27.選定の刻 side大聖女
side大聖女
静かに、けれど確かに、扉をノックする音が響いた。石造りの神殿の奥深く、外界の音さえ届かぬ静寂のなかで、その小さな音はひどく際立っていた。
私は祈祷椅子の背もたれにもたれていた身を、静かに起こす。重く流れる空気の向こうに、扉の前に立つ聖女たちの気配がある。
わずかな衣擦れ。吐息を押し殺すような呼吸。そして、胸に澱むような、不安。
「……入りなさい」
ギ……ィ。
長い沈黙のあと、厚い扉がわずかに軋んで開いた。外の光が一筋、厳かな礼拝堂の床を斜めに照らす。淡く舞う塵が、その光の中で静かに揺れた。
白い衣を纏った聖女たちが、神妙な面持ちで姿を現す。
「“聖印の儀”も……あと数ヶ月に迫りました」
そう私が言ったとき、一人が小さく息を呑む音がした。
彼女たちは、“祝福される未来”しか見ていない。誰も、“選ばれない”未来を考えてはいない。
けれどーー。聖印に色がつかなければ、夢も名誉も未来も、すべて、霧のように消えていく。
――だからこそ、言わねばならない。
「……あなたたちの“今後”について、話しておかねばなりません」
その言葉に、空気がぴたりと張り詰めた。声は冷ややかに、厳しく落ちる。
過去幾度もこんなことはあった、そう伝えられてきた。だからこそ出自を魔乗ることはできない、そう決まりができたというのに。特別扱いされた子が傲慢になり、劣等感に苛まれた子が歪んでいく。
この代も例外ではなかった。
聖女たちの間に緊張が走る。数人が小さく身をすくめた。
「“聖印の儀”で紋が色づいた聖女は、その名を正式に神に捧げ、神殿を出て、聖女として生きる道が許されます」
一瞬の静寂の後、私はさらに言葉を落とす。
「けれど――」
その一言に、場の空気が凍る。
「先日の話を覚えていますか? ……過去、“色づかなかった”聖女も、いたと言う話です」
驚愕と動揺。息を呑む音。目を見開き、顔を見合わせる聖女たち。
声を絞り出したのは、樹霊の聖女だった。細い肩を震わせ、勇気を振り絞るように尋ねた。
「い、色が……つかなかった、その方は、いったい、どんな方だったのですか……?」
私は目を一瞬だけ伏せ、言葉を選ぶ。
「……熱心に祈り、人々に笑顔を見せ、聖女らしく振る舞っていた者でした。けれど……心の底では、他者を値踏みしていた」
聖女たちが、息をのむ。
「善意を装い、誇りを纏いながら、他者を見下していた。その傲慢さを、神は見逃さなかったのです」
青みるみるうちにざめていく聖女たち。
「ふさわしくない振る舞いをした者。罪を犯した者。神に対し、偽りの心を向けた者。理由は様々でした。けれど――共通していたのは、“神の怒りを買った”ということ」
空気が一斉に変わった。怯え、不安、そして混乱。
炎煌の聖女が、震える声で問う。
「再びその話をするという事は……大聖女様は……私たちに“色がつかない”かもしれないと……そう、お考えなのでしょうか?」
「……まさか。私たちは……神に、見放されてしまうのですか?」
それは祈りか、嘆きか、それとも……告白か。
……可哀想な子たち。
誰も、自分が神を怒らせているなどとは考えたくないのだ。
けれどそれこそが、傲慢だ。神を信じていると思いながら、自らの心を見ようとしない。
この子たちにささやいた者がいるのは調査済みだ。『あなた方は貴族、あの子とは違う』『あの子が今の代の格を落としている』『あの子が私たちやあなたたちのために力を尽くすことは当然のこと』この子たちの家族でさえもそうささやいた。
しかし、甘く揺さぶるその言葉を受け入れたのはこの子たち。
「それはわからないわ。神は“聖印の儀”まで、あなたたちのために言葉を下すことはないでしょう」
冷たく響いた言葉に、聖女たちの肩が揺れた。まだ続く。現実はさらに厳しい。
「ちなみに――」
私の声は、石壁に静かに反響した。
「神官長はこれから、教皇庁による諮問を受けることが決まっています」
場がぴり、と張り詰めた。聖女たちの顔に、不安の色が広がっていくのが見えた。だが私は、視線を逸らさない。
「神の名を偽った罪は――“死をもってしても”赦されない」
神を騙る者。神を利用する者。神殿に生きる者として、これほど重い罪はない。どれほど人に尽くそうとも、それを“偽り”とされたなら、魂の救済すら失われる。
「で、でも……!」
懇願するような声が上がった。震えていた。縋るような視線が、私の正面に注がれる。
「私たちは……偽ってなどいません! ポーションも作り、皆に感謝されております。祈りも……祈りも捧げてきました!」
「私だって……っ、結界を……たくさんの魔獣から人を守りました!」
――そうでしょう。
その“行い”を、私は否定していない。けれど――
私は、静かに首を横に振る。
「私は、“性根”の話をしています」
息を呑んだように静まり返った。――心の奥、最も奥底に潜む、動機と欲と信。人の目はごまかせても、神の目はごまかせない。その奥底がどこを向いているか、神は見ている。
「紋が色を変えぬ聖女は、神に寵愛を与えられなかった者と見なされます」
私は、はっきりと言った。逃げ道を作ってはならない。
「そしてその者は、“選ばれた”にもかかわらず、神を怒らせたことを悔い、この神殿を出ることなく――仕える義務を負います。神の許しを得られるまで」
「ここを……出られない……?」
誰かが呟いた。喉の奥から、かすれた音が漏れる。まるで、目に見えない鎖が今しがた打ち下ろされたように。
私は、それでも哀れみの目は向けない。この場には、優しい幻想など必要ない。
彼女たちは“現実”を知らなければならないのだ。
「己の振る舞いを振り返りなさい。そして、“最悪の事態”を想定しておきなさい」
沈黙の中で、私は自らの責務を再確認する。この私に課された役目。優しさだけでは導けない。時に冷酷と見える言葉でさえ、未来へとつなぐ道になる。
――神の前に、真実だけを捧げるために。




