22.旅の終わりまでに答えを
夕食の席。
天井の高い晩餐室に灯るシャンデリアの下、重厚な長いテーブルが静かに煌めいていた。ひとつひとつの食器が丁寧に磨かれ、飾られた花瓶の花がほのかに香る。
私は、緊張で背筋をきちんと伸ばしていた。それでも、それに気づいたのか、テオの父上――伯爵様が、優しい目を向けてくださった。
「聖女様、ようこそ。我が領へ」
低く、落ち着いた声音だった。そこにはただの形式的な敬意ではなく、深く静かな温かさがこもっていた。
伯爵様の目元には、柔らかな光が宿っていた。私は胸に手を当て、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。温かくお迎えいただき、光栄です」
そう応えると、伯爵様は穏やかに頷かれた。その一挙一動に、品と誠実さがにじんでいる。
「昼間は、我が妻が……迷惑をかけたようで、申し訳なかった」
言葉と同時に、伯爵様は深々と頭を下げかける。隣に控える夫人まで、申し訳なさそうに小さく体を傾けたので、私は慌てて首を振った。
「とんでもございません。何ひとつ、迷惑など……。むしろ、あたたかく迎えてくださって感謝しております」
私の言葉に、夫人はぱっと表情を明るくし、目を潤ませた。その姿に――ふと横を見ると、テオが眉をひそめていた。
……やはり、テオが伯爵様に言ったのね。
伯爵様が、少し声を和らげて言った。
「そう言っていただき、ありがたい。妻にも私から、よく言い聞かせておいた」
「本当に……ごめんなさいね。嫌われてしまったかと、怖かったわ」
夫人が小さく笑って、しゅんとしながら頭を下げる姿は、どこか可愛らしくて。思わず、私も笑みを返していた。
その後、伯爵様はゆっくりと語るように続けられた。
「聖女様は、巡礼をなさっていると聞いた。隣のルヴェラン領には、公爵家が治める神殿があるのだが――実は、妻とその公爵夫人は、学院時代からの友人でな。身分は違えど、今も親しくさせてもらっている」
そこでふと、伯爵様は私の目をまっすぐに見た。
「もう、巡礼のことは手紙で知らせておいた。ルヴェラン領の神殿でも、迎えの準備は整っているはずだ。急がず、ゆっくり向かうといい」
「……はい。ありがとうございます」
その言葉には、“聖女”という立場にではなく、親しい向けられる配慮と優しさが滲んでいた。家族の誰かを案じるような、柔らかなまなざしだった。
「道中の景色も、なかなか良いのよ。テオに案内してもらって」
と、夫人がにこりと微笑んだ。
「はい。とても楽しみです!」
言葉の端々から、私を気遣おうとしてくださる想いが伝わってくる。
そのあとは、和やかな空気の中で食事が進んだ。夫人が、ふと懐かしそうに笑いながら言った。
「テオが小さい頃はね、冷たいものを食べるとすぐお腹を壊して……夏でも氷菓子はお預けだったのよ」
「母上っ……それは、今、言う必要ないだろ……!」
テオが真っ赤になって抗議するけれど、夫人はそれをひらひらと手でいなした。
「だって、あの頃のあなた、本当に可愛かったんだから」
私は、思わず吹き出してしまった。そのやりとりが、あまりにも自然で――心地よくて。
ああ、夫人はこうやっていつもテオをからかっているのね。
こんなふうに、笑って話せる食卓があること。たわいのない話で顔をほころばせて、からかい合って、冗談を言って……「家族」って、こういうものなのかもしれない。
私には遠くて、知らなかった。けれど今夜、ほんの少しだけ――その温もりに触れた気がした。
*****
夜。
月が静かに空の頂にかかっていた。銀色の光が、館の回廊を静かに照らしている。
私は眠れぬまま、部屋をそっと抜け出した。誰にも気づかれぬように扉を開け、長く続く石造りの廊下を歩く。足音を忍ばせるように。
やがて、ベランダに辿り着く。重たいカーテンを指先で押しやると、月明かりがふわりと私を包んだ。夜の庭園は静謐で、時が止まっているかのよう。遠くで木々がさやめき、どこかから甘やかで熟れた果実の香りが風に乗って流れてきた。鼻先をくすぐるような匂いに、思わず笑みが浮かぶ。
そんな時だった。気配が、ふと隣に現れた。
「……母上が、悪かったな」
声の主は、テオだった。見上げなくてもわかる。彼の声は、いつもまっすぐで、少し低くて、今夜はとりわけ静かだった。
「いいえ、優しい方です」
私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの嘘が本当で、私のお母様だったら……どんなによかったかと、思いました」
そして、そっと笑う。
「でも……テオが兄じゃないとわかって、なぜか、ほっとしました。……うまく言えないのですが、血がつながっていないことが嬉しくて」
テオは、言葉を詰まらせた。少しの間の後、静かに息を吐く。
「リイナ……神殿に戻りたくないなら、聖印の儀のあとも俺と一緒に旅を続けてもいいんだ」
彼の声が、月光のようにまっすぐ私の胸に届く。その声音が、どこまでも真剣で。私は、思わず彼に顔を向けていた。
「……ほっとけないんだ。お前が視界から消えると、不安になる」
そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。私は誰かにとって、"いなくなると困る存在"なのだろうか。そう思えたことが、嬉しかった。
「……俺のそばに、ずっといるか?」
その言葉に、心臓が跳ねた。目の奥が熱を帯びる。そばに、ずっとーー。
「そ、それは……結婚という意味ですか!? あ、……また、私……何か、間違えましたか……?」
うろたえる私に、テオはふっと笑った。あきれたような、それでいてどこか愛しそうな笑みだった。
「いや、間違ってない。そういうことだ」
間違ってない。
自分には縁のないものだと思っていた。ずっと神殿にいて、祈りを捧げて、癒して、そうして人生を終えていくのだと。それが当たり前で、それが“自分の道”だと、受け入れていたのに――
今、こうしてテオがいて。彼の横顔が、月明かりに照らされていて。伸ばせば届く距離に温もりがある。触れたい、と思ってしまう自分がいる。
「旅の終わりまで、考えていてくれ」
その言葉は、優しくて、少しだけ不器用で、けれど私の胸に深く、深く染み込んだ。迷いも、不安も、全部丸ごと受け止めてくれるような声音だった。
私は、静かに頷いて目を伏せた。




