不倫相手に流産させられたのに、夫は彼女のために私を訴えた――離婚後、DNA鑑定で彼は完全に壊れた
1.法廷の外での抱擁
同業者の集まりに出るたび、私はいつも冗談の種にされていた。
理由は単純だ。私は東京のフラワー業界では、表参道に小さくない高級フラワーアトリエを構える「冷たい女社長」として知られている。なのに、何度問題を起こしても泣けば許されると思っている女子大生のアルバイトだけは、どうしても扱いきれなかった。
椎名優衣は、美術大学の空間デザイン学科に通う三年生だった。履歴書の印象はよく、見た目も清楚で、入ったばかりのころは「自分の手で、東京に残れるようになりたいんです」と言っていた。だから私は、何度も彼女に機会を与えた。
けれど優衣は、私の我慢を当然のものだと思うようになった。客のために用意した特注の花器を割り、結婚式場に届ける花材を間違え、遅刻したあとには「家から生活費を出してもらえなくて」と目を赤くする。結局、客に頭を下げ、謝罪し、損失を埋めるのはいつも私だった。
そして六度目。
彼女は花瓶をぶつけ、私のマイバッハのドアに深い傷をつけた。
それでも謝るどころか、彼女は私を見上げた。
「ちょっと傷がついただけじゃないですか。若月さん、本気で弁償しろって言うんですか?」
「お金持ちって、どうしてお金がある人ほど細かいんでしょうね」
その無邪気な顔を見て、私はふと笑いそうになった。
「では、弁償してもらいましょう。今回の修理費に、これまであなたが壊した備品と、顧客対応に出た損害分を合わせて、五百万円です」
彼女の顔がこわばった。
私は彼女に泣きわめく隙を与えなかった。
「私があなたをいじめていると思うなら、きちんと法的手続きで話しましょう」
優衣はアトリエの入口に立ったまま、目元を赤くした。声が少しずつ大きくなり、隣のカフェの客まで、何事かとこちらをのぞき込んでいた。
「車の傷で五百万円なんて、ぼったくりじゃないですか!」
「私に後ろ盾がないからって、追い詰めるつもりなんでしょう!」
「でも、私は怖くありません。私の彼氏は弁護士ですから!」
そのときの私は、その言葉を深く考えなかった。
けれど開廷の日、東京地方裁判所の廊下で、私は見てしまった。
すらりとした背の男が、優衣を腕の中に抱き寄せ、低く頭を下げて彼女の涙を拭っていた。
「優衣がやっと、僕が彼氏だって認めてくれたんだね」
「ご褒美に、相手を法廷で顔も上げられないくらい負かしてあげようか」
その一秒で、私の全身の血が凍りついた。
穏やかな物腰で、声まで優しいその男は、私が六年間夫と呼んできた人だった。
東京の若手弁護士の中でも、勝率の高さで知られていた訴訟弁護士。
鷹見修弥だった。
優衣は修弥の胸に寄りかかり、肩を小さく震わせていた。
「でも、怖いんです。あの人、怖いし、お金もあるし、裏にすごい人がいるかもしれないし」
「私はただ、奨学金とアルバイトでなんとか暮らしている学生なのに、あんな人に勝てるわけがありません」
修弥は彼女へ視線を落とした。その仕草が、痛いほど優しかった。
「大丈夫。僕がいる」
「彼女にお金があっても関係ない。法廷は彼女のアトリエじゃない。誰かを思い通りに頭を下げさせられる場所じゃないから」
優衣は鼻をすすり、彼を見上げた。
「本当ですか?」
「本当だよ」
修弥はスーツの内ポケットから小さな箱を取り出し、彼女の前に差し出した。
「先にこれを見て。前から用意していた贈り物だ。限定品で、日本には二本しか入ってきていないらしい」
私は少し離れた場所から、その箱の中のネックレスをはっきり見た。
それは先月の私の誕生日に、私が修弥へ欲しいと伝えたものだった。あのとき彼は確かに頷いた。けれど結局、「アクセサリーひとつに振り回されるのは馬鹿らしい」と言って、何も渡してはくれなかった。
価値がなかったのは、ネックレスではなかった。
私だったのだ。
優衣はネックレスを見て、甘えるように修弥の肩を軽く押した。
「昨日は白金台の高級賃貸マンションの鍵をくれて、今日はネックレスですか。修弥さん、私が好きなのはあなたであって、お金じゃありません」
「それに、私には手も足もあります。いつかちゃんと、自分で稼げるようになりますから」
修弥は彼女の言葉に笑い、髪を撫でた。
「そうだね。僕が君を支えさせてほしいとお願いしているだけだ」
優衣はようやく笑った。
「じゃあ、約束してください。開廷したら、あの年上の女を徹底的に負かしてくださいね」
修弥は彼女の頬を軽くつまんだ。
「君の言う通りにするよ」
私は二人の親密な姿を見つめながら、冷えきった指でスマートフォンを握りしめていた。
私は修弥にビデオ通話をかけた。
彼は着信を見た瞬間、はっきりと眉をひそめた。電話には出ず、そのまま切る。やがて優衣から少し離れたところで、音声通話をかけ直してきた。
「紗季、仕事中にむやみに電話をしないでくれって言ったよね」
「この仕事は恨みを買うことも多い。君の身分を公にしないのも、君を守るためなんだ」
その言い訳は、あまりにも滑らかだった。まるで何度も同じ台詞を演じてきたかのように。
私は廊下の先に立つ彼の背中を見つめた。
「今、どこにいるの?」
電話の向こうが一瞬だけ静かになった。
「昨日出る前に言っただろう。大阪出張だ。一週間くらいかかる」
「悪いけど、今回は大事な依頼人がいるんだ」
彼はすぐに電話を切った。そして何もなかったような顔で優衣のそばへ戻った。優衣が彼のスマートフォンをのぞき込むと、彼は彼女の額に軽く口づけた。
「大したことじゃない。関係のない人だよ」
「どうしたの。妬いた?」
