32.“ふさわしい”の条件 sideとあるシスター
side とあるシスター
「ねえ、聞いた?」
洗濯干し場の奥。誰も来ない午後の中庭で、シスターの一人が声をひそめる。
彼女の手は、洗い終わった布を絞るふりをしながら、動きを止めていた。
「ほら、あれよ。例の話。……“金色の髪の令嬢”」
「そうそう。最近みんなその話題ばっかりよね」
「なにそれ。まだ聞いてない。教えてよ」
「実はね――巡礼の地に“金色の髪”を持つ美しい令嬢が現れたんですって」
「癒やしの力を使って、住民や傷病の旅人たちに手を差し伸べてるって話ね? 奇跡のような回復だったって、皆が口々に言ってるとか」
「そうよ。しかも、巡礼の地をいくつも巡って、今は王都を目指してるんだって。目撃情報も増えてきてるみたい」
「助けられた人たちが、その令嬢のことを“聖女”って呼んでいるらしいわよ。泣きながら感謝してたって」
「――ってことは、つまり」
「ええ。新しい聖女が、選ばれたのよ!!」
静まり返る空気の中、誰かが呟いた。
「じゃあ……あの子は?」
「“聖女が神のもとへ還りし時、新たな聖女が選ばれる”――そう経典に書かれているわよね。つまり……」
「まさか……あの子、命を落としたってこと!?」
「しっ、声が大きいわ。聞こえたらどうするの」
息を呑む音が重なった。けれど誰も否定はしなかった。
「巡礼なんて最初から無理だったのよ。一人でなんて……」
「それを分かっていて、敢えて送り出したって噂もあるわ」
「えっ、ちょっと待って。じゃあ、私たちの役目は? 彼女が戻らないなら……ずっとこのまま?」
「でも、考えてみて。“金色の髪”の令嬢よ。間違いなく、高位貴族の血筋に決まってる。王族とのつながりがあるって話す人もいるくらい」
「そんな高貴な方に仕えるなんて、誇りでしかないじゃない! 私、絶対に側付きになる!」
「私もよ。こんな水仕事で手が荒れて、いつも冷たい石床の掃除して……そんな生活、終わりにしたいわ。高貴な方のおそばに立って、優雅に振る舞って、皆に一目置かれて――」
「ふふ、待遇だってきっと違うはずよ。部屋も、着る物さえ……全部、別物。夢みたい」
「おーい、こんなところにいたのか」
息をつめる声の隙間に、神官の落ち着いた声が割り込んだ。
「大聖女様がお呼びだ。すぐに聖堂へ来なさい」
「えっ……もしかして、今の噂の件じゃ――」
「うそ……なにそれ、どうしよう。緊張してきた……」
誰もが顔を見合わせた。頬の紅潮も、指のこわばりも、自分だけじゃなかった。軽やかな足取りで、彼女たちは神殿の奥へと歩き始めた。
*****
「神官と、シスターは、これで全員かしら」
澄んだ声が神殿の石壁に反響した。沈黙の中で、誰かがごくりと唾を飲み込む音がした。
「はい、そうです」
隣に並ぶ先輩が答える。語尾がわずかに震え、私は思わず視線を向けた。彼女の白い指先が、袖の中でぎゅっと握られているのが見えた。
大聖女様のまなざしは、冷たくも厳しくもなかった。ただ、静かに、すべてを見透かすように、私たち一人ひとりを見ていた。
「もうすぐ、聖印の儀が執り行われます」
その言葉に、私の心はふわりと浮き上がった。ああ、ついに――。
新しい聖衣をまとい、敬われる聖女の後ろに立ち、来賓の視線を浴びるあの日が、近づいている。
やっと……。
心の中で呟いた。長かった。辛かった。水に晒され続けた手は荒れ、ひび割れた掌は完全には癒えていない。けれど、もうすぐ終わる。
これから、爪を整えて、肌の手入れをして……少しでも、美しく。
過去には、この聖印の儀に訪れた貴族の目にとまり、求婚されたシスターもいたと聞く。私も、もしかしたら――
私が、憧れた未来。
「その儀には、地方の教会からも神官やシスターたちが招かれます」
大聖女様の言葉が、夢想の糸を断ち切った。
地方? なぜ……地方から?
