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『毒、か』
毒の痺れによって、まず四肢に障害が出た。充分に離れきった場所とはいえないが、それでも一応の安全が確保されている場所だ。だが、問題は龍城に通信手段がないことだった。既に龍城のブレスレットは使用限度を超え、砕けてしまった。
(吾平がいれば……!!)
吾平のブレスレットは未使用。だが、手元にはない。
ふと、触れた。ポケットの中だ。
(これ……あいつ――)
ポケットの中には固い感触。吾平が持っていたファラカイナの通信具。
(やってくれるぜ)
逃げ出そうとした龍城の腕を振り払った時に忍び込ませていたのだろう。
口の痺れが治るのを待った後、シグマへと判断を仰ぐ。
だが、いつになくシグマは焦っているようだった。混乱か戸惑いか、口にする。
『――あそこにはチセが……』
「え――」
シグマの言葉に、今し方出てきた洞窟の入り口を振り返った。
視界を霞ませることにまで効果範囲を及ぼした毒。吾平はその中にいてどれだけ自分の意思を通せるだろうか。きっと、オメガには逃げられてしまうに違いない。
心配なのはチセだ。何事においても規格外な吾平は心配するだけ取り越し苦労となるが、普通の者は毒に耐性がない。それだけではない。吾平に毒が効くのならば(――相打ちを敵に狙われる)
身体の自由を奪う毒は多分、その種類を任意に変える。チセがそこにいることを知れば、吾平を操り、……チセに刃を向けさせる。
焦りが龍城にも伝染する。
先ほど最後に見た吾平は普段どおりに見えた。けれど、その一瞬前には、
「やべぇ……」
虚ろな目。恐怖に怯えた目。嫌悪して憎むような目。書き立てられる不安に戸惑う目。
どこにでもいるか弱い少女と同じ、見た目と相違ないただの力ない少女。その姿が吾平に被る。脆い、崩れる手前の心。
それは龍城の前で隠されていただけだった。内側にいつでも内包していた、吾平の弱さ。心の不安定は毒に操られることを容易とするのではないか。
不吉の気配が龍城を撫でてから、洞窟の中へと流れ込んでいった気がした。
――果たして、その予測は当たることとなる。
* * * * * *
「――――」
目覚めた時、視界に入った色に、懐かしさを感じた。
夢から醒めるといつも同じ光景に出会う。いつからか、目覚めれば同じ存在が傍にいた。
それは安心だ。穏やかさとともに背を這い登る震えは安心から来た恐怖だ。
半分身を起こした状態で、陶然と彼の挙動を見つめる。すると、その姿は立ち上がる。そして立ち去ろうとするのだ。何も発さないフィグローゼに興味がないのか、目覚めたら己の役目が終わったと見るのか。
「怖い、夢を見た」
フィグローゼはそんなジープニーの背に向けて言葉をかけるでもなく、吐き出す。
幼い頃。フィグローゼが孤児院で初めて彼に会った時と同じだ。
止まるでもない彼の後に続いて立ち、部屋の外に出る。停滞していた空気が離れ、澄んだ空気にまとわりつかれる。それは少しの冷たさを持ってぶつかってきて身を縮こまらせる。そんな折を見たのか、手が繋がれた。手を引かれて歩く。
のろのろ、いつもより遅い足取で。でも、引っ張ってくれる手を頼りに、確実に前へ。
「血と、戦いと、涙。悲しみが蔓延していた……硝煙の匂いがする夢」
「――それは、頑張らねばなりませんね」
(ああ)
心の中で相槌を打つ。
軍人の息子。それも孤児院の運営に関わるような男の子ども。興味はなかった。けれど、眼が覚めた時、彼はいつでもフィグローゼの傍にいた。
弱い身体とは逆な活発的性格は無理を押して外に出る。そして決まって体調を崩す。青い顔をしたフィグローゼを迎えに来る彼の手。己よりも高い背を、線の細い身体を、引っ張られながら眺めやった。
(いつでも、そうだった)
フィグローゼが夢を話すと、皆は言う。「怖かったでしょう」「不吉な夢だ」「かわいそうに」――そうして、それは繰り返される。フィグローゼのそれが、ファラカイナによる無意識下の現象能力とは、誰も気づかないで。
けれど、ジープニーは言う。フィグローゼに「頑張れ」と。
夢が本当にならないように、フィグローゼが頑張るのだ、と。
「そして」
フィグローゼはジープニーの手に引かれながら歩く。その背中を見ながら、ぼんやりと言葉を発する。
「そして、――平和だった」
次の瞬間、立ち止まってふりかえった彼の顔を瞳に映す。
ハッとしたような顔。けれど、その目に映る己の顔までは、わからなかった。どんな顔をして彼を見ているのか、この現実を受け止めているのか、自分でも、わからないまま、フィグローゼは自ら、足を進めた。




