33.聖女はただいまを告げる
「リイナ。公爵様がお待ちだ。急ごう」
城門をくぐった瞬間、馬車の揺れがぴたりと収まった。思いのほか傷んだ街道に阻まれ、予定よりもずっと遅れての到着だった。私は深く息をつき、頬にかかる髪を耳の後ろへそっと押しやる。
「わかったわ」
緊張と安堵が入り混じった声でそう答えると、車窓の外に広がる庭園が目に飛び込んできた。
初夏の柔らかな陽光を浴び、色とりどりの花々が風に揺れている。石畳を敷き詰めた前庭へ続く道を、重厚な鉄門がゆっくりと開き、舞台の幕が上がるかのような静謐な時間が流れた。
馬車が音もなく進むと、白大理石のアプローチが視界を満たす。
両脇には整然と刈り込まれた生垣、透き通るような噴水が涼やかなしぶきをあげ、屋敷の威厳が余すところなく伝わってくる。だが、その荘厳な佇まいの奥で、私を待っていたのは格式でも重圧でもなかった——
――心の底から懐かしい、温かな笑顔だった。
「お帰りーっ!」
高らかな声とともに、小さな金色の巻き毛がふわふわと揺れながら駆け寄ってきたのは、幼いクリス。
真っ白なシャツに上質なケープを羽織りつつも、無邪気に飛び跳ねた先には、すでに泥の跡がついた真っ黒な靴。彼は息を切らし、満面の笑みで私を見上げると、その細い体で飛びついてきた。
「ただいま帰りました、クリス」
力いっぱい抱きしめると、意外なほど強い腕が私を締めつける。
彼の大きな瞳に浮かぶ涙と、口元を緩ませた笑顔が、胸をぎゅっと締めつけた。世界が一瞬、ここだけで完結してしまったような気がした。
振り返ると、玄関先にお母様が立っている。クリーム色のドレスが優雅に広がり、穏やかな微笑みの奥には、長らく抱えていた不安からくる安堵が滲んでいた。
「リイナ、今か今かと待っていたのよ」
その声に、私は礼を尽くして頭を下げた。
「ご心配をおかけしました。無事、戻りました」
背後で葉擦れがざわりと響き、王都の風が頬を撫でる。懐かしさと、この場所を取り巻く緊張感が交錯して、胸の奥が熱くなる。
しかし次の瞬間、
両脇から二人の侍女にがっしりと抱えられ、足が宙に浮いた。
「きゃっ!」
慌ただしい声とともに、屋敷の奥へと運ばれていく。心の準備が追いつかないまま、
「お話している暇などございませんわ、リイナ様! 聖印の儀まで、残された時間はあと一週間しかございませんのよ!」
次々に飛んでくる言葉に、頭の中が白くなる。
「あ、あの……お父様に、ただいまを——」
「お帰りの挨拶など後回しです! まずは身体を整えなければ!」
ざわめきの中、私はぼんやりと聞き返した。
――磨き上げる、って何?
案内された先は「貴婦人の間」と呼ばれる浴場の最奥。
南の大理石が惜しげもなく用いられた壁面、ステンドグラス越しに差し込む陽の光が蒸気にきらめく。ふんわり甘い花の香りが立ち込める中、侍女たちは完全装備の道具を携え、まるで戦場へ赴く兵のように意気込んでいる。
「旅の間、櫛を通す暇もなかったのでしょうね。髪がパサパサですわ」
「肌も乾いていますわ。でも大丈夫。新しい香油で潤いを取り戻します!」
優しい口調の中に、熱い使命感が込められている。
縁に張られた大きな湯船へ促され、私はそっと肩まで浸かった。熱い湯気が肌を包み込み、香油を含んだ手が絶え間なく髪や肌を撫でる。ふわりと広がる花蜜の香りと、温かなタッチに、心の緊張がゆっくりほどけていく。
「背中は私に任せてくださいませ」
絹のタオルが首筋を撫でる感触と、職人のように無駄のない手さばきが絶妙に絡み合い、全身がほぐされていく。頭皮に注がれるオイルに瞼が重くなり、心地よい振動が身体の芯へと染み渡る。
抵抗する気力さえ失い、私はただ湯の温かさと香りに身を任せた。気づけば、立て続けの準備に翻弄された身体も心も、深い眠りに落ちていた。
外の世界がすべて遠くなるほどに。
やわらかな眠りから覚めると、まだ蒸気の香りがほのかに残る「貴婦人の間」の奥深く──個室のように仕切られた絹張りの休憩所で、私は深い呼吸を繰り返していた。
湯上がりの肌はしっとりと潤い、髪は艶やかにまとまり、心地よい疲労感が全身を満たしている。
そっと目を開けると、白い絹布がふわりと膝の上に置かれていた。刺繍の入ったリボンを解くと、中からは清冽な水色のドレスが現れる。
胸元には細やかなレース、腰には淡い金糸で織られた帯が巻かれ、背には公爵家の紋章がさりげなく刺繍されている。まるで水面に揺れる月影のように、涼しげでありながら気品に満ちた装いだった。
「お支度が整いましたら、お父様がお待ちですわ」
静かに戸が開き、白手袋をはめた侍女が穏やかな声で告げた。私は深く息を吸い込み、夢見心地のまま頷くと、ゆっくりと布を広げ、足元にそっと足を滑り込ませた。
鏡の前に立つと、自分の姿が映る。いつの間にか取り繕われた美しさは、揺らぐ水面を切り取ったかのように透き通っている。長いまつげの影が頬に落ち、頬骨から顎にかけてのラインは凛と引き締まっていた。私はそっと手を挙げ、帯に刺さった小さなブローチを撫でる。
――この一週間後、「聖印の儀」が行われる。気持ちが引き締まる思いだった。
背後でかすかな足音が響き、扉がそっと開いた。
年輪を刻んだ木の質感が落ち着きを与える、重厚な扉越しに見覚えのある背影──公爵であるお父様だ。私に気づくと、ゆっくりと近づいてこられた。
「リイナ、本当に……よく戻ってくれたな」
皺深い手でそっと私の頬に触れられる。
その温もりに、少し前の優しい日々、家族揃って笑い合った食卓。すべてがまぶしく思い出され、切なく胸に迫る。
「お父様……ただいま戻りました。本当に、お待たせしてしまい、申し訳ございません」
私も丁寧に頭を下げると、お父様はにっと小さく笑った。
「謝罪などいらぬ。お前が無事であればそれで良い。儀式も気負うことはない、お前ならきっと滞りなく終えられると信じている」
その言葉には揺るぎない信頼があった。私は胸に手を当て、かすかに震える声で答える。
「はい。全力を尽くします」
お父様は満足そうに頷き、私は一礼して立ち上がる。
深呼吸を一つ。胸に秘めた覚悟を固め、私は一歩、廊下へ足を踏み出した。
軋む石床を伝う足音が、静寂を切り裂く。未来への扉は、すでに開かれている。




