28.その魂に刻まれしもの
クリスと遊んでいた午後のひととき、庭の向こうからお父様が姿を現した。軽く手を振って呼びかけてくる。表情は穏やかだが、どこか深刻な影がにじんでいた。
「リイナ、この領地に――療養のために滞在している貴族のご子息がいてな。……あまり具合がよくないのだ。寝たきりで、医者も匙を投げているらしい。だが……神のお導きかもしれん。会ってくれないか?」
「もちろんです」
私は即座に頷いた。少しでも力になれるのなら、それが私にできることならば。
「私も手元にある薬を持って行きましょう」
テオが言い、いつもより念入りに薬の包みを選んでいる。
「助かる」
お父様が静かにそう言い、私たちは馬車へ乗り込み、その屋敷へと向かう。
館の奥、重い扉をノックすると、中から出迎えてくれたのは、少しやつれた顔の夫人だった。それでも気丈に笑みを浮かべ、私の顔を見るなり小さく息をのむ。
「まあ! 公爵様のお嬢様ですか? 初めてお目にかかります。本当に、そっくりですね」
戸惑う私に、夫人はにこやかに微笑んだ。お父様は満足げに頷いている。
「ああ、領地に来るのは久しぶりなのだ。よければ、見舞ってもよいだろうか?」
「ええ、もちろんです。あの子も、きっと喜びます」
重たい扉が静かに開かれると、室内にはやわらかな日差しが差し込んでいた。そしてその光の中、薄い毛布に包まれて横たわる少年がいた。
ベッドに近づくと、少年――ユリスの呼吸は浅く、唇の色は青白かった。春の終わりに咲く花のように、今にも散ってしまいそうな儚さだった。
「どうだ? テオドール、症状に効きそうな薬はあるか?」
父の問いに、テオは真剣な面持ちで観察を続ける。そして、ゆっくりと首を振った。
「……こちらの方は?」
夫人が問いかけてくる。
「商人をしております。薬も取り扱っておりまして……ですが」
「お気になさらないでください。この子のために、できる限りのことはしてまいりました。たくさんの医師にも診せ、薬もよいと言われるものは全て試しました。けれど――」
夫人の声が震えている。
「我が子爵家には、代々、同じような病にかかる子が生まれるのです。血の中に、なにかがあるのかもしれません……伝えられているのは、ただ“不治の病”という言葉だけ」
その言葉が落ちると、部屋の空気がわずかに揺れた。
そのときだった。重ねられた毛布の中から、小さく、かすれた声が漏れる。
「……薬を……扱っているのなら……お願いです……」
私は振り返り、ベッドの中の少年を見つめる。青白い頬、窪んだ眼窩。骨のように細い腕が、薄い布の上に浮かび上がっていた。
「……苦しみから、解放される薬は、ありませんか……? 楽になれる、終わらせてくれる、そんなものがあれば。僕はもう、誰にも迷惑をかけたくない……苦しみたくない……眠るように、終わりたいんです」
「ユリス……!」
夫人が嗚咽混じりに名前を呼び、そっと息子の手を握る。
テオは険しい表情で一歩前に出た。
「……悪いが、そんなものはないんだ」
唇をかみしめながら、それだけを絞り出すように答える。その目には、どうすることもできない無力さと、痛みが宿っていた。
私はそっと彼の手を取る。小さく、骨ばった手。冷たく、血の気が薄く――それでも、その命はまだ燃えている。
これは……ただの病ではない。
見た目には病と見えても、根にあるのはもっと深いもの。皮膚の薄い変色、虚ろな瞳、感覚の混乱……魂そのものが蝕まれているような、鈍く黒い影の気配。
「これは……呪いです。因縁や宿命の鎖が、彼の魂を蝕んでいるのです」
私がそう言った瞬間、部屋の空気が止まったかのように静まる。
「……呪い……だと?」
お父様が低くつぶやく。驚きと、信じたくないという思いが滲んでいた。
「リイナ……?」
テオが私を見た。その目には戸惑いと、不安が混じっていた。
「呪いとは、いったいどういうことですの……?」
夫人が問いかけるも、声は震えている。そのとき、お父様が一歩前に出て、静かに言った。
「実は……まだ公にはしていないのだが。娘のリイナは、聖女だ。今は巡礼の旅の途上にある」
その言葉に、夫人の目が大きく見開かれる。
「聖女様……っ! 呪いであれば、もしかして……助けていただくことはできませんか?」
その場にひざまずき、涙をこぼしながら私に懇願する夫人。
私は静かにうなずく。
「小さな呪いの解除なら、かつて一度だけ成功したことがあります。けれど……これは強い。魂に根を張った、古い呪い。……けれど、やってみます」
「ま、待て。リイナに危険はないのか?」
お父様が慌てたように言う。だがーー
「もし私がここにいることが、神のお導きであれば、神は、きっと力を貸してくださいます」
私はユリスの額に手を置く。
「その魂に刻まれし呪いよ――慈しみと共に、今、消え失せよ……」
途端に、鋭く冷たい力が指先を這った。何かが――もがき、私の力を拒絶している。
「っ……不幸な宿命に癒やしの道を与える。光の名のもとに――解かれよ!!」
見えない何かが、ユリスの体から煙のように立ち昇る。彼の身体が震え、やがて静かに、ゆっくりと、呼吸が深くなる。
「……ああ、ユリス……」
夫人の目から涙がこぼれる。ユリスの顔には、ほんのりと赤みが戻り、安らかな寝息が聞こえてくる。
「おお、なんて、すごいのだ、私の娘は……リ、リイナ!!!」
お父様の声が、遠くに聞こえる。私は気を張っていた糸が切れるのを感じた。意識が、遠のいていく。
目を閉じる瞬間、テオの焦りに満ちた顔が飛び込んできた――。
*****
「リイナ!」
目を開けると、ここ最近で、見慣れた天蓋の天井があった。外はすっかり暗かった。ベッドのそばには、父と母、そしてテオが心配そうに見守っている。
……また、やってしまったわ。
「お前は、まったく。本当に……無事でよかった」
テオが安堵の表情で言う。
「……あの子は、どうなりましたか?」
その声に、傍らに祈るように座っていた少年が顔を上げる。
「聖女様……! 僕のために、こんなことに……でも……よかった……目覚めてくださって……!」
私は、ほっと微笑む。
「成功したのね、よかった」
「聖女様、私からも……ありがとうございます。息子を助けてくださって……!」
夫人が、何度も頭を下げる。
「元気な姿を見られて嬉しいです。でも皆さん、顔色が……。もしかして、ずっと付き添ってくださっていたのですか? もう大丈夫ですから、休んでください」
母が私の手を取る。
「リイナに何かあったらと、生きた心地がしなかったわ……」
「ふふ、大丈夫です。私は今日は、死なないのです。明日と約束をしていますので。ね? テオ」
突然の言葉に皆が不思議そうな顔をする。テオだけが小さく笑った。
「はは、ああ、そうだったな」
「ん? それは神の教えか?」
お父様が、不思議そうに考え込んでいる。
そういえば・・・・・・
「あの、私……お腹がすいてしまって」
私の声に、皆の顔がぱっと明るくなる。
「はは、食欲があるのなら大丈夫だ。すぐに何か用意させよう」
お父様の声と共に、笑いと安堵が部屋に満ちた。




