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『入学式は一ヵ月後だ。それまでにお前たちを“訓練生”として育て上げる。体裁を整えるという意味もあるが、入学後はビシバシと任務が入るから、という大人の事情も絡んでいる。珍しく私が真剣に取り組んでやるから、覚悟するんだな』
フィグローゼの言葉はきっちりと一ヵ月後に果たされた。
精も根も疲れ果てた様を見せているのは何も4軍のみではなかったが、入学式という一大行事の日に当事者の生徒たちは皆眠たげに瞳を虚ろとしていた。
有象無象の中で個人の境は無く、皆が漂うどんよりとした停滞感に気を緩め、室内照明の薄暗さを実感していた。
誰かは頬を傷つける微細な感覚にパラッと天井から何かが降ったことに気づいた。高い天井はアーチ型に中央で一層膨らみを増している。アカデミアの建物は和洋中入り交ざって折衷しすぎて見苦しくならないのが不思議である。規模・敷地の大きさが調和をもたらしている一因でもあると推測できるのだが、とにもかくにもその形が異様なのではない。その中央部においてステンドグラスを見上げ硬直したのは珍しさゆえではないのだ。
訳が分からないのは否定をしたいからだ。それが現実だとわかるからこそ、一介の学生がそれを認めるには難しかったのだ。
入ったばかりで右も左も分からない、友人さえいない中でクラス列に並ぶということは交友関係を気づくのに多少の配慮がされている。連帯意識の形成、という言葉に置き換えられるだろうそれは今、効果を発した。
“誰か”は名前も分からない、同じクラスの者に手をかけた。振り返る暢気な顔に手だけで上を示せば、それが一瞬にして恐怖に彩られた。
最初に気づいたのは誰でもない、ただの新入生だ。入学式という行事の最中に頭上を見ただけの、名もない生徒。
気づいたか、気づかないか。その如何に関わらず、現実は進行する。
ミシ、という音はわりあいと大きく鳴った。しかし、それが何であるかをすぐに悟った者は天井を見つめていたその二人だけだった。
「さ、さりふぁんだ……」
その声を、聞き咎めた者がいるだろうか。
「上だ!上を見ろっ」
他の誰かが叫びに気づく。また他の誰かが天井を見る。違う誰かがそれを理解した。
しかし、遅い。既にそれは猶予が残されていなかった。
ガシャーン!
一際大きい音をさせて窓ガラスが割れた。甲高い音は連続してその場に響き渡る。
その部屋の中央に、大きな影が舞い込む。
「サリファンダの奇襲だ――!!」
穴が空いた。そう思えた黒点はやがて大きさを増し、人波は忌避するようにそれから離れる。けれど避け切れなかった。部屋には生徒が、教師が、集まっている。在校生全てを収めることの出来る空間である講堂ならば良かった。だが今現在ここに集まるのは新入生のみで、使われている部屋もそれほどの大きさを持たない。中央を開くようにすれば寿司詰め状態となるのは当然の理。見えた先だった。
黒い影は端的に言えば烏だ。しかし、一般のそれとは全く違う。黒い姿と鳥のような肢形からの判断であり、爪は長く反り返り、尾は刃物のように硬質的な輝きを持つ。発達した頤はしゃくれて牙を除かせ、獰猛な色を灯す眸が顔前面に広がっていた。既存の生物ではない。
いや、二つと類似形のないグロテスクな外見の個体はサリファンダという化物に属していた。
「全長十二メートル、といったところか」
吾平は混乱する状況に動じず、冷静な判断をもってその化物を見た。バサリ、と羽根による風圧を飛ばして滞空するそれは本来ならば格好の的である。しかし、現状はそうはいかなかった。
サリファンダという化物は人に危害を加える。ファラカイナという金属欲しさに、それを持ち合わせる人間を襲うのだ。そして、人は抵抗する。殺されたくないがために、金属を手放すことよりもその金属を利用することにした。――金属の持つ不可思議な力は化物の力の根源であると共に、人の武器となった。
