9.陽光と、黒い雲と side 樹霊の慈愛
side 樹霊の慈愛
「ねえ、最近……空気が澄んでいると思わない?」
午後の陽光が静かに差し込む。私は窓辺に立ち、そっと目を細めた。硝子越しに見える青空はどこまでも透き通っていた。私の髪が風にゆれた。銀糸のように光を映す髪を、ひと房を掬い、指に絡める。
指先で硝子をなぞる。曇りひとつない硝子の感触が、指に冷たく伝わった。ああ、こんなにも空が綺麗だなんて、いつぶりかしら。
「“慈愛”の名を持つあなたが、それを言うなんてね」
軽く肩をすくめて笑ったのは、もう一人の聖女――“炎煌の聖裁”。皮肉混じりなのに、どこか親しげな響きだった。
「まあ! 平民の誰かさんがいなくなったからなんて、ひとことも言っていないわ」
ふふっと笑ってみせる。けれど――笑っているのは唇だけ。
「もうすぐね。聖印の儀」
炎煌の聖女の言葉に、私は小さく頷いた。ずっと遠くを見つめるように。
「本来なら、とっくに終わっていたのにね。彼女が十八になるのを待って三人そろって、だなんて……ほんとうに、馬鹿みたい」
「そうね。でも、大聖女様がそうお決めになったのだから、私たちに選ぶ余地はないわ」
そう答える自分の声が、どこか遠く感じた。
「聖印の儀のあと、あなたはどうするつもり?」
私の問いに、炎煌の聖女は小さく笑って答えた。
「私? 父の薦める方と結婚するわ。騎士団の副団長をなさっているの。文のやりとりもしていて……国の防衛に共に尽くすのも、悪くないかなって」
さらりとした口調。けれど、その瞳の奥にある嬉しさは、隠せていない。
「あなたは?」
「第二王子との婚約の話があるの。王家は、私の“ポーションを作る力”を手放したくないのでしょうね。そばに置いておきたいのよ」
私はそう言いながら、ふっと笑った。
「……悪い顔をしているわよ」
炎煌の聖女の冗談めいた言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「本来なら、“光の癒聖”が王家と結ばれるのが通例だったわよね。身分を問わず“神の娘”を迎えた例も、歴史上にはあるけれど……あの子みたいな平民じゃ、さすがに無理かしら」
「ふふ、王子は無理でしょうけど……でも、あの子だって、旅の途中で誰かと出会うかもしれない。平民の誰かと、お似合いの相手に」
「……あの子に? 平民でも、難しいんじゃないかしら?」
二人は、まるで戯れるように笑い合う。
「さ、頼まれていたポーションを作らなくちゃ」
「私は結界を見てくるわ。もし魔獣が出たら、ついでに片づけてこようかしら」
「ふふ。あの子がいなくても、私たちで十分よね」
「ええ。そんなの、最初から分かっていたことじゃない」
静寂のなか、燭台の炎が再び、ぱち、と小さく音を立てた。光は、誰の心も照らすことなく、揺れていた。
翌日――
神殿の外には、嵐が迫っていた。
風が低く唸り、黒い雲が空を呑み込むように覆っていく。ひとたび吹き込んだ突風が、石造りの回廊に響いて柱を揺らし、燭台の炎を一瞬で消し去った。
「窓を、閉めて! 中に雨が入ってくるわ!」
誰かの叫び声。次の瞬間、風が吠えるように窓を打ち砕いた。
ガシャンッ!