私は裁判所の廊下に立ったまま、二人が恋人のように寄り添う姿を見ていた。遅れて、胸の奥が鈍く痛み出した。
その日、私は結局、法廷には入らなかった。
代理人の成瀬先生だけに中へ入ってもらった。負けるのが怖かったわけではない。ただ、私はまだ大勢の前で、この六年の結婚を自分の手で引き裂く覚悟ができていなかった。
2.敗訴した裁判
家に戻ると、私は一人でリビングのソファに座り、修弥との昔の写真をめくった。
修弥は東京大学法学部を出て、司法試験に合格し、東京の大手法律事務所に入った。若く、賢く、野心もあった。新人弁護士からパートナー候補と呼ばれるまで、彼は驚くほど短い時間で駆け上がった。
けれど彼は、私を公の場へ連れて行こうとはしなかった。
私が事務所の会食や弁護士仲間の集まりについて行きたいと言うたび、彼は決まって優しい顔で私を止めた。
「紗季、僕は訴訟で敵を作りやすい」
「君が僕の妻だと知られるわけにはいかない。君に少しでも危険が及ぶなんて、僕には耐えられない」
私は本気で信じていた。
けれど今の彼は、裁判所の廊下で、優衣の恋人として彼女を守り、彼女のために裁判を引き受けていた。人目を恐れる様子など、少しもなかった。
アルバムを閉じた途端、スマートフォンが震え始めた。
優衣からメッセージが届いていた。
【若月さん、花屋を持っていたら何なんですか? 高級マンションに住んでいたら何なんですか? あなたを本気で愛してくれる人、いるんですか?】
【私はお金なんてありません。でも、彼は私を愛してくれています】
続いて、何枚もの写真が送られてきた。
バレンタインの日、修弥は彼女にペアウォッチを贈っていた。
【大切にされるって、こういう感じなんですね。あなたくらいの年齢になると、もう分からないのかもしれませんけど】
結婚記念日の日、修弥は彼女のために一面の写真パネルを作っていた。
【毎朝目が覚めたとき、私たちが一緒にいる証拠を見てほしいんだって、彼が言ってくれました】
そして昨日、修弥は彼女に白金台のマンションの鍵と入居書類を渡していた。
【私のことを見下していましたよね? でも今の私も、あなたたちみたいな人が住む場所に住んでいます】
最後に送られてきたのは、裁判の結果だった。
私の請求の大部分は証拠関係と損害計算の不備を理由に退けられ、裁判所が認めたのは今回の車の修理費のごく一部だけだった。優衣はその書面を撮って私へ送りつけ、まるで勝利を見せびらかしているようだった。
同じころ、成瀬弁護士から電話があった。
「若月様、大変申し訳ありません。損害があったこと自体は確かですが、相手方代理人が証拠提出と損害額の算定の弱い部分を突いてきました。裁判所は全額を認めませんでした」
私は彼を責めなかった。
向こう側に座っていたのが、鷹見修弥だと知っていたからだ。
彼は法廷を知っている。規則を知っている。そして、私の弱点も知っている。
「大丈夫です、成瀬先生」
電話の向こうが少しだけ沈黙した。
「若月様、本当に大丈夫ですか?」
「もう一つ、お願いしたい案件があります」
「どのような案件でしょうか」
「離婚です」
成瀬先生は数秒、言葉を失った。
「相手方は……」
「鷹見修弥です」
その名前を口にした瞬間、胸の中がかえって静かになった。
「それから、弁護士会へ提出する資料も準備してください。彼は相手方が配偶者であることを知りながら、事務所へ十分な申告をせず、専門的立場を利用して愛人側に立ち、私を攻撃しました」
「今回は、こちらも規則に従って進めます」
一週間後、大阪出張だと言っていた修弥は、いつも通り家に帰ってきた。
玄関に入るなり、彼はブリーフケースを棚に置き、そのまま私の前へ歩いてきた。
「紗季、最近、優衣の件で裁判をしていたそうだね?」
彼は眉を寄せた。
「君ももうすぐ三十だろう。二十歳そこそこの子を相手に、どうしてそこまで追い詰めるんだ。そんなことをして、恥ずかしくないのか」
彼は知っていた。
相手が私だと、最初から知っていたのだ。
それでも彼は彼女の側に立ち、あの裁判で彼女を勝たせた。
私は彼を見上げた。
「鷹見弁護士は本当に優秀なのね。大阪に出張中のはずなのに、東京地方裁判所に出廷できるなんて」
修弥の顔が一瞬だけこわばった。だがすぐに、いつもの自然な表情へ戻った。
「変なふうに考えないでくれ。彼女の案件を引き受けたのは、僕が大学に入ったばかりの頃を思い出したからだ。あの頃の僕も、同じように余裕がなかった」
「それに、君はあのお金に困っているわけじゃない。アルバイトで暮らしている学生を助けたと思えばいい」
「優衣は違うんだ。本当に追い詰められている。彼女には、あの裁判に勝つ必要があった」
私がすぐに怒り出さないのを見て、彼は声を少し和らげた。
「さっきは言い方が悪かった。紗季、僕は君のことを大切に思っているからこそ、君が周りから悪く言われるのを見たくないんだ」
「愛しているから、君に少しでも傷がつくのが嫌なんだよ」
聞き慣れたその言葉を聞きながら、私は胃の奥がひどく冷えるのを感じた。
埋め合わせのつもりなのか、修弥は銀座へバッグを買いに行こうと言い出した。
本当は行きたくなかった。けれど、あの店にまだ処分していないものがあると思い出し、私は結局うなずいた。
3.銀座に残された写真
銀座の店内は明るく、店員は私を覚えていて、入るなり柔らかな笑顔で迎えてくれた。
修弥は私の隣に立ち、誰が見ても非の打ちどころのない夫のように振る舞っていた。
「紗季、今日は好きなものを選んで」
「さっきの態度が悪かったお詫びだと思ってくれ」
私は上の空で、目についたバッグを一つ手に取った。
そのとき、背後から優衣の声がした。
「修弥さん?どうしてここにいるんですか?」
