38.番外編:守誓の儀
side 樹霊の聖女
「あら、樹霊の聖女、手が荒れているんじゃない?」
薬草の手入れをしていると、そんな声がかかった。
「あなたこそ、日焼けしてるじゃない」
炎煌の聖女は、最近では頻繁に王都の外へ足を運び、要請があれば結界を張り、魔獣を退けているのだという。気づけば、彼女に仕える者たちの姿も見なくなっていた。
幼い頃、大聖女様が神殿を離れてからというもの、側仕えたちは、貴族としての格を持ち上げる話ばかりがした。光耀の聖女と、貴族出の私たちは同じであってはならないと──私たちはさらに特別なのだと。
それでも、あのとき甘い言葉を受け入れたのは、私たち自身だった。わずかに民のために力を使ったくらいで、償えると思っていたのかもしれない。
朝、目覚めても、色づきが進んでいない紋を見ては、後悔をする。
「まあね。式典にも呼ばれなくなって暇だから、結界の範囲でも広げようかと思って」
「私も同じよ。時間があるから温室を広げたの。作りすぎて、ポーション作りも上達したくらい」
苦笑が漏れる。
今や式典に呼ばれるのは、大聖女様と光耀の聖女だけ。……それは当然のことだった、はずなのに。
「炎煌の聖女。……本当は暇だから、じゃないのでしょう? あなたなら時間が空けば、美容に時間をかけるはずだもの。日焼けなんて、絶対にしないわ」
炎煌の聖女は空いている椅子に腰をかける。
「……聖印の儀のあと、別室に入ったら、家族はいなかったの。『半端な娘はいらない』という伝言だけ。あれきり、一度も連絡は来ていないわ」
彼女は静かに、けれど確かな声音で続けた。
「でも、騎士である婚約者だけはそこにいたの。『必ず、全て赤に染まる。それまで待つ。あなたが民のために尽くしていたことを、私は知っている。何があったかは分からないが、神とてきっとお許しになる』って」
「素敵な婚約者ね」
「ふふ、胸を張れるほどのことはしてこなかった。その時初めて思い知ったわ。だからこそ……あの人の想いを、裏切りたくなかったのよ。次に会うとき、恥ずかしくない私でいたいと思った。──あなた、王家は?」
「見事な手のひら返しよ。私に対しては、まるで興味がないようだったわ。ああ、でも……少し安心もしたの。だって私、貴方の言うとおり、元から貴族じゃないもの。神殿に来る前は、市井で平民の子たちと走り回ってた。令嬢教育なんて一切受けていない。聖女教育で少しかじっただけ。王子妃なんて、冷静に考えれば無理よね」
「そう……なのね」
「やだ、気にしないで。・・・・・・聖印の儀のあと、別室には、母だけがいたわ。ただ、私の手を取って『よく頑張ったわね』って、それだけ。──泣いていたの」
胸に差し込む、温かな記憶。
「幼い私と離れたのが辛かったそうよ。私も辛い中、頑張っていると思ってくれていたみたい。半分しか赤く染まらなかったこの紋を、何度もなでてくれた。伯爵家のことなんて、どうでもいい。でも……母が肩身の狭い思いをするのは、私には耐えられない。それだけのために、今更ながらだけど、頑張っているの」
薬草の葉先に、ぽたりと涙が落ちた。
貴族の家族たちは、どこまでも冷たかった。私を恥だと罵り、突き放した。光耀に聖女と仲良くしなかったことを、今では、すべてを私のせいにして、公爵家に体裁を繕おうとしているらしい。自分たちが、私に吹き込んだ何もかもを忘れたかのように。
炎煌の聖女の家も、同じなのだろう。
……まあ、実際、悪者なのは私たちで間違いないのだから。何を言われても、今さらどうでもいい。
けれど──
「光耀の聖女のこと、考えるだけで怖くなる。あの子が一番高い爵位を持っていただなんて、皮肉よね。今頃、どんな噂が流されているのかしら」
「私たちに下される罰は何なのかしらね」
何も言われないことがかえって怖い。
「二人とも、そろっていますね」
声に振り返る。
「大聖女様……なぜ、こちらに?」
慌てて涙を拭った。
「神より、神託を授かりました。それを伝えに来たのです」
まさかーー神が罰を・・・・・・
祈るような気持ちで、続きを待つ。
「神は、『道を定めし聖女たちに誓いを立てさせよ』とおっしゃったわ」
「それは……?」
「一年後、守誓の儀を行います」
……聞いたことがない。
「“何を守るか”を、自らの心で定め、それを神に誓う儀式です。口に出す必要はありません。神にのみ、届くものでしょう。心が誠実であれば、紋は再び色づくでしょう」
「それは……“すべての民を守れ”という意味ですか?」
「一人で、構わないのよ。神は、聖女に人であることを捨てろとは言わないわ。人として、人を想う心がなければ──それはもう、聖女ではないのでしょう」
脳裏に浮かんだのは、母の顔だった。
「……それでは、神は私たちを、お許しくださったのですか?」
大聖女様は少し目を伏せ、やがて静かに微笑んだ。
「──この前、私の娘がね、旦那様の大事にしていた壺を割ったの。黙っていたのよ。それを叱ったら、『お父様なんて嫌い』って。すっかり、すねちゃってね」
突然の話に戸惑う。
「旦那様も同じようにすねて、『そんなことを言う娘にはもう会わない』って言っていたのに、次の日娘が『ごめんなさい、嫌いにならないで』って抱きついたら……もう、目尻が下がりっぱなしで」
「……そうなのですね?」
「父親なんて、どんなに怒っても、娘が心を入れ替えたら許してしまうものなのよ。あなたたちの実父たちは……まあ、残念な方々だったみたいだけれど。でも、神は違う。あなたたちは、神の娘として選ばれた聖女。神とて、父ならば──愛する娘には甘いものよ」
愛する娘。
心の奥に、光が差し込んだような気がした。
「私も、努力する妹には甘い姉よ。それに、光耀の聖女。あなたたちはあの子にとってよい姉ではなかったけど、あの子は、本当に姉に甘い、そう思うわ」
光耀の聖女が、私たちに、甘い?
「ふふ、式典で怒っていたのよ。あなたたちをけなして、あの子を持ち上げる貴族たちに対して。『二人の力は本物です! 素晴らしいのです。民のための力ですわ』って言って。珍しく大きな声で」
光耀の聖女が? 私たちのために怒った?
「さあ、二人とも。一年後の儀式まで、しっかりと励みなさい」
「「はい」」
その言葉に、わたしは小さく、けれど確かに頷いた。いつか光耀の聖女ーー妹にも心からの謝罪を、許されずとも許しを請おう、と。
涙を拭った指先に、薬草の香りが、静かに沁みていた。




