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「アイラ?」
名を呼ばれたような気がして振り返った。
視力が回復しても未だ“通常”とはいえないチセは今、病棟に仮住まいしている。元々意識を喪失したチセはあの日、アカデミアの病室ではなく、要塞の抱え込んでいる病棟の一角に寝かされていたのだ。本人の意志もあり、アカデミアに戻ることは決定しているものの、リハビリが必要だということでもう暫くの間は病棟に滞在している。仲間として、自己鍛錬や任務の合間、学校とも兼ね合いを見ながらチセのリハビリには介添えとして友人や隊員が付き合う。今も吾平と山茶花がチセに付き合った帰り道のことだった。
山茶花が振り返り、吾平もまた己の名が呼ばれたのだと気づく。
「姶良、姶良じゃないっ!?」
呼びかけはどこにでもあるもので、吾平にはありえないもの。普通のはずの再会は、喜ばしいものではなかった。痛々しく胸に刺さる。
喜びに満ちた再会の声音が空しく病棟の白い廊下に響いた。
「久しぶりね、わかるかしら。オウガンよ、私。もう何年経つのかしら?確か私がまだ訓練生の時だから……」
近寄る女は吾平の記憶には無い。姶良の記憶を共有しているといえども、それも完璧でない。吾平にしてみれば姶良の記憶にも残らない、ただの他人。――しかし、言い方からして友人なのだろう。ただし、一時的な、期間に場合のみ。
「触るなッ!」
振り払った手は、警戒に変わった。“友人”の眉根に寄せられた皺が深く刻む懐疑に、吾平には言う以外の選択肢を喪失してしまっていた。吾平はその声なき問の答えを返す。
「俺は姶良じゃない」
「なら何だ」
即座の返しは低音に殺気をばらまく。
一度は好意の浮かんだ口調が刺々しく吾平へと刃先を向けた。先ほど振り払った手にはいつの間にか武器が顕現され、純粋な敵意が空間を支配する。
「姶良でないならサリファンダか。それとも私に敵意持つ者か。いや、どちらでもいい。人の記憶を盗み見た下郎には違いない」
ファラカイナの能力で姶良と同じ格好をしていると思い込んだその口調は言い訳の一つも許さない。少しでも場のバランスが崩れればすぐさま戦闘に雪崩れ込む。
だが、吾平の方は違った。常ならば敵意に攣られて戦闘状態に移行するが、困ったように眉根を寄せている。言葉は不明瞭に淀む。
自己を確定することは吾平が吾平としているために必要な行為だ。それを否定してしまえば吾平はもう何も言えない。
「俺は……」
「アイラだよ」
詰問に詰る吾平に差し挟む声が判断を下す。ぎゅっと握られた手が痛い。
「吾平は吾平だ」
山茶花の声が、吾平の存在を認める。震えが収まって、ようやく自身が震えていたことを吾平は自覚した。
「あんたの知るアイラじゃないかもしれないけど、ここに吾平はいる」
ここにいていいのだという山茶花の声が吾平に力を与える。それこそが吾平の源だ。確固たる存在の認可。他者から認められたい。それが吾平の強さの根源にあった。力は絶対的で、誰もが認めざるを得ないものだからだ。力によって残された痕には誰も言い逃れは出来ない。――吾平が強かった、強くならざるを得なかったその理由だ。
だが、今はもうそんな必要も無い。山茶花が一人、“吾平”の存在を認めた。姶良でない、吾平を見た。それが何よりも嬉しいのだ、吾平には。
握られた手のもう一方は銀の十字架に合わせられた。
「何を言ってる?」
しかし理解できないのは姶良の旧知だ。事情を知らねば誰もが納得できない。いや、知っていたとしても納得など出来ないだろう。――「死んだって、聞いてたから……」と零した唇が今はかみ締められている。感涙した眸は鋭く、吾平を射抜く。
「姶良はもういない」
「おまえッ!」
ダンッ!と踏み込み音高く、廊下に響いた時には吾平の目の前まで、足が迫っていた。鉄の入れられた、頑丈な靴はアカデミアでも軍でも珍しくない。靴でも装備だ。
けれど、その靴が武器として使用される事など皆無に等しく、武器を持った手ででは武器で攻撃することの方がより合理的だ。
「なぜ、避けない」
「傷を付けられたら困る。だが、避けて返しの一撃を喰らうよりマシだ」
オウガンの手に握る武器に視線を下ろす。先を下に向けた剣は動き出す気配がない。しかし、彼女の腕は違った。力が漲り今にも沈黙した剣を叩き起こさんとしていた。
「それに、山茶花がいる」
守りたい、そう言った時と同じ顔がそこにあった。瞳に険が込められ、常の人好きのする笑顔は取り下げられていた。「……話を聞こう」
何が後押しをしたのか、神妙な顔つきのまま、オウガンは剣を消した。