彼女は駆け寄ってきて、修弥の腕をつかんだ。その動作はあまりにも自然で、まるで彼女こそが本当の恋人であるかのようだった。
その反応を見て、私はようやく確信した。
優衣は、私が修弥の妻だと知っていた。
おそらく最初から、知っていたのだ。
優衣の視線が私の手元のバッグへ落ちた。彼女が手を伸ばして取ろうとしたので、私は身を引いて避けた。その瞬間、彼女の動きが止まり、目元が赤くなった。
「分かっています。紗季さんは、私がお金を持っていないから、そのバッグに触れただけで汚すと思っているんですよね」
「今は買えなくても、この先もずっと買えないとは限りません」
「どうしてそんな目で見るんですか。お金があるからですか?」
彼女は店を飛び出した。
修弥はその背中を見つめた。ついさっきまで私に向けていた優しさは、跡形もなく消えていた。
「誰が彼女に買えないと言った? そのバッグの代金は僕が払う」
彼はカードを取り出し、冷たい目で私を見た。
「紗季、いつからそんなに嫌な人間になったんだ」
「君はたまたま家が裕福だっただけだろう。人を見下す資格なんてない。十年後、優衣はきっと君よりずっと輝いている」
そう言うと、彼は優衣を追って店を出ていった。
私はその場に立ち尽くし、迷わず彼女を追いかける背中を見送った。胸の奥が、ゆっくり押し潰されていくようだった。
私は何一つ言っていない。
それでも、優衣の涙の代償を払わされるのは、いつも私だった。
深く息を吸い、私はスマートフォンを取り出した。支払いの記録を撮り、さらに二階の窓から、下で抱き合う二人の後ろ姿を撮影した。
写真を成瀬弁護士へ送ったあと、私は短く添えた。
「不倫の証拠」
メッセージを送り終えてから、私は後ろにいる店員が不安そうにこちらを見ていることに気づいた。
「若月様、あのバッグは最後の一点でして。どうなさいますか……」
私は答えず、店内の一面の展示ウォールへ視線を向けた。
そこには、カップルで来店した客の記念写真が飾られている。いちばん端には、私と修弥が卒業して間もないころに撮った写真も置かれていた。
あのころ、彼は司法試験に合格したばかりで、今の事務所では一番下の新人弁護士だった。私の父はその法律事務所にとって重要な顧客で、私は父に頼み、当時のパートナー弁護士に彼を紹介してもらった。彼はそのあと、自分の力で事務所に残り、そのことをずっと覚えていた。
彼は最初の三か月で貯めた給料を使って、この店で一番安いバッグを私に買ってくれた。
それを私に渡したとき、彼は私を抱きしめ、誓うように言った。
「紗季、今の僕にはまだお金がない」
「でも必ず、君を幸せで明るい未来へ連れていく」
あのころの彼は、本当に余裕がなかった。
そして本当に、私を愛していた。
今、私たちの暮らしはようやく安定し、彼は誰もが認める優秀な弁護士になった。けれど彼の未来には、いつの間にか別の女が立っていた。
店員がそっと私を呼んだ。
「若月様?」
私は我に返った。
「この写真、処分してください」
不要な写真を残しておく必要はない。
不要な人間も、もう要らない。
その夜、修弥は家に帰ってこなかった。
4.119
翌朝、目が覚めたとき、ひどいめまいがした。
浴室の床が少し濡れていて、足を滑らせた私はそのまま強く倒れ込んだ。下腹部に引き裂かれるような痛みが走り、次の瞬間、足元が真っ赤に染まっていった。
指先が震えた。私はとっさに修弥へ電話をかけた。
一回、二回、三回。
十七回目になって、ようやく彼からLINEが届いた。
【開廷準備中。騒がないで】
けれどほとんど同じタイミングで、優衣がInstagramのストーリーズを更新していた。
背景は横浜みなとみらいの高層レストランだった。窓の外には、海が光っている。写真の中で、見慣れた手がフォークを持ち、ロブスターの身を彼女の口元へ運んでいた。
【愛してくれる人は、世界を見せてくれる。いつだって、私の味方でいてくれる】
問い詰める余裕などなかった。
私は痛みに耐えながら、119を押した。
目が覚めたとき、私は病院のベッドに横たわっていた。
医師は検査結果を持ち、穏やかな笑みを浮かべていた。
「若月さん、おめでとうございます。妊娠一か月です」
周りの看護師も、小さな声で祝福してくれた。
けれど私の耳には、どこか遠い音のようにしか聞こえなかった。指先が無意識にシーツを握りしめる。
医師は私の顔色に気づき、さらに声を落とした。
「ただし、もともとお身体が弱いうえに、今回は出血と転倒の影響があります。かなり注意が必要です」
「もし今回の妊娠を維持できなければ、今後の妊娠は難しくなるかもしれません」
私は天井をぼんやり見つめた。
また、心が揺らいでしまった。
修弥にここまで失望しても、この子のことを思うと、私はどうしても自分に最後のチャンスを与えたくなった。
けれど運命は、私が心を緩めるたびに、容赦なく突き落としてくる。
病院から帰宅したばかりのとき、二階から猫の切迫した鳴き声が聞こえた。
階段を駆け上がると、優衣が私の寝室の前に立っていた。腕の中には、私が六年間育ててきた猫の小麦が抱かれていた。
彼女は部屋を見回し、目に嫉妬を滲ませていた。
「お金持ちっていいですね。家の猫まで、私よりいいものを食べているんだ」
私の顔から血の気が引いた。
「優衣、離して」
小麦は知らない人間が苦手で、彼女の腕の中でずっと暴れていた。私の声を聞くと、さらに激しくもがき、その爪が偶然、優衣の頬をかすめた。
優衣は悲鳴を上げた。
次の瞬間、彼女は小麦を床に叩きつけた。
「死ね、この畜生!」
「飼い主にいじめられるだけでも最悪なのに、あんたまで私をいじめるの?」
