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終着駅のその先へ

1. 絶望の底

 新宿駅から特急に揺られ、さらに単線に乗り換えて三時間。湊蓮が降り立ったのは、長野県の端にある、名前も知らない無人駅だった。

 十一月の空気は、東京のそれとは明らかに密度が違った。吐き出した息が白く濁り、肺の奥まで冷気が突き刺さる。

 蓮は、駅前の錆びついたベンチに腰を下ろし、最後の一本となった煙草に火をつけた。

 震える指先。それは寒さのせいだけではない。

 一週間前、彼の世界は終わった。

 心血を注いだプロジェクトは、信頼していた上司によって横領の道具に利用され、すべての罪を蓮に着せられた。会社を追われ、婚約者からは無言で指輪を返された。弁明の機会すら与えられない不条理。

(……もう、いいよな)

 背負っているのは、大学時代から使っている薄汚れたデイパックだ。中には一通の遺書と、コンビニで買った五〇〇ミリリットルの水、それに予備のライターが一火。登山計画書など出すはずもない。彼は、ただ「消える」ためにここへ来た。

 見上げた先には、夕闇に飲み込まれつつある険しい峰々が連なっていた。

 北アルプス、後立山連峰。

 かつて趣味で低山を歩いた時の記憶が、かすかに残っていた。「冬の入口の三、〇〇〇メートル級は、死の領域だ」と。

 蓮は灰を落とし、重い足取りで登山口へと向かった。

2. 登山の「現実」

 登山道に入ってすぐ、蓮は自分の甘さを思い知らされた。

 都会の舗装された道とは違う。剥き出しの木の根が蛇のように地面を這い、浮石が足首を狙っている。

「はぁ……はぁ……っ、くそっ」

 ビジネスシューズに近い革靴は、湿った土の上で無力だった。何度も足を滑らせ、膝を強打する。

 登り始めて一時間。標高が上がるにつれ、気温は目に見えて下がっていく。

 ここで蓮は、ある異変に気づいた。

 体中が、ひどく冷たい。

 死にたいはずなのに、その冷たさが耐え難い苦痛として脳を焼く。

 彼が着ていたのは、普段着の綿コットンのTシャツとパーカーだった。急峻な登りでかいた大量の汗を、綿の繊維はスポンジのように吸い込み、逃がさない。

 風が吹くたびに、濡れた生地が体温を強烈に奪っていく。

 「気化熱」。

 登山初心者が最初にぶつかる壁であり、最も恐ろしい敵だ。乾かない服は、氷の鎧となって着る者を蝕む。

「寒い……動け、動けよ……」

 太ももが鉛のように重い。

 エネルギーも枯渇していた。昼から何も食べていない体は、体温を作るための燃料すら持っていない。

 視界が狭くなる。ヘッドランプも持っていない蓮の周囲を、本物の闇が支配し始めた。

 死を望んで来たはずなのに、いざその入り口に立つと、本能が「生きたい」と叫び、手足を震わせる。その矛盾が、何よりも惨めだった。

3. 月光の銀嶺

 ついに足が止まった。

 岩場の陰、風がわずかに遮られる場所にへたり込む。

 意識が遠のいていく。これが低体温症の末路か、と蓮は他人事のように思った。

 まぶたを閉じようとした、その時。

 唐突に、風が止んだ。

 厚い雲が、ナイフで切り裂かれたように割れ、そこから銀色の光が降り注いだ。

「あ……」

 蓮は、見開いた。

 目の前に広がっていたのは、この世のものとは思えない光景だった。

 稜線の先、巨大な岩の塊が月光に照らされ、青白く、鋭く輝いている。

 下界の喧騒も、裏切りも、絶望も届かない、絶対的な静寂。

 そこには「善」も「悪」もなかった。ただ、圧倒的なスケールの自然が、峻烈な意思を持ってそこに存在していた。

 美しい。

 死ぬために来たことを忘れるほどに、その光景は暴力的なまでに美しかった。

 自分の悩みなど、この巨大な岩塊の歴史に比べれば、雪のひとかけらにも満たない。

(まだ……これを見ていない)

 脳裏に、世界で最も過酷と言われる山の名が浮かんだ。

 K2(ケーツー)。

 エベレストよりも登頂が困難で、多くの命を飲み込んできた「非情の山」。

 もし、あそこの頂に立てたなら。この空虚な人生に、何らかの答えが出るのではないか。

4. 邂逅

「……おい。そこで何をしている」

 闇の向こうから、地鳴りのような低い声が響いた。

 蓮が顔を上げると、眩い光が差し込んだ。ヘッドランプの光だ。

 そこに立っていたのは、重厚な冬山装備を全身に纏った大柄な男だった。

 男は蓮の濡れたパーカーと革靴を一瞥し、激しい嫌悪感を露わにした。

「その格好でここへ来たのか。自殺志願者か、それともただの馬鹿か」

「……両方、かもしれません」

 蓮が枯れた声で答えると、男は鼻で笑った。

「山を死に場所に選ぶな。汚れるのは俺たちの聖域だ」

 男はザックからチタン製のボトルを取り出し、蓮に放り投げた。

「飲め。死ぬなら、せめて腹を温めてからにしろ」

 中には、驚くほど熱い生姜湯が入っていた。

 一口すする。熱が喉を通り、胃に落ち、指先へと伝わっていく。

 生きて、熱を感じている。その実感が、蓮の瞳から堰を切ったように涙を溢れさせた。

「……死にたく、ない」

 漏れたのは、本音だった。

「なら立て。この先の一ノ越山荘まで、俺の足跡から外れずに歩け。一歩でも外れたら、そこでお前を見捨てる」

 男は背を向け、一歩を踏み出した。

 蓮は、凍える手で岩を掴み、立ち上がった。

 足は棒のようだが、胸の奥で、小さな火が灯っていた。

 これが、後に「K2の亡霊」と呼ばれる登山家・湊蓮の、最初の一歩だった。

第1話:登山ノート

• 【綿製品の危険性】:登山で「綿」はNG。汗を吸うと重くなり、乾かないため体温を急激に奪います。ポリエステルなどの化学繊維やメリノウールを選びましょう。


• 【気化熱】:水分が蒸発するときに熱を奪う現象。濡れたまま風に吹かれると、実際の気温以上に体感温度が下がり、低体温症の原因になります。


• 【ヘッドランプ】:山は日没とともに「完全な闇」になります。スマホのライトでは光量不足で足元が見えず、滑落の危険が高まります。

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