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「アテナ」
カチャ、とドアが立てる音はなかった。ただ静かに、ぼんやりとした時間がハウネの上を這っている。だが、アテナはどうも違うらしい。慌しげに椅子から立ち上がると、入口の前え呆っと突っ立つハウネの手を引いて迎え入れる。――二人の部屋だ。
「やっと帰ったのねハウネ!」
繋いで引いた手から抱擁へと容易く変わる。この年頃のことでは異性間でそれが行われるのは珍しいことだ。それが恋人という間柄なら未だしも、姉弟というのならばそう易々と行われないはずの行為。けれど、二人はそれを当たり前としている。二年前からだ。
「もう、何処で何をしてたのよ。遅くて心配しちゃったじゃない」
「別に……少し、人と、話、してた」
アテナが変わってしまったのも、ハウネが変わってしまったのも、すべて二年前。
アテナが壊れてしまったのも、ハウネが壊れてしまったのも、また二年前だ。
「……そう。でも駄目よ、私のいないところでお食事しちゃ。いつも言ってるでしょう。ちゃんと、私が用意してあげるから、ね?」
幼子に言い聞かせる母親のようにアテナはハウネを諭した。そしてハウネもまた、幼子が親に甘えるように、幼い口調でその優しさを受け入れた。
「そう、じゃあ、しましょう?」
けれど次には、アテナは母でも姉でもなく、女になった。
赤く、艶やかな唇をハウネに向け、眼をそっと閉じる。僅かに睫が震えていることにハウネは気付いていたが、いつも何も言わなかった。ただ、頬に手を滑らすだけ。瞳の端に溜まる水滴さえも気付かないようにして、顔中に唇を押しつける。
寄り添った身体はそっと離れた。名残惜しげに見あげてくるアテナは何も言わないが、その望みはわかっている。いつもと同じなのだ。
「だめ、口は――駄目。だって、姉弟……」
「いいのよ!そんなことを気にする人、ここには誰もいないじゃない」
今度はアテナからハウネの高い首に手を絡めた。(これはいつものこと。だけど、)
いつもと違う事は一つあった。
「……アテナ」
食欲。
ハウネの思考はその一つで埋まっている。とめどなく繰り返される言葉に洗脳させそうだった。いや、行動させられた。(抑え切れない、食欲が)
近くにある“食べ物”にハウネは思いっきり口を開ける。
「おなかすいた」
「え?」
食後にいつも行われるはずの行為は、安全だった。
けれど、ハウネはアテナから食べ物を与えられていないし、今日は“つまみ食い”をしたわけではない。ただ、純粋に話をしてきただけだ。
* * * * * *
「そこに今いる自分にさえも無関心な君が、過去に心を奪われるというのは些か滑稽な話だね。だってそうだろ?君は今の自分を形成する“過去”というものに興味がある。だが、その集合体たる現在に興味はない」
一人、語るように“おしゃべり”は感情のない声で言った。だから吾平もそれに沿うように出来るだけの私情を捨てて言葉を放つ。
「今に意味はない。俺に“現在”は無い」
それは終止符だ。“おしゃべり”が仕事をするに当たって客に対し代価とするもの――昔語りだ。個人情報というほど軽くなく、制限は無い。ただ思い出を一つ、宝箱から取り出して教えるように話せばいいだけ。どのような種類の、どのような長さでも、――そして、その代金に対して過不足無く、“おしゃべり”は仕事をする。――ファラカイナの彫刻だ。
「わからないな。今君はそこにいる。そこで息をして、僕と話している。それだけじゃないか」
相互を崩して“おしゃべり”は話す。そのやり取りは代価とは全く関係のないものだ。“おしゃべり”と呼ばれる所以だ。客商売をしているというよりも首を突っ込んでいるといった方がいいか。この店に来るものは大体が“特殊”な部類に入る。放浪の悪癖が、しかし客を呼ぶ。店ごと移動する、という“おしゃべり”は奇抜以外の何者でもないが、それでもその技術は業界で誉れ高い。――実戦力としては疑問だが、ファラカイナの使用が出来る数少ない大人だ。
「それだけだからだ。……今の俺は仮初だ。過去の記憶がない。今なんてものは無い。この体さえ、――“自分”じゃない」
「体が君のものじゃないから?過去の記憶がないから?おかしなことを言うね。記憶がないなんてことはないよ。例えば君は今、記憶を持ち、思い出を持つ。アカデミアに入ってからのことならよく分かるよ。それは君の過去だ。確固として、変わらない。失ったものも君の過去だが、今あるのも君の過去だろう?記憶に体は関係ないさ。自分の体じゃなくても意識は自分なのなら、問題はないはずだ」
「屁理屈屋だな、お前は」
「何を言ってるんだ。“石屋”だよ、僕は」
彫刻を主とするくせに“石屋”と主張するところなんか、突っ込む気も萎える。
彫刻は客へのサービスで、放浪によって拾った、もしくは集めた鉱石の販売をしているのがこの店らしい。利用者からはその彫刻技術の高さから刻屋だと認識しているのだが。
「オーダーを」
「はいよ。何をお望みだい?」
幾らかの注文をつけて向けた背に「出来上がったら持っていくよ」と若々しい声がかかる。――幕が開ける。もうすぐ……アカデミアを舞台にした戦いの幕が。
「……君は君だよ。たとえ何者であろうと、何であろうと」
吾平には石屋言うことの意味が理解できなかった。いや、したくなかった。
うっすらとわかりかけてきたものに対する性急なる答えだと思ったのだ、それは。その言葉を肯定することには、吾平が全てを失うことと同じ重さが詰っていた。




