40
夕刻にいたる前の未だ青々とした空の時間。薄暗い天候は気候の変わらなくなった国では珍しさもなく、始終見かける。それを文学者ならば不吉と呼ぼうか、今後の先行きを示すと評すか。だがそこに誰も疑問を持ち得ないのが変わらない“現在”なのだ。
氷の分厚い膜が人の重みをものともしないでそこにあった。海かと見紛うほど広大な湖はしかし、その氷の下で絶えず形を変える。流動体の、無形なる透明が穏やかに、冬の将軍の到来も知らないように緩やかな時を歩む。――その静寂を破るのは一人の男だ。
「――だからさぁ、もうちょっと落ち着いてくれよ」
独り言でも呟いているのかと思えば、そうでもない。男は緩やかな時の流れそのものに語りかけ、そこではまるで伝心がある。しかし、それはそれだけの事実を伝えるものではない。男の手には、鋭利な武器が握られていて、削るように地面を白で波立たせる。
足元の粉塵は氷を確実に抉り続ける男の行動を表していた。
「(見つけた!)」
その姿を見ると、吾平は足を踏み込んだ。
それは見事な様だった。
踏み込みは軽く、衝撃は重々しげに。そこに加わる力は少女の力だけではない。横から走り込んだ姿を誰が見咎めるよりも先に滑り込んだ。まるで前転するかのように収まりよく膝をそろえ、剣に、剣を持つ手に、全体重と回転を加えた攻撃の重みが合致する。
剣は折れた。絶対に折れるはずのない剣だ。――剣というものはそれ自体が横からの衝撃に弱い。だがその攻撃は剣の横腹を叩いたのではない。上から、少女による鉄槌で中腹からぽっきりと砕けたのだ。
「はは……まじ、かよ。ありえねー」
ギーリアの乾いた笑いが冷たい空に消えた。
「よお。よくも何度も何度も騒動起してくれやがったな」
「え。あ、知られてる?」
折れた剣を握り続ける姿には誰も何も言わない。それをいいことにギーリアは剣を握り続ける。
「てめぇ、反省の色が全くねぇ!毎回毎回、住民避難にどれだけの費用と労働と時間がかかってると思ってんだ!国立軍事組織なめんなよっ」
「いや、それ威張ることじゃねぇし。貧乏とかケチ臭いってだけだろ」
「しかも街の人口の多い、特にカップルのいちゃつくところに出てきやがって!(今のところに誰かいたっけ。担当持った時はハズレだと思ったんだけど)」
カップルが氷の散らばる湖にいるはずがない。記憶にもそんなものは見かけなかった。
しかし、実際には吾平が目にしているところでカップルはいたのだが、存在感もなく、こうして吾平は不満を述べる。先ほどの怒りに我を忘れていた向こう見ずとは違う。
(水に沈んで頭が冷えたか)
現場に着く直前に見つけた、“オメガ”を見逃したこと。そしてその後の見張りというジッとしていなければならない状況にヤキモキしたのだ。だが、今は違う。
冷静に、――敵をにらみつける。
「俺はその、デートできたから役得っつうか……。ちゃんと服もそれなりだし」
「あ、いいな。俺もアイラとデートしたい」
何処か変に批判をする吾平に対して補足なのか言葉を挟む龍城だったが、漏れ出した本音に“敵が”同調する。軽いノリだ。敵としての自覚があるのかどうかさえ怪しい。
「うるさい、黙ってろ。どっちの味方だよ。貴様も乗るな」
吾平の叱責が二人に飛ぶ。心境の近さから同調しそうになったなどとは言わないが、相手のペースに流されていた自覚があるので何とも、同列扱いに対して口を出せない。
「お前じゃなくって“ちー”って呼んでっていったじゃん」
男の軽い言葉に違和感を覚えたがそれを気に留めることもなく吾平はムベに返す。
「呼ぶか」
「いいじゃん、アイラだけだよ?特別」
「意味が分からん」
特別とされる覚えもない。男は、――擬者だ。
(あるいは、先導者の手先か)
そうだとすれば、オメガが気にかける存在を“特別”とすることも、納得がいく。この場に来る前にオメガと再会したのも必然といえよう。
「皆にはギーリアって呼ばせてるけど、アイラは気に入ったから」
「何処に気に入る要素がある」
明確にしておく必要がある、と吾平は切り込む。
「あれー?覚えてないの。それはね、」
「俺を無視するんじゃねえ!お前ら、何でそんな穏やかに話し合ってるだよ、敵同士だろッ!」
(脳無しッ!)
せっかくの機会に対し、龍城が言葉を挟んだことでそれはなくなった。己の行動を振り返ることのない棚上げに吾平は内心舌打ちした。振り返って龍城を睨んだ。
「あっれー、もしかして嫉妬?仲いいから嫉妬?ぷぷぷー」
口元に手をあて、馬鹿にした笑みで噴出すギーリアに、目を戻し、
『主ら――』
『皆、帰れ!!』
威厳のある声が、どこかお茶目な感じに下から響いた。




