6.静かに世界と向き合うとき
私たちは山道を越え、ようやくひとつの小さな村にたどり着いた。
瓦屋根の低い家々が肩を寄せ合い、軒先には洗濯物が揺れている。あちこちに咲く名も知らない野花の香りが、疲れた身体にふわりと沁みた。
そんなのどかな村に足を踏み入れるや否や、テオが、たちまち人だかりに囲まれた。
集まってきたのは、ほとんどが若い女の人たちだった。
「ねえ、テオ。頼んでた化粧水、持ってきてくれた?」
「新しい布も! ちゃんと覚えてるよね?」
その光景に、私は思わず目を見張る。
「もちろん。忘れるわけないだろ」
テオは終始、微笑みを絶やさなかった。
その笑顔のまま、一人ひとりの目を見て言葉を交わす。深い琥珀色の瞳が、相手の心をまっすぐに見つめていた。
小さな子どもには膝を折り、視線を高さを合わせて手を握る。年配の女性には優しく荷物を渡し、「重くはないですか?」と微笑む。どれも過剰ではない。自然で優雅だった。
テオの口元に浮かぶその微笑に、皆そろって頬を染めていた。テオは、声をかけられれば、必ず名前を呼んで、真摯に応じる。あたかも、その人だけが特別であるかのように。……うまく言えないけど、すごいわ。
「あとでちゃんと渡すから、そんなに焦らなくても大丈夫」
「実はね――君のために新しい髪飾りを見つけたんだ。あとで選んでくれないか?」
商品を手渡すとき、指先がほんのわずかに触れると、その一瞬の触れ合いで、相手の頬に紅がさす。
──周囲の空気までもが甘く、柔らかく、華やかに変わっていく。
私はただ、別人のようなテオを呆然と見ていた。その横で、ルカがぼそりと呟く。
「……テオ様、顔だけはいいですからね」
思わずルカをちらりと振り返ると、彼は肩をすくめていた。
「おい、聞こえたぞ。『だけ』っなんだ。俺が笑うことで商品が売れるのなら、いくらでも笑うさ」
商品と取りに戻ってきたテオが、不敵に笑いながら言った。
「リイナ、お前みたいに人生に疲れた顔をしてたら、客が逃げるだろ? ほら、笑え」
そして、そう言って、私の頬を両手でぎゅっと押し潰してきた。
「い、痛い……です」
顔をしかめると、テオは、心底おかしそうに笑った。
*****
村の集会所へ向かう道すがら、私は両腕にテオからの預かりものを抱えていた。
布に包まれた中身は、害獣除けの魔道具だ。今年は、魔獣が例年になく多い──そんな話を、村に着く前から何度も聞いていた。絶対に高価なものだわ。落とさないように再びしっかりと抱え直した。
「人手は、足りてるのか?」
歩きながら、テオが村人に尋ねる。
答えたのは、村の防衛隊をまとめているらしい若い男だった。日焼けした顔に、真っすぐな眼差し。ダウリー、と名乗った。
「いや……」
短くそう答え、彼は少しだけ口元をゆるめた。
「危ないことは、誰もやりたがらないからな。有志だけだよ。無理強いはできない」
危ないこと……。
「死ぬかもしれないのに、あなたはやるのですか?」
つい、思ったことがそのまま口に出た。自分で言ったくせに、心がぎゅっと痛んだ。
それでもダウリーは、あたたかな笑みを浮かべたままだった。
その笑みは、優しいけれど、どこか遠くを見ているような寂しさを湛えている。
「──誰かがやらなきゃ、みんな死ぬからな。父さんもそうだった。皆を守って、死んだ。……俺は、それを誇りに思ってる」
さらりと告げられた言葉は、けれど、ずしりと心に落ちた。ダウリーの声には、誇りだけでなく、滲む死への痛みと、それを背負った重みが確かにあった。
彼は、世界の苦しさも、悲しみも、何もかもを、そのまま受け止めて生きている顔をしていた。痛みを隠さない。いえ、隠せないほどの痛みを抱えたまま、なおも、前を向いて歩いている。
怖いに違いない。怖くないはずがない。
私は自分の足元を見た。歩きながら、ぼそりと漏れる。
「……死ぬかもしれないことをやるなんて」
そんな私に、テオはひょいと肩を竦めて言う。
「なんだ、理解できないか?」
気の抜けたような、でも優しい声だった。
「……いいえ、そうではないのです」
私は、胸に抱えていた魔道具を抱き直し、顔を上げた。そのとき、ダウリーがふと足を緩め、声をひそめた。テオに耳元に顔を寄せ、誰にも聞かれないように、低く。
「村の近くに、魔溜まりがある。村の者は、ほとんどは知らない。魔道具の設置だけじゃ、心持たない。効果は薄いだろうが、浄化できるようなものはないか?」
その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。一瞬の静寂ののち、テオがに答えた。
「ああ、女神や精霊が宿るとされる泉や川から汲み上げられた『ルヴィエルの雫』が少しだけある。一緒に持って行こう」
「わ、私も行きます」
思わず、声が震えた。それでも、前へ出た。
「リイナ様、無理をしなくても……」
ルカが心配そうに言った。けれど私は、首を横に振る。
怖かった。足がすくむほど怖かった。でも、魔溜まりをこの目で見なくてはいけない気がした。
王都の周りは、戦聖女の領域。でも、ここでは──地方では──誰も守ってはくれない。民たちが、自分たちで、自分たちの命をつないでいる。
それは、知っていた。そう習ったから。でも、どこか遠い場所での話のように、知識として知っているだけだった。
「行こう」
テオが軽く合図する。
私も、小さく息を吐いて、頷いた。
小さな村の片隅で、私は静かに、世界と向き合い始めた気がした。