細いヒールの靴が、小麦の体を強く蹴った。
私はほとんど気が狂ったように駆け寄った。
「触らないで!」
けれど、遅かった。
私が小麦のそばに膝をついたとき、小麦は床の上でかすかに痙攣していた。私を見つけると、いつものように抱っこを求めるみたいに、懸命に前足を伸ばした。
その足は、すぐに力を失って落ちた。
小麦は目を閉じ、そのまま二度と動かなかった。
憎しみと痛みが同時に押し寄せた。私は優衣へ向かって手を振り上げた。
けれど平手が届く前に、手首を強い力でつかまれた。
修弥が私の後ろに立っていた。顔は、ぞっとするほど暗かった。
「紗季、また何を騒いでいるんだ」
私は歯を食いしばり、床の小麦を指さした。
「誰がこの子を家に入れたの?」
「小麦を殺したのよ。六年も一緒に育ててきた猫を!」
優衣は頬を押さえ、目に涙をためていた。
「ごめんなさい、修弥さん。本当にわざとじゃないんです」
「こんなテラス付きのマンションを見たことがなくて、少し見て回っていただけなんです。そしたら、この猫がいきなり私に飛びかかってきて」
彼女はゆっくり手をどけ、頬の傷を見せた。
修弥の目が一瞬で冷たくなった。
彼は私の手を乱暴に振り払った。
「猫一匹のことだろう」
「優衣の顔に傷が残ったら、君を許さない」
優衣は首を横に振った。
「本当に、わざとじゃないんです。怖かっただけなんです」
彼女が言い終える前に、修弥は彼女を抱き上げた。
「病院へ行こう」
私は小麦のために、せめて一言でも問いただしたかった。けれど追いかけようとした瞬間、彼に強く押しのけられた。
腰が机の角にぶつかり、朝よりも鋭い痛みが下腹部を貫いた。温かい液体が流れ出し、視界が暗くなる。私は机の縁につかまりながら、床へ崩れ落ちるしかなかった。
修弥が優衣を抱えて去っていく足音だけが、遠ざかっていく。
彼は最後まで、私を振り返らなかった。
5.流産報告書
再び目を覚ましたとき、病室には消毒液の匂いだけが漂っていた。
医師はベッドのそばに立ち、重い表情で私に告げた。子どもは、もういない。今回の外傷と、もともとの身体の状態を考えると、今後妊娠できる可能性も極めて低いという。
私は泣かなかった。
ただ静かにスマートフォンを取り、警察へ通報し、成瀬弁護士にも連絡した。
警察が帰ってから、そう時間を置かずに修弥が病室へ入ってきた。
彼の顔は青ざめていた。けれど最初に出た言葉は、私の体を気遣うものではなかった。
「優衣はまだ大学も卒業していない」
「君が今ここで警察沙汰にしたら、彼女の将来はどうなるんだ」
私は無表情で彼を見た。
「彼女があんなことをする前に、自分の将来を考えるべきだったのよ」
「車を傷つけたこと、アトリエの備品を壊したこと、私の猫を虐げたこと、勝手に私の家へ入ったこと。そして、他人の夫と関係を持ったこと」
「一つずつ、責任を取るべきでしょう」
修弥は反射的に言い返した。
「そんな言い方をするな。優衣は世間を知らない学生だ。君のように何でも持っているわけじゃない」
「紗季、君は本当に攻撃的になった」
「そんな人間になるとは思わなかった」
私は彼を見つめた。
目の前にいる男は、まるで別人だった。
彼は病室の入口に立ったまま、誰かのために正義を語る弁護士の顔をしていた。けれど、そのベッドに横たわっているのが自分の妻だということを、完全に忘れていた。
「僕の力は、君も知っているだろう」
「優衣を負けさせるつもりはない」
そう言って、彼は病室を出ていった。
数日後、新しい書類が届いた。
優衣は、私がペットを適切に管理せず自分を傷つけたとして、医療費と慰謝料を求めてきた。さらに彼女は警察へ診断書を提出し、私が故意に猫を放置して攻撃させたと主張していた。
修弥は彼女のために資料を整え、専門家らしい言葉で、私を権力を振りかざす裕福な妻として描き出した。
最終的に、裁判所は彼女の医療費と慰謝料の一部を認め、五十万円の支払いを命じた。警察の側でも、彼女が強く訴え続けたため、私は何度も事情聴取へ協力することになった。
その瞬間、私はようやく分かった。
運命は、私をいじめていたのではない。
私に教えていたのだ。
もう心を揺らすなと。
一刻も早く、この男から離れろと。
下腹部の裂けるような痛みに耐えながら、私は成瀬弁護士へ電話をかけた。
「成瀬先生、あれを届けてください」
「あの人に、自分の目で見せてください」
その日、成瀬弁護士が修弥の事務所へ行くとき、私に通話をつないだままにしてくれた。
電話の向こうで、修弥の声は相変わらず自信に満ちていて、どこか苛立ってさえいた。
「紗季もようやく、自分が無謀だったと分かったのかな」
「彼女が優衣にきちんと謝るなら、後のことは僕が抑えてやってもいいけど……」
成瀬弁護士が彼の言葉を遮った。
「鷹見先生、こちらは若月様からお預かりした書類です」
修弥が小さく笑った。
「敗訴したばかりで、僕に贈り物?」
次の瞬間、電話の向こうで紙箱を開く音がした。
短い沈黙のあと、鈍い音が響いた。書類箱が机に叩きつけられたような音だった。
修弥の声が、一瞬で変わった。
「あり得ない」
「こんなこと、あり得ない」
「紗季はどこだ。彼女は今、どこにいる」
箱の中に入っていたのは、離婚協議書、流産報告書、そして弁護士会へ提出する予定の懲戒請求資料だった。
6.もう説明はいらない
「成瀬先生、これはどういうことですか」
修弥の声に、ようやく焦りが混じった。
成瀬弁護士は静かに答えた。
「鷹見先生も法律に携わる方です。これらの書類が冗談ではないことは、ご理解いただけるはずです」
「若月様はすべてご本人の意思で確認されています。離婚協議書の財産分与については、若月様が譲歩されています。署名いただければ、手続きは速やかに進められます」