そしてサリファンダと戦う存在、ファラカイナを利用して人を守る組織が出来上がった。軍の用意した、対サリファンダ特殊部隊――デマンダ。
ここにいる生徒たちはそのデマンダの卵だ。サリファンダにとっては餌であり、生徒たちにとっては倒すべき相手。しかし、卵である。
戦い方を知らない。戦う覚悟をもたない。……唐突な出来事に場は、生徒たちは混乱するばかりだった。
その時、鳥から飛来する。黒い群れと、一際大きな黒の人型――四足歩行の獣と、巨人。
一方は獣のような四肢が固い地面に食い込み、波打たせる。角を生やした頭を低く下げ、今にも襲い掛からんと唸りを上げる。黒い毛並みは針のように鋭く尖っていた。
もう一方は地震を起こすかと思われた巨体を柔らかに屈伸させ静かに着陸する。
群が生徒たちを囲い込み、狙い撃ちするように環を描かんとする。一部の誰かはそれを「逆だ」と考えただろう。サリファンダと戦う時の基本戦術は一対多数。人知を超えた力を持つ存在に対して対等を貼ろうというのならば、人の側は数で持ってそれを制する。しかし、現状は数こそは多かれど、逃げ道を失った場では人数の多さが逆に不利にしていた。逃げることどころか、避けることも出来ない事態。
四、五匹――既存の数え方に倣うとするならば、獣型のそれをそう表すだろう――の群が二十人近い生徒を的にする。それがいくつかの場所で同時発生的に起きた。
鈍重に思われた巨人の素早い猛威も揮われていた。足元で捻り潰されることは免れても、振われる腕の巻き起こす風だけで体が浮く。そんな状況でまともに反撃に移ることも出来ない。烏は様子見なのか、空中に留まり、時折口元から灼熱の息を零すだけで黄色の複眼をぎょろぎょろと動かす。
(待っている)
機会を窺い、容赦なく喰らいつこうとする残虐さが潜んでいた。
中々飛び掛ろうとしない敵の行動を人に対する警戒心からだとでも思ったのか、生徒たちの怖気づき萎縮していた心が緩み始める。
(バカが――ッ!)
その隙を見逃してくれるほど、対峙している存在は甘くない。また、吾平もそこに油断を持ち込むような事はなかった。そして案の定、戦況に動きが生じた。
それはさながらハリネズミの威嚇か、あるいは獣の咆哮か。猛る勢いは噛み付くよりも噛み砕くことを好むようだった。
「く――ッ!」
一つの輪が崩れた。そこに吾平は割り込む。
鋭い牙を至近距離で見つめながら、攻撃を留めるために掲げた剣に力を込める。少女の細腕では両手一杯を塞いだ状態でやっとの重い攻撃だ。最初の標的と定められた生徒は吾平の直ぐ後ろで武器を取り落としたまま腰を抜かしていた。
じりッ、と足下が後方へズレる。押し問答では人が化物に適うことはない。それがたとえ、ファラカイナによる補助を受けていたといても、吾平の不利に変わりはなかった。
大きく開かれた口は噛み付こうとしたものが柔らかな肉から固い金属に変わっても何ら感情を抱えていなさそうだった。いや、柔らかな肉の持ちうる“金属”は目の前にあって、ぶら下がった獲物にヨダレを垂らしている。生臭い息が「早く食べさせろ」と吾平を急かす。だが、吾平は自らの隠し持った“好物”を差し出すつもりは無い。我が身の危険性を顧みることは二の次だった。それどころか、吾平の目的はサリファンダを倒すことにある。――吾平が化物から好物を奪うのだ。
吾平は近寄る牙に顔を背け、一瞬、身体全体に力を込めた。
「っうぁああッ!!」
吾平が咆哮する。牙を押し返しながら剣のイメージを変化させた。一本の両手剣から二本の片手剣へ。頭竜刀――それが名だった。
獣の攻撃を受け止めていた方とは逆の手に持った剣を振りかざす。一方の剣に喰らい付いたままだった獣はそれによって刻まれた。黒い血を床に撒き散らす。
だがその間に他の獣が吾平へと間をおかず襲い掛かった。
(この量じゃ、……防ぎきれない!)
