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(シリマナイト……か)
和名だと珪線石。別名、永遠の石。淡い紫色のそれは色づき始めた花の薄花びらの弱く可憐な美しさを放つ。月下美人が夜の明かりにほんのり夜色を身につけるような、清楚な薄いインディゴブルー。無色に近いような色合いの多いシリマナイトだが、実際には緑や赤色、青色も存在する。その、薄青色が十字架の銀に清冽な印象を深めていた。
意味合いは自己の成長。肉体の若さや精神の成長の過程を記録する。懐かしい記憶と輝かしい栄光の象徴。過去を見つめ直し、創造的未来を生み出す。また、傷口を塞ぎ細胞を蘇らせる再生の意味を持つ。身に迫る危険の予知・事故からの守護といった意味合いも持っているはずだ。
「円。……球体や守り、境界、全角度、万遍ない、――そんな意味だったか」
ガダン語の“円”という言葉の意味を共通語に直す。意味が曖昧なのはガダンの言葉の規定が共通語には当てはめられないからだ。全く別の成り立ちをしている言語同士では意味を使用によってすり合わせていくしかない。こればかりは明確にできない。ガダン語の意味の変化が著しいのは意味を持つ単語と修飾語による接続という造りで成り立つ共通語とは違い、文字にひとつひとつ、接続にさえ意味を持たせて、複雑に組み合わせていくための弊害だった。
「よく、知ってる……」
驚いたように、少し意気消沈して呟いた山茶花に苦笑を零した。
「齧ってる程度だ。ガダンはファラカイナに縁深いからな。ガダンの文字の方が効力は上がるって知ってたか?」
「え!?マジ?」
「使用者としてはガダン語は難しい上にイメージがし難いからって、殆どが共通語の方を刻んでるだけだよ」
視線は銀の十字架に、その埋められた美しい石に落とされ、指は刻まれた文字たちをゆっくりとなぞりあげていく。ただ文字を刻むだけでなく、飾り文字として紋様として仕上げているのは職人技とに達するだろう。余計な文字を刻んで能力に限界領域を作り上げる事もなく、ただの“円”のみの文字。それがもし、“円滑”“円弧”“方円”“円満”などというような領域の狭めを行っていたならば、また違っただろう。“円”のみならば活用法は十数倍にも、想像力次第では膨れ上がる。
(しかし、姫にもらったか――姫……)
「そうか!その手があったっ」
「え、なに」
「姫だ!姫と同じようにすればチセの視力は回復する――!」
「お前はフィグローゼに!俺はシグマに話を通すッ!」
それは動き出した瞬間だった。
何か、大切な物事の、始まり。――終わりの為の幕が上がる。
* * * * * *
「痕跡はありませんでした」
その報告は無言で聞いた。
(偽称どころでは済まないぞ、“山茶花”)
山茶花の経歴は全てが謎に包まれていた。故郷となった場所は数年前から外界との接触を断っている。そこで潜入してみたところ、そこには潜む必要もないほど、何の気配もなかった。占領などという事実はない。ただ、もっとずっと前のことだ。書類に書かれたとおりの経歴は十年以上も“ズレ”があるのだ。
「――やはり、自分で行くしかないのか……」
夢――過去視を行うにはいくつかの条件がある。その一つには現地である事。
情報が必要なのだ。出来るだけ新鮮で、原型に近いもの。……山茶花の故郷にいく必要がある、か。
この時期にここを離れることになるとは、いい機会だというのと同時に、不安もある。
戦乱の世は、もうすぐそこまで来ている。数年単位の話ではない。数ヶ月、いや、もしかしたらもう……すぐそこまで迫っているのかもしれない。
「先生」
「ッ!?」
突然降った声に振り返るまでもなかった。その影はすぐ横にまで来ていた。
(いつの間に――)
表情豊かな顔はいつも通りのひょうきんな顔をしている。覗き込む笑顔はフィグローゼの驚いた顔に、強い警戒の眼差しに心の底から不思議そうな顔をしている……様に見える。だが既にフィグローゼはその素直な表情を、仕草から推し量れる態度を、信用できなくなっていた。加え、直前まではその山茶花についての話をしていたのだ。
(聞かれた、か?)
不穏な気配を感じ取れなかったということはないだろうに、無警戒の笑顔を気を取り直したように再び顔に乗せる。
「チセ先輩の目を治す方法、姫の目のようにしたらいいんじゃないかって。先生にも立ちあってほしいんです。登録外ファラカイナの使用のこともありますし」
「ああ、わかった」
(隠れる場所はなかったはずだが……)
突然の出現は隠れていたという選択肢を外すと、フィグローゼの感覚にひっかからなかったということしか残らない。扉も何もない開けっぴろげな廊下では暫くの間す形を見せていたはずなのだ。気配だけでなく、視界にも納まらなかったというのならそれはフィグローゼに認識させない何かがあった、もしくは景色に溶け込みすぎていたということだ。
(自然に溶け込む才能があるとは思えないんだがな)
普段の山茶花との“ちぐはぐ”さから「やはり」と確信を深めるフィグローゼ。前に見つめる背は、ただ仲間の元へと急ぐ青年のものだというのに、――闇が渦巻いて見えた。