「――今回の儀は、それほど大きな意味を持つものなのかしら」
「……ええ、きっとそうよ」
背後で先輩たちが小声でささやく。
「地方の者たちに格の違い、見せつけてやりましょう」
「ええ、そうね」
自然と、私も頷いていた。ここは、王都神殿。私たちは選ばれし者。格の違いがあるのは当然だ。
だが次の瞬間、大聖女様の表情がほんのわずかに、真剣さを増したように見えた。
「そして、その儀では――これから神殿で働く者の“選抜”も行います」
静かなその言葉に、空気が凍ったように感じた。
「……え? 選抜、ですか?」
思わず漏れた声。信じられなかった。選抜? まさか、今さら……?
「ええ、そうです。ふさわしい“能力”、ふさわしい“人柄”、そして“神への忠誠心”。その全てにおいて、最もふさわしい者たちを選ぶつもりです」
ざわめきが広がった。
「ま、待ってください! 選ばずとも、ふさわしい者なら……私たちが、そうです!」
「選ぶ必要などありません!」
隣の先輩も、目を見開いて強く頷いた。当然だ。私たちは――
「では、“ふさわしい理由”は?」
静かに投げかけられたその問いに、誰もが言葉を失った。
……でも、私だって頑張ってきた。こんなに、血がにじむほど働いて……
「見てください、この手……! 私は掃除を頑張っています」
「祈りだって、夜も交代で……!」
「それは、ここで働く者として“当然のこと”よ」
大聖女様の声が、あまりに静かで、あまりに鋭かった。
「温室にある薬草の名前、そして何種類あるか言えるものは、誰かいますか?」
え? 急に何? 薬草……? えっと、カモミールと……ミントがあったかしら? ……あれ、あとは……
誰も答えられなかった。
「掃除は雑。診療所からの不満も届いています。――“ふさわしい”要素が、見当たりません」
「そ、それは……!」
声が震えた。何か言いたいのに、言葉にならない。
「患者は知っていますよ。これまで光耀の聖女がしていたことを。洗濯、汚物の処理、治療、食事の配膳、幼い子の世話まで……数えきれないほどの働きを」
「わ、私たちだって、他の聖女の手伝いを――」
「おかしいですね。他の聖女たちはこう言っていました。“神官やシスターが怠けていた”と」
言い返せなかった。けれど――でも、聖女様たちだって……
「調査によればこれまでのあなたたちの振る舞いは、決して褒められたものではなく、むしろ懲戒の対象です。儀を待たずして、“地方”への派遣対象は……あなたたちかもしれません。いえ、この職を続けられるかどうかも不明です」
私たちが、地方に……?
「そんな……私たちが、平民のシスターに劣るなんて、あるわけありません!」
「貴族の血を引く私たちこそ、貴族の聖女様たちにふさわしいはずですわ! 平民のシスターなど、よくて、光耀の聖女のお世話しかできません」
誇りが、軋んだ音を立てて崩れかけている。それでも、誰かが叫ぶように言い張った。
だが――沈黙が落ちた。
誰一人、続けて言葉を重ねることができなかった。
そして大聖女は、静かに口を開いた。
「――ちなみに、もうすぐ公になりますが、皆が平民だと思っていたあの子は、貴族です。世話がきちんとできていたのであれば、あなたたちが後悔することはないでしょうけど」
頭の中が、真っ白になった。
貴族……? あの平民のように扱っていた聖女が?
崩れたのは、誇りだけではなかった。期待、未来。あの儀の舞台で夢見ていたすべてが、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていった。




