31.裁きの間にて side大聖女
side大聖女
「……来たわね」
重く冷たい石床に、乾いた足音が響いた。室内にあるのは、整えられた帳面と沈黙、そして張り詰めた空気だけだった。
神官長――この数年、神殿を取り仕切ってきた男。
「大聖女様、お呼びとのことでまいりました」
いつもの調子で、無駄のない動きで彼は一礼した。声の抑揚も、目線も、何一つ変わらない。完璧に整った“神官長”の仮面だ。
だが――私はその仮面の下を、見逃さない。
「心当たりはあるかしら?」
私の問いに、彼は瞬きひとつせずに答える。
「ございます。光耀の聖女が、巡礼の途上にて許可なく進路を逸れ、とある巡礼地に滞在していると判明いたしました。捜索は難航いたしましたが、先日、私の名でその土地の教会に手紙を送りましたので、間もなく彼女は戻るでしょう。どうかご安心を」
その言い回しは、あくまでも冷静で、堂々としていた。だが――その言葉の端々に、彼の本音が滲んでいる。
“彼女は私の管理下にある”
“私が手を打ったのだから、問題は解決している”
そう言いたげな物腰に、私は微かに眉をひそめた。
「その手紙。――なんと記したのかしら。文字の一つも省かず、書かれた意図ごと述べなさい」
彼は一瞬、瞼を伏せて思い返す仕草をしたのち、静かに口を開いた。
「はい。『光耀の聖女は、巡礼をここまでとし、急ぎ戻るべし』――と、書きました。意図は、大聖女様、いえ、神がそう望んだからです」
「……そう……」
私は静かに息を吐いた。冷え切った空気が喉をなでるような、乾いた吐息だった。
「――謝罪の言葉は、書かなかったのね。迎えの者も送らず、ということね」
その瞬間、彼の眉がわずかに動いた。動揺を隠そうとした――だが、私の目は誤魔化せない。
「謝罪、ですか……? いえ、戻るよう伝えたのですから、それは即ち――」
「許しと同義だと?」
私は声を一段低くした。静かな語調のまま、確かな力を込めて言葉を継ぐ。
「あなたは、まだ勘違いしているのね。――許しを乞うべきは、彼女ではなく、あなたの方よ」
初めて、彼の顔に“困惑”が浮かぶ。けれど、その眉間の皺は、迷いよりも苛立ちに近い。自分が責められる筋合いはない――その思いが彼の表情を支えている。
私は、真正面からその瞳を見据えた。
「あなたの手紙に、“苦情”が届いているわ」
「苦情……? どなたからです?」
彼の声に、僅かな焦りが混ざる。
「――あの子の両親からよ」
しかし、私の返答に、その動揺はあっという間に嘲笑へと変わった。そして彼は鼻で笑った。
「まさか、平民の親が? 私に? 苦情など……滑稽ですな。身の程をわきまえぬ者の戯言を、大聖女様、まさか真に受けてはおられぬでしょうな?」
ああ、この男は、神殿の中で頂点に立ち、聖女さえも従える存在だと信じている。
「私は神官長でございますよ? 一体、私を――」
「――神官長ではなくなるわ」
私の言葉が、静かに、けれど確かに部屋を切り裂いた。
彼の口元がわずかに開き、そこで凍る。
声を出そうとして、出せない。言葉が、見つからない。その瞬間、初めて“彼”が一人の人間として、私の目に映った。
彼は、理解したのだ。私が本気で、彼を“切り捨てる”覚悟を持っているということを。
「……は?」
声が裏返った。それが彼の限界だったのだろう。自分の“立場”が揺らぐなどと、一度たりとも想像したことがなかったのだ。
「教皇様との諮問がこれから行われる。その中には――あなたが今“笑った”あの両親の訴えも含まれているわ」
私は言葉を区切らず、真っすぐに彼の目を見つめた。
「――そうね。あなたは、もう生きているうちに“日の当たる場所”には戻れないでしょうね」
彼の顔から血の気が引き、乾いた唇だけが必死に動いている。
「な、何故……私は、神のために……神殿のために尽くしてきました……! これまで誠心誠意、仕えて……!」
懇願とも言い訳ともつかぬ声。その中に、自己の正義と自負がまだかすかに残っていた。
「そうね。あなたの神殿での日々の報告書、私も目を通していたわ。毎日これだけの量をまとめるのは大変だったでしょう」
私は一歩だけ、前に出た。彼の仮面が、音を立てずに崩れていくのを感じながら。
「最近は、ずいぶんと読みづらい字になっている、そう見えたわ」
「……そ、それは……手を少し、負傷して……」
かすれた声で抗弁を試みる。だが、それすらも虚ろだ。
「そう。なら、仕方ないわね。あなたの字は、以前はとても美しかった」
私は静かに、言葉を続けた。
「まるで――光耀の聖女の字のように、澄んでいたわ。ふふ、不思議ね。ああ、それから――あなたの起床と就寝を含めた一日の予定も確認したわ」
彼が息を呑んだ音が、はっきりと聞こえた。
「どう考えても、祈りを、怠っているわね?」
「……っ!」
「“尽くす”とは、なんだったかしら?」
私は問いかける。許しを与えるためではない。気づかせるためでもない。ただ、それが最後の問いだから。
だが、答えはない。
答えられるはずもない。口を開けば、自らの堕落を暴露することになると、ようやく彼も理解したのだ。
この人も、二人の聖女に、自分の矜持を押しつけた者の一人。
「あなたは――金の計算に明るく、上役に媚びを売るのが得意で、弱い者を軽んじる」
私は、感情を断ち切るように言った。
「少なくとも、“神”の名を口にする資格は、あなたにはもうない」
音もなく、扉が開く。
外には、裁定のために呼ばれたものたちが並んでいた。彼を――連れて行くために。
その姿を見たとき、彼はようやく事態を“現実”として理解したのだろう。
身体を震わせ、声を荒げ、膝をついて叫んだ。
「ま、待ってください! チャンスを……もう一度だけ……大聖女様、お願いです……! どうか……どうかお慈悲を……!」
必死の叫び。その声は、しだいに遠ざかり、扉の奥に吸い込まれていった。




