29.知らなかった約束
『光耀の聖女は、巡礼をそこまでとし、急ぎ戻るべし』
――そう記された神殿からの手紙は、祝詞や敬語もなく、前置きもなし。ただ短く、冷たく、命じるように。エリーのいる教会に届いたそうだ。
神官長の字だわ。
「私の娘を、いったい何だと思っているのかしら!」
お母様の怒りの声が、応接室に鋭く響いた。
手紙を握る指が白くなるほど力が入り、ついにはその紙をぐしゃりと握りつぶすと、机の上に叩きつけた。
「聖印の儀まで、リイナを帰すつもりなんてありませんわ。いいえ、聖印の儀が終わったその瞬間にでも、すぐに連れ戻してきます。あの神殿の思い通りになんて、させてなるものですか」
その口調には、凍てつくような静かな怒りが込められていた。
母は私を、聖女ではなく、娘として守ろうとしてくれている――そのことに、泣きそうになる。
私はというと、膝に座ってくつろぐ弟・クリスの温もりに包まれていた。小さな身体が私にぴったりと寄り添い、顔をすり寄せてくる。
私は自然と微笑んで、クリスのふわふわの髪を撫でた。
母は、ふとため息をつき、少しだけ表情を和らげると、私に向かってにっこりと笑った。
「……こんな理不尽なもの、無視すればいいのよ。聖印の儀が終わったら、しばらくは家族水入らずで過ごしましょう。それから落ち着いたら――結婚すればいいわ」
「け、結婚……っ?」
唐突な言葉に、思わず目を丸くする。咄嗟に視線を横に向けると、そこにいたテオと目が合ってしまった。
私は慌てて視線を逸らす。顔が熱い。頬がじわじわと火照っていくのが自分でもわかった。
クリスが不思議そうに、私の赤くなったであろう頬を小さな指でそっと撫でる。
そのとき、テオが静かに立ち上がり、両親の方へと一歩踏み出した。
「公爵様……。リイナからの返答はまだもらっておりませんが、私は彼女に――結婚を申し込んでおります」
その声は澄んでいて、まっすぐで、どこまでも真剣だった。
嬉しくて、でも恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて、私は下を向いたまま、クリスの背を抱きしめた。
「リイナを結婚させるおつもりがあるのなら……ぜひ、私に。その資格を得るためならば、私は何でもします。私は次男の身で爵位は持ちませんが、商人を辞め、騎士となり、爵位を得る覚悟と自信があります。リイナを必ず、幸せにします。どうか、お許しいただけないでしょうか」
彼の言葉は、まるで誓いのようだった。その一語一句が、胸に刺さる。でもーー
商人をやめる……? テオが……
あれほど誇りを持っていた商いを辞めると言う彼の決意に、私はただ息を呑むしかなかった。
ふと両親を見ると、二人は驚いたように顔を見合わせていた。だが、すぐにお父様が口を開く。
「許すもなにも……テオドール、君はリイナの婚約者だろう?」
「そうよ。リイナと結婚するのは、あなたよ。爵位なら、私が王家に預けている伯爵家のものを譲るつもりだわ。商会を営んでいる貴族なんてたくさんいるもの。辞める必要もないわ」
「――っ、婚約者……!?」
隣でテオが絶句する。けれどその驚きは、私も同じだった。私は呆然と、頭の中が真っ白になるのを感じていた。
「い、いつから……そんな、婚約者なんて……?」
「えっ? これもセリーナから聞いていなかったの? リイナが生まれてすぐ、あなたが会いに来たでしょう? ずーっと赤ちゃんのリイナのそばを離れず、『かわいい、かわいい』って抱っこして。あまりにも微笑ましい光景だったから、両家で話し合って、婚約を結んだのよ」
「そ、それって……俺、いえ、私が五歳のとき、ですか……?」
「そう。クリスが生まれていてもいなくても、婚約はそのままのつもりで。もちろん、成長して性格が合わなければ解消も考えていたけど……今の様子を見る限り、そんな必要はなさそうね」
母は、にこにこと微笑みながら、立ち上がった。
「……もう、セリーナったら。使いを出して、呼ぶから直接確認しましょう」
呆れたように笑いながら、母は、侍女へ指示を出した。
咳払いを一つ挟み、父がわずかに眉根を寄せながら、慎重な口調で問いかけた。
「あー……ところで、テオドール? 旅の最中、娘と寝食を共にしていた……それは事実かね?」
その言葉に、部屋の空気が一瞬凍る。私も、テオも、息を呑んだ。
「は、はい。ですが……ルカもずっと一緒にいました! 決して二人きりというわけでは――!」
慌てて言葉を継ぐテオの声が、どこか裏返っていた。
「では……やましいことは、なかったと、誓えるのだろうね?」
お父様の目が細くなる。問いかけというより、断罪に近い声音だった。
「や、やましいこと……」
テオの声がわずかに震えた。目が泳ぐ。ほんの一瞬の逡巡――けれど、お父様は見逃さない。
「……おい。あるんじゃないのか!? 婚約者だからって何をしてもいいと思ってるのか!? 節度というものがあるだろう、それに娘は……聖女なんだぞっ!!」
「そ、それは違いますっ!」
テオは慌てて両手を振る。
「公爵様が想像されているようなことは、まったくありません! 本当に、誤解です!」
「そうです。お、お父様……落ち着いてくださいっ!」
私は慌てて声を上げた。
父の肩がびくりと揺れ、私を見つめ返す。その目が、かすかに潤んでいた。
「……お、お父様? リイナが私のことをお父様とーー」
父は目をぱちくりとさせたかと思うと、鼻をすんと鳴らし、顔をそむけた。けれど、その背中は微かに震えていた。――泣いている?
「リイナ、私は……?」
母が、そっと私の手を包み込んでくる。そのまなざしには、深い愛情と、どこか期待の色がにじんでいた。
「お母様」
そう告げるとと、父と母が互いに目を見交わし、嬉しそうに――ほんとうに、嬉しそうに微笑んでいた。
「ねえ、ぼくは?」
ふと、足元から甘えるような声。見下ろせば、クリスが不満げに私のスカートの裾を引っ張っていた。
「ふふっ、私のかわいい弟よ」
撫でてあげれば、クリスは照れたように笑って、「えへへ」と無邪気な笑みを浮かべた。その笑顔に、私の頬も自然とほころんでしまう。
「じゃあ、俺は?」
不意に、後ろから声がする。え? テオも?
「テオは、私の、婚約者……です」
ほんの少しだけ照れながらも、私ははっきりと口にした。
その瞬間、テオの瞳がやわらかく細まり、彼の口元に、深い安心と愛情のこもった微笑みが浮かんだ。