「譲歩?」
修弥は、その言葉を聞いて笑ったようだった。
「彼女が僕に、譲歩を語るのか?」
「分かっている。彼女は拗ねているだけだ。怒って、勢いで言っているだけだ」
「紗季の性格は、僕が一番よく知っている。六年も一緒にいたんだ。彼女は僕の周りを回る生活に慣れきっている。僕なしでは生きていけない」
電話の向こうで、紙がめくられる音が続いた。
彼はまだ、私の決意をただのわがままだと思っていた。拗ねているだけで、引き止められるのを待っているのだと。
私は目を閉じ、ようやく口を開いた。
「修弥」
電話の向こうがぴたりと静かになった。
「紗季、やっぱり聞いていたんだね」
「もうやめよう。家に帰ったら、ちゃんと説明するから」
「説明はいらない」
私は彼の言葉を遮った。自分でも驚くほど、声は冷たかった。
「成瀬先生が持っている離婚協議書をよく見て。私は家庭裁判所へ離婚調停を申し立てる準備をしています。調停が不成立になれば、離婚訴訟に進みます」
「それから、あなたと優衣のメッセージ、送金記録、ホテルの利用記録、彼女のために借りたマンションや高額な贈り物の記録はすべて整理済みです」
「配偶者が相手方であることを隠し、愛人側の代理人として法廷で私を攻撃した件も、弁護士会へ提出します」
電話の向こうは完全に沈黙した。
長い時間が過ぎてから、修弥はようやく息を取り戻したように言った。
「本気で僕と離婚するつもりなのか」
「こんなことで?」
私は笑いそうになった。
「こんなこと?」
「私が流産したとき、あなたは私のそばにいなかった。彼女のためにマンションを借り、ネックレスを買い、食事に連れて行っていた」
「彼女が一言嘘をついただけで、あなたは小麦を殺していないと信じた」
「彼女のために、私は何度も警察の調査を受けた。人を傷つけた女にされかけた」
「それが、あなたの中では、こんなことなの?」
修弥は慌てて言い訳をした。
「紗季、たとえ全部本当だとしても、僕が愛しているのは君だ」
「優衣とは別れる。今すぐ完全に切る。だから離婚なんて言わないでくれ」
「遅いの」
私は深く息を吸い、病室の白い天井を見上げた。
「修弥、きれいに別れましょう。早く署名してくれれば、最後の体面くらいは残せる」
「もしあなたがどうしても法廷まで引きずるなら、恥をかくのは私だけではない。あなたの事務所も、名声も、これまで積み上げてきたものも傷つく」
「私から言うことは、それだけです」
彼が何かを言う前に、私は通話を切った。
スマートフォンを横へ置き、私はベッドの上で体を丸めた。全身の震えが止まらなかった。
医師は、流産直後だから感情を大きく揺らしてはいけないと言った。
けれど無理だった。
六年分の愛情も、信頼も、譲歩も、その瞬間、跡形もなく砕け散った。
その夜、病室の扉が乱暴に開いた。
冷たい空気をまとった修弥が飛び込んできた。髪は乱れ、目は赤く、事務所から走ってきたように見えた。
彼はベッドの前まで来ると、私の手首をつかんだ。骨が砕けそうなほど強い力だった。
「いつ妊娠したんだ」
「どうして僕に言わなかった」
手首は痛んだが、私は抵抗する気にもなれなかった。
「見たでしょう」
「報告書に書いてあった通りよ。私は妊娠して、そして失った」
「どうして言わなかった!」
彼はほとんど叫んでいた。
「妊娠は大きなことだろう。どうして隠していたんだ。君の体にどれほど負担がかかるか分かっているのか」
「君は自分の体が弱いことを知っていたはずだ。やっと授かったのに、どうして守らなかったんだ」
私は取り乱す彼を見て、ひどく皮肉な気持ちになった。
「あなたに言って、何か変わった?」
「最初に浴室で倒れて出血したとき、私は十七回あなたに電話した。あなたは全部切って、開廷準備中だと言った」
「でもそのあとすぐ、あなたが高層レストランで優衣にロブスターを食べさせている写真を見た」
「あなたに押されて流産したとき、あなたが最初にしたのは彼女を抱き上げて走ることだった。私のことは、一度も見なかった」
「私が病院で生死も分からない状態だったとき、あなたは彼女のために、私をさらに追及する準備をしていた」
私は一言ずつ、静かに告げた。彼の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「今さら、なぜ妊娠を教えなかったのかと聞くの?」
「言ったら、あなたは優衣を置いて私のところへ来た?」
「私のことを心配した?」
「しないでしょう。あなたはきっと、私が子どもであなたを縛ろうとしていると思った。邪魔だと思った。優衣のほうがあなたを必要としていると思った」
「違う」
彼は私の手首を放し、ベッドのそばにしゃがみ込んだ。夢から覚めたばかりのように、ひどくみじめな姿だった。
「僕はただ、彼女が可哀想だと思ったんだ」
「彼女にはお金も、家族も、頼れる人もいない。でも君は違う。君は何でも持っている」
「今は分かっている。僕が間違っていた。子どもは失っても、また授かれるかもしれない。でも君を失いたくない。離婚だけはしないでくれ」
私は彼を見た。胸の中に残っていたのは、悲しみだけだった。
「また?」
「修弥、私はもう、妊娠するのがほとんど難しいの」
「医師に言われた。この流産で、母親になれる可能性はほとんど失われたって」
彼は勢いよく顔を上げた。瞳が大きく揺れた。
「だから離婚しましょう」
「あなたは彼女と一緒になればいい。望み通りでしょう」
「私を解放して」
彼は激しく首を横に振った。
「離婚しない」
「死んでも署名しない」
