。幼い頃のアテナとハウネ。そして、幼い頃のオルイナ。
オルイナと姶良は一緒にいることが多かった。好奇心の旺盛なアテナは面倒見のいい姉が大好きで、いつも一緒にいた。ハウネはいつもアテナが引っ張っていく。どこへ行くにも二人は一緒だった。父はそんな彼らに無関心な風でいた。けれどたまに視線があることに気づくのだ。複雑そうに歪める表情の意味は最後まで誰にも分からなかった。
ふと、それが壊れていることに吾平は気づく。家族の絆は簡単に千切れ、解け、霧散した。“吾平”が間に入り込んだのだ。――姶良は眠りについた。オルイナは死に、ハウネは人ではなくなり、アテナは……壊れた。
「僕が擬者になったのは、もともとアテナのせいだよ。でもね、本人に自覚なかった。それでも僕のためにいろいろと手を尽して、他の人にばれない様にして……馬鹿だよ」
感情を無くした言葉は、けれどどこかで何かを探すように視線が動く。子どもが求めるものは既に何処にも無い。けれど、アテナに付き合って演技した“子ども”は未だハウネの中にあり続ける。口調が抜け切らないのだ。
上腕から幾つもの開ける口がある。くちゃくちゃと糸を引きながら、鋭い黒の牙を覗かせながらそれが開閉する。ハウネの腕が獲物を探すようにずるっと動いた。
本体のハウネを置いて、腕だけがまるで別の生き物のように、地を這い出す。
「そんなことすれば僕が元に戻るとでも思ってたのかな。それとも、罪滅ぼし?無駄だよ」
「ねぇ、どう思う?」
問いかけは、答えを欲しているように思えた。
けれど、吾平はアテナではない。ハウネの疑問に答える声は永遠に失われたのだ。




