37.再び歩き出すその日 END
別室の静謐な空間に、柔らかなろうそくの灯りが揺れていた。薄絹のカーテン越しに差し込む淡い光が、大聖女と私たち聖女を静かに照らしている。
「――さて、光耀の癒聖。おめでとうございます」
大聖女の声は優しく、しかしどこか凛とした威厳を湛えていた。彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「樹霊と炎煌の聖女。二人の聖女の神紋が半分だけ色づくという事態は、これまでに例がありません。神の意志が明確に示されるまで、しばらく神殿から出ることは叶いません」
二人の聖女が不安げに目を伏せ、互いに視線を交わす。
「光耀の聖女……お願い、手伝って。私たち半分しか色づかないくらいまだ未熟なの。戻ってきて、あなたの力が必要よ。選ばれた貴方が一緒に神への許しを願って」
彼女たちは切実に、救いを求めるように訴えかける。
しかし、私は穏やかに首を横に振る。
「ーー私は戻りません。今までの私は世間を知らなかった。私が「世間知らずの聖女様」であることは間違いではありませんでした。だから、これからは各地を巡り、人々のもとへ行き、癒していきたいのです」
聖女たちは戸惑いながらも声を重ねる。
「ならば、私たちも光耀の聖女と共に巡礼に……神の許しを乞います」
「ずるいわ。なら私も行く。貴族同士、仲良くしましょう?」
私は微笑み、静かに返した。
「いいえ。私には、婚約者がついてきてくれますので、結構です」
二人から驚きの声が漏れた。
「婚約者……?婚約者がいるの?」
「ええ。婚約者は商人でもありますので、わざわざ商品を買うのに呼びつける必要もありません。それこそ、私への贈り物は十分すぎるほどなのです。ですから、神殿の予算を気にすることもありません」
「そ、それは・・・・・・」
聖女たちは言葉を失い、静まり返った。私は少し肩の力を抜き、語りかける。
「旅の中で、たくさんのことを知りました。自分の力の意味も。自分でできることも増えました。それに……神殿の食事より、市井の屋台の食事のほうがずっと私には合うみたいです」
聖女たちはそれぞれの胸に去来する思いを噛み締めているように見えた。
言い過ぎたかしら・・・・・・。
「……私たちが、悪かったわ。だから――」
二人が言葉を続ける前に、大聖女が静かに鋭く言い放った。
「もう、やめなさい」
その一言に、部屋の空気が引き締まる。大聖女の厳しさと慈愛が同居した視線が、皆の心に深く響いた。
静寂が神殿の広間を満たす中、大聖女の言葉は、決定の鐘の音のように響いた。
「要望がありましたので、光耀の癒聖、リディアナの居住は、公爵家に移されます。今後は巡礼を続けながら、神に仕えなさい。残る二人は神殿に残り、神の言葉を待つのです」
二人の聖女は、目の前の現実に戸惑いと不安を隠せない。
「神の言葉は、いつ……?」
樹霊の聖女が震える声で問いかける。大聖女は静かに首を振った。
「それは神のみが知ること。明日かもしれないし、十年後かもしれません」
その言葉に、ため息にも似た落胆の波が小さく漏れた。
「……そんな……」
だが、大聖女は慈愛に満ちたまなざしを向け、静かに締めくくる。
「私からは、これ以上言えることはないわ。とにかく、今は、ご家族に会いに行きなさい」
その声を合図に、私の緊張の糸がゆっくりと解かれていった。
*****
「リィナ、さすが私の娘だわ」
母の言葉は、いつになく温かく、どこか誇らしげだった。私はわずかに笑みを返す。
「選ばれると思っていた。当然だ」
父の冷静な声に、重みが宿る。
「ふふ、ありがとうございます」
感謝の気持ちが自然と口をついた。誇りと安堵が胸を満たす。
「王都の邸での滞在は、三日だったな。短いな……クリスが寂しがるぞ」
