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結果は惨敗とでも言おうか。オウガンは現在医の部門の警護を統括する立場を担っていた。出身はアカデミアであるらしい。その時に姶良に助けられた。己より小さいながら強い姶良に最初は反発していた。……などと延々聞かされた。姶良の記憶に触れることで無意識下の姶良に話しかける、という名目だったが、吾平たちからすればただ話したいだけ、自慢しようとしている風にしか感じ取れなかった。次にやったのは、というか本題なのだが、専門家の治療だ。暗示により吾平の記憶を辿るというものだ。無意識下に訴えるものだから、失敗しても姶良が目を覚ますだろうとのこと。わかったのは、ようするにオウガンが相当な姶良至上主義者だということ。
そして、専門家からの言葉は――「……彼は本当に記憶を失っているんですか?」
“疑い”。
「どういう、ことですか?」
戸惑い、何も言えない吾平に代わって山茶花が聞き出す。
「いえ……言いにくいことですが、結果として彼の記憶はありませんでした。彼が忘れている、というのではなく元からないのですよ。まるで、それまでの間ずっと眠りについていたかのように、記憶がすっぽりと抜けている」
その後、それをどう受け止めたのか、はっきりとした記憶が吾平にはない。ただ、山茶花は吾平を見つめていたし、オウガンはどこか最初から分かっていたように平然としている。専門医はただ言葉を続け、また困ったように眉を寄せ続けていた。
* * * * * *
『もし彼が別に己の身体を持っているとしても、それは彼の見覚えの無いものでしょう。自意識の確立する前に離脱したか、自意識の生れる必要のなかった生物が依り代かのどちらかという線が妥当でしょうね……』
ベッドの上、一人になった吾平は夕刻のことを思い出していた。無言で食欲も無く、早々に部屋に入った。あれから、誰とも口を利いていない。山茶花が幾度か話しかけてきていたが、それに答える気力も無かった。部屋に戻るのさえ、足下があやふやだった。心配が頂点に達したのか、最後には担がれて、来た。それでも、吾平は何の反応も返せなかった。
「俺は――――人じゃない?」
口に出した疑問に身体がぶるりと震えた。
まるで拒絶するようでいながら、それは図星のようでもあって、感覚が不鮮明な己の身体を掻き抱いた。
『お前の事は認めない。だが、どうする手立ても無い今、しかたない。姶良の身体を傷つけるわけにもいかないからな。――私は私の方法で姶良をお前から取り返す』
無言に、病棟の出入り口までを過ごした後、オウガンは言った。行きは姶良の話をして活き活きと、懐かしげだった表情は無表情だった。それに吾平は“好きの反対は無関心”という言葉を思い出した。思えば、吾平はアカデミアに入った頃周囲の全てに対して無関心を貫いていた。その心には姶良だけが住み着いていた。例外は、サリファンダとオメガ、そして山茶花でしかなかった。――吾平は以前とは変わった。
『次に会った時は、お前の最後だ』
しかし、そのことに意味は果たしてあるのだろうか。
「俺は――――なんなんだ?」
疑問を口に出しては、答えを青き月に問う。
だが答えなど、初めから期待もできない。
自らの身体を明るい光の下から隠すように、吾平は白いシーツを引っぱり上げた。
その姿を、月は照らし続ける。逃げる事を許さないように、隙間無く、ずっと。
* * * * * *
「デマンダの現隊長からの挨拶です」
大勢の前にアテナは立っていた。
美しい少女は姉の死を乗り越えた幼い少女でもある。ただ、己から家族を奪った敵を倒す、世界を護ることにその若々しい人生を捧げた美しい少女だ。しかし、(馬鹿じゃない?)
現実は裏切る。
そんなものはただの御伽噺だ。誰かが事実を美しいストーリーとしただけだ。
(そんなお涙頂戴の、ドラマティックなものが現実にあると思って?)
アテナの思考はそんなものに犯されない。歴然とした確固たる意志でもってアテナは戦う。自らが隊長という地位に立ったのもその意志が強さを身につけさせた体。若く、強く、美しい。女神の名を預かるに相応しい自分、というもののためにアテナは自らを磨いてきた。それをそんな空想で見られるのは非常に不愉快でもあったが、黙っていた、“都合のいい理解”のされようでもあるからだ。何の詮索も受けない。アテナの真実を知る者はただ一人、弟のハウネ以外にはいない。
(みんな馬鹿の集まりだわ)
サリファンダの先導者というオメガの存在が公表されたのはその宣戦布告に伴ってだ。しかし、アテナは知っていた。その姿を知らないはずが無い――憎い、敵だ。
アカデミアが戦いの部隊になることは決まった、デマンダの皆も全てが退却となって戻ってくる。アカデミアに戦う者の全てが集い始めている。――人類の主要戦力だ。
その最も要となる部分にアテナはいる。サリファンダに対抗する手段を持つ者が若者に限られているからと言って、皆無ではない大人。彼らもまた、十代の少女一人に期待を寄せている。(馬鹿馬鹿しい)
思うのは二周りも違う少女に命を預けることではない。あてなは命を預かる立場というものを良く心得ている。戦場を初めて走ったのは片手にも満たない年の頃だった。
馬鹿げていると繰り返し思う理由は――人々の命を預かる立場にいるはずのアテナ自身が、他の誰かに命を預ける立場という軍の構造である。
(誰かのために命を捨てる。けれど、多くに救われたはずのその人が他の誰かの命を救うために自らの命を塵芥のように捨てる……)
犠牲となったものは報われない。優先順位も命の尊さも違うかもしれない。救った命は誰かを救ってその先の事を変えるかもしれない。けれど、(捨てた命の方は報われない)
白を埋め尽くす勢いで広がる人数はいくらだろう。数百、数千の命は――けれど戦場において急速にその数を失っていく。ただ命を捨てに行く。
(もしこの場で命を捨てるなと言っても――皆ここを離れることはない)
それぞれの戦う理由を掲げ、勝てる見込みの無い戦いに挑んでいく。




