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コンコン。
ノック音にチセが反応して扉を向いた。続く言葉はない。シグマは不安そうに見上げるチセの頭を一度撫ぜ、呼び出しに応じる。
廊下に背を預けていたのは吾平だった。
「シグマ、今いいか」
「ちょうどよかった。君に聞きたい事があったんだ」
そちらからどうぞ、と促して背を離す吾平と入れ替わりに壁へと寄りかかって黙す。
「……チセはコンタクトの経験はあるか?ファラカイナの力でどうにか眼を治せないかと思って、コンタクトの形にしてみた。勿論、それをつけても視界を安定させるには常に現象化をしなくてはならないし、負担もある。狙われる危険性も増えるだろう」
「だが可能性はある、と」
ふむ、と頷いてシグマは再び黙る。肯定も否定もない。静寂は思考のための時間だ。シグマの順行される頭脳が導き出すまでもない。チセのことについては多少の危険に眼を瞑ってでも可能性は手を尽くす。それが彼女のために出来るシグマの最善だ。
もちろん、隊長として11隊の隊員に下す判断とはべつのもの、私情だ。
「お前は止めるかと思った」
「……止めて止められるものならそうしたいよ。けれど、頑固なのは変わらないからね」
チセはきっと、目が見えずとも復帰しようとするだろう。“本当の天才”はそんなことを苦にせず、難なくこなすだろうからこそ怖い。(吾平のことだけではないな)
一概に強いものとは、脆い面も多々あるのかもしれない。チセも、己が才能に恵まれすぎていた。それに生い立ちの不幸がより高みへと突き上げた。けれど、だからこそその心は不安定な棟だ。一本にだけに頼りっきりの歪さは年月を経るごとに曲る。そして歪は隙間を呼び込む。――チセの歪みの根本が自分にあると知っているからこそ、シグマは何も言えなくなる。
「戦う意志があると、言ったんだな」
声が差し挟まれる。フィグローゼだ。山茶花はいない。
「すまん、聞こえてた」
盗み聞きも何もないだろう。廊下という不特定多数の者が出入りする場所で話している方が悪い。取り立てて他を気にするべくもなく、会話を進める。
「いえ……学校の方針としては?」
「意志は個人の自由だ。戦いたいも残るも自由にしていい。ただ、無駄にベッドを使用しているわけにもいかないからな。その場合は、他の生徒と同じように対応する」
そうか、と吾平が部屋に入ろうとするのに、ノブを捻った手を止めて、もう一つの話題に入る。あまり長時間部屋の前にいることは感心できない。チセも外の気配にか気づいているだろうし、不安を煽る。内容が内容だっただけに吾平はシグマを外に呼び出したのだが、チセに聞かせたくない話以外はわざわざ外にいる必要がない。だが、
「吾平くん、――宣戦布告を受けたとは?」
それは確かにチセには聞かせられない話であった。
『必死だね。けれどそれももう終わる。長い苦しみから、君は助かるんだ』
あの時。毒をまともに吸い込んだ吾平は乗っ取られるように手足の自由を著しく制限されていた。動かない体はけれど動かされて、霞む視界の中で見た影に剣を向けた
それがチセだと気づいたのは直前だった。手足の動きは止められない。――吾平がチセを切った。いや、正確には打った。
吾平が持つファラカイナの剣は普通の武器とは違う。鋭角を持つがそれは打撃武器なのだ。流線型のフォルムが美しい剣は血を出さずに、仲間を傷つけた。
『宣戦布告しよう。期は熟した――“僕ら”はアカデミアに、そして世界に牙を向く』
倒れる受け取ることも出来ず、自由にならない体はチセの身体のすぐ傍で冷たい氷の上に這い蹲っていた。その上に落とされる言葉。
『全面戦争が起こる。君のせいで、君を中心にした戦いが……君の存在をどちらが手にするか、運命の分かれ道だ』
――結局、吾平は何もできなかった。
吾平が霧の中に入り込んでしたことは、チセを切る事だけだった。みすみす敵を逃がしたというのならば、吾平が選択した判断こそ見っとも無く誤った行動だった。
「チセが回復してから知ったからね、僕も」
(チセが、自らそう言ったのか)
シグマの言葉に回想から引き上がった意識が考えたのはそのことだった。チセがあの場所で起きたことを記憶しているということだ。ノブを握る手に入った力が抜けていく。
「報告怠慢、か」
「……いや、今報告してるんだから問題ないだろう」
フィグローゼは素早く気づく。吾平が小さく零した言葉は問題のすり替えだった。
チセに対して複雑な感情がわき上がったのだろう。霧の中では相手の判別がつかないとは吾平の言葉だ。チセもそうだったはずだ。ならば吾平が傷つけたことを――どうしてこんなことになったかも分からないままだった可能性もある。
けれど、その後のことを知っているのならばチセは確実に己を傷つけた相手を知っているということだ。
(厄介な生徒ばっかりだな、うちは)
オメガに宣戦布告を受けたのは吾平だ。しれがアカデミア全体に対してのものだとしても、この世界の人間に対するものだとしても――目的はただ一つだろう。
オメガに対峙した者ならば皆が分かるだろう――あれは吾平だけしか見えていないのだ。
「――二人きりにしてもらえないか?」
何かを言おうとしたシグマを抑えて、フィグローゼが頷いた。




