35.聖印の儀にて side列席者の貴族
side列席者の貴族
神殿の大理石の床に足を踏み入れた瞬間、私は背筋を正した。
会場には既に、ざわめきとも呼べぬほど微かな気配が漂っていたが、それはむしろ、この場の荘厳さを強調する音なき緊張の波だった。
頭上まで届く荘重な石柱に刻まれた聖紋が、琥珀色の光に照らされてほのかに浮かび上がっている。まるで、見られているのはこちらの方なのだと錯覚するほどに、威厳を湛えた沈黙だった。
磨き抜かれた大理石の床は、我が家の舞踏室でさえ見劣りするほどで、松明の炎を静かに映している。その揺らめきが、なぜか心を落ち着かせるどころか、儀式の緊迫をさらに深めているように感じられた。
周囲の誰一人として声を発さず、ただ祭壇を凝視している。これほどの静寂は、貴族の晩餐会では決して味わえぬものだ。
そのとき──かすかな鈴の音が響いた。
遠くから流れてくるその音は、まるで風に乗って神殿の隅々まで広がり、私の胸の奥にまで静かに染み渡ってきた。何者かの手によって時が止められたかのように、全身の感覚が研ぎ澄まされる。
重々しい扉が音を立てて開かれると、眩しさよりも神聖さを伴った一筋の光が、闇の中の祭壇へと向かって差し込んだ。
やがて、澄み渡る声が空気を切り裂くように響いた。
「――聖女が、入場いたします」
その瞬間、私は確かに空気がひやりと変わるのを感じた。まるで、目に見えぬ何かがこの空間に降り立ったかのようだった。
最初に現れた聖女──炎煌の名を戴く者。
その姿は、神話に語られる英雄にも似て、ただ立っているだけで、紅蓮の髪が周囲の光を集めては零れ落ちる焔のようだった。一歩ごとに、見えぬ火花が散っているようにさえ思える。
続いて現れたのは、まるで季節を変える風のような存在──樹霊の聖女。
銀色の髪が微かに揺れるたび、森の中を歩く時のような清々しい香気が漂った気がした。彼女の姿は力強さではなく、包容と癒しの象徴であり、その気配にふと、肩の力が抜けるのを感じた。
この瞬間に立ち会えたことを、我が家の名誉として語り継ぐべきだと、強く思ったのだった。
そして──
「光耀の癒聖」
言葉の重みとともに、扉の奥から第三の聖女が姿を現した。
ステンドグラス越しに差し込む日の光が、まるで意図したかのように彼女の背を照らし、金の光輪を描き出していた。
その光は神聖の象徴のように彼女を縁取り、長い金髪はまるで天の織りなす絹糸のごとく輝いていた。
歩みは静かで、地を滑るようだった。だが不思議と、ひと足ごとに空気がわずかに震え、波紋のような気配が広がっていく。
音がないのに、確かに何かが「動いて」いた。神意が動いている、とでも言うべきか。
空気はぴんと張り詰め、誰もが息を潜める。私自身、思わず呼吸を忘れていた。視線を逸らすことも、瞬きすらも惜しくなる。
やがて、周囲の静寂がざわめきへと転じていく。気配の変化は、紛れもない現実を告げていた。
二人の聖女たちが光耀の聖女のその姿を見て、見る間に表情を青ざめさせてゆくのが、私の位置からもはっきりと見えた。彼女らは目を見開き、小さく震える声で呟いた。
「……あれが、光耀の癒聖……?」
そのひと言は、まるで火種のように広がっていった。神官、シスター、周囲の貴族の一部にまで、驚きと混乱が走る。思わず手で口元を覆い、後ずさる者まで現れた。
「まさか、彼女が新たに選ばれたという……」
私の前列にいた夫人が、思わず扇を落とした。
その空間を、低く鋭い囁きが裂く。
「モンフォール公爵家がこの場にいるのはーーもしや、娘という噂は本当だったのか?」
こうして、視線と動揺が渦を巻くなか、祭壇の中央に大聖女が現れた。その一挙手一投足は、まさしく聖堂の意志そのもののようだった。やがて、大聖女が静かに告げる。
「これより、神意を確かめる儀式を進める」
厳粛なる言葉の終わりと同時に、儀式が始まった。場に満ちる沈黙は、もはや静けさではなかった。圧力にも似た気配が張り詰めるなか、聖女たちがゆっくりと掌を開く。
淡い光が、その手に宿る。
神紋――神の意志そのものが、彼女たちの掌に浮かび上がったのだ。
目を奪われた。清浄で、神秘的で、それでいてひどく力強い。
やがて、大聖女の合図とともに、三人の神紋が一斉に光を放ち始める。
最初はかすかな光。しかし、それは徐々に強さを増し、まばゆい光の波動となって私たちを包んだ。視覚だけでなく、胸の内にまで直接響いてくるような輝き――私は生涯で、これほどの感動を味わったことがあっただろうか。
「やったわ……変わってきた」
樹霊の聖女が声を漏らす。その言葉には、喜びがあった。
「当然のことよ」
炎煌の聖女が応じる。そのまなざしに、期待と誇りが込められていた。
ーーだが。
その光は、二人のそれは、途中で止まったのだ。色づきは不完全のまま、淡く、頼りなく靡くばかり。
「・・・・・・半分だけ色づいている?」
場にいた者の誰かが、ぽつりと呟く。その声が、鋭く胸を突いた。
「神紋が、不…不完全だと……?」
「まだ、半人前という意味なのか……」
ざわめきは抑えきれぬ疑念となり、儀式の空気を重く包み込んでいく。人々の表情が揺れ動くなか、ただ一人――
光耀の聖女の神紋だけが、なおも深紅の炎を湛えたように、揺らめくことなく輝き続けていた。
それは神のどのような意思なのか。いずれにせよ、彼女の手のひらだけが、あの神殿の奥底で、唯一、凛と燃え盛っていたのだ。