鋭い音が耳を刺す。砕けた硝子が宙を舞い、冷たい雨が容赦なく室内を蹂躙した。聖具が倒れ、紙が舞い上がり、聖衣の布が無残に引き裂かれる。
「樹霊の聖女様! ポーション棚が……!」
「中の瓶が割れて、中身が混ざってしまいました! 危険です!」
「薬草も水浸しで……もう、使い物になりません!」
次々と報告が飛び込んでくる。焦りと恐怖に満ちた声が、室内に充満した。
私は、瞬きを忘れたまま立ち尽くしていた。乱雑に踏みしめられた床、濡れた薬草、倒れた棚――
なんてこと……。
「とにかく、急いで! 被害を最小限に抑えて。炎煌の聖女、あなたも手を貸して!」
混乱のなか、私の声は少し震えていたかもしれない。けれど、何かをしなければと自分に言い聞かせるしかなかった。
その時だった。ひとりの神官が駆け込んできて、息を荒げながら叫んだ。
「炎煌の聖女様、大変です! 結界が……緩んでいます!」
あまりに唐突な報せに、時が止まったようだった。
「どの方面?」
「正門側です。王都と繋がる……!」
嵐の咆哮が神殿の壁を揺らした。風が木々を裂き、空は鉛のように重い。
「この雨じゃ、祈りにも集中できない……でも、行かなければ。みんな、ついてきて!」
その背を見送る間もなかった。廊下を駆ける音が消え、私は再び静寂と荒れ果てた部屋に向き合うことになる。
──夜が明けても、神殿には嵐の爪痕が生々しく残っていた。濡れた床、割れたガラス、泥にまみれた薬草……。視界に映るものすべてが、私の責任を責め立てているようだった。
「大変だわ……納品予定のポーションが全部……。急いで作り直さなければ……」
声に出した途端、胸の奥に込み上げる不安が広がった。
「薬草を持ってきて。今すぐに!」
その時だった。誰かが、おずおずと口を開く。
「それが……残っているのは、今ここにある分だけで……」
「どういうこと?」
「薬草の管理は……その、光耀の聖女が……」
一瞬、言葉を失った。でも、すぐに顔を上げて、できるだけ冷静に――けれど抑えきれない怒りとともに言い放つ。
「それは本来、あなたたちの仕事でしょう?」
「ええと……その……。手が荒れる仕事は……まあ、平民の得意分野というか……」
私の心が冷たく静かに怒る。
「つまり?」
「任せっきりにしていたので……どの薬草が何か、私たちには……」
「もういいわ。温室へ行く。私が採ってくる」
急ぎ向かった温室。扉を開けた瞬間、広がったのは――
「……枯れてる……。なんて、ひどい……!」
鉢は倒れ、葉は萎れ、土は乾いていた。命がすべて失われたかのようだった。
「世話をしていなかったの? あの子がいなくなって、もう……一ヶ月も経っているのよ……!」
怒りと絶望がせめぎ合い、震える指先で萎れた茎に触れたとき、後ろから足音が近づく。
「疲れた……夜通し、結界の修復をしてきたの。まさか、ここまで酷いなんて……」
炎煌の聖女。彼女の額には汗が光り、赤い髪が濡れて肩に張り付いている。
「ねぇ、聖堂の鐘の加護が届かなかったんだけど……今日、誰が祈っていたの?」
沈黙。誰もが顔を見合わせる。
「……誰が祈っていたのかと聞いてるのよ!」
彼女の声が鋭く空気を切った。私ですら、その一喝に肩を震わせた。
「まさか、誰も……?」
一人の神官が、俯いたまま答えた。
「い、今までは……光耀の聖女が、やっていまして……」
「彼女“も”やるのは当然。……え? “彼女しか”やっていなかったと、そう言いたいの?」
凍りつくような沈黙。そして、怒気をはらんだ声が続く。
「……っ。全員、今すぐ聖堂に行きなさい! 三日間の絶食と祈りを課すわ!」
誰も逆らえなかった。足音を立てて人々が去っていく。
「……道理で、こんなに結界が弱っていたわけね……」
また、光の癒聖……
「炎煌の聖女……あなた、ポーション作れるわよね? 少しだけでも、手を貸してもらえないかしら」
「はあ? こっちは夜通し働いてクタクタなのよ。ポーション作りは、あなたの担当でしょう?」
「……何よ、けち。……あの子は、いつも手伝ってくれたのに……」
「手伝ってた? そんなの一度も聞いてない。まさか、手柄を独り占めしてたってわけ?」
「……そんなつもりじゃ……」
「とにかく無理。私は寝るから」
背を向けて去っていく彼女を見つめながら、私は唇を噛んだ。心の奥に、どす黒い空洞が広がっていく。あの子がいないだけで、この神殿の崩れ方――
――ああ、もう、予想外だわ