家族の会話は穏やかで、そこにしかない安心感があった。弟クリストファーのことを思い出し、少しだけ心が和む。
「テオの実家にも行くのよね。少ししか滞在しないと知ったらセリーナも、きっと寂しがるわ」
「また、すぐに会いに来ますから」
私の言葉に、父も母も笑顔で頷いた。
「そうだな」
「結婚式の準備も進めておくわ。セリーナと一緒に」
これから始まる日々に少しずつ希望が差し込んでいた。
「……出発の前に少しだけ、神殿内を歩いてもいいですか?」
思わず口にしたその言葉に、少しだけ寂しさが混じっていた。
「ああ、もちろん。ゆっくりしてくるといい」
父の優しい許しの言葉に、私は胸が熱くなる。
「俺も行こう」
背後からテオの声。彼の存在が、何よりも心強かった。
*****
静かな神殿の庭園。柔らかな日差しが緑を照らし、風が葉を揺らす。
「この庭……私のお気に入りだったんです」
そう呟いた声には、静かな哀しみと愛惜の念が滲んでいた。何度も足を運んだこの場所は、今や遠い過去の思い出となり、その一つ一つが胸の奥にかけがえのない輝きを放っていた。
「そうか」
テオは優しく頷き、静かに答えた。その声には、言葉以上の温かさが宿っていた。
「テオ、本当にいいのですか? これからも巡礼に付き合ってくれるって」
私は少し不安げに問いかける。でも、まだ見ぬ土地を巡る旅に、彼が伴うことに、安心感があった。
「ああ、行ったことのない土地で商品を仕入れるのも楽しそうだしな。何より、リイナが手の届かないところで何かあったら嫌だ」
彼の言葉は軽やかだが、私を想う誠実な気持ちが強く伝わってくる。
「私、力を試してみたいんです」
私は心に秘めた願いを打ち明けた。まだ知らない自分自身の可能性を確かめたいと。
「いいことだ。お前の力は外に出た方が発揮される。お前を待っている者がいる、そう思うぞ」
テオの言葉は背中を押し、未来への希望を灯すようだった。
「はい!!」
私の答えに、彼は微笑んだ。
「でもーー意気込んでいるところ水を差すようだが。できないこともあるかもしれないぞ」
「そのときはそのときです」
私は力強く言い切ると、彼は笑いながら言った。
「はは、そうだな。俺の婚約者は頼もしくなった」
そっと、テオが私を抱き寄せる。彼の温もりが、心の奥底まで染み渡り、どこかほっとした安堵が私を満たした。
「テオの心臓の音が聞こえます。生きていますね……でも、前より少し、早いような」
不意に彼の胸に耳を当てる。確かに、速く鼓動が刻まれている。
「婚約者を抱きしめているんだ。それくらい当然だろう。まあ、リイナの心臓の鼓動も、俺と変わらないぞ?」
冗談めかす彼の声に、私は自然と笑みを返す。
「ふふ、そうですね……。テオ、どうして、あなたは生きているのですか?」
問いながら、私はその答えが欲しかったわけではなかった。ただ、今の彼の想いを、もう一度確かめたかった。
「またそれか?」
彼は軽く笑いながら、私の額にそっと唇を落とした。
「――朝、目が覚めたとき、今日もお前がこの世界にいる。だから・・・・・・俺は明日も生きているんじゃないか、そう思っているんだが、どう思う?」
その問いは、祈りのようだった。
「ふふ。じゃあ、明日も生きることにします」
彼の瞳が細められ、ゆるやかに笑みがこぼれる。その笑顔は、心から安堵したかのように、どこまでも優しかった。
次の瞬間、抱きしめられる腕の力が、ぐっと強くなる。守るように、願うように、ただひたすらに存在を確かめるように。
遠くで、草むらの向こうからクリスの声が響いた。
「お姉さまぁー! どこ行ったのー!」
少し涙ぐんだような、焦ったような声。
「ふふ。クリスが探しているわ。行かなくちゃ」
「……ああ。でも、あと少しだけこのままで」
その言葉に私は頷き、夕陽のなか、ふたりの影がそっと重なった。
END