捌くのは簡単ではないが、できないこともない。だが、それでは致命的な傷を与えることができない。個々に驚異的な回復力を持つサリファンダは決定的な一撃を与えない限り、いくらでも起き上がり、襲い掛かってくる。苦痛を感じているのかどうかはわからないが、この場でその論議は必要がなかった。それだけ、対峙する数が吾平一人に多かった。他の輪も一斉に崩れたはずだが、そちらがどのようになっているかはわからない。吾平が対処し切れていないことだけは明確だったが、そちらへ気を回す余裕はなかった。
睨み、牽制を与えるも時間稼ぎにもならない。素早い動きで的確に一撃離脱を繰り返す獣に、正直――吾平は手間取っていた。
「右だ、吾平!」
ハッとして右を向けば、獣が迫っていた。
「ぐ――――ッ!」
(手首、捻った)
鈍い痛みは一撃を防いだことに対しての正当なる代価なのか、指示に従わなければより酷い目にあったことだけは確実だった。しかし、
「左!」
「正面向け!」
「人に指示してんなっ!自分でやれッ!」
指示しているのは4軍だということはわかった。最初に手助けをしたのが、山茶花だということもわかった。だが、フォローするぐらいならば自分で戦えと吾平は言いたい。
「あ、そっか」
「そうだな、――よしヤロウ」
「……」
「……行けよッ!」
思わず、吾平が突っ込む。戦闘の非常時においてもこの調子なのは、さすがフィグローゼ率いる4軍というところか。初日からして輪を乱し、周囲を圧倒していた吾平でさえも、まきこんでボケに走る。もっとも、いつのまにか中心的人物となった山茶花が間に入る、という甲斐あってのことなのだが。
「いや、だって――」
言い募るように、言いよどむ様に、彼等は口を揃えた。
「「お前じゃねぇし」」
「……」
(無謀はわかてるんだよッ!)
空気が緩み始めた。しかし、先ほどの油断とは違い、緊張感を持ちつつも、軽口を交わせる――余分な力を抜いた、ちょうどいい状態だ。少しずつ、応戦していく。
だが、それも一部に限る。先刻と状況が変わるほどではなかった。
「ぃよう、一年!」
そこに鶴の一声、マイクを通して声が響き渡る。
「少し早いが“俺様が”直々に紹介してやる。俺様は生徒会長のトライグ様だ! 」
だが、それは最悪のタイミングでもある。口調と言葉、余りにも状況に不適切なそれへと皆の注目が一気にそちらに外れそうになった。辛うじてそれを留めるのは理性だ。サリファンダへの警戒心。それが神の助けだとはもはや誰も思わない。
「今から命令してやるからよく聞けッ!何が何でも従えよッ!」
続ける声に声援がどこかで上がった。
不自然なそれは男女入り混じった尊敬の声だ。新入生たちではない。入学式の手伝いとしてきていた上級生たちだ。
「狼を駆逐しろ!イヌッコロに怖じ気づいてんじゃねえぞッ先輩方は巨人!」
傍若無人な言葉は、けれど的確な指示を出した。
「銀髪!てめえはカラスだ!役割わかってんな!?」
従うまでも無かった。目前にいる獣たちに気をつかうこともなく、背を向けた。
信頼に基づいた、もしくは本当に気にしていなかったのかもしれない。余りにも無防備な背中に獣は釣られた。だが、留められる。
「そうはさせないッ!」
吾平と獣との間に山茶花が立ちはだかる。吾平の行く道を皆が空けた。
4軍――変わり者の集まり。個性的集団。
けれど、団結力だけは強い。利害か、信頼か、共通性か。……絆の形はそれぞれでも、抱える想いは等しい。皆が吾平に期待していた。それは4軍だけではない。
(多種が同時に来たということは――誰か、統率者がいる。そして、そこまで導くのは烏以外、ない)
「――守られたい奴は集まりやがれッ俺様が守ってやる!!」
トライグは己の能力、“結界”を思う存分発揮した。




