7.闇と光の境界で
村はずれ。森へと続く小道を抜けた先で、私は思わず息を呑んだ。
地面は乾いた泥のようにひび割れ、ところどころが黒く焦げついていた。まるで火に焼かれた痕のようだが、熱の気配はない。ただ重く、澱んだ気配だけが、地面から這い上がってくる。空気には異様な湿り気があり、肌に張り付くような不快さがあった。
木々は生気を失い、枝を奇妙にねじ曲げていた。中には幹の半分が割れたまま、そこから黒い液体が垂れているものもあった。腐臭こそなかったが、生命の気配は遠く、ただ死だけが染みついている。
私は一本の木の幹に指を触れた。ひやりとした冷気が皮膚から骨へと這い昇り、思わず肩をすくめる。
ここは、ただいるだけで魂が削られていくような場所だった。
「……思っていた以上だな」
テオの声が背後から聞こえた。いつもより低く、こもった響きだった。
「魔溜まり……ここまで濃いとは」
テオが腰のポーチから『ルヴィエルの雫』を取り出す。聖水の入った小瓶だ。テオは膝をつき、そっと地面に雫を垂らした。
小さな音とともに、しゅわり、と光が広がる。ほんの一瞬、空気が清らかになる気がした。
けれどそれも束の間だった。光が消えた後、地面はゆっくりと黒に染まっていく。まるで、聖水を嘲笑うかのように。
「……効果、なしか」
テオが顔をしかめる。瓶を握る手が、かすかに震えていた。
聖水は確かに作用した。だがそれは、地表のほんの薄皮一枚ぶん。すぐに地下から滲む黒が、汚れを取り戻してしまう。腐敗は、もはや地の奥深くまで食い込んでいるのだ。
「長居はできないな。……行こうか」
私は頷き、もう一度だけこの地を振り返る。
黒く焦げた大地。狂ったようにねじれた木々。濁った空気の底で、何かがうごめいている気配。
このまま放っておけば、魔溜まりは広がり、やがて村そのものが侵される。畑が枯れ、井戸が淀み、そこに住む人々の魂すら、ゆっくりと蝕まれていく。
「リイナ」
テオに呼ばれ、我に返る。私は足を返し、来た道を戻った。
村の入り口まで戻った私たちは、荷車から魔道具を下ろした。
──魔獣が嫌う音を微かに発し、結界のような役割を果たすという。
「簡易型でも村の周囲を守れるはずだ」
テオがそう言って、小さな円盤状の魔道具を、村の四方に設置していく。私も手伝い、杭に固定しながら祈るような気持ちで地に埋め込んだ。
*****
夜、私たちは村の宿に泊まることになった。
わずかに軋む床板と、窓の外から聞こえる虫の声。静かな夜だったはずなのに、まぶたを閉じるたびに、あの禍々しい光景が浮かび上がってくる。
地面を這う黒い瘴気、ひび割れた大地──あの異様な場所が、目に焼きついて離れない。
──なにもできなかった……。
自分がただそこに立っていただけだったという現実が、痛いほど胸を締めつける。癒しの力を持っていながら、あの場所の前では、無力だった。
そのとき、不意に。私の中で、かすかに。けれど確かに、小さな光が灯るのを感じた。
私は──『光耀の癒聖』
これまで、癒しの力を使ってきたのは“人”に対してだけだった。怪我を負った兵士に、病に苦しむ人に。でも、知っている。あの古びた教本に書かれていた。
“光の聖女は、大地さえも癒やす力を持つ”──と。
まだ確信はない。けれど、試す価値はある。あの場所に、もう一度行けば……。
「……よし」
そっと立ち上がり、小さく息を整える。音を立てぬよう身支度を済ませて、そろりと扉を開けた。月明かりが、まぶしいほどに夜道を照らしていた。雲ひとつない空に浮かぶ月が、導いてくれているようだ。
──これなら、行ける。
けれど、一歩を踏み出したそのとき。
「おい、どこへ行く」
低く、しかしはっきりとした声が背後から飛んできた。驚いて振り返ると、そこにはテオがいた。腕を組み、壁にもたれるようにして、じっとこちらを見つめている。
まさか、起きていたなんて……。
「え、えっと……眠れなくて。ちょっと、散歩に……」
苦しい言い訳を口にしながらも、自分でもすぐにバレるとわかっていた。
「嘘をつくな」
一刀両断。彼の目は鋭く、逃げ道を許してくれない。
──なぜ、ばれたの?
心の中で呟く。
「……試したいことがあるんです。だから、あの、昼間の場所に……」
か細い声で打ち明ける。自分の言葉が頼りなく揺れているのがわかる。足元に冷たい風が流れ、心の奥がざわつく。それでも、今しかない。この夜の静けさの中なら、誰にも知られず、試せるかもしれない。
「なっ! 馬鹿かお前! 昼ですらあんな異様な場所だったんだぞ。夜なんか──」
怒鳴るような声。けれどそれは、責めるための怒りではなかった。テオの語気は、確かに強い。けれど、私にはわかる。それは“怖さ”と“心配”が混じった、彼なりのやさしさだった。
「でも……うまくいかなかったときに、がっかりさせたくなくて。ひとりで行ける今が、好機かと……」
視線を落とし、声をひそめる。本音だった。誰にも言えなかった、臆病な想い。失敗を見られるのが怖かった。期待を裏切るのが怖かった。
テオが、ゆっくりとため息をついた。
「はぁ……だめだ。夜は危険だ。明日の朝、一緒に行こう」
その言葉に、思わず顔を上げる。彼の顔には怒りはもうなかった。私の言葉に理解を示してくれている気配を感じた。
「……いいのですか?」
「どうせ止めても、ひとりで行くつもりなんだろ? なら、ルカも連れて行く。お前を守るやつと、助けを呼びに行くやつ、両方必要だろ」
「……わがまま言ってすみません」
「もういいから、戻るぞ。明日、ちゃんと行く。その代わり、今日はしっかり寝ろよ」
背を向けて歩き出すテオの背中は、どこかぶっきらぼうで、けれど頼もしかった。
私はその背を追いながら、小さくうなずく。
明日。私はもう一度、あの場所に立つ。光を届けるために。