「君はまだ僕を愛している。今は怒っているだけだ。時間をくれ。僕は変わる。必ず変わる」
「優衣を遠くへやる。二度と君の前に現れないようにする。だから、頼む」
「あなたは変われない」
私は顔を背け、もう彼を見なかった。
「私たちは、あなたが不倫した瞬間に終わっていた。私が血を流しているのに、あなたが見捨てたあの瞬間に、完全に終わっていたの」
7.SNS裁判
修弥はその夜、病室に残った。
どれだけ私が帰れと言っても、出ていかなかった。ベッドのそばの椅子に座り、動かずに私を見つめていた。
私は眠ったふりをして目を閉じた。一睡もできなかった。胸の中には、一つの思いしかなかった。
離婚しなければ。
この男から離れなければ。
それから数日間、修弥は毎日病院へ来て、低い声で謝った。粥を持ってきて、入院費を払い、専門医の手配までした。まるで突然、自分が夫であることを思い出したかのようだった。
けれど彼は、どうしても署名しようとしなかった。
彼はまだ幻想を抱いていたのだろう。私が心を動かし、いつか戻ると思っていた。
けれど、優衣がそこまでやるとは思わなかった。
退院の前日、ある話題が突然Xのトレンドに上がった。
#地方出身の女子大生が弁護士の妻に追い詰められた
続いて、もう一つのタグが広がった。
#本気の愛は罪ですか
優衣は告発動画を投稿した。
映像の中の彼女は、白いニットを着て、手書きの手紙を握っていた。目は赤く、泣いたあとに見えた。
「皆さん、こんにちは。椎名優衣です」
「私は地方から東京に出てきて、奨学金とアルバイトでなんとか大学に通っています。自分が本当に愛される日なんて来ないと思っていました。修弥さんに出会うまでは」
「彼は私に優しくしてくれました。温かさをくれました。この世界にも光があるんだと思わせてくれました」
「彼に家庭があることは知っています。だから、罪悪感もありました。離れようとしたこともあります。でも、離れられませんでした」
彼女はそこで、そっと下腹部に手を当てた。
「それに、私は彼の子どもを身ごもっています」
「私はただ、この子を守りたいんです。私たちの愛を守りたいだけなんです」
「でも紗季さん、私はあなたのフラワーアトリエで働いていたのに、あなたは車の傷を理由に五百万円も請求しました」
「あなたにはお金も、家も、地位もあります。でも私には何もありません」
「どうしてそこまで私を追い詰めるんですか」
「お金のない人間は、自分の幸せを求めてはいけないんですか」
彼女は読みながら、何度か目元を拭った。
その動画はすぐにXや匿名掲示板へ転載され、コメント欄は荒れ始めた。
悪女だ、嫉妬深い、鷹見先生の奥さんの座にしがみついているだけだ。子どもを失ったのは罰だ。金持ちの女は、後ろ盾のない学生をいじめるのが好きなのだ。
数時間もしないうちに、私の個人情報はほとんど掘り出された。
アトリエの住所、入院している病院、過去の写真、父の会社の名前まで投稿された。
その日の午後には、過激な人間が病院の下まで来て、病室の窓に向かって汚い言葉を叫んだ。
夜には、病室の前に腐ったゴミと死んだ鼠を置いていく人間まで現れた。同室の患者は怖がり、廊下へ出ることもできなくなった。
看護師が片付けに来たとき、同情するような顔で私を見た。
「若月さん、病室を変更できるか確認しましょうか」
私はドアの前の汚れを見つめ、心の中が麻痺していくのを感じた。
優衣のやり方は、確かに見事だった。
彼女は自分が地方出身で、奨学金とアルバイトに頼って暮らす学生だという立場を利用し、すべての責任を私に押しつけた。お金のある妻に追い詰められた可哀想な女子大生として、自分をきれいに作り上げたのだ。
そして私は、誰もが叩いていい悪妻になった。
修弥はその件を知ると、すぐに病院へ来た。
彼は病室前に置かれた腐ったゴミと呪いのような紙を見て、さらにネット上のコメントを確認し、顔を青ざめさせた。それから私のそばへ来て、手を取ろうとした。
私は避けた。
彼の声はかすれていた。
「紗季、ごめん」
「全部、僕のせいだ。彼女がここまでするとは思わなかった。すぐに動画を消させる。声明も出させる」
「もういい」
私は淡々と言った。
「彼女は、ここまでやると決めてやったのよ。簡単に訂正なんてしない」
「今、私が何を言っても、金と立場で押さえつけようとしていると言われるだけ」
彼は私の青白い顔を見つめ、後悔と自責に満ちた目をした。
「僕が君を守れなかった」
私は何も答えなかった。
今さら守ると言われても、遅すぎた。
三日後、私は退院の手続きを終えた。
病院の建物を出た瞬間、スマートフォンを構えた人々に囲まれた。卵を持つ者もいれば、悪意ある言葉を書いた紙を掲げる者もいた。彼らは押し寄せるように私へ近づいてきた。
「悪女、謝れ!」
「優衣さんを解放しろ!」
「金があれば学生をいじめていいのか!」
私は人混みの中で身動きが取れなくなった。髪にも服にも汚れがつき、押されるたびに下腹部の古い痛みがじわじわと戻ってくる。
このまま人に飲み込まれるのだと思った瞬間、大きな影が飛び込んできた。
修弥だった。
彼は両腕を広げ、私を背後に隠した。暴走した人々に背を向け、私の前に立ちはだかった。
「散れ!」
「これ以上、彼女に手を出すなら、必ず法的に責任を取らせる!」
「ネットの件は誤解だ。すべての責任は僕にある。罵るなら僕を罵れ。彼女に触れるな!」
彼の背中はまっすぐだった。私の前を遮っていた。
どれほど罵られても、何を投げつけられても、彼は一歩も避けなかった。
その瞬間、私の胸に、ほんのわずかな揺らぎが生まれた。
けれどすぐに、その揺らぎは過去の傷に押し潰された。
警備員が駆けつけ、人々を追い払った。
