23.祈りの前に
アルフェルト伯爵家を出発してから数時間、道なき道を進み、ようやく目的の教会が視界に現れた。
その教会は、森深きこの地にひっそりと佇む、由緒正しきものだった。
灰色の石造りの外壁は風雨にさらされてなお威厳を保ち、苔むした屋根や時を刻んだ塔が、その長い歴史を物語っている。周囲は鬱蒼と茂る木々に囲まれ、木漏れ日が柔らかく石畳を照らしていた。
外界の喧騒とは無縁の、静謐に満ちた空気が辺りを包み込んでいる。
古来より巡礼者が訪れる聖地。
苦しみや迷いを抱えた者たちが、心の拠り所を求めて祈りを捧げる場所でもある。その荘厳な佇まいに、私の胸も自然と静まり返っていった。
教会の高く重い門をくぐると、すぐに扉が開き、堂内から数人の人影が姿を現した。
先頭に立っていたのは、白い司祭服をまとった年配の神父だった。柔らかな微笑みを浮かべ、深く頭を垂れる。その後ろには、数名のシスターたちが整然と並び、同じように一礼して迎えてくれる。
「お待ちしておりました、聖女様」
神父の低く穏やかな声が、教会の石壁に柔らかく反響した。
その丁寧で敬意に満ちた迎えに、私は思わず足を止めた。こんなふうに、心からの歓迎を受けるのは——もしかしたら、初めてかもしれない。
私は軽く胸に手を当て、深く頭を下げた。
「光耀の癒聖と申します。温かくお迎えくださり、心より感謝いたします」
礼を終えて顔を上げたその瞬間だった。目の前に立つシスターのひとり、その顔を見た途端、胸の奥で何かがはじけるような衝撃が走った。
「……エリー!」
思わず口をついて出たその名に、シスターは喜びの表情を浮かべた。そして、目に涙を浮かべながら、懐かしそうに笑みを浮かべる。
「はい、エリーです! まさか……聖女様にまたお会いできるなんて……。こんなにお大きくなられて……!」
懐かしい声だった。あの頃と変わらぬ、優しく、温かな声。私は隣にいたテオに向き直り、興奮を抑えきれずに語りかけた。
「テオ、聞いて。彼女はエリー。私が十歳になるまで、ずっと教育係としてそばにいてくれた人なの」
テオは静かに頷いた。私の声に込められた感情を察したのだろう。
「でも、どうしてここに……?」
私は戸惑いと喜びの入り混じった思いをそのまま言葉にした。エリーは懐かしそうに目を細め、ゆっくりと語り始める。
「私はもともと、この教会の出身なんです。幼い頃からここで修道女として育てられて……。神殿を辞してからは、またここへ戻ってまいりました。それより、聖女様こそ。なぜこんな遠方の地まで?」
言いかけたところで、神父が柔らかく咳払いをして言葉を挟んだ。
「エリー、ここで立ち話は無粋というものだ。奥の部屋にご案内を」
柔らかな声に、神父は落ち着いた笑みを添えて私たちを促した。
「そうですね。聖女様、お供方もどうぞ中へお入りください」
穏やかにそう言ったエリーの言葉に、私は思わず首を横に振った。
「……あっ、いえ、テオは“お供”じゃないの」
その瞬間、エリーの顔に戸惑いが浮かんだ。
「お供ではない……?」
「そうなの。テオドール・アルフェルト、伯爵家の方よ。旅の途中で困っていた私を、たまたま通りかかった彼が助けてくれて……それから、ずっとここまで付き添ってくれているの」
言葉を選びながら説明すると、エリーは瞬きをし、口元を少し引き結んで言葉を紡いだ。
「そ、その……それでは、本来のお付きの方々とは、どこかではぐれてしまったのですか?」
その問いかけに、私は思わず苦笑した。
エリーの心配はもっともだが、なんだか子供扱いされているようでもある。
「まあ、エリーったら。小さい子じゃないのだから、そんなわけないわ」
ついそう返してしまったが、その瞬間、テオのジト目が視界に入った。無言で横目に睨んでくるその顔に、思い出してしまう。
——そういえば、街で人混みに巻かれて迷いかけたことがあった。
「一人で巡礼に出たの。仕方がなかったのよ」
語尾が少し弱くなってしまったのは、自覚している。けれど、これは事実だった。誰も、一緒に来たいとは言わなかったのだ。
ふと顔を上げると、エリーの表情が曇っていた。
先ほどまでの柔らかな面影が消え、深い憂いと戸惑いの色が宿っている。
隣に立つ神父の口元も固く結ばれ、目は伏せられながらも、どこか怒りすらにじんでいるように見えた。
「エリー……」
「はい」
神父に呼ばれてすぐに応じたものの、彼女の声には少し緊張が混じっていた。
「……今すぐ、領主様にご連絡を」
神父の言葉は、短く鋭かった。
領主様――この教会のある地域を治める貴族のこと。たしか、この地方は公爵家の所領だったはず。
「かしこまりました。それが良いですね」
エリーは小さく頷き、神父の言葉に素早く応えて、静かにその場を離れた。その後、神父はゆっくりとテオの方へ向き直り、深く頭を下げる。
「伯爵家のテオドール様ですね。聖女様を無事にお連れいただき、誠に感謝申し上げます」
「好きでやったことだ。気にしないでくれ」
テオはいつもの調子で、素っ気ないほどにあっさりとした声で答えた。それがかえって彼らしかった。
「聖女様、祈りの準備はすでに整っております。どうなされますか?」
神父が一歩前へ進み、厳かに頭を下げて告げる。
「それでは、すぐにでも。祈りの時を——」
「では、聖女様は、こちらへどうぞ。祈堂へご案内いたします」
シスターが、恭しく礼をしながら私に道を示した。
「テオドール様は、あちらの控え室でお待ちください」
私は歩き出す前に、もう一度だけ振り返り、テオに視線を送る。彼は少しだけ肩をすくめて、優しげに微笑んだ。そして、何も言わず小さく手を振る。
私は背筋を伸ばし、祈堂へと向かって足を進めた。




