34.祝福の夜
夜。
天井に吊るされたシャンデリアが、まるで夜空の星を集めたかのように、静かな輝きを広間へと降り注いでいた。
やわらかな光が金糸を織り込んだ天蓋を揺らし、大理石の長い食卓へと反射する。
長卓に置かれた銀器は、手間ひまかけて磨き上げられたもの。光を受けて、まるで瞬く星のように繊細なきらめきをテーブルクロスの上へ散らしていた。
並ぶ料理はどれも見事な盛り付けで、香りすら絵画のように華やかで、息を呑むほど美しかった。
それは、祝福のような食卓だった。
視線を上げる。テーブルの正面には、テオのご両親が並んで座っていた。
「おかえりなさい、リィナちゃん」
やわらかく、包むような声。
そう言ったのは、テオのお母様だった。
深みのある紅茶色のドレスが、彼女の落ち着いた物腰に美しく調和している。
「ただいま戻りました」
わたしは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
彼女の隣に座るのは、公爵――テオのお父様。
言葉はなく、けれどその静かな笑みに、威圧ではない確かな力を感じた。瞳の奥に宿る鋭さは、戦場を知る者のそれにも似ている。
けれど同時に、誰かを守る者だけが持つ、深い穏やかさがその表情には宿っていた。
こうして、晩餐が始まった。
ナイフとフォークが奏でる音が、音楽のように食卓に響く。
時折交わされる笑い声や、クリスタルのグラスが軽く触れ合う音が、小さな幸せの証のようだった。
クリスが「おいしい!」と無邪気に笑い、スープをすする姿に、わたしの胸の緊張も少しずつ溶けていった。
――けれど、その和やかな空気がふと変わったのは。お父様が、ふと静かに口を開いたときだった。
「……王都には、もう噂が流れているようだ」
無視できない重みを含んだ声音だった。ナイフとフォークの音が、わずかに止まる気配がした。
「新しい光耀の聖女が選ばれたって、噂ね。――腹立たしいわ」
お母様が続けたその言葉には、表面上の怒りではなく、芯から冷えたような静かな憤りがあった。
その響きに、わたしの背筋がわずかに震える。
新しい聖女――?
あれ……私は……
スプーンを持つ手に、自然と力がこもっていた。
「……旅装束でしたし、リィナの髪は今は金ですから。別人と思われているのでしょう」
テオが静かに補足する。その声には、わたしの動揺を和らげようとするような、静かな配慮があった。
「……都合がいいじゃないか。聖印の儀でどんな反応をするか、楽しみだ」
お父様のその言葉に、お母様の唇がふっと綻ぶ。
「ふふ。そうね。面白くなりそうだわ」
笑みがこぼれるその表情には、どこか仮面のようなものを感じてしまう。
けれどそれは、家を守る者たちが持つ“冷静な覚悟”なのかもしれない。
わたしは、無邪気に皆の顔を見つめるクリスの存在に、救われる思いがした。
「それとは別に、王家にはすでに苦情を入れてある。リイナの処遇を黙認した神殿に対してもな。……そこで働いていた者たちの処分も、正式に頼んだ」
ナイフを静かに置いたお父様の声音は、穏やかで、けれど凍てつくような決意を秘めていた。その言葉の奥に、わたしを「守る」と決めた者の覚悟がある。
「この件に関しては、大聖女様が中心となって動いてくださっているそうだ」
「――大聖女様が……!?」
思わず、顔を上げていた。胸の奥に、光が灯るような温もりが広がる。
あの方が――わたしのために、動いてくださっている。
あの優しい手を、また感じられる。
温かくて、少し寂しげな、あのまなざしを。わたしを見捨てなかった、“姉”のようなひと。
――会いたい。早く、もう一度会いたい。
「まあ、それはそれとして!」
ぱんっ、と空気を払うような音が部屋に広がる。両手を軽やかに叩いたのは、テオのお母様だった。
「明日は、聖衣のサイズ合わせでしょう? お化粧道具もきちんと揃えないと。香水も、目立ちすぎず、けれど品のあるものを選ばなきゃ。アクセサリーも……ああ、テオ、あなた詳しいでしょう?」
「ええ。同行します。リィナの好みも、心得ていますから」
テオの静かな返事が、心の奥に心地よく届く。その響きが、どこかくすぐったくて、わたしは目を伏せてしまった。
「ふふ。明日も忙しくなりそうね。楽しみだわ」
私の母の今度の笑顔は、たしかに――娘の門出を見守るときの、温かなもので、ほっとした。
その微笑みを見ながら、私は気づいた。
――着飾ること。選ぶこと。整えられること。
それは、わたしにとって初めての“日常”だった。
夜も更けて、晩餐の余韻が薄れ始めた頃。
私は一人、広い屋敷の回廊を歩いていた。柔らかなカーペットの上を踏みしめるたび、遠ざかる談笑の声が微かに聞こえて、どこか夢のなかにいるような気がした。
天井に吊されたランプの灯りが、静かにゆれている。
金の縁取りがされたガラス窓の向こうでは、庭園の噴水が、夜風に吹かれて淡くきらめいていた。
静けさの中に、かすかな温もりがある。
歩くたび、スカートの裾がさらりと音を立てた。美しく整えられたこの邸で、自分がこんなふうに招かれていることが、まだどこか不思議に思える。
ほんの少し前までは、神殿の片隅で膝を抱えていた私なのに。
足を止め、そっと窓辺に寄る。夜空には雲が流れ、月がほんのりと姿を見せていた。
「……大聖女様にも、ちゃんとお礼を言わないと」
ひとりごとのように呟いて、私はまた歩き出す。明日のために、もう眠らなくては。
――香水、何がいいだろう。あまり甘いのは、私には似合わない気がする。けれど、清らかな花の香りなら……
そんなことを考えていたら、心がふっと軽くなった。
初めて選ぶ香り。初めて整えられる聖衣。誰かが私のために、色を選び、形を合わせ、未来を用意してくれる。
それはたしかに、"祝福"だった。
明日が来るのが、こんなにも待ち遠しいと思ったのは、いつぶりだろう。
やがて、扉の前で足を止めた。私に用意された部屋だ。
扉を開けると、ろうそくの明かりが柔らかく迎えてくれる。香のほのかな香りが漂い、深く息を吸い込むと、心まで満たされるようだった。
ベッドの上には、あたたかな布地のナイトローブが整えて置かれていた。
その脇には、小さな花瓶。一輪だけ活けられた白い花は、私の好きな花だ。月明かりの中でほのかに揺れている。
そっと手に取り、頬に寄せる。ひんやりとしていて、けれど――優しい香り。
「この花は、きっとテオね。ありがとう」
声には出さなかったけれど、心のなかでそう呟いた。
明日は、"聖女"としての一歩を踏み出す日。けれど私は、決してひとりじゃない。微笑みながら、私はゆっくりとベッドに身を沈めた。
夜が、静かに、私を包んでいく。