修弥は私の手を引き、車へ乗せ、そのまま家まで送り届けた。
8.最後の機会
誰もいない南青山のマンションに戻ったとき、私はこの部屋がひどく知らない場所に見えた。
ここには、かつて六年分の記憶が詰まっていた。けれど今は、冷たさと息苦しさだけが残っている。
修弥は私をソファに座らせ、温かい水を用意し、おそるおそる私の顔をのぞき込んだ。
「紗季、どこか痛むところはないか」
私はグラスを受け取った。指先は冷えていた。
「修弥、離婚しましょう」
「私を解放して。あなた自身も、もう解放してあげて」
彼の顔から、すっと光が消えた。
「離婚はしない」
「君が傷ついたことは分かっている。優衣のことは、僕が必ず片をつける」
「彼女に声明を出させる。遠くへ行かせる。二度と君の前に現れないようにする」
「だから、もう一度だけ機会をくれないか」
「機会?」
私は笑った。自分でも哀れになるほど、力のない笑いだった。
「私は何度も機会をあげた」
「そのたびに、あなたが捨てたのよ」
「それでも離婚に応じないなら、もう穏便には済ませられない。家庭裁判所で会いましょう。必要なら、法廷で」
「そのときは、あなたの不倫の証拠も、私に与えた被害も、案件で配偶者関係を隠していたことも、すべて表に出す」
「あなたの事務所も、名声も、無傷では済まない」
彼は私の手を強くつかんだ。
「そこまでやる必要があるのか」
「六年の関係を、本当にそこまで壊すつもりか」
「僕が愛しているのは君だ。最初から最後まで、愛していたのは君だけだ。一時的に迷っただけなんだ」
「どうして一度だけでも許してくれない」
「愛している?」
私は彼を見た。ついに涙が落ちた。
「あなたの愛って、こういうものなの?」
「不倫して、私が流産しても放っておいて、ネットで囲まれて叩かれて、病室の前に死んだ鼠を置かれるまで追い詰められた」
「修弥、あなたの愛は安すぎる。私はもう要らない」
彼は私を抱きしめ、声を詰まらせた。
「分かった。僕が悪かった。本当に分かったんだ」
「優衣が子どもを産んだら、彼女は遠くへやる」
「子どものことも、僕は関わらない。僕は君と一緒にいたいだけだ。やり直そう。頼む」
優衣が子どもを産んだら遠くへやる。
その言葉を聞いた瞬間、私の中に残っていた最後の期待が完全に消えた。
彼は今も、優衣に逃げ道を残している。
今も、その子どものことを考えている。
私は彼を押しのけ、涙を拭いた。目の奥が、今までにないほど澄んでいくのを感じた。
「待つ必要はない」
「修弥、明日、成瀬先生から調停の申し立てを出してもらう」
「あなたは待っていればいい」
そう言って、私は部屋へ入り、鍵をかけた。
外で修弥が何度扉を叩いても、どれだけすがっても、私はもう返事をしなかった。
翌日、私は成瀬弁護士にすべての証拠を整理してもらった。
婚姻関係を示す書類、優衣が車を傷つけた映像、アトリエの備品を壊した監視カメラの記録、修弥が彼女に高価な品物を買い、マンション費用を支払った送金記録、ホテルの記録、裁判所の廊下で彼女を抱いている写真、彼女が勝手に私の家へ入り小麦を傷つけた映像、そして病院の流産報告書。
私は自分のSNSに一つの声明を出した。
余計な言葉は添えず、証拠だけを並べた。
そこに書いたのは、わずか数行だった。
「六年の結婚生活は、ここで終わります」
「私は誰もいじめていません。これ以上、誰かの嘘のために沈黙するつもりもありません」
「関連する証拠は弁護士に預けています。今後は、法に従って対応します」
その声明を出すと、ネット上の空気はすぐに変わった。
私を罵っていた人々は、次々に自分のコメントを削除した。中には、コメント欄で謝罪する者もいた。さらに多くの人が、優衣に疑いの目を向け始めた。奨学金とアルバイトでぎりぎり生活していると言いながら、高級マンション、限定ネックレス、ブランド時計を受け取っていたことに、疑問が集まったのだ。
誰かが、彼女が過去に短動画アカウントやInstagramへ載せていた投稿を、一枚ずつスクリーンショットにしてまとめた。
銀座のショッピングバッグ、高級レストランの食事、白金台のマンションの窓辺で撮った自撮り。それらは、彼女の告発動画と並べられると、ひどく皮肉に見えた。
すぐに優衣は元の告発動画を削除し、短動画アカウントのコメント欄も閉じた。けれどスクリーンショットはすでにXや匿名掲示板へ転載され、何事もなかったように振る舞うには遅すぎた。
私はこの件で、少なくとも修弥が彼女の本性に気づくと思っていた。
けれどその日の夜、優衣からまたメッセージが届いた。
【紗季さん、証拠を出したくらいで勝ったつもりですか?】
【私のお腹には彼の子どもがいます。彼は絶対に私を見捨てません】
【あなたが離婚しなくても、彼の愛を全部手に入れることはできません】
【彼の心には、結局、私と子どもの場所が残ります】
その数行を見て、私はただ可笑しくなった。
彼女をブロックし、スクリーンショットだけを成瀬弁護士へ送った。
数日後、修弥が疲れきった顔で私のところへ来た。
目は充血し、何日も眠っていないようだった。
「優衣が、子どもを使って僕を脅している」
「君と離婚するなら、自分を捨てるなら、子どもを堕ろして死ぬと言っている」
「今、彼女の精神状態はかなり不安定で、僕は……」
「分かった」
私は彼の言葉を遮った。迷いはなかった。
「それなら、彼女の言う通りにしてあげればいい」
「ちょうどいい。私たちはこのまま離婚しましょう」
「財産は前の協議書の通りでいい。あなたに多く求めるつもりはない」
「私は自由だけが欲しい」
修弥は私を見つめ、何かを言おうとした。けれど結局、何も言えなかった。
優衣の脅しに疲れたのか。
あるいは、私がもう二度と戻らないと、ようやく理解したのか。
今度は、彼は拒まなかった。
彼は署名した。
離婚届が受理された日、私は区役所の外に立ち、手元の受理証明を見ていた。悲しみはなかった。ただ、解放されたという感覚だけがあった。
戸籍上、彼はもう私の配偶者ではない。
六年の愛憎は、ようやく終わった。
私は離婚さえすれば、彼らから完全に離れ、新しい人生を始められると思っていた。
けれどしばらくして、驚くべき知らせが入った。
優衣のお腹の子は、修弥の子どもではなかった。
9.崩壊
その日、修弥は優衣へ荷物を届けに行った。
彼女はあの白金台のマンションに住んでいた。ドアは完全には閉まっていなかったらしい。修弥が玄関まで来たとき、彼女が部屋の中で電話をしている声が聞こえた。
その声ははっきりしていて、口調は横柄だった。彼の前で見せていた弱々しく可哀想な姿とは、まるで別人だった。
「大丈夫だって。あの人、今は完全に私の言いなりだから」
「だって、あの前妻が馬鹿みたいにお人好しだったんだもん。最初にあの花屋で働き始めたのも、あの人なら簡単に騙せると思ったからだよ」
「本当に信じたんだよ。私が学費もぎりぎりで、コンビニの夜勤をしながら大学に通っている女学生だって」
「修弥さんも同じ。敏腕弁護士だろうが何だろうが、男はこういうのに弱いんだよ。尊敬しているふりをすれば、自分は特別だと思い込むんだから」
「子どもが生まれたら、私が鷹見先生の奥さんになるの」
電話の向こうの相手が何か言ったのだろう。彼女はさらに得意げに笑った。
「子ども?もちろん、あなたの子だよ」
「でも、彼は知らない」
「あれだけお金もあって、体面も気にする人が、私を放っておけるわけないでしょ」
修弥はドアの外で、全身を凍りつかせた。
彼は部屋へ踏み込み、顔色を失ったまま彼女を見た。
優衣は驚き、スマートフォンを落としそうになった。
後のことは、成瀬弁護士から聞いた。
修弥は民間の鑑定機関で、子どものDNAを確認した。結果が出ると、彼は完全に崩れ落ちた。
子どもは、彼の子ではなかった。
優衣にはもともと交際相手がいた。子どもも、その男のものだった。彼女が私に近づき、私のアトリエへ入り込み、修弥を誘惑したのは、最初からすべて計画だった。
彼女が欲しかったのは、お金だった。
マンションだった。
肩書きだった。
そして、私を鷹見先生の奥さんの座から引きずり下ろすことだった。
真実を知った修弥は、狂った。
彼は優衣の前へ行き、かつて自分を何度も心動かしたその顔を見た。そして、自分が彼女のためにどれほど私を傷つけたかを思い出した。流産した私の青白い顔を思い出し、床に横たわっていた小麦を思い出し、ネット上で浴びせられた攻撃を思い出した。
怒りと後悔が、彼を完全に飲み込んだ。
彼は理性を失い、テーブルの上にあった果物ナイフで優衣を傷つけた。
今度ばかりは、どれほど優秀な弁護士であっても、この傷害事件に勝つことはできなかった。
事件のあと、修弥は逃げなかった。
彼は自ら警察へ通報し、そのまま連行された。
彼は傷害罪で起訴され、事務所もすぐに彼との関係を切った。彼が誇っていた職業上の名声は、わずか数日のうちに粉々に砕けた。
その後、彼には実刑が下った。
服役中、彼は何度も弁護士を通じて私との面会を求めた。
伝言には、後悔している、間違っていた、人生で一番申し訳なく思っているのは私だと書かれていた。
最後に一度だけ会いたい。罵ってくれるだけでもいい。
私はその話を聞いたとき、荷物をまとめているところだった。
東京を離れる準備をしていた。
六年の結婚生活が染みついたこの街から、出ていくつもりだった。
成瀬弁護士から転送された言葉を見て、私は首を横に振った。
「伝えてください。私は会いません」
「これで、私たちは何も負い合わない。他人です」
もう、彼と関わりたくなかった。
過去の愛憎は、ここで完全に終わらせればいい。
10.これからの人生
しばらくして、私は一通の書類を受け取った。
それは修弥が収監前に弁護士へ依頼していた財産移転の書類だった。
彼は自分名義のいくつかの不動産、預金、そして事務所を離れる前に受け取れる清算金を、すべて私へ移していた。書類の最後には、短い手紙が一枚添えられていた。
紗季、ごめん。
それ以外には、何も書かれていなかった。
私はその書類を手にしても、心は少しも揺れなかった。
それは私の六年分の時間に対する代償であり、彼にできる最後の償いだった。
私は書類をしまい、返事もしなかった。彼のその後を尋ねることもなかった。
その後、私は表参道の古いアトリエを閉めた。一部のスタッフと顧客は、信頼していた店長に引き継いだ。そして私は京都へ移った。
そこには修弥も、優衣も、あの結婚の影もなかった。
私は小さな家を買い、庭に白い椿と紫陽花を植えた。朝に扉を開けると、角のパン屋から香ばしい匂いが流れてくる。夕方には鴨川のほうから風が吹き、日々はようやく、折り目の伸びた紙のように静かになった。
ときどき、小麦のことを思い出す。
膝の上で丸くなって眠り、尻尾でそっと私の手の甲を撫でていた姿を思い出す。
庭の隅に、小さな陶器の猫を置いた。
傷を忘れないためではない。
私が一番孤独だった日々に、何の条件もなく私を愛してくれた小さな命があったことを、忘れないためだった。
修弥と優衣がその後どうなったのか、私はもう聞いていない。
もう恨んでいない。
愛してもいない。
裏切られ、騙され、深い場所へ突き落とされた日々は、ようやく私から遠ざかっていく。
これからの人生は、私だけのために生きる。




